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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「勉強の仕方がわからない」ときの、たった一つの解決策。

たまには教育の話題も書かないと、学習塾であることを忘れられてしまいます!!(僕もしばしば忘れがちです。)

さて、学習塾に親御さんから一番寄せられるリクエストとしては、「この子は効率のよい勉強の仕方がわかっていないから、それを教えてほしい!」というものです。しかし、このリクエストは往々にして、的を外していると思っています。もちろんたとえば、「この子は1日12時間必死に勉強しているのにも関わらず、全く力がつかないんだ!」というレアケースもあるのかもしれませんが、少なくとも僕はここまで25年間教えてきて、そのような生徒には出会ったことがありません。この親御さんからのリクエストの前提として「少なくともうちの子は人並くらいには勉強しているはずなのに、勉強ができない。ということは勉強のやり方がわかっていないのでは!」という発想があるのだとは思うのですが、これは根本的に誤っていると今のところ思っています。

こうしたリクエストに対し、こちらが効果的な解決策として提示するのは唯一つです。「勉強時間を増やしましょう!」ということですね。しかし、この提案をすると、嫌な顔をされることが多いのです。「いやいや、そこを短時間でうまくやる方法を身につけるために高い金を払ってるんだろ!」とまで露骨な態度をとる親御さんは少ないにせよ、まるでこちらが無策であるかのように感じられるのでしょう。そして、勉強に困っている子たち自身も、そもそも勉強があまり好きではないがために、「勉強時間を増やすべきだ!」という解決策に対しては親御さんだけでなく、本人達も反抗する理由があります。こうして、親御さんも子供もそれぞれ違う動機から同じ主張(「短時間で力のつくうまい勉強方法教えるのが塾だろ!」)をとることで、結果、唯一の解決策である「勉強時間を増やす」という根本的取り組みからは逃げ回り、そして勉強が苦手なままで終わっていく、という残念な結果になりがちです(ちなみに、このようなリクエストをするマインドからの派生形として「オリジナルのテキストを使っている学習塾は(その効果的な方法がが入ったテキストなので)効率のよい方法を教えてくれる!逆に市販の参考書を使っている学習塾はそうじゃない!」というものもあります。これも実情を知っている側からは苦笑するしかないものでして、たとえばほとんどの高校受験塾の「オリジナルテキスト」は、教科書販売会社で売っているような業務用テキストに自社のロゴをプリントしてあるだけの「オリジナル風」でしかありません。大学受験の塾や予備校になると、さすがにもうちょっと「オリジナルテキスト」率が上がるとは思いますが、それでも市販の参考書では賄えないほどの良質、あるいは高レベルのオリジナルテキストがあるところとなると、だいぶ少ないのではないかと思います。)。

しかし、子どもたちが「勉強の仕方がわからない」のには主に、「勉強を自発的にやっていない」ことと「そもそも勉強量が足りない」という2つの理由があります。前者はたとえ長い時間「勉強している」「机に向かっている」としても親御さんやその他の何らかの強制力によってそうしているだけであり、本人が勉強の内容について頭も心も働かせていない状態である、ということです。このような状況ではそもそも「長い時間勉強をしている」のではなく、「長い時間勉強をするフリをしている」だけであるので、それは力が付きません。また、後者の「そもそも勉強量が足りない」は、「他の子と同じくらいはやっている!」という理由から、このくらいの勉強時間で力がつかないのは方法が悪い!という結論になりがちなのですが、実際一人一人で同じレベルに達するまでに必要な勉強時間や量は本当に千差万別です。誰かと比べてどうこう、が言えるわけがないのですが、それを勉強を苦手な子とその親御さんほどに、「一般的な量や時間はやっている!」という主張をされます。

そして、この両者を解決する魔法(というには大変ですが)のような方法が、「勉強時間を長くする」なのです。

もちろん、誰かが強制して長くしても勉強しているフリが長くなるだけです。そこに関しては、その勉強が今どれくらい必要か、そもそも学校の勉強さえできていれば受験で通用するのか、あるいは勉強以外の他のことに割くべき時間を考えても受験勉強にある程度時間をかけることは後の人生においてかなりハイリターンであること、など、様々な見地から勉強をその子自身が取り組むモチベーションをもてるように、ということを話し合っていく必要があります。かなり早い段階から子どもたちは自分でいろいろ考えています。だからこそ、子どもたちが勉強に真剣に取り組めないのは、必ず理由のあることなので、子どもたちに無理やり(やる意味や目的を考えさせることなく)勉強をやらせ続けることができる、というのが親や教師の手抜きでしかありません。そこをしっかり話し合っていく必要があります。

といった諸々をしっかりと整えていっては勉強時間を長くしていけばいくほどに、子どもたちにとって「勉強して成果がでない」ということが、親や教師が自分について勝手に悩んでいる問題ではなく、「自分の問題」となります。そうなればなるほどに、自発的に様々な試行錯誤をするようになり、そしてどのように勉強していけば自分の力がつくかを模索する習慣ができてきます。その試行錯誤の習慣をつけていくためにも、「(自発的に)長い時間勉強をする」ことが大切です。もちろん、そこでより効果的な方法を子どもたちが自身だけで作っていけるかといえば、それは難しいでしょう。そこで初めて、教師が役割を果たす準備ができてくることになります。
(ここに関しては「短い時間でも試行錯誤させればいいじゃん!」という反論もあるでしょう。しかし、短い時間でも自分で試行錯誤をして最適な方法を見つけられる子、というのはそもそも勉強が得意な子です。長い時間勉強もしていないのに「勉強の仕方がわからないだけで、わかれば短時間の勉強で力がつくはずだ!」と考えている時点で、それは自分からは試行錯誤をあまりしていない、勉強が苦手な子であるのです)

ということを踏まえれば、「勉強の方法がわかっていない!」という状況に対する最善の提案は「(自発的な)勉強時間を増やす」ということです。さて、それをどうやってやっていくのか、という実践面での様々な工夫が極めて難しいわけですが、しかし、この難しいことを乗り越えずして力をつける、というのは根本的には何も解決になっていません。もちろん、「うちの塾ならうまい方法教えるんで、短時間の勉強で成績アップできますよ!!」という惹句はこの業界、溢れんばかりにあるわけですが、それはやはり(もちろんそれが必要なタイミングや状況はあるとしても)生徒たちにとって、長期的には本質的な解決に繋がらないことの方が多いと思っています。どこかでやはり、(対象は勉強でないとしても)「一つのことに長時間真剣に取り組む」ことが人生においては、必ず必要になるからです。だからこそ、「(自発的に)長い時間勉強できるようにする」というattitudeを塾生の中に、何とか鍛え、育んでいきたいと思っています。
(これには僕自身の苦い思いもあります。「長時間、自発的に努力できる」人間には、どのような「天才」も結局はかなわない、という厳然たる事実があるからです。それはたとえば将棋界での永瀬二冠と佐々木勇気七段の関係性を見たってそうでしょう(もちろん、佐々木さんもまたこの事実から奮起されて、今は努力をされているはずです)。自分や自分の子供が(さして努力を必要としない)「天才」であることは、望んでも得られないものであるだけでなく、そもそも望みが叶ったとしても非常に脆弱な強みでしかありません。そのような「天才性」のみで一生を逃げ切れるほどの天才など、まず存在しません。だからこそ、私達は努力をすることを覚えなければならないのです。その事実を子どもたちから隠して、お金を得るため、あるいは自身が面倒を避けるために、その場しのぎだけを伝えて、努力の必要性を伝えない全ての大人達を僕は軽蔑します。)

そして、そのように自発的な勉強時間を増やしていければいけるほどに、「質より量」ではなく、量が質に転化してくる、ということもまた感じています。

そのためにはやはり、家庭教師や予備校講師では難しく、長時間勉強できる場を作らねばならない、というのが僕が嚮心塾を始めたきっかけでした。このような形式の塾が、どこまで生き延びられるのかはわかりませんが、何とか細々と続けていけるように頑張っていきたいと思います。

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トイレの目的はただ一つ。

いくら巷間で取り沙汰されていようと、重要ではないテーマには何もコメントすべきでないと思うのですが(重要ではないことに取り組むということは、重要なことへとは取り組まないという選択でもあるからです)、この渡部さんのスキャンダルのニュースにも、これだけは言いたい!というとても重要なことがあります。それは「多目的トイレ」という名称についてです。

僕はこの名称がどうにも気持ち悪く、このような言葉が流布しているのが許せなくって、今までずっと一人で「ムキー!」と怒ってきました。いやいや、トイレの目的は古今東西「排泄」のただ一つではないか、と。排泄を目的としていないトイレはそもそもトイレではなく、洗面台とか鏡台とか何かしら別のものです。排泄のための便器があるからこそ、トイレであり、それをおむつ替えや化粧直しなどに使える場所があるとしてもそれは「多機能トイレ」であって、「多目的トイレ」ではない!!!このことはこの機会に声を大にして主張したいところです。

ただ、このような目的をごまかした名称というのは日本語においては非常に多いだけでなく、どんどん増えてきています。たとえばトイレに関してだけでも、目的を明確にした「便所」という言葉はすっかり使われなくなり、「化粧室」と言ったり(じゃあ便器を置くな!)、「お手洗い」と言ったり(じゃあ(以下同文)!)、目的をごまかしては、より「キレイな」言い方ばかりが作られていきます。もちろんこれは最近に限ったことではなく、そもそも上代から、天皇のことを「みかど(御門)」と言ったり、大貴族を建物名で言ったり、あるいは今にも残る「奥方」と言ったりと、直接名指しするのは(特にその対象が高貴な身分である限り)失礼に当たる、という風習はあったのだと思います。ただ、そのような言葉の「消毒」が高貴な身分の人に対してだけではなく、日常語の中にこのように入ってきては、言葉を狩られ続けていく私達、というこの事態については、しっかりと考えねばならない問題点があるように思っています。

このような言葉狩りは「死」や「排泄」といった、人間たちにとって負のイメージを引き起こす対象だからなされている、という解釈も一つはあり得るでしょう。それもまた、日本の歴史の中でまた、ずっとあった風習ではあると思います。そういえば日本ではないですが、ハリー・ポッターでもヴォルデモート卿は「名前を言ってはいけないあの人」でしたね!(これは恐らく高貴な人だからではなく、負のイメージだからかと!)しかし、目的とリンクした直截的な名称が使えなくなることは、単なる代替であるだけではなく、その言葉を使う私達のうちに「目的」を見失わせていく、という力を持つものでもあります。そのようにして、目的なき名称が流布していく中で、私達はそのような言葉遣いに慣れていき、言葉を発する、あるいは何かの名前を呼ぶ、という行為は、真実に迫るためではなく、真実から目を背けるためになっていきます。

と、一足飛びに書いてみると、「そんな『多目的トイレ』という名称くらいで大げさな!」と反応されがちではあるのですが、たとえばこのステイホーム期間に多くの人が初めて見たであろう国会中継一つをとっても、いかに内実を語らないか、いかに相手の質問に対していかに答えずにやりすごすかのために、言葉が空費され続けたのはよくわかるのではないでしょうか。「目的」なき言葉や名称に人々が慣れっこになって鈍感になっていく社会、というのは言葉の力が通用しなくなる社会です。そして、その言葉の矛盾や名称の矛盾に人々が鈍感になればなるほどに、むき出しの権力にとっては都合の良い社会になっていく、ということになります。

こういう話ではジョージ・オーウェルの『1984』とかがよく引き合いに出されるわけですが、あの世界で「ニュースピーク」によって事実とは違う言葉が流布し公式に使われている、というのは、つまり一人一人が言葉に対する抵抗感から異議申し立てができなくなってしまったあとの話だということです。しかし、そのようにならないためには、「そのような(言葉を規制する)権力の横暴に抗議しよう!」とか「あんなその場しのぎの言葉を空費する国会での答弁を許すな!」という闘い方だけではなく(もちろん、これらに対して徹底的に抗議し、闘っていくこともまた必要であるとは思いますが)、それよりもこの「多目的トイレ」のような言葉を日常の中で許さない!ということにこそ、地味だけれどももっと大切な闘いがあるのではないかと思っています。なぜなら、これらの「目的」を忘れさせるような言葉遣いの果て、語義や目的という内面を失った、慣用からの転化によって私達の言葉すべてが埋め尽くされては構成されていく事態の結果として、権力はフリーハンドを得られるようになるからです。

極論を言えば、「多目的トイレ」という言葉に違和感を感じない人々ばかりの社会においては、言葉の力で権力を規制するという仕組みをもつ議会政治は不可能である、とまで僕は思っています。もちろんこれはたまたま僕が「敏感さん」として気がついた一つの具体例でしかなく、僕自身もまた見落としているこのような言葉の使われ方、言葉の殺され方が他にもたくさんあるのでしょう。ただ、こういった一つ一つのごまかしを許さないように、ということの先でなければ、民主主義は可能ではないと思っています。理性の源であるかのように見られている言語が不合理と因習の産物でしかないことをソシュールが指摘したことは意味のあることだったとして、しかし私達はその言語によってポパーの言うように「殺し合いをする代わりに議論をすることを発達させてきた」歴史を踏まえて議会制民主主義を採用しているわけですから、そのような不合理と因習から生まれてきた言語に、いかに筋道と合理性を込めていけるかが、私達人間が取り組まなければならないチャレンジであるのだ、と思います。特に日本人は、このことにあまりにも弱すぎると思っています。

トイレの目的がただ一つであることから目を背けて生活ができてしまう私達は、自分の人生の目的がただ一つであることからもまた、目を背けたままに生活ができてしまっているのでしょう。「目的なき生に意味はない」という主張を他者に向けることが様々な排斥を生み出すロジックになりがちであることに注意は払いながらも、しかし、目的を(他者にではなく)自らに問い続ける、ということはやはり私達人間にとってはとても苦手なことであるようです。そのためのツールとして、言葉を不完全ながらも磨き続けていかねばならないと考えています。

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「繊細さん」について。

最近、highly sensitive person (非常に感受性の強い人、「繊細さん」)について、そのままだと社会の中で生きにくい彼ら彼女らが、どのように社会に適応していくのかという、自己理解を進めるための本を読みました。これはこれで必要な本だとは思うのですが、一方で非常に違和感も感じました。それは、結局この本は既存の社会の中でそのような「繊細さん」達がどのように生き延びるか、という観点に立って書かれているだけであり、既存の社会への批判や改善へとはあまりつながらないと思うからです。

たとえば、何かについて敏感な人がごくマイノリティであり、それについては鈍感な人がマジョリティであるのは世の常です。だとすれば、そのマジョリティ側に立って敏感なマイノリティの意見を封殺することや、マイノリティ側がマジョリティの規範を自己の内面に規範化すること、というのはマイノリティを抑圧する、というだけではなく、社会全体としては、せっかく何かに敏感に気がついている人がいるのにも関わらず、その気づきを反映し、社会をアップデートすることができないままに旧態依然の状態を保存していくことになってしまいます。そのような社会は少しはマシになるきっかけを失い、次々と現れる敏感な人を(少なくとも精神的には)皆殺しにしては不完全なことに開き直っては維持されていく社会でしかないでしょう。それは、マイノリティとしての「敏感さん」達が苦しむだけではなく、いずれ必ず社会全体として行き詰まり、大きな破綻を迎えることになると思います。

このことに関しても日本でなかなか理解されていないのは、「多様性」というのは、決してマイノリティのために必要なものではない、という事実です。むしろ多様性を守り続けていくことは、集団が常にアップデートしていくために必要であり、それは「誰か少数派のため」ではなく、純粋に「自分たちのため」です。これはどのような観点からもマジョリティに属す人々に理解されていないだけでなく、ある部分においてはマイノリティに属し、マイノリティとしての痛みを感じながら生きているはずの人たちですら、あまり理解ができていないことでもあります。

「繊細さん」に話を戻せば、彼ら彼女らの繊細さは鈍感な私達にとっては様々な見落としがちなものに気づかせてくれる契機であり、そこでの衝突を通じて、鈍感なマジョリティ側に学ぶ姿勢があればあるほどに、そのような社会はより豊かに、したがって強靭になっていくのだと思います。それができていないがゆえに、「繊細さん」自身に「なるほど。自分は他の人とは違うのだな。」という理解をしてもらい、そして自身の繊細さをコントロールしていってもらっては鈍い方に合わせて営まれる社会になど、率直に言って可能性はないように思います。もちろん、この日本社会がそのようにマイノリティへの抑圧のみから成り立っている、どうしようもない社会であることが事実であるのは間違いがないのでしょうが、しかし、それにしても「繊細さん」にそこまで気を使って生きてもらうのでは、あまりにも情けなさすぎるのでは、と思います。(画家の鴨居玲が、パートナーとインタビューを受けたときに「この人はいつも他人のせいにしてばかりなんですよ。。」とパートナーに言われて、「いや、違う。全部他人のせいなんだ!!」と怒った、という話があります。繊細であるがゆえに鈍感なマジョリティには気づかないことに気づき続けるマイノリティにとっては、この社会で生きていくだけで「暴力」を浴び続けることになります。それに対して、鴨居のように多少乱暴な抗議の声を挙げる人が居たとしても、それをどうごまかさずに受け止めていくか、を我々鈍感なマジョリティは考えるしかないのだ、と思っています。)

「鈍く」なることが「大人」になることであり、「社会性」を獲得することであるのだとしたら、そのようにして自らの感覚を削ぎ落とさなければ入っていけない社会など、人間たちの墓場でしかありません。もちろん僕自身も教育という仕事に携わる以上、既存の社会不適合的な彼ら彼女らの個性を、どのように削ぎ落とすことなく活かした上で、しかし既存の社会の求めるものの中で彼ら彼女らが準備し得ていないものを準備させていくか、という難題に日々直面しています。その一つ一つの実践の中では、こちらがどのようにそれを避けようとしていても、「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまうという失敗の瞬間も必ずあると思います。

しかし、一方で、そのようにある部分について自分を超えて敏感な彼ら彼女らから学び続け、その敏感さが彼ら彼女らの生きづらさの原因となってしまっているとしても、その敏感さが活かされ、反映される社会を目指すことを諦めるのであれば、それこそ僕自身もまた「理解者の顔をした抑圧者」でしかなくなります。一人一人の子どもたちの中にある、そのような繊細すぎる部分に対して、どこまで誠実に向き合っては、それを自らの理想の社会像に反映していけるか、という日々の取り組みこそが勝負であり、そこにおいて「いやいや。こちらの想定する『豊かな社会』には、もう君の繊細さは十分取り入れてあるんですよ〜」と高をくくった時点で、教育者としては死んでいて、有害無益な存在でしかないと思っています。

嚮心塾がなくなるのは、塾が経営面で潰れるときではありません。塾の経営が苦しくなろうと(現在コロナでやばいですが!)、別の仕事をしてでもこれを続けていくことに意味があるうちは、続けていかねばならないと思っています。本当に嚮心塾が死ぬのは、そのような一人一人の既存の社会には包摂されえない繊細さ、敏感さに対して、僕が「知ったかぶり」を始めてしまったときである、と思っています。そのような暴力に加担していることに気づいたときには、どのように繁盛していようと、理三に何人受かろうと、その場で塾を閉めようとも思っています。

そしてそうならないためにも、繊細さんを既存の社会に包摂されるようにトレーニングを積むだけではなく、そもそも彼ら彼女らのそういった部分を理解し評価できていない既存の社会への徹底した批判と、その上でどのような社会を目指すべきであるのかのビジョンとを絶えず考え抜いていきたいと思います。

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「調べる」ということ。

「教育の目的とは何か」という問いに対して「知識を増やす」「思考力を鍛える」などと色々な回答があると思います。
「生き抜く力をつける」などといった漠然とした回答もありました。

どれを答えても片手落ちなので、まあ諸々全部鍛えれば良いとは思うのですが、ただ一点だけに焦点を絞ってください、と言われたら、僕は「調べる、という習慣をつけること」だと答えたいと思います。

たとえば言葉の意味がわからなければ、辞書を引く。今ならgoogle検索で何でも調べることもできます。我々の小さい頃と比べて、「調べる」という行為ははるかにハードルが低く、かつ、膨大な情報量を得られるようになっているのにも関わらず、子どもたちは調べることがとても苦手です。

「子どもたちは調べる、ということが苦手だ」という主張には少し留保がいりますね。もちろん彼ら彼女らは調べる手段はもっているし、調べる方法も知っています。むしろ、我々大人以上に、それは知っているでしょう。ただ、「意味がわからない」言葉に出会ったときに、それを調べよう!と思わなくなってしまっている、と言ったらいいでしょうか。

逆に言えば、ネットでも、あまりにも情報量が多くなってしまっているのだと思います。また、テレビやyoutubeを見ればわかるように、一方的に流されるものに対して受け身で情報を浴びる機会が多くなってしまっています(この点では、youtubeはテレビと敵対するものではなく、テレビを補完するものです)。たくさんの情報が手軽にアクセスでき、それにさらされることで暇つぶしを覚えてしまった子たちにとって、そこに「わからないことは、調べる」という習慣さえついていれば、それらの動画も豊かな学習の契機になるのでしょうが、そうでなければむしろ「わからないものはわからないままでも何とかなる」という体験の強化になってしまいます。

これはもちろん、子どもたちだけの問題ではありません。受動的に入ってくる情報に慣らされた結果として、大人たちもまた、「調べる」ということが苦手になってしまいます。情報量が多すぎて、一つ一つひっかかっては調べていくことができなくなってしまっていると思います。

だからこそ、「テレビの見すぎはよくない!」とか「youtubeの見すぎはよくない!」という教条主義的なしつけ、というのはだいたいあまり意味がなくて(そもそも実効性があまりないですよね)、「テレビを見たら、わからなかった言葉は調べよう!」とか「youtubeを見たらわからなかった言葉は調べよう!」とかを徹底して、さらにはそれを「その方がより内容を楽しめるはず!」というように動機づけをしてあげるのがよいかもしれません。

嚮心塾でもこれは徹底しています。「調べてわかること」を丹念に教師が教える、というのはその生徒をどんどんダメにしていくことです。それが調べたらちゃんと本や参考書に載っていることを繰り返し伝えた上で、それをどのような本や参考書で調べたらよいか、それで調べても載っていないときにはどうしたらよいか、など「調べる」という行為への彼らのハードルを下げ、そのメリットを説き、その上で調べ方を鍛えていきます。さらには調べても載っていないことについて、初めて質問を受ける、ということを徹底していきます。このようにして、一人一人の子たちが「ちゃんと調べる前に聞くことは、そもそも恥ずかしいことだ!」というところまで達してくると、それは一生の宝となる学習姿勢を身につけることができている、ということになります。

もちろんそのような「調べる」方法と習慣が有用なのは、受験勉強に限りません。自身でしっかりと調べることなく、誰かの言っていることを鵜呑みにすることから、デマゴーグに騙されては雰囲気で投票する有権者は生まれます。あるいは、愚かな消費者もまた。大切なのは、自身の知っていること、わかっていることに必ず限界があるのだということを自覚した上で、それをどのように調べていくのか、という方法論やその習慣を鍛え上げていくことです。東大を出ようと理三に受かろうと、医師や弁護士や大学教授であろうと、そんなものが自分の無知さ、考えの足らなさを否定する根拠にはなりえません。だからこそ、人間は、死ぬ最後の瞬間まで、自分のわからないことを調べる姿勢を貫くしかないわけで、その「調べる」という習慣をそもそも持たない、あるいは持っていたけれどもとうに失ってしまった、という人こそがすべての元凶である、と思っています。

その「調べる」という習慣と方法とを鍛えていくために、今日も必死に教えていきたいと思います。

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ZOOM授業を振り返ってみて。「アフターコロナ」とは。

緊急事態宣言が明け、塾も平常通りになりつつあります。

この2ヶ月間、オンラインでZOOMによる指導も並行してやっていたわけなのですが、率直に言ってこれは嚮心塾の形態ではあまり意味がないなーと感じてしまいました。もちろん、オンライン指導全般が意味がないわけではなく、特に講義形式の授業であれば、講義動画を流しておいて、そのあとにZOOMでインタラクティブに質疑応答する、とか使いようによってはむしろ良いかと思います。また、嚮心塾でも一番困るパターンとして「通塾しなくなる。」という子たちにとってZOOMで教えることができるのはプラスの側面でもありました。

ただ、2ヶ月色々やってみた結論としては、「この形でしか塾を続けられないのなら、そもそも学習塾なんかやる意味は僕にはないな。」というのが結論でした。

そのように考えた、まずその1つ目の理由としては、生徒の情報量が圧倒的に少ない、ということです。ZOOMは基本的に、カメラに映る部分しか見えません。一人一人の子たちの勉強の仕方、勉強のサボり方、その他のしぐさなど様々な視覚情報を塾という場で勉強してもらっているときにはこちらでは観察しながら、その子達がどのような思考回路、心理状態で勉強へと取り組んでいるのかを見ています。そういった情報があまりにも画面の中だけでは少なすぎるだけでなく、同じアングルからにどうしてもなってしまうために、様々な角度から見るときには気付ける大切な情報も見落としてしまいがちです。(もちろん、自宅で勉強しているからこそ、塾では猫をかぶっていてちゃんとやっているふりをしている部分の化けの皮が剥がれて、家ではこれだけ集中していないのか、などとわかることもあったのはZOOMで指導したことの収穫です。しかし、これはやはり勉強へのモチベーションが低い子限定であり、勉強に取り組むところではそんなに問題のない子たちに対しては、単純に情報量が圧倒的に減る、ということにしかなりませんでした。)

2つ目の理由としては(これも1つめと根本的には同じなのですが)「雑談」や「会話」ができない、ということでした。ZOOMの場合、「雑談」をするにはブレイクアウトルームを作ってそこで話さなければなりません。全員に話しかければ雑談は単なる「ノイズ」になり、無視されることになるでしょう。かといって、ブレイクアウトルームを作って話される「雑談」はもはや、心を構えた状態で話される言葉なので、その中に彼ら彼女らの無防備さ故に露呈する思考回路や心理状態のヒントを得にくくなります。これらも普段の塾では塾生の勉強の邪魔をするような「雑談」をすることで、その「雑談」への反応の仕方をこちらで分析しては、指導に活かしているわけで、それができないのは極めて情報量が少なくなります。

また、会話ができない、というのは次のような理由です。たとえば塾で同じ場を共有して話す時、というのはA君に話し掛けてA君と会話をしているようで、実はその話の内容を隣りに座っているB君にも聞かせたい、という目論見で会話をするケースがほとんどです。この理由としては、様々であるのですが、基本的に人間というのは面と向かって注意されたことを直す、というのがプライドがあるためにどうしても苦手であるので、このように間接的な形で修正を促す、ということができると学びやすくなる、ということがあるからです。また、このようにA君に教えている内容をB君が聞けたり、B君に教えている内容をA君が聞けたり、ということが教室内の様々な部分で起きている時、そのような教室ではただ自分が聞きたいことを聞いているだけの授業よりも、学ぶ機会が圧倒的に増えていきます。このような「自分に話しかけられていない言葉も聞く」ということからの学びの相乗作用が、基本的に「一対一で話したいときだけにつなぎ、それ以外の場合はノイズになる」ZOOMでは難しいと思いました。(もちろん、これも教室のマイクをずっと入れっぱなしにして、一人ひとり教える、という手もあるのですが、面白いもので、これはかなり不快感を生徒たちが持つのですよね。。やはり「場を共有ししている」ということは、「自分にとって関係ないと思える話も聞く」という態度への強制力になるのだな、と改めて勉強になりました。)

主にはこの2つの理由から、ZOOMはどうしても通えない子への補完策以上にはなかなかなりにくいなあ、と思いました。なので、嚮心塾は改めて一つの空間で教え続けていくことに、こだわります。それを皆さんが怖がって潰れていくのであれば、それで良いとも思っています。こちらの目的は塾を続けることではなく、意味のある教育をすることであるからです。
誰にでもできるような、意味のない「教育」をしてまで、この塾を続けていきたいとは思いません。

その上で。「アフターコロナ」という言葉が喧伝されているのですが、僕は基本的に「アフターコロナだから、働き方を変えねばならない」という言説には胡散臭いものしかないと思います。もちろん、今までの働き方を見直すきっかけにすることは有意義でしょう。そもそも無意味な会議を長時間、一つの部屋に集まってやっているよりはオンラインで良くない?そもそも会議とかいらないんじゃない?という見直しは大切です。

しかし、それを徹底的に振り返ってみた上で、やはり「ここは代替できない。」「これはどうしても必要だ。」となったものを、無理に削っていって働き方を変えたとして、果たしてその働き方はこの社会にとって必要なものを切り捨ててはいなのでしょうか。感染症対策のために、社会の中で必要な働き方やあり方そのものまでも変えていくのだとして、それが多くの必要なものを切り捨てることになったとしたら、それはそのような社会で私達は生きていきたいのか、というまた別の問題を提起することになると思います。だからこそ、何が必要であるのか、何は必要ではないのかを見直す契機にするのはよいとして、「アフターコロナですべてを変えなくてはならない!」という主張が切り捨てては見殺しにしていくものについて、やはり敏感にならなければ「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまい、あとから後悔してもしきれないものになってしまうのではないかと思います。

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