嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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劇団どくんご『愛より速く』東京公演の感想

今年も劇団どくんごの東京公演を見てきました!2年ぶりのどくんごの舞台は懐かしく、切なく、本当に素晴らしかったです!今年はあれほど作りこまれた舞台を1回だけ見に行って感想を書くのも申し訳ないと毎年思っているので、越谷公演と、東京公演を三回の計四回見てきて、またそのうち一回は塾生を連れて大勢で見に行きました。各回、本当に素晴らしかったです!

どくんごの劇の素晴らしさは「意味がある」と思えば意味がなく、「意味が無い」と思えば意味があり、観客にとって全く「気が抜けない」劇であるということだと思います。ナンセンスな笑いを笑っていたはずなのに、あれ?ここはさっきのこれとつながっているのか?という疑問が自分の中に見ながらどんどん出てきます。また最初の文脈で意味を成し得なかった言葉が次の文脈で繰り返されるときには、意味を持ってきます。そのように「意味が無い」と聞き流すこともできなければ、「すべて意味がある」と
傾聴することもできない、その観客側の態度を決められなさが、逆に心地よくなってきます。意味を考える事の喜びを私たちはうんざりするかのような意味の押し付けの前には自己防衛のためにどうしても拒絶をしなければならなくなりますが、このように意味があるかないかもわからないものをこちらに押し付けないようにそっと、しかし彼ら彼女らの懸命さは伝わる形で置かれていくたびに、私たちはその意味を食い入るように見つめ、考えたくなってきます。そのような、(おそらく私達が言葉を獲得していく際に持ち続けていた)意味をわかろうとする喜びを私達の中に回復していくのがどくんごであると思います。

このように書くと、言葉だけが魅力的である劇であるかのように聞こえてしまいますが、どくんごの劇において言葉は主要な要素ではありません。むしろその鍛えぬかれた演技、音楽、装置、そして何よりもその考えぬかれた演出にこそ、どくんごの魅力があります。それらに我々が心をひらいていく中で、言葉が突き刺してくるわけです。そもそも人間のコミュニケーションはおそらく言語以外の部分に大きく依存をしていると思います。それはたとえば同じ内容を喋っているとしても声のトーンや速さ、さらには話し手のたたずまいや表情などによってその説得力が大きく違ってくるわけです。そんな小難しいことを言わなくても、「なんとなくこのおっさんの言うことは信頼できるな。」とか「なんとなくこのおっさんの言うことは怪しいな。。」などと、判断していることは日常の中でかなり多いのではないでしょうか。その意味で、どくんごの劇は言葉を回復していく過程を私たちに味あわせてくれます。言葉によらないコミュニケーションに基礎をおいていた私達が、しかし言葉ですべてを表現することを求められるようになったのが人類の発展の歴史であると言えるでしょう。それは、文化だけでなく、政治においても学問においてもそうであるのです(たとえば議会制民主主義というのは言葉で闘うことを前提としている以上、どれだけよどみなくしゃべることができるかがその国会議員の質とされてしまいます)。しかし、それだけ言葉が達者な人間たちが幅を利かせることが人類の歴史の一つの行きつく先であるとしても、それ以外の部分が本当に人間にとって必要ではないのか、端的に言えば「偉そうな言葉が話せれば偉いのか。」といえば、そうではないこともまた、我々は直観的に感じ取っているのではないでしょうか。どの国会議員を連れて来ても表面上立派でよく考えていそうな言葉は喋れるとして、さてそれで「このおっさんは信頼できるな。」と思えるのかどうか、ですよね。その意味で現代は言葉が支配している社会であるからこそ、その言葉の意味を額面通りに受け取ることができなくなっている社会である、といえるのではないでしょうか。(こう言うとジョージ・オーウェルの『1984年』に描かれるようなdouble speak(二重言語)を懸念するのかもしれませんが、double speakとは実は言葉が世界を支配した後に、言葉の意味を受け取れなくなった人間達に言葉の機能主義的(あるいは構造主義的)側面だけがうけとられるようになった世界に成立するものであると思います。その意味で、そのような「言葉の支配」による「意味の死」には、実は独裁的な権力はあまり必要ではないと僕は思います。)

よくある「ペンの力を信じよう。」「言葉の力を信じよう。」という言葉は、この言葉の持つ権力的側面に対して無自覚であるという意味で、僕は闘うべき問題を間違っているのだと思います。そもそも、言葉の力という意味でたかがマスコミが、法令の解釈に血道を上げては横車を通そうとする国家官僚に(能力の点でも努力の点でも)勝てるわけがないではありませんか。言葉が権力として、そしていずれは権威として機能してしまうのは、言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくからです。そして、なぜ言葉の意味を考えようという意欲を多くの人が失っていくのかといえば、それは権力を追認させようとする横車に限らず、言葉の意味を取るというコミュニケーションに対して我々が疲れきっているからであるのです。言葉の意味を取るにはあまりにも我々は自己中心的にすぎる。意味を取ろうとしても、辛いだけだ。そのような失敗の積み重ねの中で、意味を取ろうとし続けることに対して、私たちは倦み疲れ、そして諦めていきます。国会での議論においてその場しのぎの答弁が多くなるのも、言葉が死んでいるからではなく、言葉しかそこにないからだと僕は思います。言葉が媒介するはずであった意味を汲み取ろうとする心の余裕が我々の中になくなればなくなるほど、言葉による議論は意味を伝え合うものではなく、結論が決まったあとに、儀礼として交わされるだけのceremonyになってしまいます。国会の空転を嘆く前に、そのように結論を全面的に見直す気持ちのない言葉のやり取りの中でどのような私達も生きているというこの現実をこそ何とかしていかなければ、国会の空転など変わるわけがないと言えるでしょう。言葉が死んでいるのではなく、言葉しか残っていないのです。そこに意味を伝え合おう、分かり合おうという姿勢がなくなっていくことが、社会が社会である必要をなくすものであると言えるでしょう。

(長くなりましたが)そして、どくんごの劇はそのように「意味を伝えよう」とか「意味をわかろう」とすることに疲れきっている私達だからこそ、心の芯にまで響いてきます。様々な点で、社会からずれた登場人物たちの、滑稽でも真剣で、だからこそ物悲しい一つ一つのモノローグは、最初は笑って見ているだけなのに、段々と、「あれ?私って、こんな風にしゃべってたかな。。」「いつからこんな風にしゃべれなくなったんだろう。。」「いや、この人達がどんなに笑われてもおかしいと思われても真剣に語るのに、私はもっとつまらないことも伝わらないと思って我慢してるのでは。。」と、どんどん自分が意味を伝えることに臆病になっていることに気付かされていきます。
あるいは、赤ん坊の「だあだあ」と一生懸命話しかけてくれることを思い出してみるのもよいかもしれません。彼ら彼女らの伝えたい内容はこちらに全く分からないにせよ、赤ん坊の言葉の拙さなど全くにすることのない健気な語りかけは、我々の心を打ちます。そして、その意味内容など全く分からないにせよ、それを「分かりたい!」と思って一生懸命に聞くようになります。そこで私達が赤ん坊に語りかけてそれに対して赤ん坊の声がまた返って来て、というそのやりとりは共感の回路を形成し、意味を伝え合いたい、と思うようになっていきます(伝わらないとしても、です)。

だからこそ、どくんごの劇を見続けていくと、「もっとその一人一人の役者さんのモノローグを聞きたい、意味をわかりたい!」とのめり込んで聞いていくようになります。もちろん、だからといって一生懸命聞いても、その場面場面のセリフの意味はわからないのですが、その中で、また彼らの意味のないと思っていた言葉の中にまた意味や符牒、脈絡が見事なまでに遠い場面をまたいで散りばめてあるので(今回の劇で言えば僕が気づいた中だけでも「蝶」「バス停」「宇宙だって…」などなどたくさんあります)、そこで再び意味を考えようという気持ちがさらに掻き立てられます。そのようにして、私たちは意味を考える勇気を、そこから進んで意味を伝えようとする勇気をどくんごの劇からinspireされるのだと思います。(さらに言えば、この「意味を聞く態勢が徐々に観客の中にできていく」中でなお、意味をストレートに伝えようとしない終盤の構成、というのが本当に考えぬかれた演出であると僕は思います。お客さんの心を開いておいて伝えたい内容をぶっこんでくるのではなく、心を開きながらもなおもそっと寄り添うというのでしょうか。一昨年や一昨々年に見た時はもうちょっとこの終盤がストレートだった気がして、それはそれで本当に素晴らしかったのですが、今回はより強い覚悟を決めて寄り添う(すなわちお客さんに委ねる)ことに決めた感じがして、よりどくんごらしいのでは、と勝手ながら感じました。そのおかげで劇を見たあとの余韻がより複雑なもの、しかし、後を引くものになっていると思います。)

もちろん、各モノローグやメインでやっている役者さん以外の様々な演出も何回もどくんごを見ていく中で何回でも楽しめるポイントです。演技なのか、演技でないのか、舞台設定も自分たちで全てやらねばならないことも演技の中に組み込み、どこからが演技でどこからが演技でないのかがわからなくなってきます。またお盆として舞台で使っていたものを月に使ったりと現実と空想との境目もわからなくなってきます。もちろんテントの中だけでなく、その外も大胆に使うということもふくめ、そのすべてが、境目をなくしては未分化の状態へと私達を投げ込み、それ故に劇場を出れば終わる「感動」ではない余韻が我々の日常生活の中にどんどん浸潤していくように思います。さらには、テントを組むことでそこで暮らす日常がどくんごのある風景になり、またテントをバラして移動すれば、そこにはどくんごがもういない、ということもまたこのような異世界感を作っている重要な要素であると思います。今回は東京の井の頭公演以外にも、待ちきれず往路の越谷公演も見ましたが、北越谷駅前の広場で開かれるどくんごは、「駅」という日常にどくんごのテントとさらには駅前にまで繰り広げられる様々な劇が本当に日常の景色を一変させてしまう、素晴らしい公演でした。それは役割を細分化され、それぞれの役割を果たすことに閉じ込められていった現代の我々、さらにはその象徴の最たるものとしての「駅」を、あざ笑うかのような、非日常の現出!という印象を受けました(まあ、そんな難しい言葉で言わなくても、駅前であのどくんごの公演(想像以上にすごい光景です!)ができるなら、もっと私たちは道端で何やってもいいんじゃない?と自由になれると思います)。

と、ここまで長々と書いてきましたが、もちろん、どくんごの劇は言葉にしきれません。(今回どくんごの皆さんとお会いして、以前の僕の感想文を過分にもほめていただけて本当にうれしかったのですが)このような本当に素晴らしいものを言葉にしようと思うたびに、自分の言葉の拙さに打ちのめされます。しかし、だからこそ、どくんごの劇を言葉で表現しようともしていかないといけないと僕は思っています。この言葉が支配する世界の中では、言葉にはならないけれども大切なものを言葉にもおとしこんでは評価していかねばならないと思うからです。それはたとえば、とても人間的に素晴らしい子たちに学歴をつけていくのと同じです。人を自分の目や頭でではなく、学歴を通じてしか評価できない人と同じように、言葉を通じてしか判断ができない人を僕は「バカ」と呼ぶわけですが、そんな人たちにもどくんごを知る入り口を作ってあげたいですよね(というと、反感を買ってしまって入り口になれない気がしますが)。ぜひここからの残りの公演にもお近くの方もそうでない方も、足を運んで実際に見ていただけたら本当に嬉しいです!来年もまた塾生を連れて、(ご迷惑でしょうが)大挙して見に行きたいと思っています。

それとともに、どくんごの劇を見て、意味を伝え合わない人間関係だけが人間関係であると思い込んでは諦めているすべての人々に、できることを徹底的にやっていくような塾であり続けたいと改めて思いを強くしました。意味を伝え合わないような関係性は、人間関係ではありません。「伝えようとして伝わらなくても、そのことがどのような齟齬や軋轢を生もうとも、それでも伝えたいと思うのは、分かり合いたいからだ!」と(どくんご風に)諦めずに取り組み続けることこそが、実は政治であれ学問であれ、あるいは他のすべてのことであれ今、必要なことなのではないか、と思っています。

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反知性主義について

ご無沙汰をしております。試験的にtwitterも使ってみよう!とやり始めてはみたのですが、文章が嫌がらせのように長くなってしまい、卒業生からも「知り合いじゃなかったらリムーブしてる」とまでdisられ、泣く泣くブログに帰ってきました。twitterは使い方がわかるまで、当分ブログの告知ぐらいに使おうと思います。

塾は夏休みで朝から晩までバタバタとしている(のは僕だけで塾の子たちは受験生も非受験生も皆必死に勉強しています。この光景というのは壮観だなあ、と毎回思っています)のですが、他の読むべき本を読み終えてようやく以前から読みたかったRichard Hofstadterの`Anti-intellectualism in Amerian Life`をようやく読み始めているのですが、本代をケチって英語版にしたので日本語ほどは速くは読めずにじっくり読んでいます。

まだまだ初めのほうなので、本自体の感想というのはまた読み終えたらまとめて書こうと思っているのですが、読みながら非常にあれこれと考えさせられる良い本です。というだけでなく、僕にとっては「考えなければならないいくつかの重要な問題のうちの一つ」を考えるためにこの本を読み始めたのですが、読み進めているうちに「僕の人生を定義するような根本的問題」についての本であると気付かされました。僕はルソーの著作の中でも『エーミール』を特に重要な著作の本質であると思っているのですが、一番好きな本は何か、と聞かれたら『学問芸術論』であると答えます。それは『学問芸術論』の(もちろん拙いものとはいえ)問題意識が、僕自身の問題意識と通底するからです。人間にとって学問や芸術とは果たしてプラスになったのか、マイナスになったのかというテーマに対してルソーは環境問題や核の被害など出る前の18世紀に「マイナスだ!」と叫びます。もちろんそれは単なる「逆張り」でサロンの入選論文になることを狙った、と批判することもできるでしょうが、その後の彼の著作を読めば、それはやはり彼自身が感じていた違和感を言葉にしたものではないかと思います。

一方でルソーの『学問芸術論』は学問の発達に対して反省を加えるときに新たなテンプレを導入してしまった、という意味では反知性主義のさきがけであるのだと思います。「学問の発達が人間の徳性を損なうとしたら、それは肯定されるべきなのか」という彼の問いは「その学者に人徳がなければその学問もダメでしょ!」というその学説の功罪を理解しない人間にも批判するその批判の仕方を開いたといえます。その学説が間違っているかどうかをそれを進める人間の「徳性」という観点から批判するというある意味「ちゃぶ台返し」のような批判の仕方は、その学説が間違っているかどうかを吟味する冷静な目をなくしていきます。それはこの前の舛添さんに対するバッシングとも同じですね。民主主義において政策を吟味しては冷静な判断を下せる有権者が将来的にも大多数にはなり得ない構造の中で、「政策を吟味できなければ、人間性で判断すればよい!」ということで決定されていっても本当に不幸な失敗につながらないのかどうか、それは週刊誌などの疑惑報道で容易にコントロールできる「民意」になってしまうのではないか。このような懸念が今まさに生まれているわけですが、それと同様に学問を徳性によって批判をすることが果たして人類全体の進歩につながりうるのか、それとも退化につながってしまうのではないか、という問題をルソーは(それこそ彼が『社会契約論』によって生み出した民主主義とともに)生み出してしまったと言えるかもしれません。(さらに興味深いのはルソー自身が自らの子を5人も孤児院に捨てたことで、このような批判の仕方をまず最初に自身も受けている、というところです。もちろん、彼がそのような批判の仕方の限界を考えさせるために、そこまで計算してやったのだとしたら、さすがに恐ろしいとは思いますが)

「反知性主義」とは、「知性が人間の徳性を妨げることがある」という、至極まっとうながら、しかし、それ以上は建設的ではない批判です。それは必ず既存の知的な進歩へのブレーキとして働きます。それがブレーキとして人間の知性の有り様全体への見直しを迫る限りにおいて、それは必ず起こることであるというだけでなく、極めて大切な異議申し立てです。しかし、問題はそれは決して知性の全面的否定へとは向かうべきではないということにあります。反知性主義はその最良のものですら、ブレーキでしかない。しかし、科学が発達するほどに、その現在の科学への批判や反省を加えること自体がそもそもそれらの科学的素養を前提として必要としていくために、批判や反省を加えることがほとんどの人にとってはできなくなります(これは「知識人の独裁」というだけでなく、同じ知識人であっても分野が違えば全くできなくなっていきます)。その「自分のあずかり知らないどこかで決まっている」ような「科学的事実」への不満は、実はそのような前提を専門家ですら踏まえることが難しくなればなるほどに、「反知性主義」の形でしか表出されなくなっていきます。そのようにして、批判は感情的になり、さらには感情的な批判に対して見直しをすることは専門家にとってもかなり高度な人間性が問われる以上、そこでの「見直し」は本当に正しいかどうかを見直すことではなく、あくまでも「無知な大衆」のための対策になっていくことになります。その異議申し立ての中に考えるべきポイントがあったとしても、です。

そのような不幸な社会の分断が対立をさらに激化させていきます。「このように科学が発達した時代なのに(水素水のような)ニセ科学がはびこる」のではなく、「このように科学が発達した時代だからこそ、ニセ科学がはびこる」ことになってしまうわけです。

だからこそ、やはり「啓蒙とは何か」「教育とは何か」ということが根本的に大切な問題として浮かび上がってくるように思います(と、ここまで書いてみて、もはやブログですら長すぎですよね。失礼致しました。あと少しだけ書かせてください!)。

やはり知識人にとって必要なのは、その反知性主義の中に自分たちが学ぶべき批判がないかどうかを耳を澄まして聞いてはしっかり考える力であるのだと思います。それらの批判は幼稚で、粗雑で、時に暴力的かもしれませんが、しかしその中に自分たちがより真理に漸近するヒントがあるかもしれません。そのような形を通じてしか異議申し立てができないところへと追い込んでしまっているということに対して、心を砕いて行かねばならないのです。そこをシニシズム的に冷笑しては黙殺するということは、その対立を激化することにしかならないのだと思います。

それは教育で言えば、子供の理不尽なように見える異議申し立てに対して、耳を澄ましてはしっかりとその異議申し立ての意味を考える、ということと同じであると思います。各家庭でそれが出来なければ、社会全体でそれを期待すること自体がそもそも無理であると言えるでしょう。

同様に、反知性主義はブレーキ以上のものにはなりません。人間は少しでも、今よりマシにならなければなりません。
徳性を鍛える必要がないと考えるのも愚かであれば、徳性を伴わない知性については考えるに値しないと考えるのも愚かであるわけです。そのことを教育を通じて伝えていければ、と思っています。と同時に、このテーマについてはまとまった文章を書かなければならないという必然性を感じているので、また何とか時間を作っては書いていきたいと思います。

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愛は惜しみなく掘り崩す。

ブログを書くのが久しぶりになってしまいました。受験生の合格体験記を待つこの季節は、どうしても新年度のドタバタと相まって間隔が空きがちになってしまいます。これからは気をつけて、短いものでも定期的に書いていきたいと思います。

この仕事をしていて常々思うのは、「生徒に尊敬をされる教師は良い教師である。」というのは嘘であるということです。むしろ教師というのは反発を受け、時には憎まれるくらいでなければなりません。なぜなら子どもたちにとって必要なものを彼らが本当に欲している場合というのは極めてまれであるからです。彼らにとって(その狭い価値観から)自分が必要とは感じていないものを、しかしそれが必要だと口を酸っぱくして言い聞かせてはそれをどのように理解してもらえるかを手を変え品を変え、試行錯誤をしていくことが教師に求められる役割です。そのような取り組みに邁進する教師は、子どもたちにとっては、理解の出来ないものをおしつけてくる嫌な大人としてしか見えないでしょう。もちろん、そこで彼らが現在必要とは感じていないものがどうして必要であるのかを理解してもらうために最大限の努力を費やさないのは教師としてはダメなのですが、とはいえ様々なタイムリミットがある中で、理解のための努力だけを行い続けては結果として受験その他に間に合わなくなって改善できなくなってしまうこともやはり教育の失敗です。だからこそ、その理由を説明しきれずに取り組んでもらうようにせざるを得ないことも多々あります。

一方で、「生徒に憎まれている教師はすべて良い教師である」というわけではないこともまた当たり前のことです。そもそも生徒との間に信頼関係や尊敬がある程度なければ、そのような浅い関係性しか結んでいない大人の言うことを子どもたちが聞くわけがありません。そのような信頼関係を得ようとすることなく自分の主張だけを繰り返す教師や大人というのは、そもそも子どもたちにその内容をわかってもらおうと本気で目指しているのではなく、「自分は保護者・監督者として最低限の義務は果たしている。」という自己満足や責任回避のためという動機から、そのように行動していることが多いのではないでしょうか。そのような姿勢をとる教師から生徒が何かを学び取ることがないとは言いませんが、それはあくまでも生徒側の力量によるものであり、大半の生徒にとってはそのような教師から学ぶことは難しいのだと思います。

つまり、「ずっと生徒に尊敬されている教師」は生徒の歓心を得ながらも、それを何に用いるかを考えていないという点で怠惰であり、「ずっと生徒に憎まれている教師」はそもそも「自分は話すべきことを話している」という自己満足に陥ってはそれが相手に伝わっていない現実から目をそらしている点で怠惰であるということになります。だからこそ、理想の教師は「生徒との間に信頼関係を築きながらも、その信頼関係を築いたり尊敬を受けたりということを目的にはせずに、そこでできた信頼関係を資本として掘り崩しては(生徒のために必要だがしかし彼ら彼女らが受け入れたくないと思っている)彼らの改善点を指摘し、修正していく教師」ということになります。

これは嫌ですよね。日々そのように自分に肝に銘じてやっているつもりですが、このように書き起こすと改めてしんどくなります。端的に言えば、「嫌われるために、愛される」ことを目的としなければならないというのが何よりも辛いことです。人間はずっと愛されることが辛くないのはもちろんとして、ずっと嫌われていることも楽なのです。ある意味、そこに期待をしなくて済むからです。あるいは誰かにずっと嫌われている人も、また別の誰かからはずっと愛されていたりするわけで、そこで精神のバランスを保つことが出来るでしょう(先に挙げた自己満足のような言葉しか離さない教師も家庭に戻れば良きパパやママとして愛されているのでしょう)。しかし、「いずれ嫌われるために、愛される」という目的をもって一人一人の子どもたちと接するのは、例えて言うなら「失恋をするために恋をする」ようなものです(どんな人でも、失恋をした瞬間は「こんなしんどい思いをするなら、もう2度と恋なんてしない!」と思った経験があると思います。良い教師とは、それを意図的に一人一人に対してやっていかねばならない、ということであるのです)。

そんなにしんどい思いをしてまで、なぜそれをやっていかねばならないのか。それは教師から見える、生徒の認識の限界を押し広げていくことが結局その生徒にとって必要なことであるからです。その認識の狭さを肯定することからしか良好な関係は作れないでしょうし、むしろその認識の狭さを疑いたくないと思っている状態というのは、自己肯定感が極めて少ないからこそそのように「バリア」を張っては、これ以上自分のidentityを掘り崩したくないと心が傷ついている状態なのかもしれません。しかし、それを一時的に外側から肯定することと、いつまでもそれを肯定し続けることは意味が違います。そのような認識の限界が、彼や彼女自身の能力や世界の限界をいずれ作っては、その狭い世界の中で生きては浅はかに絶望したり希望を抱いたり、という悲劇をうむことに対して、教師はそれを永遠には肯定してはならないのです。

有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』を借りれば、「愛は惜しみなく掘り崩す。」とでも言えるのでしょうか。
「愛を」ではないところが、とても重要だと僕は思っていて、相手との愛を掘り崩す動機もまた相手への愛である以上、これ以上正確な「愛」の定義は僕には今のところ思いつけていないと思っています。

もちろん、僕は生徒を教える立場として生徒や卒業生に対してだけではなく、このような姿勢を子どもたちや奥さん、数少ない友人達に対しても、しんどいですが徹底していきたいと思っています。それが僕の、死ぬために生まれたことの意味であると思っているからです。今日も、受容され愛されていることを伝えるべき内容の伝達へと緩みなく資することができているかどうか、疎まれ憎まれていることが伝えるべき内容の伝達を阻害していないかどうかを、絶えず一人一人に対して考えぬいていきながら教えていきたいと思います。

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2016年度合格体験記(その3)

東京医科大学医学部医学科合格(進学先)O・S君(海城高3)
日本大学医学部医学科合格

この塾には高一の冬に入った。高三になり他の受験生とも話したり、先生と話す機会が多くなった。「家が貧しいため、バイトで塾代を稼いで塾に来る」浪人生や現役生の話を聞いたとき、衝撃的だった。自分や学校の友人は「勉強の妨げになるからバイトはしない」、塾の友人は「塾に通うためにバイトする」。それまで、勉強できる自分の環境を恵まれているとは思っていなかった。小学生の頃から塾に通っていて、中高でも塾に通いたいと言えば通うことができた。その環境が自分には当たり前だった。テレビや新聞で「勉強できるのは幸せ」と聞いたことはある。しかし、中高の周りの環境ではそういう考えを持った人はいなかったので、本当に実感してはいなかった。この塾で「勉強したくても出来ない」友人と席を並べることで、自分がどれだけ恵まれているのかを実感することが出来た。
 この塾には様々な人がいる。進学校に通い大学受験をする人や、塾に通うためのバイトをしながらの人もいれば、浪人生なのに遊び呆け勉強をしない人もいる。また中学受験をする小学生もいるし、学校の勉強に付いていくために塾に来ている人もいる。そういう人達と同じ場所で席を並べ勉強することで、自分は、自分の環境が恵まれていることや、大手予備校に通っていたら知り合えなかった人の環境を身にしみて感じることができた。自分とは全く違う生活を送ってきた友人達と大学受験を目標に勉強できた事は本当に良かった。
 最後に、根気良く教えてくれたチューターの方々・勉強はもちろん他の様々な事を教えてくれ、体験記を辛抱強く待ってくれた柳原先生・塾を見つけてくれた父・受験生時代に献身的なサポートをしてくれた母、ありがとうございました。合格できたのはみなさんのお陰です。大学では、高校時代のような怠惰な生活を送るのではなく、勉学に励んでいきます。

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見えないものを、見よう。

 教育というのは成果が極めて見えにくいからこそ、そのプロセスや成果の「見える」化をしていきたいという誘惑に駆られるものです。特に子供の教育に身銭を切っておられる保護者の方々はそのように思うのも当然です。しかし、「「見える」化をしたい」という思いが強いゆえに、見える部分さえしっかりしていればそれで納得をしてしまうという失敗にも陥りがちです。それがよくある個別指導塾のように授業時間の中で家庭への指導報告書の作成に血道を上げては、目の前の生徒を放っておく、という悲惨な事態につながっているのだと思います。詳細な指導報告書を求めれば求めるほどに、その分指導については手抜きをするしかありません。個別指導塾で我が子への指導を手抜きにしてしまっているのは、実は詳細な指導報告書で安心をしたいという親御さんの願望であるのでしょう。

 一方で受験生本人にとっても、勉強の成果というのは見えにくいものです。勉強というのはまずモチベーションが変わり、次に取り組む時間の長さが変わり、そして取り組む時間の質が変わり、最後に勉強の成果が成績となって出てくるものです。しかし、勉強に今まで真剣に取り組むことをしていなかった子ほどに、2段階目の時間を増やしたくらいでそれでも成果が出ないことを「こんなにやっているのに、成績が上がらない」と不満を訴えては「塾が悪い」「教師が悪い」と他に責任転嫁をするか、あるいはそもそも勉強へと長い時間を費やすことを放棄してしまいがちです。しかし、長い時間をやっては成果が出ないのならば、自分の勉強の仕方がまずいのです。書き写すだけの手の運動やふむふむと読んで理解している気になっているだけの「作業」を「勉強」と自分勝手に定義していないかどうか、という検証が隅々にまで必要になっていきます。「量」をこなしてみなければ自分の勉強の「質」が低いことに気づくことができない以上(なぜなら勉強の質はあくまで勉強量に対して測られるるものであるからです)、「最初に勉強のやり方を教えてほしい!そうしたら質が担保されたら、あとは量は頑張るから!」というよくなされる功利主義的なリクエストは、実はあまり効果が低いのです。「こんなに勉強しているのに、力がつかない!」という悩みをまずは本人が抱えていなければ、どのような優秀な勉強方法もその有り難みが本人にはわからないからです。

 だからこそ、受験生本人にとって必要なのは、目に見えやすい「勉強時間」や「模試の成績」だけで満足したり悲観したりするのではなく自分の勉強を判断するだけではなく、自分が勉強に取り組む時間の中でどこをどう改善していくべきかを目を皿のようにして探す、「見えないものを見ようとする」力であると言えるでしょう。もちろん、それがどうしても自分では見えにくいところまでは人事を尽くした、あるいは2つの矛盾するが共に必要な改善法に対して今の時期はどちらを優先して取り組むべきかわからない、ということに対して受験の全体像を知る教師が的確なアドバイスをしていくことが大切です。しかし、教師にとって何よりも大切なのは、そのように見えないものを見ようとしては自分の改善点を探していく姿勢を、生徒達に伝えていくこと、すなわち生徒一人一人が誰よりも自分の勉強を厳しくチェックする主体であるような姿勢を伝えていくことであると考えております。

 そのような自己研鑚の場としての嚮心塾に是非参加していただけたら嬉しいと考えております。見学や体験入塾は随時受け付けております。まずはこの塾の空気だけでも、味わいに来ていただけたらとても嬉しいです。

                   2016年3月15日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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2016年度合格体験記(その2)

東京農工大学農学部応用生物学科 合格(進学先) 早稲田大学政経学部(セ利用)合格 明治大学農学部合格                  K・Kさん(都立立川高卒) 私は卒塾生である兄に勧められて嚮心塾に入りました。 現役時、勉強不足により第一志望の大学に落ちた私は、入塾当初かなり低いモチベーションで勉強していました。しかし、嚮心塾で毎日長時間勉強していくうちに徐々にモチベーションが上がり、受験当日までコンスタントに勉強を続けることができました。というのは、合格に向けて、自分以上に一生懸命勉強している仲間が常に近くにいたからです。また、どんな悩みも聞いてくれ、どんな質問にも答えてしまう(いろいろな意味で)ドラえもんのような先生の存在も非常に大きなものでした。 嚮心塾の良いところは、何よりもその学習環境にあると思います。私は勉強、特に受験勉強で一番大切なのは勉強に対するモチベーションだと思っています。嚮心塾にはそのモチベーションを保てる環境がありました。 最後に、浪人生活をそこそこ楽しく過ごせたのは紛れもなく嚮心塾のおかげです。ありがとうございました。

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2016年度合格体験記(その1)

法政大学理工学部合格(進学先)
日本大学理工学部合格                                      H・M君

自分は3年間引きこもっていました。同じ年の学生が高3になる頃からこの塾に通い始め、1浪して無事合格しました。
引きこもりをやめようと思ったきっかけは生活に息苦しさを感じたこと、親類に学校を辞めたことについて「まあ、いいよ。」と言ってもらったことです。
鬱病の人に頑張るよう言うのは良くないという話はよく聞きますよね。
当時自殺も考えていたので、今思えば自分もそうだったのかなと思います。
頑張らないように言って頑張らなくなるかもしれないから、難しい話ですが。
こうして考えていると鬱病の人は頭の中で凄く頑張っているのだと思います。

引きこもりをやめるとなると、まず大学を目指すことにしました。
大学受験には高校卒業資格が必要です。資格を取るには通信制の学校に数年通うか高卒認定試験で合格するかです。自分はこの塾に通い高卒認定試験を受けました。通信制の場合、取得に時間がかかるので。あまり考えずにその選択をしましたが今では非常に良かったと思っています。

大学受験に関して思うことはモチベーションを保つのが難しいということです。自分は目指すものが無いですし、友人も居ないですから。だからお金のため、自分のため、家族のため、充実感のため、いろいろな理由を考えて途切れるやる気を繋げていました。
そんなあまりやる気の無い自分ですが、意外に合格したことが嬉しかったです。
こういう気持ちが生きる気力になるのかなと思い、絶対に忘れないようにしていきます。

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監視と観察の違いについて

今年はビリギャルが(一人一冊として)4,5冊書けるくらいのドラマティックな合格が多かったので、素晴らしい合格体験記の数々を期待していたのですが、実はまだ誰一人書いてくれていません。。悲しいので皆さんにはご迷惑でしょうが、合格体験記が届くまでに僕が長い記事を書いて、その悲しみと間を埋めていこうと思います。

塾のパンフレットでは、「見えないものを、見よう。」と書いたのですが、今回はその「見る」ということについて、一般に流布している勘違いが多いように思うため、それについて書きたいと思います。「あの先生は生徒のことをよく見ている。」「あの先生は生徒のことをしっかり見ていない。」ということは親御さんの間でもよく話されることではあると思うのですが、そこでの「見る」という言葉の意味は対面してまさに会話している親御さん同士であっても、おそらく定義が違うのではないかと僕は思っています。

一般に「子供が良いことをしているかどうか、あるいは良くないことをしていないかどうかを監視する」するという意味の「見る」と「子供が何をしているか、それにはどのような意味があるかを観察する」という意味の「見る」があるとすると、どうしても前者の「見る」を親御さんは教師に求めがちになります。「うちの子がサボっていないかどうか、ちゃんと見てほしい!」というリクエストがなされるときの「見る」は監視という意味になります。そして、これは実は当たり前であり、例えば生まれたばかりの幼児がなにか危険な目に遭わないかどうかを(特にお母さん方は)必死に気をつけて育ててきたわけですから、そのようなnurseryの時期が過ぎたとしても、子供に対しての配慮といえば(言葉は悪いですが)「監視」をして、何か危険なことやいけないことをしていないかどうかをチェックしようとするわけです。
そして、その同じ「子供を監視する」という役割を学校の教師や塾の教師へと果たしてもらおうと要求します。これはもちろん、危ない目に遭わないようにする、という意味では乳児や幼児のときほどでなくても、必要な配慮であると言えるでしょう。

しかし、一方で、educationというのは、「ちゃんとやっているかどうか、サボっていないかどうか」を「見る」(すなわち監視する)こととは実は矛盾するものです。なぜなら、「監視する」という行為自体はそもそもその監視の基準となる価値観を疑わないことで初めてできるものである以上、監視をしているときにはある人や物の振る舞いが、ある基準に照らし合わせてみて正しいかどうかを判断すること以上の判断ができません。なぜなら、その基準に沿っているかどうかを素早く判断するためには、その基準を疑っていたり、その基準に照らしあわせて理解の出来ないものについて考えている暇はないからです。しかし、educationというものがeduce(外へと引き出す)という行為の名詞であるためには、すなわち子どもたちが自発的にしようとしていることを引き出していくためには、彼ら彼女らが何をしようとしているのか、それがどのような点では肯定されるべきであり、どのような点では改善されるべきであるかということを注意深く観察することこそが必要であり、一つの判断基準に即して判断をするだけの監視では、対応ができなくなってしまいます。「あぶないことをしないように」というnurseryにおいて、必要だった監視を自分で取り組まなければ効果の極めて低い学習へとそのまま適用すれば、「さぼっていないかどうか」を監視しては無理やり取り組ませるだけのことになります。そこでは、そもそもその学習主体がなぜサボるのか、ということについては考えもしなくなりますし、監視してとりあえず机の上で勉強に向き合わせることだけを目標とすることになってしまいます。

このように体裁だけ完璧を繕っても、人間の精神というのは様々な逃げ道を見出すものです。このように本人に内発的な動機がないままに監視されることを続けていった結果として、監視されてきた子どもたちはどのようにその監視をかいくぐっては目の前のやるべき勉強をサボるかに知恵を絞りますし、そのように自覚的ではなくても、自然にサボり方を見つけるようになります。なぜなら、親に叱られないために勉強している子どもたちにとっては、親に叱られることを防ぐための最も効率の良い手段は勉強をしているふりをすることであるからです。もちろん、そのような振りをしていても、結局は定期テストや模試、受験結果などで実際にはその勉強に意味がなかったことがバレてはしまいます。しかし、とりあえず今日叱られずに生き延びては定期試験後に叱られるまで先延ばしにできるのであれば、勉強することの意義を理解していない子どもたちにとっては上出来であるのです。懸命に勉強しているふりさえしていれば、学校の先生や塾の先生の教え方が悪いという言い訳もすることが出来ます。そのようにして、ただノートに写経のように写すけれども何も頭に入らない、という勉強の仕方を身につけるようになります。これは一見外側から見ればノートに向かってペンを動かしていて、かつ落書きもしていないので、外部の監視の目を完全にすり抜けることになります!しかし、本人は頭を使っていないし、そもそも勉強というものを監視されずにやったことがないので、結局このやり方が勉強だと思ってしまい、自分でその高度な勉強しているふりを抜け出したくても、抜け出し方がわからない、という悲惨なことになってしまいます。しかし、このように「勉強しても成績が上がらない」という悲しい悩みを抱えている子供というのは、その責任はたいてい親や教師が「監視」しかしてこなかった、ということによってそのようになってきてしまったのだと思います。勉強をさせたいのであれば、勉強することの意味をどんなに迂遠であろうとも説き続けなければならないし、わかるまで繰り返し話していかねばなりません。もちろん、それを子どもたちがすぐにわかることは難しいとしても、意味がわからないままに監視によってそれを強制させることは、やはり無理であるのです。

一つのある目的にそっているかどうかだけには極めて敏感に即座に反応するものの、そのような基準に照らし合わせようのない他のものについては黙殺する、というこの監視のやり方(小学校の宿題で出されるアサガオの観察日記などは、そういう意味ではアサガオの伸長のみを期待してはそれ以外の可能性を排除しているという点で「監視日記」であるがゆえに、なかなかやる気がおきないのではないかと僕は思います)は、もちろん、必要な時と場合もあります。先ほど書いたように、乳幼児のnurseryにおいては、必要であることは間違いが無いでしょう。その他でも予想される緊急事態が極めて選択肢が限られた可能性しかないものの、しかしそれが起きるととても困る、という状況においてはそれは有用な姿勢です。ただ、その「見る」対象が人間のように、時期によって必要なアプローチが変化していく場合にはそのようなアプローチをいつまで続けるべきか、逆にいつから「観察」アプローチにしていくか、というのは極めて難しいものであるのです。しかし、この難しさを多くの人が理解できていないことが教育において失敗が起こりやすい原因なのではないか、と考えています。

一方で「観察する」という意味の「見る」こと、というのは基本的に無責任です。それをするときは対象を何とかしよう、と思っていてはなりません。なぜなら「こうでなければならない」「こうあってはならない」という思い込みは、先入観や偏見を生み出す以上、観察の邪魔にしかならないからです。観察という行為の目的は基本的には瞬時の変化に注目するのではなく、その時点までの来歴や文脈の上でその変化を位置づけることになります。たとえば、「監視」においては「好ましくない」(とされる)変化が出てきた時でも、「観察」はそれをすぐに矯正しようとするのではなく、それを泳がせ、黙認し、その上でなぜそのような「好ましくない」行動を取ろうとするのかを考えます。観察はよく言えば、知的好奇心に富んだ、悪く言えば結果に対して責任を取るつもりのない行為であると言えるでしょう。しかし、学習に自ら子どもたちが取り組んでいく必要がある以上、外側からの監視ではなく、このように観察して彼ら彼女らの動機を理解しては、彼ら彼女らが勉強に取り組む意味を自分で理解してもらえるように説明していくためには、観察という行為は必要なものであるのだと思います。

ここまでに書いてきたように一人の人間には、その発達段階に応じて監視と観察の両方が必要なわけですが、日本の子供に対する教育がどうしても親や教師からの監視という側面が強すぎて、かえってうまくいかなくなってしまうのは、ある意味では日本人の男性が子育ての責任を妻であるお母さんに押し付けているから、という原因もあるように思います。お母さんが責任感をもって子供をまともにしようとすれば、それは乳幼児期のnursery(そしてそれはほぼ全面的にお母さんに押し付けられています)からの連想で、当然子供を監視せざるを得なくなります。一方で、父親というのは基本的に無責任なものです。その無責任さを我々男性は猛省しなければならないこともありますが、一方でその無責任さゆえに監視ではなく観察ができるところも多々あるわけです。日本での教育がどうしても観察よりは監視を重視してはうまくいかなくなってしまう、という失敗をお母さん方のせいにするのは簡単ですが、それだけではなくそもそも父親が仕事にかまけては子育てに対して無関心であることが母親をそのような姿勢へと追い詰めている、ということもあるのではないでしょうか。
ともあれ、このような監視だけの教育から逃れるために、特に先に上げたような「勉強をしているふり」サボタージュは結局テストや入試の結果でバレてしまう以上、子供の取りうる最終的に効果的な策は家庭内暴力、あるいは家出にならざるをえません。つまり親の強制力を排除しようという暴力的な手段に訴えなければならなくなってしまう、ということです。このような悲劇に陥らないためにも、監視ではなく観察が必要であることを親御さんはもちろんとして、教育に携わるすべての大人が肝に銘じなければならないと思います。(注1)

一方でこの監視と観察の違いを理解する必要がある、というのは、教育だけの問題ではないと思います。たとえば最近、「保育園落ちた。日本死ね!」という匿名のブログが話題となり、それが国会でも取り上げられ、再び保育園の待機児童問題がクローズアップされているわけですが、これに関して病児保育だけでなく待機児童の問題にも取り組んでこられたフローレンスの駒崎弘樹さんが「長年審議会で訴えても、全然広がらなかった問題が一つの匿名ブログで広がるのには、結果は良いとしても忸怩たる思いがある」ということをおっしゃっていたそうですが、「社会起業家が権力に擦り寄っても結局はアリバイ作りに利用されるだけで本気で主張を聞いてもらえない」などと穿った見方をしないとしても((注2))、あの匿名ブログがなぜ駒崎さんの日々の懸命の努力よりも影響力が大きかったのかといえば、それは日本全体に対する敵意であったからだと思います。一般にグローバリゼーションに対抗して警察権、徴税権という監視機能を高めていく国家(注3)において、観察機能は衰えていきます。だからこそ、観察のアンテナにはひっかからないものが監視のアンテナには引っかかりやすくなります。つまり、あの匿名ブログがなぜ広まったかといえば、まさに(趣旨に賛同するものであってもその表現には眉をひそめる人も多い)「日本、死ね!」という部分がテロリズム的であったからであるのです。もちろん、実際には「保育園に落ちた」という理由からテロが発生することはおそらく無いでしょう。しかし、あの物言いがテロリズム的な論理を内在していたからこそ、それは警察国家化が強まる日本においては監視のアンテナに引っかかり、無視できないものとして捉えられたといえるのではないでしょうか。保育政策に無関心な人々にとって保育園の待機児童問題は無視をしていればよい問題です。しかし、その無視が敵意として保育園に困っていない人にも向くとしたら、それは無視するわけにはいきません。これはまさに抗議の手段としてのテロリズムが、どんどんとエスカレートしていく構造と同じであると言えるのではないでしょうか。

そして、これこそが不幸な悪循環です。駒崎さんの粘り強い異議申し立てに対してよりもテロリズム(的な言動)に対して敏感に反応する、ということはさらに、より過激なテロリズムを誘発することになります。ただ、問題にすべきはその表現手段のどぎつさではなく、そもそもそのような「テロリズム」でなければ自分たちの主張を聞いてもらえない、という絶望感が蔓延していることこそが問題であるのです。それは、監視を続けられてきた子供が悲鳴のように手を染めてしまう家庭内暴力と同じものであり、子供に責任があるのではありません。そしてそれは、政治や行政が、観察よりも監視を重視する傾向にあることの帰結であるのだと思います。(もちろん、江戸時代の五人組や戦時中の町内会のような相互監視体制こそが最も効率の良い「テロを防ぐ道」です。しかし、そのような(戦時中の特高警察への密告が横行するような)社会はテロがなくなったとして、果たして私達が目指していた社会であるといえるのかは疑問です。)

政治が監視よりも観察を重視するようになるためには、やはり政権交代が絶えず起こるという緊張感があることが大切なのではないかと思っています。民主党政権が様々な下らない失敗をしたとしても、死票が多く国民の意見が正確には反映されにくいこの小選挙区制の中で唯一の利点が政権交代の可能性が高いことであるはずなのですから、政権交代をしていかねばなりません。民主党政権時には自民党が、自民党政権時には民主党が政権交代を絶えず窺(うかが)おうとすれば、丹念な観察からの新しい政策争点の形成ができるはずです。そして、これはまた責任のある与党ではなく、「無責任な」野党だからこそできる観察なのではないかと思います。

翻って嚮心塾では、監視よりも観察をどこまでも徹底していく場として、もっともっとその力を上げていきたいと思います。お子さんの監視はしませんが、観察は致します。その上で、彼ら彼女らの必然性を阻害しないように、しかしそれが社会の要求するneedsに対応する必要や意味を彼ら彼女らにも理解してもらっていこうと説明を尽くしていきたいと思います。こんな小さな場でそのような気の遠くなる努力をどんなに続けようとも、全体の流れを変えることは出来ません。しかし、監視によっては解決などしないのだ、ということを実践していくことは、ルターのいう「明日世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える。」につながるのではないかと思っております(うーん。多くの予備校や塾が生徒獲得のために広告をバンバン投下しているこの時期に、こんな集客の足を引っ張るような長文を書いていてよいのでしょうか。今年の卒塾生のみなさーん!早く合格体験記を書いてくれないと、こんな訳の分からない長文がずっとトップに居座ってしまうので、塾が潰れますよ!急いで助けてください!)。


(注1)これは素人の浅知恵を書き散らすこのブログでも、本当に僕自身が勉強していないところなので恥を忍んで書くのですが、たとえば統合失調症の症状として被害妄想、特に誰かあるいは複数に監視されているという妄想が典型的である、ということはこの人格形成上での監視と観察の違いとそれぞれの限界とかなり密接なつながりがあるのではないか、と勝手ながら考えています(もちろん、統合失調症の発症機序は全くよくわからないらしいですし、遺伝的要因ではない社会心理的要因に関してはそれこそ様々な根拠の無い説が多いのでしょうから、そこに付け加えることになってしまうとは思うのですが)。すなわち幼少期に自身が親や教師から観察をされていない、ということへの飢餓感が「見られたい」という欲求を強くもつ一方で、自分の側から「見られる」という行為として想像しうるものは「観察」ではなく「監視」でしかありえないために(なぜなら自己を観察する他人の内面を想像することは人間にとって多重人格の形成以上の想像力が必要であるからこそ不可能であるために、「見られる」=「監視される」しかその主体にとってはイメージがつかないために)そのような「監視されている」という妄想を抱きがちになるのではないかな、と勝手ながら考えています。もちろんこれは検証のしようのないことではあるので、たとえば幼少期の親の子育ての厳格さと統合失調症の発症との相関関係を調べるなどすれば、論文のネタにはなるかもしれませんが(既にそのような論文があったらご教示いただけたらうれしいです!)、本当のところはいつまでたってもわからないものです。ただ、一つ言えるのは被害妄想の典型として「監視されている」という妄想が出やすいというのは、それだけ我々は他人の視線に左右されやすい非常に敏感な生き物であるということであり、だからこそ先に上げた監視と観察の違いについても意識的であるべきだと僕は思います。


(注2)もちろん、このような穿った見方もとても大切です。一般に社会起業というのが「行政サービスの先駆的代替」である以上、そのようなsingle issue の取り組みは他の政治的意図に利用されやすいと言えます。たとえば社会保障の充実に極めて熱心であったナチスドイツのように。それとは別に、そもそも社会的企業が行政サービスの先駆的代替である以上、それは内政問題の改善であって、外交あるいは国際社会上の問題については自国の存在や安定を前提とせざるを得ない以上、対外政策については国益の保護という主張に与し易いという弱点があるということも言えるでしょう(第一世界大戦の際の第二インターナショナルの分裂などはわかりやすい事例ですよね。あれは一応インターナショナルだったはずなのですが、現在の社会起業と同じ問題点を抱えていると思います。それはまたハロルド・ラスキやシュトゥルムタールが指摘したことでもあります)。そのことは社会起業家自身が自覚しなければならない課題であることはまた事実です。「社会」の改良、という目的自体が国家と社会の緊張関係に無自覚に追求されるのであれば、それは暴力をも生み出してしまうことにもなるでしょう。

(注3)グローバリゼーションが進む中で、国家機能が比較的強固である先進国政府にとってそのグローバリゼーションとの戦いは端的に徴税権と警察権の強化という形を取るのではないかと思っています。すなわち、資本の租税回避のための自国企業の多国籍企業化に対抗して課税をしていくための徴税権の強化と国家間の戦争ということが先進国同士では現実的ではなくなった(それは理想的な戦争の消滅ではなく、どこまで行っても先進国と途上国との力関係は覆しようがなくなったために、帝国主義的な「下克上」政策がとりにくくなったことにより)すべての戦争は大国からの分離/独立を求める内戦か、あるいは軍事的には勝利し得ない先進国に対して民間人を標的にするテロリズムかのどちらかの形を取らざるを得なくなります。その結果として先進国はそれに対抗するために警察権を強化していきます。そのように徴税権・警察権の強化による管理社会というのはある意味でグローバリゼーションによってその存在意義を根底から問われている先進国国家の最後のあがきである、とも言えるでしょう。しかし、そのあがきの中で個々人は徹底的に管理を強化される方向へと否応なしに進んでいくことになってしまいます。たとえば昨年のパリでの大規模なテロが示したように、あるいはまさに起きたばかりのベルギーでのテロが示しているように、多様性をもつ国民というのは国家が監視をする際には極めて邪魔なものです。しかし、このような多様性への抑圧と徴税権・警察権の強化という国境を以前よりも屹立させようとする取り組みは、結果として内戦が続き悲惨な状態の続くシリアと平穏な先進国との「位置エネルギーの差」がある以上は決してテロリズムを引き起こす運動エネルギーの妨げになるものではありません。それゆえに、警察権の強化による「テロリズムとの戦い」は、その「位置エネルギーの差」(としてのシリアで起きている悲惨さ)と何とか取り組んでいかなければ、どのように、それこそ我々のすべての自由を放棄してもなお、それによっては決してテロを防ぐことが出来ないという敗北へと収束していってしまうものではないかと僕は考えています。

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理不尽さから学ぶということ。

今年、塾で四浪していた受験生が国立大の医学部に合格しました!多浪したあとに嚮心塾に来る、あるいは再受験のためにという形で塾に通ってくれる医学部受験生はこれまでも数多くいたのですが、その子は現役生の頃から塾に通ってくれており、かつここまで結果が出せずにいたのにも関わらず塾を見捨てずに通い続けてくれ、そして本当に悔しい結果が続く中でも腐らずに人一倍誰よりも努力してきた受験生であるので、本当に塾を開いてから一番と言えるくらい嬉しい合格でした!他の塾生たちもあまりにも悔しい不合格にもめげずに頑張り続ける彼の姿勢を目の当たりにして、自分の努力の足りなさ、考えの甘さを反省させられては努力の仕方を覚えていくという子たちばかりだったので、彼の合格の知らせには皆が飛び上がったり泣いたりするほどでした。本当に素晴らしかったです。

その努力家で温厚な彼が今年の受験生生活の中で一番声を荒げて憤慨していたのは、試し受験で受けた早稲田の先進理工学部の入試を受けた次の日でした。(物理もかなり難しかったですが)生物の問題はあまりにも難しく、かつ考察問題ばかりで時間が足りるわけもなく、生物が非常に得意な(名大オープンでは二回とも全国2番でした!)彼にとっても3割も取れないような入試でした。「生物受験者を取る気がないのか!」「こんなひどいのは、初めてです!」と珍しく憤慨する温厚な彼に、試験問題を見て僕ももちろん同意したのですが、その上で次のように言いました。

「確かにこの問題はひどい。率直に言って入試で出したら担当者を入試担当から外すべきレベルだと思う。しかし、だったらその試験時間を化学に充てて(比較的解きやすかった)化学の点数をもっと伸ばすことができたはず。つまり、(両方ともできますが生物がより得意である彼の)『得意な生物の点数はしっかり取らなきゃ!』という思い込みに妨げられて、このような理不尽な問題に対してベストパフォーマンスを出せなかったことが、国立入試に向けての反省材料じゃないかな。逆にいえば、それをこの早稲田の理工の入試は教えてくれたと考えれば、理不尽な難易度だとしてもそんなに腹も立たないのではないか。」というようにです。
それに対して彼は、なるほどと深くうなずき、そこからの国立大学に向けての練習の中で、得意な生物が難しくて困ったときに化学を解く時間を削って生物を解かないように、という練習をしっかりとしていました。

理不尽なことは人生の中でこれからも起こるでしょう。いや、人生とは理不尽さの連続であるとさえ言えるでしょう。しかし、その理不尽さに直面した時に、それを呪詛することで自分を向上させることを忘れる人間と、その理不尽さに接してなお、自分がまだまだ改善すべきことを見つけていこうとする人間とで大きく結果が変わってくるわけです。努力が報われずに何度も浪人をせざるを得ないという現実をつきつけられてなお、このような僕の厳しい「指導」に対して深く頷くことのできる彼の素晴らしい人間性を見たからこそ、彼のこの合格は、この社会にまた一つの素晴らしい魂をadaptできた、という喜びの深いものでした。

どのような理不尽さからも学ぶべきものを学ぶことはできます。それを阻害しているのはあくまで、その自らが見舞われた理不尽さを呪詛したくなる自分の弱い心、すなわち被害者意識です。しかし、私たちはどのような事態に対しても被害者であるだけでなく、加害者でもあるわけです。その加害者としての自分をどのようなときでも見つけ、そしてそこを改善できないかを苦慮する人間こそが、真に成長し続けることのできる人間であると言えるでしょう。今日はあの東日本大震災からちょうど5年ですが、私たちはあの理不尽さの極みとも言える自然の猛威による被害者であるだけでなく、たとえば避難の遅れ、津波に対する備え、原発事故の加害者でもあるわけです。それはもちろん被災地に住む人だけではありません。すべての日本人がたとえばあのようなずさんな原子力発電所の津波対策を、その原子力発電所の恩恵を享受することを通じては許してきたという意味で、あるいはたった5年経てば「経済のためには再稼働もやむをえない」「世界で一番厳しい安全規制です」などと平気で言えてしまう、あるいはそれを黙認してしまうという意味で、加害者でもあるわけです。それらの言明が正しいか正しくないかは別として、少なくとも理不尽さに直面してなお、自分の改善点を必死に探す彼のような受験生の態度とは対極にある、「まあ何とかなるんじゃない?」と楽観視するだらしない態度であることは間違いのないことであると思います。

理不尽な事態に対してと同様に、素晴らしい人間は、どんなにダメな人間からも学ぶところを見つけ、学ぶことが出来ます。それとは逆に、ダメな人間ほどに自分が他の人から学ぶべきことがたくさんあるとしても「でも、あいつのこういうところはダメだから。」と難癖をつけては、自分にはない彼や彼女の長所を学び取ろうという努力を怠ります。ある意味で自分のダメなところを克服し少しでも「良い先生」になろうとする教師の努力は、そのように他の人の欠点を見つけては難癖をつけることでさぼることを覚えてしまった生徒たちに逃げ場をなくすための努力でしかありません。それは教育の導入としては必要なことではあるのですが、そのような教師に接して初めて努力をする人間など、他の教師になった途端に当然サボることが目に見えている以上、それだけでは全く教育としては不十分であるのです。むしろ教育の出口としては、教師がどんなにダメであっても生徒たちはそのような教師からもしっかりと学ぶべきところは学び、見習うべきではないところは反面教師として教訓を得る、という姿勢を生徒自身が身につけていけるように取り計らっていくことであると思います。この後者の点に関しては、教育に携わる人々は教師もそれ以外も含め、かなり意識が低いところではないかと僕は思っています。つまり、まだ理想を失っていない先生方も「良い先生になる」という個人的な目標にすぎないものが教育の効果についても最大の成果を上げる、と信じがちであるけれども、実際はそうでもないことも多いということです。一人一人の人生をふりかえってみても、「あの教師みたいな人間にはなりたくない。」「あの先輩みたいにはなりたくない。」という反面教師のほうが、子供心にmotivateする力が強いことって結構ありますよね。もちろん、「良い先生」になるための努力をしたくないがために「自ら学び取る生徒の自主性を育てているのだ!」という振りをしては怠惰を決め込んでいるのも、同様にダメな教師であることもまた事実です。圧政に耐えては自由を求めることがその国の民主主義を鍛えるとしてもそれは圧政自体が正当化されるわけではないからです。教師はその子にとって今何が必要かを絶えず感知しては、そのどちらの役割をもflexibleに担えるようになっていかねばならないと思います。

alpha goに苦しい勝負を強いられている囲碁界のスーパースター、天才の中の天才でありながら、幼少期からすべてを囲碁に捧げてきたものの、その囲碁においてdeep learningの前に屈せざるを得ないというイ・セドルさんの感じるその理不尽さもまた、その理不尽さからイ・セドルさんが何を学ぼうとするかによって意味のあるものになるのだと思います。それは文字通り岡目八目で好き勝手なことを言う我々よりも、はるかに深い意味をもつはずです。何かに真剣に打ち込んだ末にそれが理不尽なものによって蹂躙されてなお、そこから何らかの意味を汲んでは再び努力をするためにこそ、我々は努力すべきなのです。誤解を恐れずに言えば、理不尽さと直面するためにこそ、私たちは努力すべきであるのです。「人物を入試で見る」などという下らない話が主流になりつつありますが、何かの技術や知識の習得に徹底的に打ち込み、打ち込んでもなお様々な要因から来る理不尽さに打ちのめされ、そこで打ちのめされてなお、その理不尽さの意味を考え自分がもっと改善すべきところを見つけていくというそのプロセスを経て初めて「人格」や「人物」がそこに立ち上がってくる、などという当たり前のことは、別にマックス・ウェーバーの『職業としての政治』の「Zache(事物)への専念を通じて個性が立ち上がる」などという言葉を借りなくても、私達が普段スポーツ選手や芸術家、プロ棋士、あるいは職人の方々の高い精神性を見るたびに思い知らされるものではないでしょうか。

人間は生まれながらに死ぬことが運命づけられています。他の動物はどうかはわかりませんが、少なくとも人間は自らの死が存在することを自覚できる以上、どのような努力もいずれ「死」という理不尽さによって奪われるということを知った上で我々はどう生きるかを考えていかねばなりません。その意味では、理不尽さからもまた何かを学ぼうとする姿勢、というのは実はソクラテスが「哲学は死ぬための準備である。」というときの「哲学」と同じものであるのかな、と僕は思っています。

そのような姿勢を受験勉強の最後の最後まで貫いた彼には、大学に入ってからも是非その姿勢で努力を続けて欲しいですし、もちろん僕もその姿勢を最期まで貫き通していけるように頑張りたいと思っています。

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2016年度入試結果(3月9日現在)

            2016年度入試結果(3月9日現在)

<大学入試・国公立大学>
熊本大学医学部医学科        1名(進学先・第一志望)
東京農工大学農学部応用生物学科   1名(進学先・第一志望)

<大学入試・私立大学>
東京医科大学医学部         1名(進学先)
日本大学医学部           1名 
早稲田大学政経学部         1名
明治大学農学部           2名(うち1名進学先)
学習院大学経済学部         1名(進学先)
法政大学法学部           1名(進学先)
法政大学理工学部          1名(進学先)
東京薬科大学薬学部         1名(進学先)
東京農大農学部           1名
<高卒認定試験>
全教科合格             1名
<高校入試>
都立富士高             1名(進学先・第一志望)
宝仙学園理数インター        1名(進学先)
錦城高               1名(進学先・第一志望)
桜美林高              1名(進学先)
堀越高               1名(進学先)


大学受験生15名(うち国公立受験者5名)、高認受験生1名、高校受験生5名、中学受験生1名での結果です。どの受験生のどの結果についても、彼ら彼女らが必死に頑張った結果であり、その結果を誇りに思っております。
                                             嚮心塾 

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