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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

中学生向け自学自習用の参考書リストの作成に協力しました。

ことぱ舎の向坂くじら先生の提案で、中学生用の自学自習用教材リストを作ることに協力しました!!!

https://twitter.com/pomipomi_medama/status/1678668673937178625?s=20

フリースクールの現場でも皆さん、本当に一生懸命教えられていると思うのですが、とはいえ基本的には学校のワークブックなどをやるしかない状況だと思います。しかし、学校の授業を受けていないor受けていたとしても理解ができていない状況で大量のワークブックをこなしても、理解ができないままに終わってしまいがちだと思います。

だからこそ、説明が充実した、繰り返し詠むことでよく分かる自学自習用の参考書を使い、それを進めていくことで学力を身につけていくことがとても大切です!

ここに挙げたリストが完全なものであるかといえば、もっと素晴らしい参考書もあると思います。また教材研究を進めていく中で、追加したり差し替えたりしたいものがあれば、適宜修正を加えていきます。しかし、参考書選びのポイントや、「とりあえず問題を解く」のではなく、まずはしっかり説明を隅々まで読んで、自分で理解して説明できるように落とし込んでいく、という基本方針はどの場合にも大切です。他の教材を選ぶときにも
「説明が詳しくしっかりしているか」
「問題数が多すぎないか」

という二点にこだわって選んでいくのが良いと思います。(という考え方が向坂先生のnoteにはしっかりと書かれています。)

ぜひ活用していただけましたら!!!

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かつやのチキンカツ。

かつやといえば、常識にとらわれない攻めたメニューを出すことで有名です。最近はこの「とんこつチキンカツ丼」が少し話題になっています。https://www.ssnp.co.jp/foodservice/515032/
こんなの興味本位以外の動機で誰が食べるの?と思ってしまうかもしれませんが、これでそこそこ成立しています。なぜかなら、チキンカツが入っているからです。かつやのチキンカツはとてもおいしいのです。どんなに攻めたメニューで、全体としては「これアリなの?」と疑問に思ったとしても、チキンカツが入っているだけで、食べた後は「まあ、チキンカツがおいしかったし、よいかな。」となります。

言い換えれば、かつやの攻めた商品開発は、チキンカツという絶対的エースがあるからこそなせる技です。これは同時に、攻めているようで守っている。あるいは根幹では守りながら、枝葉で攻めている、とも言えるのかもしれません。リスクヘッジとしては正しいものの、これが「攻めている」としか評価されないとしたら、商品開発の方向性としては少々閉塞感があるのかもしれません。チキンカツが必要条件になった商品開発は、果たして「開発」と言えるのか、という問題ですね。


さて話は変わりますが、先日、生徒の英単語テストをしていたときのことです。その生徒はだいぶ勉強が進んでいて、いまや派生語を見出し語から出せるように、という練習にまで進んでいました(嚮心塾では英単語を派生語まで一気に大量に覚えるのではなく、まず見出し語を徹底して、記憶の「幹」をしっかりと作った上で、「その見出し語がかなり定着してきた」とこちらで判断できたら、その見出し語に対して派生語を品詞とともに引き出せるように練習をしていきます)。

その状況で派生語のテストをしたところ、それができないだけではなく、「見出し語○○の形容詞だよ!」とヒントをあげたときに、その○○自体の意味にも反応が鈍かったので、テストを止めて質問(詰問?)タイムに入りました。

僕「ここまでの単語学習の流れは、見出し語を覚えて、そこから派生語を引き出す練習だよね。」
生徒「はい。」
僕「その派生語を覚えるときに見出し語自体があやしかったらどうする?」
生徒「見出し語も覚え直すべきです。」
僕「では、なぜそれをしてないのかな?」
生徒「今は派生語のテストだから…それを覚えていればよいかと思って。」
僕「しかし、ここまでの学習の流れを考えれば、派生語だけを(そこをテストされるからといって)覚えることが記憶を定着させていくためには無意味だとはわかるよね。」
生徒「はい。」
僕「そういう姿勢が『考えないで勉強する』ということではないかな。それは東大を受ける上では(この子は東大志望です)、やはり通用しないのかな、と。そして、そのレベルの受験生になってくると、こういうとき、必ず「そもそも見出し語忘れてたら意味ないじゃん!」って自分で復習するんだよ。それが「やらされている勉強」と「自分で考える勉強」との違いなんだよ。そして、こうしたattitudeの違いを、君らは「地頭の差」って言って誤魔化してしまうわけだけれども、それは端的に自分で考えているか考えていないかの違いでしかないし、その考えるための方法や材料を言語化して伝えているのだから、それを踏まえて一つ一つ必死に自分で悩まないと、東大のレベルでは通用しないよ。」

というやりとりをしました(雰囲気は和やかに話したのですが、文字に起こすと、詰問調ですね。。反省です。)。この生徒はとても頑張って勉強はしているものの、自発的に考える、ということがとにかく苦手で、自発的に考えるとはどういうことか、ということをこうした機会をとらえてしっかりと伝えていかねばなりません。そうしなければ、こちらが考え抜いて方法論や作戦を提案したとしても、結局は僕の言う通りに勉強しているだけになってしまうからです。医師に患者の身体の様子が全てわかるわけではないのと同様に、教師に生徒の勉強の細かい具合まで全て把握することは不可能です。だからこそ、このような「不調」に対して、どのように対応すべきかのattitudeを、概論としての方法論においても、個別の失敗についても徹底的に鍛えていかねばならないわけです。そこがしっかりと鍛えていけると受験生が自分で自分の勉強を分析して必要な手立てを講じることができるようになってきます。そして、そこまでできるようにしていかないと、高いレベルではやはり合格し得ない、というのが実感です。

もちろん、何も指示を聞いてくれない、あるいは「分厚い青チャートを周回しなさい」「UpgradeやNEXTAGEを周回しなさい」みたいなアホな指示に従ってしまうよりは、僕の指示に従ってくれたほうが勉強の効率もよくなりますし、実力も上がるでしょう。しかし、東大・京大・医学部レベルになってくると、それだけではやはり合格するのは難しいと思っています。こちらがそのように提示した方法論についても「なぜそれが良いのか」「そのような方法論が良いとしたら、もっとこうしたらさらに改善することになるのではないか」のように考えていく習慣をつけていかなければ合格できません。

逆に言えば、中学受験や高校受験で必死に勉強してきてそれなりの成果をあげてきた子達というのは、そうした習慣が当然身についています。だから、高2や高3くらいまで勉強をサボっていても、そこから頑張っても何とかなります。それをつい「地頭の差」という言葉でわかった気になりがちではあるのですが(そしてそれは当然ありますが)、こうした思考習慣や学習習慣の徹底、ということである程度差を詰められるものだともこちらでは思っています。

しかし、これを身につけていってもらえるように徹底していくことは本当に大変です。英語に限らず、数学でも等式変形の「=」一つ一つについてなぜそれが言えるのかを考える習慣がつけば、定理や公式を自分の言葉で説明したり、より少ない定理から他のことが言えないかを考える習慣がつけば、そしてどんな難しい問題を解いていても自分の中であやふやなことは必ず教科書に立ち戻る習慣をつけていければ、抽象的でわからないときに具体例で調べたり書き出していく習慣をつければ、そして何より図やグラフを理解するために描く習慣をつければ、そこから先は勉強したことが全て身についていきます。しかし、そうした努力を怠っては、「大量の問題をとにかく解く」という「努力」に甘んじていれば、いずれできるようになるだろう、という甘い考えをもってしまいがちであるのです。(また、その中高生の誤った考えを助長するような物量主義が教育現場にはびこっていることも中高生には本当にかわいそうなことです。。)

つまり、人間は「(自分で考えないで他人に言われたことをする)努力をすることで、(考える)努力をしないようにできる」わけです。そのように「努力」することの結果として、一般受験は残酷な結果を出して見事に機能します。そのような思考停止のための甘美な「努力」は、かつやの美味しすぎるチキンカツと同じく、必要な挑戦をむしろ阻害するものになってしまっているのかもしれません。

そしてそれはどのような「勉強法」や「指導法」によっても決して防げるものではないのかな、とも思っています。先に挙げた派生語のみ覚えようとしていた子のように、考えないで勉強している方が楽である以上、どのように作り込まれたプログラムや教授法であったとしても、やはり考えることをサボれる契機というのは生徒の側でいくらでも作ることができてしまいます。そうした一つ一つの具体的な失敗を、丹念に指摘し続ける努力、ということを教える側がやっていかなければ、やはり固着したattitudeの部分を動かすことは難しいと思っています。

それはひどく泥臭く、とても根気のいる作業です。「この流れでこれを勉強しておいて、何故ここをサボる!?」と悶絶したくなる毎日です。しかし、それを丹念に伝えていけるように、こちらも地道に泥臭くまたあれこれ考えていきたいと思います。

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宿題問題についての取材を受けました。

朝日新聞さんに学校の宿題の大変さについて、取材を受けました。

僕の取材は主に「探究課題」的宿題の負担の大変さについて話しました。
この連載自体が全六回の力の入ったもの(ウェブでは25日〜29日に、紙面では5月28〜30日の朝刊教育面に載るそうです。)で、様々な角度から専門家の方の意見を聞いて、学校の宿題の大変さについて考えるきっかけになる連載であると思います。是非お読み頂けたらありがたいです。

記事で話したことの補足をすると、探究課題自体を中高生が取り組むのは、もちろんアウトプット能力を上げることに繋がります。そこはプラスでしょう。しかし、インプットが圧倒的に足りていない中高生がアウトプット課題をこなすためには、調べる時間が膨大になってしまいます。また、基礎的な内容がわかっていないため、せっかく調べたこともあまり身につきません。そのようにして「土台なきアウトプット」を大量に課され、結局パワポの作り方、動画の作成など、枝葉のアウトプット能力の向上には資するものの、肝心の内容については何も定着していないし、理解していない、ということになりがちです。

それを「私達の中高生時代とは違って、パワポとか動画作れてすごい!」と評価するのか、「いやいや学問の土台となる基礎的な知識が何も身についてない。。」と否定するのかは、それこそ子供たちにどのような教育が必要なのかのビジョンによって違うのかもしれません。しかし、まあ個人的には「パワポとか動画作成って後で覚えても良くない?」とは思います。

伝えるための手段を鍛えるばかりで、伝えるべき内容がどんどん空っぽになってしまうような教育を続ければ、子供たちはYouTuberになる以外の道はなくなるでしょう。それが我々が子供たちに望んでいる教育なのか、ということなのかな、と思います。

これは授業でのディスカッションについても同様で、ディスカッションの前提となる知識もなく、テーマについて与えられている資料を読み込む能力がないままにディスカッションをさせられている例も多く見受けられます。その場合って、まずテーマについてしっかり前提となる知識を教えた上でディスカッションをすればよいわけですが、そのプロセスは(時間がないので)省いて行われてしまえば、結局グダグダな時間にしかなりません。

アウトプットをするためには、まず前提となる知識や理解が必要です。その前提となる知識や理解の時間を大きく削って(生徒に丸投げして)アウトプット全振りにしてしまえば、結局「アウトプットすることでさらに理解が深まる」といった本来のアウトプットの効用を損なうような課題になり、よくわからないテーマについてネットの広大な海をさまよって何とか提出するだけの課題になり、時間をたくさん奪われても何一つ残らなくなります。こうした課題の出し方が少しでも減っていくことで中高生の貴重な学習時間が空費されないようにしていかねばならない、と思っています。

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良い教師とは何か。

これぐらい長くいろんな子を教えていると、様々なスキルが発達するものです。最近ではその子が質問をしたいかどうかが表情どころか雰囲気でわかったり、めちゃくちゃ拙い質問でも何について聞きたいのかがわかったり、という感じで、見る人が見れば「名人芸」的なものになってきているな、と。

そこで良い教師の条件を挙げてみましょう。
①生徒の細部の異変に気づき、質問であれ相談であれ、こちらから積極的に声がけをしていく。
②生徒の質問がどんなに拙いものでも、その真意を見抜き、その真意に対して的確に答えていく。
③生徒への指示が完璧に網羅されていて、かつ的確であるかどうかを絶えず疑い、修正が必要なときには即座にこちらから声かけをして訂正していく。

皆さんもこうした優秀な教師がいる学校や塾を選んでください。嚮心塾もおすすめですよ。

と、書いてみましたが、実はこれは真っ赤なウソでした!!!
こんな教師は実はダメ教師であり、上に書いたようなことをしている教師こそ、生徒の成長を止めてしまうおそれがあります。

どういうことでしょうか。
まず①に関してで言えば、教育の理想は「生徒が自分で聞ける/相談できるようになること」です。こちらがどんなに生徒の微細な変化に気づき、声がけをしていって相談ができたとしても、それをそのまま続けていけば、生徒は自分から相談をする必要がなくなります。学習面については「先生から指摘を受けていないということはこのままでいいんだ!」と思考停止をするようになってしまいます。そしてまた、相対的に指導力のある教師が何なら指導時間をほぼマンツーマンで教え続けたとしても、受験生本人が自分のことを把握しているほどに受験生の思考回路や自己情報を把握することは絶対にできません。

たとえば教え始めた大学生が受験生に対して気付けることを1として、30年近く教えている僕が気付けることを1000としましょう(これでもだいぶ謙遜しています!)。しかし、受験生本人が自分自身の勉強についてもっている情報はざっと10000000000くらいなので、1か1000かの差など、誤差にすぎません。それを「見よ!この指導力!勉強ができるだけのペーペーの大学生では真似できまい!」などといい気になっているのは教師の自己満足でしかなく、受験生が力をつけていくのに最も大切なのはその100億の自己情報を持っている受験生本人に自分で自分自身をチェックしていく判断基準や方法を身につけていってもらうことです。

もちろん受験生本人の判断基準や方法というのは最初は「青チャートを繰り返していれば…」「Nextageを繰り返していれば…」などなど間違っている基準や方法からスタートしていることがほとんどなので、その膨大な自己情報を全く活かせていない状態であるわけです。だからこそ、「どのようなところまで丁寧にやった方が結局力がつくのか」「どのようなあやふやさを残してはいけないのか」などなど、自らのありようをチェックするための基準を鍛えていく「触媒」になれるように、教師はその基準づくりに協力していくことが大切です。そしてその基準が生徒の中にできていくほどに、生徒たちは教師に見抜かれなくても、自分からその基準にひっかかるところはどんどん質問に来てくれるようになります。それが教育の求める理想の姿であり、それは受験を終えたその後も一人一人の人生において、ずっと使えるツールとなります。(もちろんその判断基準は僕の提示した粗雑なものではなくて、専門性が上がれば上がるほどにより自分自身でrefineしていく必要があるにせよ、です。)

とすると、シャーロック・ホームズのように、「一昨日の晩御飯は焼き魚でしたね!それもアジの干物ですね!」的に細かな痕跡から推理をして言い当てる教師というのは、パフォーマンスとしては面白いでしょうし、実際派手で「神教師!」となりがちではあるのですが、正直教育にとってはあまり意味がありません。もちろん気づかないよりは気づいたほうがいいです。気づいて的確なアドバイスをしていけばしていくほど、生徒たちもこちらのアドバイスを信頼してくれるからです。信頼してもらえれば、そうした「自分の中に判断基準を作る」ことの大切さ、というのも伝えやすくはなります。しかし、それはあくまで手段であり、目的ではありません。それは自転車の後部を持ってあげる大人のように、必要ではあるにせよ、いずれ必ず外されなければならない補助線でしかない、という自覚こそが教師にとっては一番必要なのではないでしょうか。

とすると、観察力が大切なのはもちろんとして、良い教師にとって同じくらい必要なのは教えこんでしまわないための忍耐力でもあるのかな、と思います。

①でだいぶ長くなってしまったので、②③についてもざっと書けば、
②は生徒の質問が拙ければ、質問が的確にできるように、それの言い直しの練習をしてあげなければならない、ということです(というと、「その質問じゃ意味わからない!」みたいな「塩対応」がベストのように聞こえますが、こうした塩対応は意図は正しいとしても、その意図が正確に生徒に伝わることの方がはるかに少ないので、単なる教師の怠慢と自己満足に終わりがちです)。「的確な質問をする能力を鍛える」というのはつまり、「自分が何がわかっていないのかを明確にしていく」作業です。何が問題かがクリアになれば、解決までの道も半ばまで来ています。ただその努力ができていない子がほとんどであるのが塾に入って初期の段階であるように思います。

③については、受験生が自分から今の勉強方針を疑えることがとても大切です。各教科の内容についてはもちろん、それぞれの教科を進める方針について、自分の中で気がかりなことがあるのなら、それを言い出さなくてはなりません。特に最近は「参考書ルート」的な塾が乱造されていて、「このやり方で勉強を進めたら、必ずできるようになる!!」と喧伝されがちですが、万人に共通の方法はありえないからこそ、自分自身が与えられた勉強方針でうまくいっていないのなら、それを指導者にすぐに相談することがとても大切です。(そして、それに対して「こちらのメソッドを信じて続けていればダイジョブだから!」しか言わないのは、基本的には詐欺です。それは他のメソッドの備えもそこで新たに考えるスキルもそもそもないから、そのような対応をするしかないのです)

この話は詳しく書けばまた長くなるのですが、それこそ数学の教科書の定理や公式の導出ができず、結果だけ(あやふやに)覚えて代入しているレベルの子たちに「この問題集を周回すれば必ず力がつくから!」と繰り返すだけの、方法論の初歩的なギャップもあれば、僕自身が「これはさすがにできてるだろ。」と思考の盲点を作っていたために、その子の力の伸びの天井ができてしまっていた、というとても見抜きにくいものまであります(たとえば過去には東大理一を受ける数学が得意な子に、中学の連立方程式の練習をさせたり、医学部を受ける受験生に九九の苦手な段を練習させたりしました。両者とも受験までに気づけて、何とか合格しましたが、ことほどさように一人一人思いもかけないところに大きな穴がある、ということばかりです。ちなみにこれらも僕がパッと見抜いたのではなく、彼らから相談を受け、詳しく掘り下げていく中で気づいたことでした)。繰り返しになりますが、一万人いれば、学習履歴は一万通りある以上、その全ての可能性を指導者が掘り尽くすことはできません。だからこそ、自分自身の違和感や足りないところを受験生本人が自分から申告、相談できることが「神の目」をもつベテラン教師よりも力を伸ばすことに繋がっていきます。

ということで、お伝えしたいことは書けたのですが、これだと非常に困ることがありまして…。

たとえば、

A 先生が生徒に対して絶えず声かけをしながら見回り、生徒のちょっとした逡巡に対してもすぐに声掛けをして、生徒の拙い質問でもその真意を即座に汲み取り、的確な答を返して、生徒も大満足!勉強法や教材についても、「◯◯という(youtubeでもおなじみの)難しくて分厚い問題集を繰り返しやっていれば大丈夫!それで僕の生徒は東大受かった!」と自信をもって答えてくれる。

B 先生が生徒に全く声をかけないでお茶を飲んで本とか読んでる。生徒がせっかく自発的に質問に行っても、「その質問は意味がわからないな。もう一度何が聞きたいか整理してごらん。」と追い返される。勉強法や教材について聞いても「まずは教科書やるといいよ。」と基礎的なものしか指示されない。「それは大丈夫なんです」と伝えると、「教科書の定理や公式とかちゃんと当たり前のものになってる?」と嫌がらせのようなことばかり言われる。あげくの果てに「万人にとっての正解の教材はないけど…」と自信なさげに、聞いたことのない薄っぺらい問題集とかを薦められる。

さて、塾の見学に行って、みなさんどちらの塾に入りたいですかね。。当然A!なのではないでしょうか。。

もちろん、教育としてはBが最善だとしても、いきなりそれに対応できる子というのはそもそもとても優秀な子なので、一人一人A的なところから初めて、だんだんとBへと移行していくことになります。しかし、みんながだいぶBの状態に移行していて自分で質問できる状態になればなるほど、塾に見学に来てもらっても、僕はお茶飲んで本を読んだり問題集解いたりしているだけにしか見えません。あとは「うちの子はここにいる生徒の皆さんのように活発に質問できる子ではないので…」みたいな断られ方もよくあります。もちろんそれは問いを発する判断基準が鍛えられていないだけなので、むしろ最初はみんなそうなのです、という説明までしていくわけですが。(そもそも質問ができないままで何もかも教えこんでもらって生きていくことの方が難しいので…。質問の仕方をどこかで学ばないといけないと思うのですが、これもなかなか伝わりにくいところです。)

ということで商売繁盛だけを考えるなら、「ずっとAだけやる」がベストなのですよね。もちろんそれでは生徒たちの力は頭打ちになってしまうので、嚮心塾ではそのようにするつもりは毛頭ありません。生徒たちの今後の人生においては、自ら問いを発する能力を鍛えることほどに有益なものはないと思っています。なので、流行らない「不親切そうな塾」を細々と続けていきたいと思っています。

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2023年度受験を振り返って(その3)

T・Yさん(高3) 桜美林大学航空マネジメント学群合格(進学先)

私は高校1年生のころから、パイロットになりたいという夢を持っていました。そこで、全国でもわずかなパイロット養成コースのある私立大学を目標にして、嚮心塾で受験勉強を始めました。入塾以前までまともに勉強をしてこなかった私は、教材は何を使うか、何から勉強するのかなど柳原先生に勉強の仕方を一から親身に指導していただきました。私の場合、自宅から電車で1時間30分ほどかかったため、塾に行く時間を作ることが大変でした。しかし、嚮心塾に通い始めてからは以前より毎日の自習が増えるとともに勉強の質が格段に上がったと感じました。その理由に嚮心塾の勉強環境の良さがあると思います。先生が常に同じ空間にいること、また受験という同じ目標で努力する小学生や中学生、高校生といった幅広い年齢層の姿が近くにあることで、刺激を受け続けることができモチベーションにつながりました。このような環境があったからこそ合格することができたと思います。最終的には総合型選抜での合格となりましたが、嚮心塾で学んだことは決して無駄ではありませんでした。例えば英語であれば、ただ英文を読み、問題を解くのではなく、品詞分解をするということの大切さや、数学の場合においても、問題集を解くだけではなく、まず教科書を理解するなど、全教科においての「基礎の徹底」の指導をしていただきました。このような付け焼刃ではない本質的な学習はこれからの大学での学習にも役立つことだと思います。


柳原先生にはとてもお世話になったので、恩返しができるとしたら立派なパイロットになることだと思います。いつか報告できる日が来ることを願い努力したいと思います。
ありがとうございました。

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