嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

自分で考える、ということ。

今年の受験生の「受験を振り返って」を読んでいくと、様々な発見があってとても面白いです。毎日接してきた彼ら、彼女らの中でこのような言葉が生まれてくる、というだけでも一年間必死に取り組んできたことが報われる思いをしています。

その中でも、今年東大に合格した子の文章には嚮心塾の本質的なところが表されていると思い、感心しました。引用すると、
「私の思考プロセスを読み解いてその弱点を補うためにどうすればよいかレクチャーしてくださいました。これは、先生にとっては生徒がわからないところを教えるよりも難しく手間のかかる作業だと思いますが、このやり方をまねして地学の他の分野や別の科目に応用することで勉強への取り組み方が改善され、入試で通用する力をつけることができました。」
(引用おわり)
僕はよく生徒たちに話すのは「知識を聞くな。本に書いてあることを聞くな。そこは調べろ。」そして「本に書いてないことを聞け。」です。これはより高度な知識、ということではなく(どのような高度な知識も検索範囲を広げれば本に書いてある知識です。)そこに至るプロセスや考え方の部分をこそ、聞いてもらいたい、ということです。さらに言えば、
自分がなぜ努力をしていてもこのようにうまく行かないのか、自分の思考プロセスをチェックして盲点を探していくこと、
そこを探しても自力で見つけられないのであればそのことについて僕に聞くことを求めています。
それを一つの教科について考えることができるようになれば、それを他の教科に応用することもまた可能です。
人間には必ず思考プロセスにおいて特有の傾向があるからです。そのような特徴によって出て来る長所と短所を自分自身で把握すればするほどに自分がどのようなミスを犯しやすいのか、どのような陥穽にはまりやすいのかがよく分かるようになってきます。

どのような受験生も志望校の合格、という目標のために必死に努力しています。しかし、自分では最適だと思って勉強しているその仕方が、局所的、あるいは短期的には最適であったとしても、最終的な目標の実現にとってはかえってマイナスである、ということもまた多々あるわけです。だからこそ、僕の仕事はその局所最適性、あるいは短期最適性をより全体、あるいは長期の最適性へと向かう方向へと軌道修正をすることであると思っています。

というこの説明ではまだ片手落ちで、長期的な最適性のために短期的な最適性を追求したほうが良い場合もまたあります。それは局所と全体での最適においてもまた言えます。そもそも短期・あるいは局所の成功体験がなければ人は努力などできないものです。だからこそ、そのような成功体験がない子にとっては仮にそれが受験勉強全体から見れば遠回りになろうとも、まずはそのように短期・あるいは局所最適解を導く方法を指導します。しかし、そのような成功体験に閉じこもり、その短期・あるいは局所最適を目指す傾向が小さな成功にこもるようになり、最終的な目標を阻害する局面になってきた場合には、そのような短期・あるいは局所最適しか目指していない彼ら・彼女らの思考プロセスに批判を加えていきます。
このようにして、受験勉強を通じて小さな成功を積み重ねていくこと、しかし小さな成功がより大きな成功を妨げていないかどうかを絶えずチェックすることなどを思考習慣として身につけていく、ということができれば受験勉強もスムーズにいきます。一人一人に必要なものが違うだけでなく、同じ子であってもその発達の段階によって何が必要であるのかが変わってくる、ということが本当に難しいところであると思います。

このような手法は結局プログラムを書くことと似ているのかな、と思っています。

このような指導ができる嚮心塾というのは相当稀有な存在なのでは…と自負はしているのですが、なかなか評価されません。しかし、同時にこのような指導法というのは大きな限界を持っている、という事実にもまた直面しています。それは、自分で考える習慣のある子には大きく貢献できるものの、その習慣がない子にはほぼ役に立たない、ということです。だからこそ、このような指導法は指導対象が優秀であればあるほどより効果が大きいという、指導上の限界もあります。(アスリートやプロ棋士や学者さんを指導できると一番効果的かもしれません。)

本来は自己の思考プロセスを可視化してチェックする、ということ自体はどんな子にとっても有効な手法であると思っています。しかし、残念ながら幼いころにはあれこれと考えていたはずの子たちが小学生、中学生くらいには自分で考える、ということができなくなってしまっている、もしくはそれをいけないことだと思ってしまっているというケースも多いのです(特に親御さんが厳しいとそうなってしまう傾向が強いと思います)。

ネットによって何でも検索できる時代に、塾や予備校の価値などどこにあるのか。それこそ優秀な社会の先生や理科の先生、数学の先生のどんな素晴らしい講義も、ネットで検索して調べることのほうがより正確な内容に行き着けてしまうのがこの時代であると思います。僕が持っている知識もまた、生徒たちがネットを駆使して調べることのほうが(調べ方さえ間違えなければ)正確であるに決まっています。その中で教師が子どもたちに教えるべきこととは何か。それは「自分で考え、自分で調べる」というただそれだけの姿勢であると思っています。そして、「自分で考える」とは「自分で考えること自体についても考える」ということをも含みます。そうでなければ考えれば考えるほどに、目指すべき目標からはどんどん遠くなってしまっている自分をチェックすることができないからです。そのような契機に嚮心塾が、少しでもなることができていれば、本当に嬉しいと思っています。

しんどいことしかありませんが、もう少し、塾を続けていきたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

2018年度受験を振り返って(その5)

東京大学教養学部理科1類合格(進学先)  I・Mさん(桐朋女子高)
(ほか合格校:早稲田大学先進理工学部、国際基督教大学)
私が塾に入る決意をする決定打となったのは、地学で受験してもよいと塾長に言われたことでした。どうやって東大レベルの地学をやるのか初めは疑問に思っていたのですが、実際に質問してみると、私の思考プロセスを読み解いてその弱点を補うためにどうすればよいかレクチャーしてくださいました。これは、先生にとっては生徒がわからないところを教えるよりも難しく手間のかかる作業だと思いますが、このやり方をまねして地学の他の分野や別の科目に応用することで勉強への取り組み方が改善され、入試で通用する力をつけることができました。
 わたしは小さい頃から友達とおしゃべりするのが大好きで、幼稚園でも高校でも先生の目をかいくぐっては隣の子とおしゃべりしているような子だったのですが、塾ではみんなのじゃまになってしまうので我慢しなくてはならず、はじめはそれが受験勉強の中で一番つらかったです。しかし、それを理解してくださった先生方が、時間を決めて本を読んだらとアドバイスして下っさたり話の相手をしてくださったりしたので、最後まで乗り切ることができました。
 勉強していくと自分の知の構造が変わり、物事の見え方が時にはガラッと変わってしまうことさえあるので、人と話す機会が減ったこととも相まって浪人生活中に漠然とした孤独感のようなものを感じることもありました。しかし、いつも同じ教室で頑張っている仲間の姿や先生方の勉強への真摯な姿勢に励まされ、友達や先生方や両親に支えられていたからこそ、自分の弱いところに向き合い続けられ、結果として合格することができたのだと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

2018年度受験を振り返って(その4)

金沢大学理工学域合格(進学先)   I・N君(都立井草高校3年)
(他合格先:東京理科大基礎工学部)

僕は親の知り合いの紹介でこの塾に入塾しました。この塾の教え方は駿台など大手の予備校とは全く違かったので入ったばっかりの頃は少し当惑しました。自分が想像していたことと違うことをやらされ、本当に大丈夫なのかと疑いつつ、先生言われたことを続けました。ほとんど質問はしていませんでしたが、どの参考書でどのように勉強するか教えてもらえたので、受験勉強のやり方を全くわかってなかった僕にとってはとても助かりました。
僕は勉強嫌いで、大学にもあまり行きたくありませんでした。就職したほうがいいのではと考えたこともありました。勉強への逃げからかもしれませんが。そのためよく塾をサボってました。学校が終わってからは布団とのたたかいでした。一旦塾に行き、勉強し始めることができたら集中することはできましたし、それほど苦ではありませんでした。しかし朝布団から出れなければ塾に塾に行くのが面倒になり、ほとんど勉強ができませんでした。自分のこういう逃走癖を受験によって気づくことができましたが、自分はメンタルが弱かったので治すことは結局できずに終わりました。その結果、志望校を下げることになったのだろうと思います。しかしずっと今年は浪人するだろうなと思いながら勉強していたので、金沢大学に合格できてとてもよかったです。国公立大に合格をするのが第一目標だったので、合格に導いてくれた先生にはとても感謝しています。途中やめたかった時期もありましたが、今ではこの塾に入って良かったと思ってます。お世話になりました。ありがとうございました。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

一年が終わる時期に。

お久しぶりです。もう少しで国公立入試の発表が出て、今年一年が終わると言えます。今年の卒塾生はみんなとても気を使ってくれて、体験記を早めに書いてくれているので、もう既に何人分かがこのブログにもアップされています。

今年も僕の力不足で、ここまでに多くの落としてはいけない受験生を落としてきました。学習塾というものは、どのようにこちらが努力しようとも思いやろうともそれによって見違えるように受験生本人の勉強姿勢や実力が改善しようとも、結果が出なければ軽々と打ち捨てられるものです。というのは別に、そのことに対して泣き言を言いたいのではなく、そのような状況の中で自分が相手を思いやれるかどうかが、恐らく僕にとっては人生において必要な取り組みであったのだと思っています。こちらは生徒のことを諦めてはならないにも関わらず、成果が出なければ気軽にうち捨てられる中で、一人一人の生徒の人生を思いやる、ということが果たして可能であるのかどうかの実験として、嚮心塾は存在しています。もちろん、その中で自分の力不足ゆえに合格させられなかった受験生たちを合格してもらえる力をつけるために、また日々努力していこうと思います。

そんな中、忙しくて書けていなかったのですが、この年明けにFacebookでつながっている卒塾生が音頭を取って集まって、卒塾生の飲み会というものを初めて大々的に行い、僕も参加してきました。卒塾生同士が個人的に飲みに行ったり遊びに行ったりはもちろん今までもたくさんあったのでしょうが、僕が誘われたことはありません。そもそも僕は塾生と個人的に親しくなろうとは思っていません。教師というのは、生徒に慕われる喜びのために、奴隷のごとき労働を甘受する職業であると僕は認識していますが、生徒に慕われることが自己目的化すれば、教育にとっては有害なことです。以前にも書きましたが、教師の受ける生徒からの信頼、愛着、その他肯定的な感情の全ては、彼ら、彼女らがより良く生きていくために身につけるべきではあるがしかし自分からは受け入れがたい何かを身につけるために費やされるresourceでしかないと僕は考えています。そのresourceが少しでも僕とその生徒との間に残るのであれば、それは僕が手加減をしているのであり、「人のことの方を大切にする」という不正に手を染めているのだと思っています。

だからこそ、僕は生徒たちに嫌われるように、というつもりはないものの(不信や疑いはまた、彼ら彼女らに鍛えるべきものを伝えることを阻害します)、しかし、何一つ残さないように、塾へと通わなくなったその日から、塾に二度と足を踏み入れようと思わなくなるぐらいに鍛えるべきところを鍛えたい、と思って接し続けてきました。それはまた、今もそうです。彼ら彼女らに僕が愛されることや尊敬されることは、彼ら彼女らにとって必要のないことである以上、僕にとっても意味のないことであるのだと思います。

そのように必死に取り組んできた結果として、それでも卒塾生が遊びに来てくれたり、今回のように会ってみんなで話す機会を作ってくれる、ということは本当に望外の幸せでした(もちろん、僕の取り組み方がまだまだ甘くて卑怯なのかもしれませんが)。

相手との共感や同情は、相手とは違う自分を伝えるためのresourceであるのだと思っています。子どもたちにそのような勇気をもって生きてもらえるような力をつけていくためには、僕自身がまず、孤独に苛まされながらも相手の為を思いやらなねばならないと思っています。逃げたくなる瞬間ばかりではあるのですが、緩まず、阿(おもね)ずにしっかりと取り組んでいきたいと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

2018年度受験を振り返って(その3)

法政大学キャリアデザイン学部キャリアデザイン学科合格(進学先)  
                       S・Hさん(明治学院東村山高卒)

(ほか合格校:明治大学農学部、法政大学現代福祉学部、法政大学社会学部、中央大学文学部、武蔵大学社会学部、國學院大學法学部、國學院大學人間開発学部、東京女子大学現代教養学部) 

浪人したこの1年は自分自身に向き合う時間でした。最後まで努力を続けられない不甲斐ない自分が嫌で、そんな自分に負けたくないと思ったし、変わるなら大学受験をする今しかないと思いました。附属の大学に推薦で行くこともできたのですが、自分の努力で自分の進む道を切り開きたいと思ったのと同時に、自分がどこまで頑張れるのか挑戦したかったので受験という選択をしました。入塾した当初は、毎日通い続ければ何か変わるんじゃないかという一心で通い続けました。どうしたら成績を上げられるのか手探りの状態で、先生から与えられたものをこなしていく形で勉強を始めました。今までの塾や学校では、どこか表面をなぞっただけの事しか教えてもらえないと感じていましたが、それとは違って、例えば教科ごとの実力の上げ方や勉強の計画など、細かなところまで本当に沢山のことを教えていただきました。自分が直していかなければならないのは何かを先生に相談して、とことんまで突き詰めていくことができました。先生に相談すると自分だけでは分からないことやうまく飲み込めないこと、漠然とした不安も、うまく分解されていくような安心感を得ることができました。遠回りしてしまったけれど、この1年は自分に必要な時間であり、これからの人生の糧になったと思います。受験であまりいい結果を残せてこれなかった自分でも、入試でちゃんと合格できたということが自信になりました。以前他の塾に通っていた時は塾に向かう足取りが重かったのですが、嚮心塾に通うのは全く苦に感じませんでした。毎日通えたのは、勉強することが楽しいと徐々に思えるようになった勉強空間と、信頼できる先生のおかげです。嚮心塾に入れていなかったら合格できていなかったと思います。先生には感謝してもしきれないほど助けていただきました。本当にありがとうございました。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

お月謝の改定についてのお知らせ

お月謝の改定についてのお知らせ

いつもお世話になっております。嚮心塾を作った理念の一つとして、親の所得格差が子供の教育格差につながり、貧富の差が世代を超えて再生産されていくというこの現状に対して、少しでも抗いたいという思いがありました。だからこそ「受験生の全ての指導を出来る限り低廉な金額で行いたい!」という思いで、開塾以来12年間お月謝を一度も上げることなく運営してきたわけですが、消費税負担やさらにその税率の上昇も見込まれる中で、段々と元のお月謝の金額では塾の運営自体が継続不可能になってきてしまいました。大変苦渋の決断ではあるのですが、お月謝を値上げさせていただくことを今回お願いしたいと思っております。

具体的には以下のようにさせていただきます。

(2018年3月分より改定) 現在           → 改定後金額
小中高の非受験学年生  通常24000円(夏期・冬期は27000円)→ 毎月26000円
小6・中3・高3受験生 通常33000円(夏期・冬期は36000円)→ 毎月36000円
浪人生         通常33000円(夏期・冬期は36000円)→ 毎月40000円
(なお、この改定に際して通常月と夏期・冬期で金額が違っていてわかりにくかった料金体系を各月同じ金額に致しました。)

さらなるご負担を強いてしまうことを本当に心苦しく思っております。このような値上げする際に見受けられる逃げ口上である「より一層のサービス向上に努め」ることも嚮心塾に関してはこれ以上はほぼ難しいとも思っているのですが、指導する僕自身の質を上げていくことはまだまだ可能であると思っておりますし、そのために必死に努力していきます。どうかご理解をいただけると有難いです。

                  2017年11月14日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

2018年度受験を振り返って(その2)

東京農業大学 地域環境科学部 造園科学科 合格
                              T・M君(都立多摩科学技術高卒)

受験期間に僕は「1日のリズムを作る」「身の周りを綺麗にする」「食事を疎かにしない」という事を意識して過ごしました。これらは至極当たり前の事ですが、当たり前を当たり前にする。この事がいかに重要かを日に日に感じるようになりました。毎日同じ時間に起き、同じ時間に勉強を始め、同じ時間に寝るなど、1日のリズムを安定させることで睡眠、勉強時間に関するストレスをなくす事ができ、身の周りを整理することで同じ空間でもより集中しやすい状態で勉強することができ、よりよい勉強をするためにもしっかりと三食食事をとる。特に身の回りの整理整頓をすることが頭の整理にもつながることが研究でも明らかになっており、実際身の回りを整理していないときの自分はケアレスミスが多かったと思います。
これは当たり前のことも勉強のために自分のためにすべきことだと思いますが、それ以上に志望校のことを常に考えることが何よりも大切だと思います。人間ですから自分は心からこれがやりたいと思っているとしても、稀に「本当に自分はこれがやりたいのだろうか」と不安になることはあります。その不安も全て含めて自分が将来仕事のため、就職のためなど人によって様々だと思いますが、目標のスタート位置に立つために深く深く考えること。自分を見つめ直すという点でもとても大切なことだと思います。
自分を見つめ直すと書きましたが、最初に書いた当たり前の行動と言うのも少し前の自分を振り返るとその当たり前ができていない、だらしない人間だったと思うところがあります。でもこの受験期間、当たり前を意識したことでだらしない自分から変われた気がします。これから新たな人生が始まりますが、当たり前を当たり前にする、自分をしっかり見つめ直すと言う事はこれからも続けるつもりです。そして日々成長し、目標のスタート位置に立てたのですからゴールに向かって進んでいこうと思います。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

2018年度受験を振り返って(その1)

防衛大学(人文系)合格               B・N君(都立芦花高校卒)

僕は部活を引退した高3の夏に幼馴染の紹介でなんとなくこの塾に入った。なぜなんとなくなのかというと、これまでに自分の進路について真剣に考えたことがなく、ただ目の前の「今」だけを見て生きてきて、大学も高校を卒業したらとりあえず進む場所だと思っていたからだ。
入塾してすぐに自分がいかに大学受験、ひいては人生をナメていたかを思い知った。自立し、ある程度の生活水準を保っていくには知恵を付けなければならなくて、受験勉強はその知恵をつけ、日々の生活に活かしていくための勉強だということを先生に教わった。そして、必ずしもそうではないが、良い大学に進むことが最も手っ取り早い方法であると知った。
 浪人期間中は、月謝を払う為にアルバイトをしながら塾に通った。この経験から学んだことは、一般的に見て過酷な環境でも、それを言い訳にしていては先は開けないし、更に過酷な環境下でも自分の目標より高みを目指し、実現している人間もいるということだ。実際アルバイトがしんどいことを理由に塾をサボってしまったことが何度もあるが、僕以外にもアルバイトをしながら塾に通っていた人もいたし、世間には塾代以前に生活費を稼がなくてはならない上でストイックに勉強している学生もたくさんいると思う。
 この塾は、勉強をやらせるのではなく、いかに勉強が重要であるかを納得するまで説明してくれて、自分の意志で勉強するところまで導いてくれる塾だと思う。従って、僕のように自分に甘い人間は結果が出るまで時間がかかるかもしれないが、僕でさえ最後まで見捨てず面倒を見て下さったので、どんなに勉強が嫌いな人でも塾に来さえすれば、必ずどの塾や予備校よりもタメになることを学べるはずだと思う。最後に、この塾と出会わせてくれた幼馴染、浪人期間中生活面でサポートしてくれた家族、塾長、塾の先生方、一緒に勉強した仲間に感謝の気持ちを記します。

2年半、クソお世話になりました。

本当にありがとうございました。  

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

思い通りにならない、ということ。

ご無沙汰をしております。あっという間に今年もセンター試験を迎えました。昨日、今日と塾の受験生たちも真剣に取り組んでいます。なんとか頑張って欲しいと思いますし、一人ひとりに対して出来る限りの準備をしてきたつもりです。

とはいえ、思い通りにならないのが試験です。自分の予想を超える問題、見慣れない問題、自分が普段できていることができなくなるという焦り、その他もろもろのものと受験生は必死に戦わざるを得ません。そのように努力と意志を尽くして懸命に戦ってもなお、思い通りの結果が出ないのが入試であるとも言えます。

この仕事を続けて長く経ちますが、どのようにこちらが準備を尽くしても、それでも思い通りの結果にならないことは
多々あります。今日のセンター試験を終えてみると、一年間必死に頑張ってきた受験生でもいつもとれている点数には程遠く、悔しい思いをするかもしれません。その自分の一年間の努力がすべて無に等しいことを宣告されるような点数に打ちのめされてしまうかもしれません。

しかし、それでも、思い通りにならない結果を直視して、そのことをしっかりと反省した上でそこからまた頑張り始めるという姿勢を、一人一人の受験生には貫いてほしいと思っています。それは、次の入試に備えればそちらの方がより正しい戦略である、という以上に、思い通りにならない事の連続が人生であると思うからです。思い通りにならないことに直面して、そのことに対してどのように取り組むかこそに、その人の人間性が現れます。つまり、その瞬間こそが正念場であり、思い通りにならない事に直面したときの自分の態度の集積こそが自分がどのような人間であるのかを決定する、ということであると思うからです。

もちろん、僕自身もこれに関しては不本意な結果に直面してくじけてしまう生徒たちのことを笑うことなどできない人間であると思っています。僕自身、こちらがどのように努力や善意を尽くしても、うまくいかないこと、思い通りにならないことに直面し続ける毎日であり、そのたびに日々打ちのめされています。しかし、そのようにうまくいかないことに直面し続ける人生であるからこそ、生徒たちにもまた同じ立場から「何とかがんばろう!」と言えるのではないかと思っています。

どんなに努力しても努力しても、それでも結果が出ない。一年間必死に勉強したはずなのに、去年よりも点数が低くなってしまった。そのような理不尽さ、残酷さに逃げずに直面した上で、それでもそこからどのように頑張るのか、生徒たちと一緒に僕ももがき苦しんでいきたいと思っています。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

形にならないものに、どう寄り添えるのか。

私達が抱える得体の知れない感情をなんらかの形へと言語化することで、私たちはそれに耐えられるようになります。それは「気づき」としても捉えられるもので、言語化できていないことによって自らを押しつぶすような感情を言語化することで、その正体や特性、由来に気づき、そして具体的な対処法を考えることができる、ということです。

しかし、一方でこのような言語化が上手に出来ればできるほどに、逆に苦しくなっていく部分も私達の中には確かにあります。それは「怒り」「悲しみ」「迷い」「恐れ」などといった名前には分類し難いものを、どこかに整理していくことによって、その正体をひどく小さなものへと押し込めてしまったり、そこで貼ったラベルに実態とのずれがあったとしても、それに関してはそれ以上考えないようにしてしまうがゆえに、その違和感が新たなラベルを貼ることへの恐れを生み出すことになります。

いや、それはまだマシな状態なのかもしれません。私たちは自分たちがつける名前と実態とのズレに気づいて名付けることに恐れを抱けるほどに自分の名付けに自覚的であることのほうが遥かに少なく、殆どの場合において自分が名付けた名前からフィードバックを受けて、あたかも自分がその感情を抱いているかのように生きてしまうことの方が多いのでしょう。「この感情を喜びという。」「この感情を悲しみという。」というように定義されたマナーとしての感情、他者に見せるためのものとしての感情を私たちは生きることになります。そして、それは名前を与えられているがゆえに、自分のものではなくなります。

たとえば、最初の段落で書いたような「分析」や「定義」は本来自分自身を把握するためのツールとして導入されたはずであるのにもかかわらず、そのような「分析」や「定義」はやがて自己を疎外して、自分の中の部分を他者にも理解できるような部分へと分解していきます。自分の中のある部分が他者へも理解できるように分解したときには、もはやそれはそもそも自分そのものではなくなるかもしれない、という恐れを一旦は無視して、です。それが「とりあえずはその差異は無視しましょう!」という態度のもとであればよいのですが、そのような定義は自分自身をも縛るものとなっていきます。

そのようにして私たちは自己疎外の状態(自分が自分ではなくなっていく状態)へと陥っていくと言えるでしょう。

しかし、かと言って私達の抱える感情を言語化せずに未分化なまま、放っておくこともまたむずかしいのです。それは、対処できるものまでも致命的なものへと放置してしまうでことにつながります。

人間は自らの感情に名前をつけながら感情を飼いならしていかなければならないと同時に、自らの名前をつけた感情が本当にその名前で合っているのか、全てを汲み尽くせているのかを絶えずチェックしていかねば自分で自分をコントロールしているつもりで自分ではないものへと自分を作り変えてしまっていることになってしまう。本当に難儀な生き物です。

だからこそ、未分化の感情を呼び覚ましてくれるものは、「自分を閉じ込めていた狭い檻はあくまで自分が作ったものにすぎないのだ!」という気づきを与えてくれるだけではなく、また新たに名前をつけよう!定義をしていこう!という勇気を与えてくれるものでもあります。それは自分のことをわかっていたつもりでわかっていなかったことに気付かされ、自分を再定義する力を与えてくれます。それは私達の理性によって私達が把握する自己が全てではない、ということを見せてくれることから、世界の可能性に対してもう一度考え直させてくれる、という力を持ちます。優れた学問、優れた芸術がこのような力を持つということに関しては勿論言うまでもないわけですが、そもそもこのような可能性というのは(当たり前ですが)優れた作品だけに宿るものではなく日々のやり取りの中でもそれを感じさせてくれる人、というのはいるわけです。

嚮心塾で行っていることに少しでも教育的意味があるのだとしたら、僕はこの名前をつけていく作業よりもむしろ、名前をつけ得ないものに寄り添う作業であると思っています。名前をつけて定義していく事自体はとても重要なことではあるのですが、それ自体はまあ多少言葉の力があればできることであるとも思っています。問題は他者の中の「名前をつけえないもの」に対してどう寄り添うのか、それこそが極めて難しい、ということです。それは自分、あるいは相手の未分化の感情に対してどれほどの敬虔さがあるのか、ということでもあります。

それはすなわち人間にとって、理解を伴わない共感とは存在しうるのか、というように言い換えてもよいと思います。相手の思いを理解して、共感をするということが第一のステップだとしたら、相手の思いを理解できないけれども共感をする、ということがどのように人間には可能であるのか、ということが問われているのだと思います。「いやいや、理解して共感するのに越したことはないだろ?」というのはもちろんです。ただ、相手の思いを理解して共感する際には相手の思いを自分の中で理解できているものへと矮小化するという行為がどうしてもつきまといます。そのように相手の全体を理解できるパーツへと細分化し、自分が理解可能な断片へと貶めた上で相手を理解しようとすること自体が、目の前の相手への暴力につながることもまた多いのだと思います。

教育には、相手の全体を受け止める決意が必要になります。もちろんそれはただ寄り添うだけではやはり無責任であり、部分部分をこちらから名付けたり、相手自身にそれを名付ける練習をしてもらったり、という作業の中で茫漠とした悩みに押しつぶされそうになる一人一人にそのような悩みと立ち向かう術(すべ)を身につけてもらうことがとても大切です。しかし、そのような切り取り作業自体が本質であると思えば、「教育術」になってしまい、あまり意味はないのだと思います。そのような切り取り作業はあくまで現実を生きるためのツール、あるいは自己に対するより精緻な全体像へと近づくための仮説の構築にすぎないということを決して忘れないようにする。それが人間に対してとことん向き合うときには必要になってくるのだと思います。

言葉にならなくて苦しむだけではなく、言葉にしてもまた、そのことゆえに苦しまざるをえなくなる。全く人間というのはしんどい生きものです。その形にすることの暴力性にも、形にしないことの暴力性にもしっかりと耳を澄まし、心を開いていきながら、何とかこのしんどい作業に耐え抜いていきたいと思っています。

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop