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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

劇団どくんごの演出どいのさんの訃報に。

劇団どくんごの演出、どいのさんが先日亡くなられました。
胃がんの再発と闘病の日々、テント芝居の再開への徹底した取り組みの日々の中で、でした。
どくんごの芝居も、テントでどいのさんと交わした言葉も、その全てが宝物であったことをまざまざと思い出し、悲しさが溢れ続けています。

どいのさんは、とてつもなくロジカルな知性と、とてつもなく愛情にあふれる心が同居した、本当に稀有な方でした。どくんごの芝居とは民主主義そのものであるということは以前にも書きましたが、その民主主義を実現するためにどれほど苛烈な努力を必要とするか、またその努力をどれほど鷹揚に笑っては共有してくれるのか、その2つにおいて本当に話せば話すほど尊敬しかありませんでした。自身がradicalであることもただ素晴らしい芝居のためでしかなく、そのために絶えず常識を疑い探究を続けておられることが、お話をさせていただいてからのこの5,6年でも本当によく伝わりました。僕自身の甘さや徹底の足りなさ、一方で何も開くこともできていない偏狭さなどをお話しするたびに思い知らされ、本当に打ちのめされてきました。僕にとってどくんごの芝居を見る、終演後にどいのさんと話す、というのは常にこの世で一番厳しいテストの一つでした(もちろんめっちゃ気さくに何でも話していただいていたのですが、それだからこそ、です)。

この世界にどくんごが存在していて、どくんごテントが異世界として現実に屹立していることが希望でした。でもそれは、どいのさんという稀有なまさに「広場」のような方がいて、その彼の心や頭の中の「広場」で、私達も一緒に笑ったり
泣いたり遊ばさせてもらっていたのだな、ということを今は強く感じています。もちろん五月さんをはじめ、どくんごのメンバーの皆さん、受け入れのみなさんとの本当に心からの強い絆には、人間と人間がこのように結びつき続けることができるのか、という新たな目を開かせられ続けました。本当にみんなで作り上げてきたのがどくんごですし、そのみんなで作り上げる「どくんごという生き物」にこの何年かだけでも関われたことは、僕の終生の誇りです。一方で、どくんごをみんなのものにしよう、というどいのさんのとてつもなく強靭な意志と人生を費やし続けた努力があったからこそ、どくんごはそうであり続けたのだと思います。

出来のいい芝居も不出来な芝居も含めて新たなメンバーに開く努力と芝居そのものを鍛える努力を決して諦めずに続けていったその姿勢、公有地闘争の継承者としての行政との交渉、そうした諸々の苦闘の末に各地に開かれる幻想的なテントと「チープ」さ(つまり軽やかさ)、どの方向と決められることなく感情を揺さぶり続けられる芝居、その全てに感謝しかありません。どくんごの芝居と終演後に話させていただいた一つ一つの言葉を魂に刻み込み、大切に反芻し続けていきます。本当に凄まじい人生でした。どくんごとどいのさんと出会えたことを決して無駄にはしません。今まで本当にありがとうございました。

(追記)
どくんごの芝居についてはこれまでも散々書いてきました。

もちろん、僕の拙い言葉など、どくんごの作る芝居の世界の豊かさに比すべくもないのは当たり前です。それでも貧しい僕の言葉を駆使してでも、どくんごの芝居の世界の豊かさをなんとか伝えたい!!ともがいてはもがいては、どんどん長文になってしまうこれらの拙い文章の数々は、どいのさんの作ってきた作品世界がどれほど言葉を超えて豊かであったのかの一つの証になるのでは、と思っています。また、こんな拙い文章を笑って褒めてくれるどいのさんの優しさに甘えてばかりでしたが、何とかいただいてきた恩を少しでも返せるように、必死に頑張りたいと思います。

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宿題多すぎ・難しすぎイベントの記事のご紹介と補遺。

先日の「学校の宿題多すぎ・難しすぎ」イベントについての取材記事が東京すくすくさんで公開されました。
是非お読みいただけたらありがたいです。

中高生が大学受験に向けて勉強しよう!と考えたときにまず頼りにするのが学校の先生だと思います。しかし、その学校の先生が、基礎もまだ固まっていない中高生にとってあまりに難しすぎたり大量すぎたりする宿題を出しておいて、「これをやらないと受験勉強の力がつかない!!」と誤った方向づけをしてしまえば、それを真に受けて必死に取り組む中高生ほどに多くの時間と労力を費やしても、何も実力が身につかないことになってしまいます。

自分の学校の宿題がそうなっちゃっているかも!と感じたとき、このように教育に関わる我々専門家(と言うには僕は「何でも屋」なので、僕だけあまり信憑性がありませんが、他の登壇者のお三方はその分野の第一人者の先生方です!)ですら、しっかりと基礎がわかっていない状態で難しい問題を大量に解かせることには無意味である!!!と主張していることを是非セカンドオピニオンとして使っていただけたらありがたいです。

生徒が宿題をこなせているかどうかをしっかりと吟味し、量や難易度を絶えず調節している先生は、生徒の実力をつけるために試行錯誤を続ける信頼に値する先生です。逆に「青チャートを全部やれば大丈夫!」「フォーカスゴールドを全部やれば大丈夫!」「一対一対応の演習を全部やれば大丈夫!」など、有名で分厚い問題集をとりあえず薦める先生は、自身が大学受験指導についてよく知らないがゆえに、とりあえずみんなの知っている有名な問題集を使い、さらにはそこからレベル別に問題数を厳選したり、ということをできないがゆえに「とりあえず全部!」となってしまっているのだと判断して良いと思います。端的に言えば、どのような宿題を出すべきかに悩みがあるかないか、が見分けるポイントです。それほどに宿題を出すのは難しく、また教師が生徒一人一人の理解度を正確に把握することもまた難しいのです。

今回のイベントは数学の話に限定しましたが、このような無意味な宿題、生徒のレベルを勘案しない高望みの宿題は他の教科でも、進学に力を入れる高校あるあるです。一例を挙げれば、英文法も理解をしてもらうプロセスを省いてとりあえずNextageやVintageを宿題や小テストでやらせることで、どれほど多くの高校生が「英文法とは四択問題の答をひたすら丸暗記する勉強」と誤解してしまっているでしょうか。

中高生の勉強へのモチベーションと勉強時間は有限の、極めて貴重なリソースです。それは原油とかレアメタルとかレアアースとかよりもはるかにはるかに貴重な、人類の共有財産であるのです。それを無駄な努力に費やさせては、無駄遣いしていく、というのは僕は反社会的行為であるとすら思います。

また、先生の指示を守って結局大学受験の実力がつかなくても、先生たちは責任を取ってくれることもありません。そもそも「自分の宿題や指導がまずかったかも。。」と懊悩できる先生であれば、必ず宿題の教材選びや量、難易度などを試行錯誤し続けているはずです。こなしきれるはずもない膨大な量の宿題を出し、間に合わないので解答を写さざるをえなくなっている生徒のノートを見て深く反省しているはずです。そうなっていない以上は、その先生の指示には従わないほうがいいと思います。自分の将来は自分で守るためにも、こうした理不尽な宿題に時間や労力を費やさないよう、そして(これは学校の先生だけでなく我々塾や予備校で教える者の言葉についても同じですが)、先生の言葉を疑っては自分に必要な勉強を考えていくことがとても大切だと考えています。(そしてまともな先生ほど、中高生の「自分にはこれが必要だと思うんですが…」という相談を(仮にその提案が間違っていると判断したとしても)無下には却下しません。必ず今それをすべきではない理由を納得できるまで説明してくれると思います。)

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向坂くじら『とても小さな理解のための』書評!?

今年7月に出版された、向坂くじら第一詩集『とても小さな理解のための』が卒塾生の詩集であるという贔屓目を差し引いてもなお、とても素晴らしいのです!ということでその詩集のレビューをいつもどおりの長文で書こうと思います。

まずはこの話から。(当分書評に入りません。申し訳ないです)
ベルクソンは我々が現実だと思っている現実というのは、あくまで現実の中のごく一部でしかないことを指摘します。そして我々はあまりにも多様な現実の中でごくごくわずかなその一部分のみを取り出して、それを現実と呼ぶことで何とか情報処理をパンクさせないようにして暮らしている、ということを指摘しています。

ベルクソンによるとそうした多様で膨大な現実の中で、我々が自分にとって現実を絞り込む基準となっているのは「有用性」である、ということです。我々は自分の生存にとってそれが道具として、材料として、その他のものとして、それが役に立つかどうかだけを考え、その役に立つかどうかという側面しか見ないことで、何とかこの多様で膨大な現実の中で情報を取捨選択して生きている、ということですね。

これは物に対してだけでなく、人に対してもそのような見方でついつい見てしまっているのが我々なのかもしれません。どのように自分にとって役に立つかだけを考えてはそれだけでついつい見てしまう、というのは私達が人を物扱いしているというだけでなく、物をもまた物そのものとして扱えているのではなく、有用性という見地から物の様々な側面を捨てて認識してしまっている、ということなのでしょう。

さて、「しまっている」と否定的ニュアンスを込めて書きましたが、「そうしなきゃ行動も生活もできないんだから、仕方ないじゃないか!!」「むしろそのように有用性だけを絞り込めることにこそ人間の賢さがあるのではないか!!」という主張もあるとは思います。ただ、このように自分の周りを自分にとっての有用性のみで意義付けし、そしてそれを「うまいこと」使って生きていこうとする、というのは人間に特有の能力ではなく、むしろ人間以外の全ての動物に見られる共通の特徴でもあります。つまり、この「うまいこと利用する」は人間を人間たらしめるものではない、ということです。

ならば、人間を人間たらしめるものはなにか、といえば知性の発達とそれ故の意識の発達により、我々が周囲の世界を有用性以外の観点から見られるようになったということであると思います。この「短期的有用性の奴隷」状態からの人間の脱却と、無駄に見えること、意味がないように見えることにも意義を見出し、それについても考えたり試行錯誤をしたり、その一見無駄に見えたことがのちのち大きな有用性を持つことに気づいた結果として、人間の文明はそもそも直接的な有用性へと敏感な本能をはるかに発達させている他の動物や昆虫よりも、より遠くへと行くことができたのでしょう。その点で、無駄なものなど何もなく、我々がとりあえず役に立たないとしているものについても、本当に役に立たないかどうかはわかりません。だからこそ、私達が自らをその短絡的な有用性の奴隷へと自らを貶めることは、単に世界観の貧しさという点で劣っているだけではなく、実は有用性の新たなる発掘という点においてもなお、人間の可能性をどぶに捨てている、と言えるのだと思います。

さて、そのように整理してみると、自らが日常の有用性に基づいて世界を狭く狭く切り取っているときに、その狭さに気付かさせてもらえる媒介になるようなものとは何なのか。その一つが芸術であり、詩であるのでしょう(ようやく詩の話になってきました!)。何かしら大事なものを日々を生きていく中では必要ないものとして切り捨てないと、私達は生活を送ることができない。しかし、それが片手落ちどころかほぼほぼ全て落としており、決してそのまま生活できていればいいや!とは思えないほどに人間の精神には自らが現実のほんの一側面しか切り取らないで生きている自分に違和感を覚える機能がある。そしてそれはまさに人間固有の「喪失感」として人間を人間たらしめてくれるものである。でも私達は自分では何を捨てているのかについてなかなか気づくこともできないし、現代社会の忙しさと高度に発達した魔法のような文明は、むしろ私達に「すべてのことをわかっている必要も考える必要もないんだよ。ただ、それが便利に使えていればいいじゃない。」という方向へと私達を飼い慣らしていきます。

こうしてみると、人間の知性から生まれたはずの「直接的有用性の奴隷状態からの離脱」が生み出したはずの我々の高度な文明は、我々自身に「直接的有用性の奴隷状態」になることを、以前とははるかに比べ物にもならないペースと圧力で要求してくるようです。有用性を最大限に利用するためには無駄なことをしている暇などないわけです(中学に入学したらすぐに大学受験のための予備校に行くように。)こうして人類の黄昏はやがてくるのでしょう。考えないで良いことは考えないようにしよう。少なくとも我々は何を考えるべきかについてはもう十分に知っているはずだ。だから、考えるべきことだけを考えれば良く、それ以外のことを考えることは無駄に過ぎない、という合理性の名の下に。

このようにして、私達は考えることに無駄すら許されなくなります。学問ですら、「競争的資金」という有用性競争によってそのような「有益な」研究を生み出せという圧力を受け続けます(そして、日本の研究機関はその圧力で壊滅的になっています)。

このような中で唯一無駄に考えることを許されているのは芸術家です(といっても芸術に国家の補助金も入ってしまっていますが)。さらにはその中でも何の役にも立たない詩人なんかはまさにその最たるものでしょう。そもそも何の役にも立たない存在として見捨てられているからこそ、無駄に考えることを許されている。それは、人間にとっての唯一の抵抗の根拠となりうるものかもしれません。


さて、ようやく書評に入れるわけですが、向坂くじらさんのこの詩集は、私達が「考えても仕方のないこと」「それはそういうものとして受け入れていること」「生きていくこととはそういうこと」に徹底的に引っかかり、違和感を述べ続けます。それはまさに、有用性を求めて生きられる生活の中で光を当てられていない世界の別の側面に光を当てるものが詩である、という詩の真っ当な定義に沿ったものであると思います。

ただ、それだけではないのがこの詩集の恐ろしいところです。この詩集は「こんなふうにも考えられるよね?」と私達の日常への狭い見方を解きほぐしてくれるだけではありません。「こんなふうにも考えられるよね?(って言わないと私は生きていけないのだ。)」というその言葉を発せねばならない詩人の必然性に満ち満ちているように感じられます。私達が有用性のもとに踏みにじっている現実の別の側面に対して、踏みにじられる側の痛みと苦しみとやるせなさとに満ち満ちているのです。それはあるいはフェミニズムという言葉で見えてくるものであったり、あるいはLGBTQという言葉で見えてくるものであったり、あるいは…。と様々です。このように行間から立ち上がる何かが、向坂さんが踏みにじられている当事者だからなのか、踏みにじられている人にどこまでも共感してしまうからなのか、またはその両方なのか、という内実はわかりません。ただ、これを可能にしているのが文学的想像力だと言えるのであれば、そして人は自らの体験からしか語り得ないとする実存主義的立場が振りかざされるのにはくっきりと抵抗している、と言えるのではないかと思います。

もちろん、我々はある点でふみにじられるminorityでありながら、別のある点ではふみにじるmajorityでもあります。どの点でもminorityである人は存在しません。それを志すこともまた、ある意味で属性によって自身の特権的言論を確保しようとするいやらしい試みでもあるわけです。むしろ私達はどんなにminorityとして踏みにじられる部分を様々な面で感じ続けようとも、自らのmajorityとしての特権性へと耐えず目を向け続けていかねば、容易に道を踏み外していきます。

向坂さんの詩を発するその必然性に、嘘がないとは言いません。想像力とは、嘘の別名であるからです。しかし、閉じる膜のような家庭に、恋愛と結婚へと結び付けられてしか語られない愛に、社会的役割によってしか定義されない自己に、生活へと取り込まれた動物の死体の摂取(食事)に、その他様々な有用性ゆえに要求される一面的解釈という暴力に踏みにじられるその痛みにこの詩人が抗議するとき、それは自分のために怒りつつ、他人のために怒っていて、そこではもはや自他の区別はないように読み取れます。

もちろん、このように読者に感じ取れるこの詩人の「切実さ」もまた、想像力の産物なのかもしれません。そこにこの詩人の実存を読み込もうとする読み方も、実存主義をひそかに導入しているという点では卑怯な論考であるようにも思います。しかし、その切実さへの想像力がもし可能であるのなら、単に作品を生み出す、詩を書く、ということよりももっと大切ななにかに繋がるものであるとも思います。その「嘘」への懸命な、祈りのようでさえあるチャレンジを、一行一行に感じることができるのではないか、と思います。

私達が有用性のために見る暇がないと思っていたものに対してただ気づかせてくれるだけではなく、それらに目を向けなければいけない切迫性にも、「そんなことに目を向けてなんかいられない!」という余裕の無さにも、どちらにも寄り添ってくれるような詩の数々です。人間は「余計なこと」ばかりを考えると同時に、人間は「余計なこと」を考えてちゃいけないと自分を追い詰めて生きざるを得ません。先に長々と書いたように、現実を有用性という側面だけで評価せずに「余計なこと」を考えられるのが人間のアイデンティティだとしても、そのアイデンティティが生み出した文明によって人間はさらに「余計なこと」を考える余裕を失うところに追い詰められてもいるわけです。その中で詩のもつ可能性は、実はとても大きなものではないか。そのことを教えてくれるような詩集だと思います。

私はあなたではない。それは絶望なのか。それとも希望であるのか。

この事実を絶望にしないためにこそ、人間の想像力はあると思います。決して届きえない手を何とか届けようと手を伸ばし続けるために。そのようにもがくすべての人にとって、この詩集は大切な本になるのでは、と思います。

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「きいろ(黄色)い」電車とは何か。

中央線に乗っていると、三鷹駅を通り過ぎる時に電車の好きそうな幼児にお父さんやお母さんが電車を色々教えてあげているシーンに出会います。とても微笑ましい光景ではあるのですが、色々と疑問が湧いてくることもあります。

「あのきいろい電車は総武線だよ」と教えるお父さんに子どもたちはその言葉を受け止めて学習していくわけですが、しかし今の総武線はどう見たって黄色い電車ではありません。「銀色の車体に黄色のラインが入った電車」がより正確な表現ではないでしょうか。同じく中央線も「オレンジ色の電車」ではなく、「銀色の車体にオレンジ色のラインが入った電車」であり、東西線も「青い電車」ではなく、「銀色の車体に青色のラインが入った電車」です。

と書いてみると、「幼児にそんなまわりくどい説明なんかわかるわけないだろ!全く揚げ足取りをして!」と怒られてしまいそうなのですが、幼児の親世代がなぜそのように「黄色い電車」と言うのかを考えてみると、彼らは同じ幼児の頃にはそのように教えられて育ったからなのかな、とも思います。今の銀色に黄色いラインが入った電車を見て「黄色い電車」とは単純化するとしても新たには定義しにくいからです。それはまたその黄色いラインが我々中年世代の幼少期には実際に車体全部が黄色だったりオレンジ色だったり、という車体の名残(あるいは象徴)として残されている、ということを知っていたからそのような定義を幼児の親世代が育んできたのか、それとも丸々黄色やオレンジ色だった車体をもう見ていない世代に完全に移行したとしてもこのような言葉遣いが残っていくのかは面白いところであると思います。中央線の丸々オレンジ色の車体は2009年頃までは運行していたそうなので、今の幼児の親世代が子供の頃にはまだ少しは見たことがあるはずだし、親世代が幼児の頃の図鑑には、丸々黄色やオレンジ色の車体が載っていたのでしょう。しかし、これらが完全に視覚情報としては幼児には手に入れられなくなってしまったあと何年後か、何十年後かの同じく親と幼児の会話の中に「きいろ(黄色)い」電車という言葉が残っているのかどうかに、僕は興味があります。

それはすなわちソシュールが『一般言語学講義』で言うように、「人間の言語は我々が信じたがる合理性以上にはるかに大きな非合理性・恣意性から成り立っている。」ということでもあるのですが、それよりも僕がこのやりとりに興味があるのは、人間は慣習を歴史として引きずり、自らが借り物の言葉しか使えていない中でその借り物の言葉が新たに血の通った定義へと文字通り血を流しては刷新される瞬間、というのをこのような無邪気な親子の愛情溢れるやりとりのうちからもう既に奪われている、と感じるからです。
「きいろい」電車、という言葉に対して「でもあの電車、黄色くないんじゃない?」と感じる感性は、ほぼ銀色の車体に象徴として申し訳なく施された黄色のラインを「きいろい」電車の定義にしていいのだ、と学ばされ、諦めさせられていくことで我々の社会は成り立っています。そのことへの疑念も、よりよい新たな定義も、それは反社会的なものとして一旦は幼児のうちに棄却されていき、棄却されていったことすらも忘れるように育てられていくのです。

芸術は、あるいは学問は、新たな意味を見出し、付与されてきた既存の意味を疑うという点で実は反社会的な営みでもあります。それが社会の中で一定の権威を持ち、国家が税金からそこに援助をするという時代がある程度続こうとも、それが学問や芸術にとって本当に幸福であるのか、あるいは本来的な姿と言えるのか、という緊張関係が根源的にはなければならないものです。(たとえば日本ではよく「フランスでは演劇など芸術に広く多額の助成金を与えていて、本当に素晴らしい!日本も見習うべきだ!」的な主張がよくなされるわけですが、たとえばシルク・イシのようにアンダーグラウンドであることを自分達の表現の大切なバックボーンにしているサーカスのような芸術集団は、国家からの助成金を芸術家がもらうこと自体がその芸術活動の価値や目的を損ねないのか、という議論がなされ、とても慎重であるようです。こうしたところもやはりヨーロッパは何周も先に行っているのでしょう。)。

さて、教育はどうなのでしょう。銀色の電車に黄色いラインが入ったものを「きいろい」電車、と呼ぶことに対して「昔は黄色かったんだよ」という歴史を語ることが教育なのか、その定義と実態とのズレに敏感であろうとするその若い感性を育み、新たな定義を生み出すことをencourageしていくことが教育であるのか、「みんなが『きいろい』電車って言ってるんだから、あれは黄色なんだよ。社会性を身につけろ!」とその疑問を押し殺すのが教育であるのか。

痕跡のように、あるいはexcuseのように、残された黄色いラインを、哀れだと思うのか、押し付けだと思うのか、手がかりだと思うのか。我々が痕跡やexcuseを象徴として受け入れ、その意味については考えないという「大人の」振る舞いでわかったふりをしてやり過ごすというこの習慣の積み重ねにこそ、この日本社会の衰退の根本的な原因があるのかな、と僕は思っています。与えられた定義を疑い、実態に合わない仮初の定義になんとかよりよい形を与えようともがき続けること。それは何も学問や芸術だけに課さられた任務ではないのかな、と思っています。

というのを枕に、向坂くじら『とても小さな理解のための』の書評を書こうとしたのですが、枕がまたまた長くなりました!書評はまた次回に!(と言って書かないパターンにならないようにがんばります!)

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「数学の宿題、多すぎない?」zoomイベントの補遺

昨日は名城大学竹内英人先生に「数学の宿題、多すぎない?」というZOOMイベントをしていただき、かねてから大きな問題と思っていた学校の宿題の量の多さ、生徒のレベルに見合っていない難しさ、フィードバックのなさ、という話題について問題提起させていただきました。90名弱の方に参加していただいて、この問題を広く周知して、誤った学校の宿題に対して疑問を感じながらも従うしかない、と思わざるを得ない保護者の方や中高生にとって、自信をもってもらえたらとても嬉しいです。理不尽な宿題は数学だけではありません。他の科目についてもまた問題提起を継続してやっていきたいと思います。

とはいえ、この話題で2時間は短い!議論を深めたくても時間が足りなかったりコメントしきれなかったところがあります。以下に当日いただいた中で拾いきれなかったコメントへの僕の回答と、その他想定問答として用意していたものもこのブログで供養していきたいと思います。(あくまで柳原だけによる回答で登壇者の他のお三方は内容に関知されておりません)

(コメント返し)
「自分の学校は青チャート100題でしたが、実際に解いてみたら、解いている途中で発狂しそうになりました。特に数学1の展開・因数分解…。」
→この青チャート100題がまずは重要例題のように難しいものをおそらく避けていないので問題なのですが、加えてこれはイベント中でも竹内先生が仰っていた「計算の難しい問題をやらせすぎている」の大きな弊害だと思います。数学的内容は理解できていても、計算が難しいものまで欲張って宿題でやらせようとするからこそ、そこで数学が嫌になってしまう、という高校生もたくさんいます。もちろん東大入試のように方針を練るだけでなく計算力も問う入試があるのはそのとおりなのですが、それを未習分野を初めて学ぶ高校1年生や中学3年生でできる必要はありません。最初から計算が複雑な問題まで練習させようとする、というのが欲張っては結局数学嫌いにさせてしまう、という大きな失敗だと思います。


「分からない問題があった時に、(授業で扱った問題を示すことを一般化して)何を見返して、それを見返すことで目の前の問題が解けるようになるかを示さないと、確かに「答を写す」機械的な作業に生徒たちは逃げてしまいますね。」
→「見返す」というのがキーワードで、もちろん教科書の定義、定理や公式が不十分な状態ですぐに問題演習に入らされてしまうわけですが、この方式の恐ろしいところは問題集でつまったときに教科書のどこを読み直せばよいか、が生徒たちには明示されていない、ということです。また、問題集で出される宿題の分量が多いほど、生徒たちは「教科書を見返している暇なんかない!!」と視野を狭くせざるをえなくなってしまいます。結果、「見返す」「行きつ戻りつ理解を深める」という本来の問題演習の効果が、どこに戻っていいかわからないこと、その暇なんてないと宿題量によって強迫されることで不可能になってしまっていると思っています。


「宿題は量だ、という研修を学習塾時代(約20年前)に受けました(汗」
「まちがったフォームでバッティングセンターで素振りを繰り返した私を見かねた友人が、優しくフォームを教えてくれたことを思い出しました。」
→これはとてもわかりやすい話で、大量の宿題を出すのは学校にしても塾にしても「努力してる感」をアピールするのにとても便利な手段である、ということだと思います。保護者の方はそれで安心してくれるのです。しかし、バッティングフォームのお話でもわかるように勉強の方法論を徹底しない上での大量の宿題というのは生徒の勉強方法を歪め、誤った学習習慣を身に着けさせ、そして何も実力につながらないのにただただ時間だけを奪う、という極めて有害な指導です。それを大人の都合でやってしまっては中高生の学習意欲や時間を無駄に浪費していく、という事自体がこの社会を地盤沈下させていくものだと思います。


「谷口先生のおっしゃる「基本的な型」が、教員によっては網羅系の例題全部だと考えて、全部宿題に出している実態もあるかもしれません。」
→これは掘り下げたかったところです。網羅系の問題集というのはどういう位置づけのものであるのかを高校の数学の先生方がよくわからないまま使っていることがこの大量の宿題地獄に繋がっている、というのはとても正しいと思います。入試問題というのは年々「新しい」問題が増えていきます。それはいわゆる典型題ではその場で試行錯誤して考えられる子か、それともただ典型題をマスターしているだけの子かがわからなくなるからこそ、一見「新しい」問題というのを大学の先生方が大学入試で工夫されて出題するからです(もちろんこれが全ての大学でなされるわけではなく、典型題を出さなくてもいい受験者層の大学、つまり東大、京大、阪大、東工大とかでしょうか。)。しかし、新しい入試問題も出てしまえばそれはまた網羅系問題集に収録されていきます。こうして問題集と大学入試とのいたちごっこが続き、網羅系問題集はどんどん分厚くなっていくことになります。
そうした「新傾向」の問題が載っていなければそれは「今の受験には対応できていない問題集」として売れない、という悩みがあります。一方でそのような「新傾向」の問題というのも別に全く新しいものではなく、既存の内容をより深く様々な角度から理解する、という努力を怠っていなければ、それが解けるようになっている良い問題です。だからこそ、そのような「新傾向」の問題を類型として全てマスターしようとすれば、それはその類型が単調増加していく網羅系問題集を全て覚えるしかなくなるわけですが、それはそもそもまた新たに工夫して出される次の「新傾向」に対応できるのかはあやしいところです。また、今回問題提起したような宿題多すぎで、そもそももっと数を絞ったessentialな理解や基本的な型すらあやしくなってきてしまいます。
根本的には「網羅系問題集は辞書代わりのもの。辞書は信頼できる教材だけど、辞書を初学から全部覚えようとしたら止めるでしょ?」ということです。辞書の内容は増える一方ですが、それをどれだけ絞った類型にできるか、が教える側がやらなければならない仕事であると思います。中高生はついつい「新しい問題が載っているこの分厚いのを全部やればいいんでしょ!」と短絡思考にはしりがちではあるので、それをどれだけしっかりブレーキを掛けて、どれくらい少ない「基本的な型」に帰着させていけるかが、教師の仕事ではないかと思います。


「私は実業高校勤務が長いので、年々長期休業中の宿題は減らしてきた方です。私自身が理系の人間としては数学の理解が遅いので、大量の問題を解くのが難しい生徒だったのもあります。ここ数年は宿題を決める際に、問題集は買わせてありますが、自分で解いてみて、分量を決めるようにしています。」

→本当に素晴らしいご指導です。今回の会はこのように指導を工夫されている多くの先生方に「学校の宿題多すぎない?」という問題提起をさせていただく、という心苦しい面もありましたが、どうかご容赦の程を。
その上で「数学の理解が遅い」ですが、これは個人の資質による差よりも、そもそも「初めて学ぶ抽象的な内容をすぐに理解できる人間などいない」という事実を大前提に教育というのはなされるべきなのかな、と思います。東大の数学の問題なんか簡単すぎて!と思った子も学部レベルの数学ですら理解に苦しむでしょうし、そこが余裕だった子もその上では更に苦しみます。現代数学の自分の専攻と異なる分野を初学でサラリと理解できる数学者などいないでしょうし、ましてや数学以外の分野も考えれば、ですね。谷口さんが話してくれたように、人間というのは、初めて学ぶ概念をすぐに理解することはできません。それは個人の能力とは関係のないことだと思います。その苦しみをどの段階でクリアしているか、の違いでしかないのかなあ、と。「完全に理解!」という自分の認識がどれだけ一面的でしかないかということを学んでいくのが学習のプロセスだとすると、「完全に理解!(もちろんまだまだ一面的)」とすらなっていない状態で問題演習ばかりをして、教科書に戻る暇を与えない、というのが大きな間違いであることはわかりやすいのかな、と思います。


「今の勤務先が総合高校なので、進学を目指す子、専門学校へ行く子、就職を考える子、さまざまおります。ならばこそ全員に統一した課題を出すことはナンセンスだと考えております。できるだけ生徒にとって効果的な方法があればいいなと考える今日この頃です。」
→本当に素晴らしいお考えだと思います。進路が多様であればとても見えやすいのですが、実際には中学受験や高校受験でそれなりに選抜されて同質の集団である、と思いがちな学校であっても数学の理解度は千差万別であると思っています。外から見れば「同質の集団」に見えたとしてもその個々の生徒の「違い」に敏感であることが教える側には常に必要であると思います。その意味で一律の宿題、というのは僕はたとえ超トップ校であっても「個々の生徒の自分の勉強を邪魔しない程度に」出すしかないのかな、と思います。


「A問題というよりできることを繰り返すのが解く力をつけるのにとても効率がいいと思います。数学における基本とは手が動く問題だと生徒にも言うのですがB問題をやらないのは恐いと生徒が言います。解けないのに解こうとするだけではなく、解けないから解こうとするあたりに根深さを感じます。」
→これもおっしゃる通りです。「B問題をやらないのは恐い」「解けないから解こうとする」というのが中高生の短絡的な思考だと思います。それにブレーキを掛け、まずはA問題を解けるだけではなく、なぜそう解くのか、それは定理や公式のどれを使っているのか、なぜ関連する他の定理や公式はこの場合使えないのか、他の解法はないかなど様々な面で説明できるようにすることが大切だと思います。ただ、現状はB問題もいっしょくたにして宿題で出され、「わからないところは解答を写す」という学力向上には極めて無意味なやり方がなされてしまっています。


「宿題が少ないと、保護者が不安になって塾に行かせたり、学校に問い合わせたりするケースもあると聞きます。いかがでしょうか?」
「『より難しい問題集をやった方がよい』『もっとたくさん量を解けばできるようになる』といった幻想をいろいろな層でお持ちで、それが圧力となってやりたいようにできない教員もきっとたくさんおられるのだと想像されます。」
→1つ目はおっしゃる通りで、特に受験情報がネットに溢れている現在は保護者や生徒からのこういう圧力も学校の先生方は感じておられると思います。ただ、竹内先生の仰った「それは生徒の時間や努力を浪費していい理由にはならない」というご意見に僕も全く同感です。その上で基礎がどれだけ大切であるか、ということを学校の先生が毅然とやっておられるときに、(中高生が短絡的なのは仕方がないとして)それを理解できる保護者の方が少しでも増えていくこともとても大切だと思います。その点では学校であれ塾であれ保護者にも教育をしていかねばならない、と僕は思っています。
2つ目については、たとえばそのプレッシャーの回避方法として青チャートやフォーカスゴールドを使うけれどもレベルを絞って運用する(星1,2のみ青チャートならコンパス3まで)という手を使っておられる先生もいると思います。しかし、このような運用の仕方にすると、これらも結局定理や公式の導出や証明過程は書かれていない(もちろんレベルからいって仕方ないのですが)ので、それらはわからないまま定理や公式を覚えるだけで問題だけ解く、という誤った方向へと生徒をおしやることになってしまっています。そしてそこで教科書へと遡る中高生は皆無です。この一見「賢い」プレッシャー回避方法も、結果として「よくわからないまま公式を覚え、それを当てはめて解く」を助長しがちです。やはり、そのようなプレッシャー自体と闘い、生徒も保護者も啓蒙していかねばならないように思います。

「セミナー化学、セミナー物理は鉄板ですね。」
→これらも「全部盛り」で簡単な問題からかなり難しい問題まで入っていますよね。試験範囲を宿題に!というときになぜ簡単な問題だけに絞って反復させる、という宿題の出し方にならずに難しい問題まで全て一周やる、という形になるのかがかなり疑問です。(数学に限らず理科も宿題で難易度や問題数を絞って反復させる、という宿題の出し方をとにかく見かけません。反復させることへの忌避感がどこから来るのかも今後の調査の課題です。)

「徹底的にやりこませるために課題を多くするというより、先生方が指導しましたというアリバイ作りのためにやらせているという話を進学校勤務の知人から聞いたことがあります。」
→このコメントは「恐らくそうなのではないか…?いや、まさか…。」というこちらの推測に対しての貴重なご証言でした。ありがとうございます。「アリバイ作り」がキーワードでして、「学校ではこの問題集が全て解ければ東大だって受かるような有名な難しい問題集を生徒にやらせている。それをやらせているのにできないのは、生徒の努力不足だ!」という態度だと思うんですよね。。しかし、それは端的に教師の保身でしかなく、そのために勉強時間やモチベーションを犠牲にさせられる中高生には虐待的だとすら僕は思っています。たとえば青チャートしか授業でやらない学校で数学のテストの成績が悪かった子たちを集めた補習でまた青チャートしかやらせない(教科書には一切ノータッチ)、という悪夢のような話も聞きました。これは東京だと私立中高一貫校、都立中高一貫校、都立の進学指導特別推進校、進学指導推進校といったいわゆる中上位の進学校でよくなされる指導です。受験指導がよくわかっていない先生側のアリバイ作りと生徒への責任転嫁なのかな、と思います。


「模試の過去問を事前に配る文化(?)はよくあることなのでしょうか。本校では横行していますが…」
→よくあるようです。複数の学校で見受けられます。(横川さんのお話では「熊本方式」と呼ぶそうです)都内でも中上位の私立中高一貫校では見受けられます。模試の過去問を課題で出すのは、それが解けない子には解答も渡されないので復習も出来ず意味がないだけでなく、「模試対策」という過学習が受験勉強だと勘違いしてしまうという弊害も大きいです。極論を言えば、模試など大学別模試以外は受けなくてもいいと思います。それよりも正しい方向への勉強時間の方がはるかに大切です。また、トップの進学校ほど、模試は「自分で受けてねー!」で強制される模試など一つもありません。今の高校生は学校で強制される模試があまりにも多すぎてお金も時間もそこに奪われ、さらには「模試対策」として模試の過去問を解かされることで勉強時間も奪われ、それを丸々覚えることが受験勉強だと勘違いさせられています。模試を受けさせること、それに不要な過学習を強いることで受験生の「自分のしたい勉強をする時間」を損ねてしまっています。(これもまた、保護者の方からの「模試たくさん受けたほうがいいんじゃないですか?」というプレッシャーの産物でもあります。保護者の方は模試を受けていないと我が子の勉強の状況を知りようがないので不安だからこのようなリクエストをしがちです。しかし、学力を観測するという事実は学力自体にも干渉してしまう(模試で日曜日の学習時間が何度も奪われる、不毛な模試対策をさせられる)、という危険性についてはあまり考えておられないのだと思いますし、かえって合格可能性を下げることに繋がっています。)


<以下は話しきれなかったことです>
・学校説明会での「塾や予備校のいらない高校」というワードの怖さ
→結局「難しい問題集を大量にやらせます!」「宿題や小テストが多いです!」という意味でしかなく、入学後は宿題や小テストで忙しくさせられるもののそれらの課題をこなしても実力がつかず、大学受験は厳しくなる。

・今回は数学の宿題に話を絞ったが、これは数学に特有のものではない。他の教科でもこのような傾向は見受けられ、基本的に「理解が固まる前にひたすら問題集」という宿題はどの教科でも多い。「勉強する」=「難しい問題集をたくさん解く」という価値観を変えていかないといけない。

・ワークブック地獄。書き込んで提出するタイプのワークブックが増えすぎて「一度解いて間違えたものは解答を写して提出」が基本になってしまっている。横川さんの仰っていたように「解答を見ながら書き写す」というなんの勉強にもならない無意味な行為に時間を奪われ、慣れさせられる。結局膨大に出されるので繰り返し解けない&教科書に戻る暇がなくなる。フィードバックもほとんどない。


(その他の考えうる質問について)
Q宿題の量が多いことはデメリットだけか?
→基礎を様々な角度から理解するというプロセスをしっかりと定着させた上で演習量を増やすことは、むしろ有益でしかないと思います。しかし、そのような状態の高校生に学年全体に「宿題」として出せる学校が果たして日本にどれほどあるのか。それほど教科書の内容ですら高校数学は難しい。むしろそうした演習用の教材はレベルが高い子に個別で用意していく、ということの方がよいのではないだろうか。

Q解答をノートに写すことからも学べることはある。「守破離」だ!
→そのような学習プロセスが有効に機能するために必要な条件は「反復」と「吟味」だと思います。漢文の素読にしても、反復が前提です。大量の宿題を出されて泣く泣く解答をノートに写すときには反復のしようがないし、吟味はなおさらできないので身につかないです。ある解答を写す行為が(反復や吟味によって)意味があるケースがあるとしても、解答を写す全ての行為に意味があるわけではないのではないでしょうか。

Q宿題を減らしたら進学実績が下がるのでは?
→「宿題を減らしたら進学実績が下がった」というケースが仮に実在するとしても、そもそも受験生の合否に何が寄与しているのかを、独立の因果関係や相関関係として抽出するのは極めて難しいです。学校の指導のおかげなのか、塾や予備校のおかげなのか、その子の生育環境のおかげなのか。教える側はこれらを単純化して判断しないことが大切だと思います。

その上で理解できない問題を大量にやらされる宿題は、現に中高生の勉強時間とモチベーションをすり減らしていることはかなり明確な事実ではないか、と思っています。あるいは自身が学習者としてそのようなやり方で新しいことを学びうるかを考えてみても、このやり方に固執する根拠はあまりないように思えます。

Q塾や予備校でも宿題が多すぎるのではないか?学校だけを糾弾するのはアンフェアではないか。
→それはそのとおりです。塾や予備校でも宿題が多すぎるところは多いです。またそれで生徒の勉強がうまくいかなくなっているケースも多い(特にSとかT会とか)。ただ、塾や予備校は合わなければ辞められるし変えることができます。それに対して学校を辞める、変えるというのはかなりリスクが大きいのが大きな違いであると思います。その強制力の違いから塾や予備校の宿題と違って学校の宿題は中高生にとってサボることがかなり難しいからこそ、「全部盛り」で時間を奪うのでなく、生徒の意見をフィードバックしながら必要な宿題を厳選してほしいと思っています。

Qそもそも宿題は必要か。
→僕自身は率直に言えばあまり必要がないと思っています。レベルの差のある子に一律に意味のある宿題を出す、という難題に取り組むのなら、何段階かに分けて、個別の勉強方法や教材を指示する方がよい。また、「宿題がなければ勉強しない」という子が宿題を出せばそれに関してしっかり頭を働かせ勉強することはありえないと思うのもその理由です。人生は長いし勉強は一生していかねばならないので、宿題を出してもらえなければ勉強できない状態からできるだけ早く脱することができるようになるのが教育の目標であると思っています。

Qどういう学校でこういうひどい宿題が出るのか。
→進学実績を上げることで生徒を獲得したい、私立中高一貫校・公立中高一貫校・高校受験から募集する高校。トップ校ほど宿題は逆にゆるい傾向が見られます。東京都だと進学指導重点校は比較的ゆるい。特別推進校、推進校、都立中高一貫校あたりに顕著にひどい宿題が見られます。

Qこういうひどい宿題が自分の子供の学校で出されていることに気づいた時の対応。
→まずは「宿題をやりなさい」というプレッシャーをかけすぎないようにしてください。自分に必要なものを選んで、とかあまりにも多いものは相談して、というのがよいと思います。その上であまりにもひどいときは父母会などで問題提起していくとよいです。その場ではこちらの訴えが聞いてもらえなくても、先生たちの中で見直しは必ず起こるはずだと思います。

Q中高生の対応
→まずは宿題を出す先生がどれほど強制しようとしてくるかをチェック。居残りさせるなど、かなり強硬な先生の場合は、宿題が無意味でもやらないことによるストレスが大きすぎるので、写して提出すればよいです。その上で、そこまで強硬でなければ宿題をやらないで、教科書などで怪しいところをしっかりと復習し、教科書の問題を解ければよい。それで余力があれば宿題まで手を出せば良いですが、あくまで教科書の定理や公式が自分で「当たり前のこと」として説明できるようになってからで十分です。

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