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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「教育」に可能なこととしての分節化トレーニングについて。

これだけ長いこと一人一人の生徒たちの認識の仕方と向き合っては教え続けていると、いわゆる「努力をしても勉強ができるようにならない。」というよく見受けられる事態がどのように起きてくるのかについてはだいぶ見えてきていると思っています。もちろん、原因は見えているとしても、それをどのように改善するかについては、それぞれの子たちの習慣や考え方そのものを変えていかねばならないからこそ難しいのですが。どのようにして、「努力をしても、勉強ができるようにならない」という状態が生まれるのかを少しまとめていきたいと思います。

①言葉の定義があやふや。
学習の基本は言葉です。言葉の定義があやふやなまま、読むことも解くこともすべて、「なんとなくこんな感じ」という慣れでパターン認識をするしかなくなります。これはすべての教科に言えることで、言葉の定義があやふやなままに教科書を読んでも何も力が付きません。ましてや、言葉の意味があやふやなまま、問題を解くなんて!時間の無駄でしかありません。わからない言葉は一つ一つ調べたり、調べてもわからなかったら聞いたりしながら、固めていくことが大切です。

ただ、どうしても最近は学校も塾も大量に宿題を出してはそれをこなさせる、という傾向が強いことも、この「言葉の定義があやふや」なまま、子どもたちが学習を進めることを助長してしまい(だって、そんなこといちいち調べてる時間がないくらい宿題が出るわけですから)、ますます力がつかなくなってしまっていると思います。もちろん、わけのわからないままに問題を解くような勉強が楽しいわけも力がつくわけもありません。このようにして、大量の宿題を出す学校や塾はそれに既に適応できるごく僅かな子たちにとってのみ意味のあるものとなり、残りの大多数の子にとっては勉強を嫌いにさせてしまっているのだと思います。

②文法があやふや。
国文法や英文法など文法があやふやな子、というのはそもそもどのような文章も、単語の並びとしか認識できていません。幼児の二語文、三語文レベルの認識のままである小学生や中学生(中には高校生も!)がどれだけ多いか、については、驚くレベルです(もちろんこれは話し言葉が二語文である、という意味ではありません。書かれた文章をその子が認識するときに、そのように重要な単語だけを拾って繋げただけの認識でしかない、といいうことです。)。

たとえば、「AがBにCする。」という文があるとしても、A、B、Cという要素の情報しか拾えないため、「BがAにCする。」という誤った選択肢の間違いに気づけない、ということがあります。端的に言えば日本語の助詞、英語の前置詞への意識が弱く、そしてどちらの言語においても品詞の識別意識が極めて弱い、といえるでしょうか。もちろんこの論理関係の識別ができないことは問題を解く際の選択肢の識別だけではなく、そもそも問題文の理解、あるいは普段の勉強においても大きくマイナスに響いてきます。このような子たちにはまずは日本語の助詞の違いを教えることから徹底しなければなりません。(余談ですが「英語を教える際に文構造を重視することはおそらくほとんどの英語の授業でなされているわけで、それなのにどうしてこんなに中高生は文構造がとれないのだろう?」というのは長年の疑問だったのですが、ほとんどの中高生は品詞分解が全くできない!ということに気づき、それを徹底させるようにしてから、だいぶどのような子でも英語の力がつくようになりました。)

また、文法の勉強といっても enjoyは後ろがdoing!みたいなことは必死に覚えているのに、そのdoingが動名詞なのか現在分詞なのかがよくわかっていなかったり、to 不定詞が入っている熟語は山程覚えているのに、to不定詞の三用法(名詞・形容詞・副詞)や副詞的用法の意味の類型(目的・原因/理由・結果)がぱっとでてこない、といった状態もこの文法ができていないことにあたります。

結局、人間が何かを理解する際には言葉で弁別をせざるをえない以上、こうした「文法用語」の意味を理解し、分類をおさえていくことは、自らの中に分析的に見る目、分節していく目を鍛えていくことになります。逆に言えば、これらを覚えないで英文を理解しようとすることの方がはるかに難しく、おそらく相当immersion(英語環境にどっぷり没入)しないと難しいのです。

といったことを英語を例に出して話しましたが、これは数学でも国語でも理科や社会でも同じです。まずは言葉の定義のあやふやさを潰していくこと、次にそのような分類を頭の中に作っては分析的に見ていく目を鍛えていくこと、ということがどの教科であっても必要です。それらのプロセスができていない子は一つ一つを個別の知識として覚えるしかない、あるいは何となく解いて経験則でパターンを理解するしかない、という状態なわけで、それは当然勉強量や時間が多かったとしても、力がつきません。(逆に言えば、このような「用語の定義やその連関を理解し、自分の頭の中に分析のためのツールとしての選択肢を作っていく」という学習プロセスは最初のハードルは高いのですが、必ず力がついていきます。それに対して「何となく解いているうちに慣れる」「何となく読んでるうちに慣れる」という方法は、そこから自分なりの方法論を導き出せるような「天才」にしか、できない勉強方法です。そして、勉強が苦手な子ほど、この自分で方法論を編み出さねばならない「天才の勉強法」をしているという…。だからこそ、力がつかないままに終わっていきます。)

さて、上に書いたことを意識し、徹底していけば、どんな子でも必ず勉強の力がつく!!という事実を僕は確信していますが、しかし現実にそれができているかといえば、無力感ばかりを感じる毎日でもあります。

なぜなら、このような正しい勉強法、というのは惰性で勉強をしている子たちにとっては「とてもめんどくさい」ものであるからです。そもそも、ほとんどの子たちは、勉強ができるようになりたい、とはあまり思っていません。親がうるさいから、教師がうるさいから、という外からの動機でなんとなく勉強に取り組んでいるだけの子たちにとって、このような「正しい」勉強法はまず入り口の時点でハードルが高い(日常会話では使わないような言葉を覚えていかねばならない)のです。

また、親御さんも「勉強しなさい!」とはよく言いますが、「勉強の力をつけなさい!」とは言いません。ほとんどの子どもたち(小学生はもちろん、中高生ですら)にとっては「親がうるさいから勉強する」というレベルから脱している子の方がむしろ少ないのですから、「勉強していれば文句は言われない」と思うわけです。その勉強方法が間違っていて力がつかなかったとしても、親御さんは子どもたちを否定しないで、むしろ「頑張ってるのにかわいそうに。。」と慰めてくれさえするわけですから、彼らが「勉強の方法をめんどくさい方法に変えてでも力をつけよう!」とは思うわけがありません。

もちろん、受験はそのようなぬるま湯につかることを許しません。どのように「勉強時間はたくさんとっている」と言い訳しようと、実力がなければ落ちるのが入試です。あるいは、長い人生全般を見れば、なおさら実力がシビアに響いてくることもよくわかるでしょう。しかし、そのように自らの人生を見つめる目を子どもたちはもてていないことがほとんどである以上、教える側としては、「正しい方法」を教えるだけでは圧倒的に不十分で、「なぜ正しい方法で自分の力を向上させていかねばならないのか」までを理解していってもらう必要があります。長いこと教えて、あれこれできるようにはなったとは思っているのですが、これが本当に難しいと感じています。

つまり、教育には「勉強の正しい方法を教える」だけではなく、生徒の一人一人に、自分の人生と向きあい直視してもらっては、どのように生きるべきかを考えてもらう、というプロセスが必要である、ということでもあります。もちろん、(それが根本的な問いからではなく、おそらく世俗での成功のための打算からではあっても)それらの準備がなされている小中高生もいます。その子達にはただ「正しい方法」を教えるだけでよいのでしょう。そしてそれはある意味、とても楽な仕事です。ただ一方で、それは「正しい方法」を自身の願望として求めている子たちにそれを提供している、というだけであるのであれば、あまり大した「仕事」ができていないとも言えるのだと思います(もちろん、間違った方向性を教えるよりは意味のあることですが!)。彼ら彼女らは最短ルートをこちらが示さなくても、ある程度の成功ができるであろうからです。

一方で、そのように外側からの動機しかなかった子たちが、自身の内側からの動機を持てるようになって努力をするようになり、そうなれば当然「正しい方法」にも関心をもっては自分から方法を追い求めては努力するようになるとき、僕は教育の可能性を感じます。もちろん、どのような子に対してもそれを(やろうとしているとはいえ)できてはいないというこの状況は非常に情けないものではあるのですが、何とか諦めずに取り組んでいきたいと思います。

分析的に見る力を鍛えていくことは、受験勉強だけでなく、自身の人生を肥大化した自意識のまどろみのうちに終わらせる、という責任放棄を一人一人に許さないことにもなっていく、とも信じて、ですね。

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してほしい教育と必要な教育の違いについて。

感染者数だけでなく陽性率はむしろ現在のほうが4月よりもはるかにまずい状態ではあるわけですが、緊急事態宣言が出されないままであるので、塾への体験入塾の問い合わせは多いところです。

嚮心塾の体験入塾はちょっと変わっていて、こちらは体験入塾であったとしても、あまり「良い顔」をしません。知的好奇心を刺激するような素晴らしい教え方!的なものがないままに、その子のレベルに合わせて入塾したら進めるであろう教材を進めていき、その中で必要なことだけを教えます。それで通いたいと思ってくれれば通ってくれれば良いですし、もっと面白い授業のあるところに行きたい、と思うのであれば通ってもらわなくてよい、と思っています。結局勉強をしていくのは受験生本人である以上、どれだけ自分自身で自学自習をしたかこそがその受験生の学力を作るものです。そのやり方をどこまでも改善していくことにはこちらでいくらでも力を貸していくとして、「おもしろい!」というエンターテイメント性を求めているのであれば、予備校に行ってお客さんとして楽しませてもらえばよいでしょう。

というのが基本的なスタンスとはしているのですが、それはたとえばそもそも勉強に取り組む意欲のない子たちを排除してしまうことにもなってしまうかもしれません。そこには常に悩みながら教えています。

ただ、一つだけ譲れないのは「こういうことをしてほしい!」という生徒のリクエストに答えることはあまり意味がないと考えているということです。なぜなら、その子にとって本当に必要なものを、その子自身が理解できているわけがない、と思っているからです。もちろん、これもピンキリで、今までにさんざん悩んできたからこそ自分にとって必要なものを必死に探してきていて、自分に必要なものを求めているという状態に近づいている受験生、というのはたしかにいます。しかし、これは非常にレアケースでして、ほとんどの子たちは自分に必要なものと自分が求めているものとに乖離があるからこそ、勉強ができないことに悩んでいるケースが多いと思っています。

それに対してこちらでできることは、「君の今の状態なら、これが必要だと思うよ!」という提案でしかありません。もちろん、それを生徒の機嫌をとっておきながら、徐々に求められていることの中に必要なものを混ぜていく、というようなやり方もすることもあるのですが、一方でわざと「これが必要だと思うよ!」しか体験授業ではやらない場合もあります。

こちらは、その子が「自分の感じる違和感」に対して疑いをもつことができるか、という部分を観察しながらその微調整をしています。その子が求めているものではないものを提示したときに、そこで「なるほど。こういう提案をされて、これはあまり今まで考えたことがなかったけれども、これもありだな。」と思えるのか、それとも「こんなの、ないわー。」と拒絶するだけで終わるのか、ですね。その子の精神の柔軟性を見極めながら、こちらとしては少しずつ押し広げていこうとするとしても、やはり根本に自らの感覚を疑う姿勢がないのであれば、一緒にやっていくことはできません。

ただ、この「精神の柔軟性」は一方では資質によるとも思うのですが、それよりはむしろ環境というか、要は「自分がこのままでは通用しない!」という危機感があるかないかが結局精神の柔軟性を準備するのでは、と思っています。危機感のない子は、非常に頑なであることが多いです。そのように世界を狭めては、うまくいかないままになってしまうことになるのでしょう。

そのような子たちに対して、こちらがどのように手を差し伸べることができるのか。一方で、嘘をついてまで塾に通ってもらってはその頑な精神を押し広げるチャンスを得たとしても、そのような不正な入り口を通っての出会いからの取り組みが結局自分の感覚を疑いえない子達に届きうるのか。そういった諸々を試行錯誤しながら、悩み続けていきたいと思います。

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「生き残るためには、変わり続けなければならない」的な言葉の愚かしさについて。

忙しくしていたら、もう7月が終わってしまいそうです!!
その間に書きたいことが山程あったのに、すべて山積みのままでした。。


さて、7月頭くらいに(といっても、もう皆さん覚えているでしょうか…)自民党の広報マンガで「『生き残るためには、変わり続けなければならない』とダーウィンも言っていた!」と書いてあって、それが事実誤認である、という指摘がなされていました。いやいや、それじゃダーウィンではなく、ラマルクの用不用説じゃん!みたいな的確なツッコミは散々されているので、それはここでは書かないとして、このような言葉がいかに根強くはびこっていて、繰り返し言われるのか、その原因を考えてみたいと思います。

人間は基本的に変化を嫌がるものです。それは当たり前で、変化に対しては注意を払わなければならないので、疲れてしまうからです(我々ももう、新型コロナウイルス疲れをしていますよね)。しかし、変化を嫌がる自分自身に対しては人間はどこかしら「こんなに自堕落な自分でいいのかな…。」と不安感も抱えています。「不安感」という言葉を言い換えれば、「罪悪感」ですね。「そのように何かしらの変化を嫌がる自分は、もしかして重大な見落としをしているのかもしれない…」という不安な思いも一方で抱えながらそのようなスタンスで生活しているわけです。

そこにこの言葉は響いてきます。つまり、この言葉は変化というものに対して、自身の意識を集中させることのない日々を普段は送っている、という罪悪感故に、あたかも天啓のように重く受け止められ、そして伝えられていきます。この言葉を誰が言ったのか、ということについての不正確さは別として、このような言葉が人々の心に響きやすい、という狙い自体は自民党の広報マンガの戦略としては正しい、ということになります。もちろんそれと憲法改正とを結びつける牽強付会ぶりの是非は別として。

思い起こせば政治において「改革」という言葉がもった響きと全く同じ作用をこの言葉はもつ、と考えてもらえるとわかりやすいかと。本来「改革」は「変えること」でしかなく、それが良い方向に変えることなのか、悪い方向に変えることなのか、こそが重要です。そして、それが実は良い影響を及ぼすのか悪い影響を及ぼすのかは、実際にやってみなければわからないことが多いからこそ、そのような「改革」には必ず事後評価が必要となるはずです。

ただ、普段「変化」を嫌っては安定を求める人々の罪悪感を刺激する言葉としての「改革」は、改革を自己目的化してしまい、「良くなるか悪くなるかではなく、とにかく変えなければならない!」的な強い主張へと人々を惹きつけることになります。小泉政権時の構造改革から、大阪維新の会の大阪都構想まで、それが何のために必要であるのか、変えることで本当によくなるのか、実際に変えてみてそれで良くなったのか、などについては何も考えられないままに、「変えたいんです!」という「熱意ある」主張に何らかの正当性があるかのように振る舞う政治家たちに、私達はずっと踊らされ続けているわけです。そしてそれは、私達自身が日々の生活や仕事、その他の取り組みの中で「変化」に対して臆病な自分に対してどこかしら原罪を感じていて、そこをうまく突かれて利用されている、とも言えるでしょう。

私達にとって必要なのは、自分が「変わり続ける」ことで生き残ることができるのか、それとも「変わらない」ことで生き残ることができるのかが、実は時と場合によるものであり、そこに「これさえ守っておけば大丈夫!」などというセオリーはない、という残酷な現実を直視することであると考えています。変わることで、死に絶えることもあれば、変わらないことで死に絶えることもある。そのどちらが正しいのか、前回取った選択が次の選択に活かせるのか、それとも前回取った選択を繰り返すことで失敗するのかなど全くわからないこの世界の中で、「変わる」ことも「変わらない」こともどちらも自己目的化することなく、一回一回必死に考えては結論を出すしかない、というのがおそらく結論であるのでしょう。

しかし、このような態度を取り続けること(つまり、一つの態度を決めないで生き続けること)は、おそらく「変わらないままでいる」ことや「変わり続ける」ことよりもはるかに注意をはらい続けなければならないものである、というのがとても疲れるところです。とても疲れるところではあるのですが、しかし、日々それをできているかどうかが、このような何らかの思考停止に基づく煽動に対して、自らが疑い続けていくための唯一の道である、ということが本当に生きることの大変さを物語っているのだ、と思います。

またそれは、「保守」か「革新」か、という不毛な二項対立を惹起することとは別に、どのような保守か、どのような革新であるかこそが重要である、という態度を用意することにも繋がりうるものです。だからこそ、何かを「座右の銘」としてはそれに依拠して思考停止をすることなく、一つ一つしっかり考え、疑い抜いていくことが大切であると思っています。(「変わり続けなければならない」という一見定型的なドグマを疑い続けるかのように聞こえる主張もまた、容易に定型的なドグマへと堕するというのが人間の歴史です。イエスの踏み込んだ主張やソクラテスの「無知の知」という根本的な疑いですら、定型化することで無害化した上で、それがあたかも踏まえられてきたかのような顔をしては、踏みにじってきたわけですから。「型」へと依存することで思考停止をしたがるのは人間の常として、私達一人一人はそれと闘い続けようともがき続けることしかなく、しかもその際にはこのように依拠すべき言葉すら持ち得ないのだ、と考えています。)

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勉強時間を増やすためのいくつかの方法。

さて、前回「『効率良い方法教えて!』とか四の五の言ってないで、(自発的な)勉強時間を増やせ!」という話を書きました。そのアドバイスは正しいとして、勉強時間を増やすをどう実現するかが難しいのもまた事実です。そのためにどうしたらよいのか!というのをざっくり書いてみましょう。

①科目間の勉強のバランスを気にしない。
おいおい。「科目間の勉強のバランスこそが受験では一番大切だ!」って言ってる普段の主張と矛盾するじゃないか、というツッコミをいただくかもしれません。もちろん、科目間の勉強のバランスは受験勉強において、一番大切です。しかし、それを考えるのはもっと後、まずは長い時間勉強する習慣がついてからで十分です。

そもそも勉強時間をあまり長く取る習慣がない子にとっては、まずは自分にとってハードルの低い勉強から自発的な勉強時間を作っていくことが大切です。嫌なことを、嫌なものからやるのは、ハードルが高すぎて、必ず挫折します。まずは、自分にとってやりやすい教科から始めて、自発的な勉強習慣を作りましょう!英語が得意な子なら英語から、数学が得意な子なら数学から、ですね。英数国が受験勉強では早めに鍛えておくべきなので、この「勉強時間を長くしていくためにする、好きな勉強」はできれば英数国のどれかから選べれば良いでしょうが、それがなければ社会や理科でも大丈夫です!まずは「(テスト前だから、という強制性、他者からのリクエストではなく)自発的に勉強時間を作ること」を好きな勉強から始めるのがよいです。それができていけば、それをだんだん長く、とっていきます。

好きな科目について自発的に勉強時間を長くとることが習慣として根付いてくれば、今度は科目間のバランスを考えていきましょう。しかし、これも「国公立大学だと英数国理社全部あるから、全部やらなきゃ!」といりません。理系なら英数理、文系なら英国社ですが、理科や社会は何なら後回しでも大丈夫です。

この、科目を絞るやり方には、勉強時間を長くすることへの心理的ハードルを下げるだけでなく、そもそも一つの教科についてやり込む方が、自分が勉強したことの成果が目に見えやすくなる、という理由があります。たとえばバランス良く英数国理社をやったって、成績なんかあがりませんし、実力の上昇を自分で感じることは不可能でしょう。そうすれば、当然「せっかく勉強時間を増やしたのに!」と落ち込んで、勉強時間を増やすことを断念してしまいます。それがたとえば英語だけ徹底的にやり込む、とかすれば、英語の力がついていくことは日々の授業の中でも感じることができます。そのように「成長」を感じられれば感じられるほどに、自発的に勉強時間をとることへの抵抗感が減っていき、「自分のために必要なこと」と思えるようになっていきます。

また、科目を絞ると一つの教科についての勉強方法を試行錯誤していくこともできます。そこで、自分がどのようにすれば身につくのかを学べれば学べるほどに、それは他の教科を勉強するときにも使えるノウハウとなっていきます。逆に最初から「バランス良く」勉強することは、学習効果が見えにくく、学習方法のノウハウも蓄積されにくく、そして苦手な教科をやらざるを得ないことへの心理的ハードルが高いがゆえに継続しにくい、と最悪です。静止摩擦力の方が動摩擦力より大きいのは、人間の精神においても同じであるので、動き始めようとするときに完璧主義をとってしまわないことが大切であると言えます。

②毎日、勉強時間・勉強内容・進捗状況の記録をつける。

これはレコーディングダイエットとかと同じですね。記録として形にすることで、モチベーションが上がります。少なくとも、自分の努力が「学力」という形で目に見えるようになる前であっても、目の前に勉強記録として残り、しかもその記録の中で勉強時間を伸ばしていければ、勉強へのモチベーションを保つツールとなります。

さらに、書き溜めた記録を見返す時間を作ることで、自分が勉強する際に、どのような部分には時間がかかってしまってあまり進まないのか、どのような部分は逆に効率よく進めていけるのかについて考えていく素材にもできます。これもとても大切で、学校のテストや小テストや課題といった「やらされる勉強」には高校生はみなウンザリしてしまっているので、自分の勉強がどのような時間・効率であるのかについては見ようとしない、という癖がついてしまっています(だから、課題や小テストは本当は最低限の最低限に減らすべきなのですが…。)。人間というのは多くのことをリクエストされればされるほどに、その多くのことをいちいち感じたり考えたりしていくと、自分がもたなくなるので、それについては感じたり考えたり、ということをしないようになっていきます。ほとんどの受験生は自発的な勉強を始める前には、そのように「勉強は(テストとかのために)するけど、自分の勉強がどうなっているかについては何も考えない」状態にさせられてしまっていることが多いのです。まあ、課題や小テストで高校生を拘束すれば力がつくと思い込んでいる学校がダメなわけですが。しかし、そのような勉強方法のまま、時間や量だけを増やしても必ず成長には限界があります。だからこそ、勉強内容を吟味する、すなわち「味わう」ことを受験生の中に回復させていく必要があります。味わえば味わうほどに、改善の仕方について考えるようになるからです。このように勉強記録は、勉強時間を増やすためだけでなく、勉強の質を高めるためにもとても大切なことです。

できればこうした記録は、自分で見返すだけではなく、誰かに報告したり見てもらうと緊張感を持って勉強していくことができるのですが…。ここは難しいですね。客観的に判断できる大人がなかなかいません。「これしか勉強時間とってないのか!」と叱ってきそうな人に見せるのであれば、誰にも見せずに自分でつけていくだけでよいと思います。ここでも他人(親や教師)は最初から完璧主義で受験生にあれもこれも求めるものです。しかし、その完璧主義は、これからだんだんと形として結実させていこうとする受験生のやる気を根こそぎ殺してしまうものです。そのような雑音が入って、受験生本人のやる気がなくなってしまうのなら、誰にも見せない方が良いと思います。

③家で勉強しない。

おっと。ここで塾の宣伝をぶっこんできたか!とお思いの皆さん。半分正解です。ただ、この「家で勉強しない。」ということはとても大切なことです。僕も長いこと受験に関わり、特にこの自学自習スタイルの塾を開いてからの15年あまりは、一人一人の受験生の勉強状況をかなり細かく把握していくことを続けていますが、家で長時間勉強をするのは、どのように優秀で、勉強することが苦ではない受験生にとってもまた、非常に難しいことです。

もちろん、「私は家で勉強できるよ!」という受験生もいるとは思います。ただ、それはせいぜい5時間以内の勉強でしょう。受験勉強に本格的に取り組んでいくにしたがって、一日の勉強時間が10時間を超え、12時間とか14時間とかになっていくと、やはり家で長時間勉強するのは非常に難しくなってきます。また、時間は確保できるとしても、どうしても集中のクオリティは落ちます。

なぜそうなるかと言えば、家では行動の選択肢が多いからです。トイレに行く。シャワーを浴びる。おやつを食べる。ご飯を食べる。テレビを見る。パソコンを開く。タブレットを見る。スマホを見る。本や漫画を読む。部屋を片付ける。その他もろもろあるでしょう。選択肢が多ければ多いほどに、ふと集中が切れた瞬間に気になるものがでてきてしまい、それに時間をかけたり、時間をかけるまでは行かないとしても、再び勉強へと集中するのにエネルギーを必要とします。

特に、自発的な勉強時間がまだまだ短いうちには、勉強よりも他のことが気になってしまうものです。だからこそ、そういったものから物理的に距離を置き、そもそも触れることのできない空間で勉強をすることが大切です。そこを「意志が強ければそうした誘惑には負けないはずだ!」などという精神論で乗り切ろうとすれば、必ず失敗することになります。

人間は弱いのです。勉強を始めたばかりの受験生から見たら「神」のように見える毎日16時間勉強するような受験生もまた、そのように意識を逸らすものに満ちた空間で同じように勉強ができるか、と言えば決してそうではありません。「環境を整えなければできないなんて…」と親御さんや教師に言われるかもしれませんが、じゃあお前らはできるのか!ということですよね。実はどのように優秀な大人だってそのように誘惑の多い環境で集中して長時間取り組むことなどできません。

そのように自分の心の弱さをまずはしっかりと自覚することが大切です。そして、「そんなの気持ちがあればできるはず!」というすべてのアドバイスは、受験生自身のことを思って言ってくれているのではなく、精神論に依拠することで環境を整える努力を怠る自分たちの正当化にすぎない、と思いましょう(兵站を軽視しては精神論で乗り切ろうとして悲惨な目にあった旧日本軍のようですね!)。そして、勉強だけに集中し、スマホその他から距離を物理的において勉強できる空間を作っていくことが大切です。(そのためには嚮心塾に!ここで宣伝!)

「大人になってから、家で勉強できなかったら困るだろ。」という否定的な意見も親御さんからはよく聞くのですが、じゃあその親御さんは家で毎日長時間勉強してるのでしょうか!?とまで辛辣なことを言わないとしても、大人になったって、勉強をするためにはカフェとか何なら有料自習室とか、環境を整えればよいのです。ここでも敵はやはり完璧主義です。「家で長時間勉強できるのは一番良い」という理想にしがみついては、結局勉強できないままに無為な時間を重ねるのであれば、そこにはお金をかけてでも、一生自分が勉強し続けられる体制を確保したほうが絶対にプラスになります。

工夫として大きなものは、これくらいでしょうか。
日本人はどうも、「理想」にしがみついてはそれと心中して失敗すれば、少なくとも自分には責任がない、というように思考を放棄しがちです。それこそがしかし、無責任な態度でしかありません。理想の勉強場所、理想の勉強時間、理想の勉強方法を実現しようとして失敗を続けるよりは、弱くて汚くて情けない自分であることをそもそもの前提とし、そのような自分に嘆くことなく冷静に観察していった上で、そのようなダメな自分でもどのような形なら努力できるのか、という自分なりの方法を作っていこうと考えていくことが、自分の人生を実りあるものにする唯一の道であると思います。

また、今は超人的な努力をやすやすと継続しているように見えるスーパースターたち(イチローさんとか、将棋の羽生さんとか)も、実はそのように弱くて汚くて情けない自分をどのように野放しにしないで努力をしていくか、の工夫の積み重ねの結果として、今はそのように見えるだけであると思います。そのように理解しようとして自分もまた弱い自分をどうにかしていく、ということが彼らを理解しようとしていく、ということだとも思います。

もちろん、こうした研鑽の場として、嚮心塾にもぜひ通ってください!!(懇願)
色々ノウハウや考え方を長く書きましたが、「通わなくてもこれやればいいんでしょ!」と思ったそこのあなた!まだ甘い!
「本当に大切なことは、書き留めたりせずにアカデメイアの中でしかしゃべらない」byプラトンです!
この1000倍くらいは書けます!!

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「勉強の仕方がわからない」ときの、たった一つの解決策。

たまには教育の話題も書かないと、学習塾であることを忘れられてしまいます!!(僕もしばしば忘れがちです。)

さて、学習塾に親御さんから一番寄せられるリクエストとしては、「この子は効率のよい勉強の仕方がわかっていないから、それを教えてほしい!」というものです。しかし、このリクエストは往々にして、的を外していると思っています。もちろんたとえば、「この子は1日12時間必死に勉強しているのにも関わらず、全く力がつかないんだ!」というレアケースもあるのかもしれませんが、少なくとも僕はここまで25年間教えてきて、そのような生徒には出会ったことがありません。この親御さんからのリクエストの前提として「少なくともうちの子は人並くらいには勉強しているはずなのに、勉強ができない。ということは勉強のやり方がわかっていないのでは!」という発想があるのだとは思うのですが、これは根本的に誤っていると今のところ思っています。

こうしたリクエストに対し、こちらが効果的な解決策として提示するのは唯一つです。「勉強時間を増やしましょう!」ということですね。しかし、この提案をすると、嫌な顔をされることが多いのです。「いやいや、そこを短時間でうまくやる方法を身につけるために高い金を払ってるんだろ!」とまで露骨な態度をとる親御さんは少ないにせよ、まるでこちらが無策であるかのように感じられるのでしょう。そして、勉強に困っている子たち自身も、そもそも勉強があまり好きではないがために、「勉強時間を増やすべきだ!」という解決策に対しては親御さんだけでなく、本人達も反抗する理由があります。こうして、親御さんも子供もそれぞれ違う動機から同じ主張(「短時間で力のつくうまい勉強方法教えるのが塾だろ!」)をとることで、結果、唯一の解決策である「勉強時間を増やす」という根本的取り組みからは逃げ回り、そして勉強が苦手なままで終わっていく、という残念な結果になりがちです(ちなみに、このようなリクエストをするマインドからの派生形として「オリジナルのテキストを使っている学習塾は(その効果的な方法がが入ったテキストなので)効率のよい方法を教えてくれる!逆に市販の参考書を使っている学習塾はそうじゃない!」というものもあります。これも実情を知っている側からは苦笑するしかないものでして、たとえばほとんどの高校受験塾の「オリジナルテキスト」は、教科書販売会社で売っているような業務用テキストに自社のロゴをプリントしてあるだけの「オリジナル風」でしかありません。大学受験の塾や予備校になると、さすがにもうちょっと「オリジナルテキスト」率が上がるとは思いますが、それでも市販の参考書では賄えないほどの良質、あるいは高レベルのオリジナルテキストがあるところとなると、だいぶ少ないのではないかと思います。)。

しかし、子どもたちが「勉強の仕方がわからない」のには主に、「勉強を自発的にやっていない」ことと「そもそも勉強量が足りない」という2つの理由があります。前者はたとえ長い時間「勉強している」「机に向かっている」としても親御さんやその他の何らかの強制力によってそうしているだけであり、本人が勉強の内容について頭も心も働かせていない状態である、ということです。このような状況ではそもそも「長い時間勉強をしている」のではなく、「長い時間勉強をするフリをしている」だけであるので、それは力が付きません。また、後者の「そもそも勉強量が足りない」は、「他の子と同じくらいはやっている!」という理由から、このくらいの勉強時間で力がつかないのは方法が悪い!という結論になりがちなのですが、実際一人一人で同じレベルに達するまでに必要な勉強時間や量は本当に千差万別です。誰かと比べてどうこう、が言えるわけがないのですが、それを勉強を苦手な子とその親御さんほどに、「一般的な量や時間はやっている!」という主張をされます。

そして、この両者を解決する魔法(というには大変ですが)のような方法が、「勉強時間を長くする」なのです。

もちろん、誰かが強制して長くしても勉強しているフリが長くなるだけです。そこに関しては、その勉強が今どれくらい必要か、そもそも学校の勉強さえできていれば受験で通用するのか、あるいは勉強以外の他のことに割くべき時間を考えても受験勉強にある程度時間をかけることは後の人生においてかなりハイリターンであること、など、様々な見地から勉強をその子自身が取り組むモチベーションをもてるように、ということを話し合っていく必要があります。かなり早い段階から子どもたちは自分でいろいろ考えています。だからこそ、子どもたちが勉強に真剣に取り組めないのは、必ず理由のあることなので、子どもたちに無理やり(やる意味や目的を考えさせることなく)勉強をやらせ続けることができる、というのが親や教師の手抜きでしかありません。そこをしっかり話し合っていく必要があります。

といった諸々をしっかりと整えていっては勉強時間を長くしていけばいくほどに、子どもたちにとって「勉強して成果がでない」ということが、親や教師が自分について勝手に悩んでいる問題ではなく、「自分の問題」となります。そうなればなるほどに、自発的に様々な試行錯誤をするようになり、そしてどのように勉強していけば自分の力がつくかを模索する習慣ができてきます。その試行錯誤の習慣をつけていくためにも、「(自発的に)長い時間勉強をする」ことが大切です。もちろん、そこでより効果的な方法を子どもたちが自身だけで作っていけるかといえば、それは難しいでしょう。そこで初めて、教師が役割を果たす準備ができてくることになります。
(ここに関しては「短い時間でも試行錯誤させればいいじゃん!」という反論もあるでしょう。しかし、短い時間でも自分で試行錯誤をして最適な方法を見つけられる子、というのはそもそも勉強が得意な子です。長い時間勉強もしていないのに「勉強の仕方がわからないだけで、わかれば短時間の勉強で力がつくはずだ!」と考えている時点で、それは自分からは試行錯誤をあまりしていない、勉強が苦手な子であるのです)

ということを踏まえれば、「勉強の方法がわかっていない!」という状況に対する最善の提案は「(自発的な)勉強時間を増やす」ということです。さて、それをどうやってやっていくのか、という実践面での様々な工夫が極めて難しいわけですが、しかし、この難しいことを乗り越えずして力をつける、というのは根本的には何も解決になっていません。もちろん、「うちの塾ならうまい方法教えるんで、短時間の勉強で成績アップできますよ!!」という惹句はこの業界、溢れんばかりにあるわけですが、それはやはり(もちろんそれが必要なタイミングや状況はあるとしても)生徒たちにとって、長期的には本質的な解決に繋がらないことの方が多いと思っています。どこかでやはり、(対象は勉強でないとしても)「一つのことに長時間真剣に取り組む」ことが人生においては、必ず必要になるからです。だからこそ、「(自発的に)長い時間勉強できるようにする」というattitudeを塾生の中に、何とか鍛え、育んでいきたいと思っています。
(これには僕自身の苦い思いもあります。「長時間、自発的に努力できる」人間には、どのような「天才」も結局はかなわない、という厳然たる事実があるからです。それはたとえば将棋界での永瀬二冠と佐々木勇気七段の関係性を見たってそうでしょう(もちろん、佐々木さんもまたこの事実から奮起されて、今は努力をされているはずです)。自分や自分の子供が(さして努力を必要としない)「天才」であることは、望んでも得られないものであるだけでなく、そもそも望みが叶ったとしても非常に脆弱な強みでしかありません。そのような「天才性」のみで一生を逃げ切れるほどの天才など、まず存在しません。だからこそ、私達は努力をすることを覚えなければならないのです。その事実を子どもたちから隠して、お金を得るため、あるいは自身が面倒を避けるために、その場しのぎだけを伝えて、努力の必要性を伝えない全ての大人達を僕は軽蔑します。)

そして、そのように自発的な勉強時間を増やしていければいけるほどに、「質より量」ではなく、量が質に転化してくる、ということもまた感じています。

そのためにはやはり、家庭教師や予備校講師では難しく、長時間勉強できる場を作らねばならない、というのが僕が嚮心塾を始めたきっかけでした。このような形式の塾が、どこまで生き延びられるのかはわかりませんが、何とか細々と続けていけるように頑張っていきたいと思います。

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