嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

愛は惜しみなく掘り崩す。

ブログを書くのが久しぶりになってしまいました。受験生の合格体験記を待つこの季節は、どうしても新年度のドタバタと相まって間隔が空きがちになってしまいます。これからは気をつけて、短いものでも定期的に書いていきたいと思います。

この仕事をしていて常々思うのは、「生徒に尊敬をされる教師は良い教師である。」というのは嘘であるということです。むしろ教師というのは反発を受け、時には憎まれるくらいでなければなりません。なぜなら子どもたちにとって必要なものを彼らが本当に欲している場合というのは極めてまれであるからです。彼らにとって(その狭い価値観から)自分が必要とは感じていないものを、しかしそれが必要だと口を酸っぱくして言い聞かせてはそれをどのように理解してもらえるかを手を変え品を変え、試行錯誤をしていくことが教師に求められる役割です。そのような取り組みに邁進する教師は、子どもたちにとっては、理解の出来ないものをおしつけてくる嫌な大人としてしか見えないでしょう。もちろん、そこで彼らが現在必要とは感じていないものがどうして必要であるのかを理解してもらうために最大限の努力を費やさないのは教師としてはダメなのですが、とはいえ様々なタイムリミットがある中で、理解のための努力だけを行い続けては結果として受験その他に間に合わなくなって改善できなくなってしまうこともやはり教育の失敗です。だからこそ、その理由を説明しきれずに取り組んでもらうようにせざるを得ないことも多々あります。

一方で、「生徒に憎まれている教師はすべて良い教師である」というわけではないこともまた当たり前のことです。そもそも生徒との間に信頼関係や尊敬がある程度なければ、そのような浅い関係性しか結んでいない大人の言うことを子どもたちが聞くわけがありません。そのような信頼関係を得ようとすることなく自分の主張だけを繰り返す教師や大人というのは、そもそも子どもたちにその内容をわかってもらおうと本気で目指しているのではなく、「自分は保護者・監督者として最低限の義務は果たしている。」という自己満足や責任回避のためという動機から、そのように行動していることが多いのではないでしょうか。そのような姿勢をとる教師から生徒が何かを学び取ることがないとは言いませんが、それはあくまでも生徒側の力量によるものであり、大半の生徒にとってはそのような教師から学ぶことは難しいのだと思います。

つまり、「ずっと生徒に尊敬されている教師」は生徒の歓心を得ながらも、それを何に用いるかを考えていないという点で怠惰であり、「ずっと生徒に憎まれている教師」はそもそも「自分は話すべきことを話している」という自己満足に陥ってはそれが相手に伝わっていない現実から目をそらしている点で怠惰であるということになります。だからこそ、理想の教師は「生徒との間に信頼関係を築きながらも、その信頼関係を築いたり尊敬を受けたりということを目的にはせずに、そこでできた信頼関係を資本として掘り崩しては(生徒のために必要だがしかし彼ら彼女らが受け入れたくないと思っている)彼らの改善点を指摘し、修正していく教師」ということになります。

これは嫌ですよね。日々そのように自分に肝に銘じてやっているつもりですが、このように書き起こすと改めてしんどくなります。端的に言えば、「嫌われるために、愛される」ことを目的としなければならないというのが何よりも辛いことです。人間はずっと愛されることが辛くないのはもちろんとして、ずっと嫌われていることも楽なのです。ある意味、そこに期待をしなくて済むからです。あるいは誰かにずっと嫌われている人も、また別の誰かからはずっと愛されていたりするわけで、そこで精神のバランスを保つことが出来るでしょう(先に挙げた自己満足のような言葉しか離さない教師も家庭に戻れば良きパパやママとして愛されているのでしょう)。しかし、「いずれ嫌われるために、愛される」という目的をもって一人一人の子どもたちと接するのは、例えて言うなら「失恋をするために恋をする」ようなものです(どんな人でも、失恋をした瞬間は「こんなしんどい思いをするなら、もう2度と恋なんてしない!」と思った経験があると思います。良い教師とは、それを意図的に一人一人に対してやっていかねばならない、ということであるのです)。

そんなにしんどい思いをしてまで、なぜそれをやっていかねばならないのか。それは教師から見える、生徒の認識の限界を押し広げていくことが結局その生徒にとって必要なことであるからです。その認識の狭さを肯定することからしか良好な関係は作れないでしょうし、むしろその認識の狭さを疑いたくないと思っている状態というのは、自己肯定感が極めて少ないからこそそのように「バリア」を張っては、これ以上自分のidentityを掘り崩したくないと心が傷ついている状態なのかもしれません。しかし、それを一時的に外側から肯定することと、いつまでもそれを肯定し続けることは意味が違います。そのような認識の限界が、彼や彼女自身の能力や世界の限界をいずれ作っては、その狭い世界の中で生きては浅はかに絶望したり希望を抱いたり、という悲劇をうむことに対して、教師はそれを永遠には肯定してはならないのです。

有島武郎の『愛は惜しみなく奪う』を借りれば、「愛は惜しみなく掘り崩す。」とでも言えるのでしょうか。
「愛を」ではないところが、とても重要だと僕は思っていて、相手との愛を掘り崩す動機もまた相手への愛である以上、これ以上正確な「愛」の定義は僕には今のところ思いつけていないと思っています。

もちろん、僕は生徒を教える立場として生徒や卒業生に対してだけではなく、このような姿勢を子どもたちや奥さん、数少ない友人達に対しても、しんどいですが徹底していきたいと思っています。それが僕の、死ぬために生まれたことの意味であると思っているからです。今日も、受容され愛されていることを伝えるべき内容の伝達へと緩みなく資することができているかどうか、疎まれ憎まれていることが伝えるべき内容の伝達を阻害していないかどうかを、絶えず一人一人に対して考えぬいていきながら教えていきたいと思います。

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2016年度合格体験記(その3)

東京医科大学医学部医学科合格(進学先)O・S君(海城高3)
日本大学医学部医学科合格

この塾には高一の冬に入った。高三になり他の受験生とも話したり、先生と話す機会が多くなった。「家が貧しいため、バイトで塾代を稼いで塾に来る」浪人生や現役生の話を聞いたとき、衝撃的だった。自分や学校の友人は「勉強の妨げになるからバイトはしない」、塾の友人は「塾に通うためにバイトする」。それまで、勉強できる自分の環境を恵まれているとは思っていなかった。小学生の頃から塾に通っていて、中高でも塾に通いたいと言えば通うことができた。その環境が自分には当たり前だった。テレビや新聞で「勉強できるのは幸せ」と聞いたことはある。しかし、中高の周りの環境ではそういう考えを持った人はいなかったので、本当に実感してはいなかった。この塾で「勉強したくても出来ない」友人と席を並べることで、自分がどれだけ恵まれているのかを実感することが出来た。
 この塾には様々な人がいる。進学校に通い大学受験をする人や、塾に通うためのバイトをしながらの人もいれば、浪人生なのに遊び呆け勉強をしない人もいる。また中学受験をする小学生もいるし、学校の勉強に付いていくために塾に来ている人もいる。そういう人達と同じ場所で席を並べ勉強することで、自分は、自分の環境が恵まれていることや、大手予備校に通っていたら知り合えなかった人の環境を身にしみて感じることができた。自分とは全く違う生活を送ってきた友人達と大学受験を目標に勉強できた事は本当に良かった。
 最後に、根気良く教えてくれたチューターの方々・勉強はもちろん他の様々な事を教えてくれ、体験記を辛抱強く待ってくれた柳原先生・塾を見つけてくれた父・受験生時代に献身的なサポートをしてくれた母、ありがとうございました。合格できたのはみなさんのお陰です。大学では、高校時代のような怠惰な生活を送るのではなく、勉学に励んでいきます。

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見えないものを、見よう。

 教育というのは成果が極めて見えにくいからこそ、そのプロセスや成果の「見える」化をしていきたいという誘惑に駆られるものです。特に子供の教育に身銭を切っておられる保護者の方々はそのように思うのも当然です。しかし、「「見える」化をしたい」という思いが強いゆえに、見える部分さえしっかりしていればそれで納得をしてしまうという失敗にも陥りがちです。それがよくある個別指導塾のように授業時間の中で家庭への指導報告書の作成に血道を上げては、目の前の生徒を放っておく、という悲惨な事態につながっているのだと思います。詳細な指導報告書を求めれば求めるほどに、その分指導については手抜きをするしかありません。個別指導塾で我が子への指導を手抜きにしてしまっているのは、実は詳細な指導報告書で安心をしたいという親御さんの願望であるのでしょう。

 一方で受験生本人にとっても、勉強の成果というのは見えにくいものです。勉強というのはまずモチベーションが変わり、次に取り組む時間の長さが変わり、そして取り組む時間の質が変わり、最後に勉強の成果が成績となって出てくるものです。しかし、勉強に今まで真剣に取り組むことをしていなかった子ほどに、2段階目の時間を増やしたくらいでそれでも成果が出ないことを「こんなにやっているのに、成績が上がらない」と不満を訴えては「塾が悪い」「教師が悪い」と他に責任転嫁をするか、あるいはそもそも勉強へと長い時間を費やすことを放棄してしまいがちです。しかし、長い時間をやっては成果が出ないのならば、自分の勉強の仕方がまずいのです。書き写すだけの手の運動やふむふむと読んで理解している気になっているだけの「作業」を「勉強」と自分勝手に定義していないかどうか、という検証が隅々にまで必要になっていきます。「量」をこなしてみなければ自分の勉強の「質」が低いことに気づくことができない以上(なぜなら勉強の質はあくまで勉強量に対して測られるるものであるからです)、「最初に勉強のやり方を教えてほしい!そうしたら質が担保されたら、あとは量は頑張るから!」というよくなされる功利主義的なリクエストは、実はあまり効果が低いのです。「こんなに勉強しているのに、力がつかない!」という悩みをまずは本人が抱えていなければ、どのような優秀な勉強方法もその有り難みが本人にはわからないからです。

 だからこそ、受験生本人にとって必要なのは、目に見えやすい「勉強時間」や「模試の成績」だけで満足したり悲観したりするのではなく自分の勉強を判断するだけではなく、自分が勉強に取り組む時間の中でどこをどう改善していくべきかを目を皿のようにして探す、「見えないものを見ようとする」力であると言えるでしょう。もちろん、それがどうしても自分では見えにくいところまでは人事を尽くした、あるいは2つの矛盾するが共に必要な改善法に対して今の時期はどちらを優先して取り組むべきかわからない、ということに対して受験の全体像を知る教師が的確なアドバイスをしていくことが大切です。しかし、教師にとって何よりも大切なのは、そのように見えないものを見ようとしては自分の改善点を探していく姿勢を、生徒達に伝えていくこと、すなわち生徒一人一人が誰よりも自分の勉強を厳しくチェックする主体であるような姿勢を伝えていくことであると考えております。

 そのような自己研鑚の場としての嚮心塾に是非参加していただけたら嬉しいと考えております。見学や体験入塾は随時受け付けております。まずはこの塾の空気だけでも、味わいに来ていただけたらとても嬉しいです。

                   2016年3月15日 嚮心塾塾長 柳原浩紀

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2016年度合格体験記(その2)

東京農工大学農学部応用生物学科 合格(進学先) 早稲田大学政経学部(セ利用)合格 明治大学農学部合格                  K・Kさん(都立立川高卒) 私は卒塾生である兄に勧められて嚮心塾に入りました。 現役時、勉強不足により第一志望の大学に落ちた私は、入塾当初かなり低いモチベーションで勉強していました。しかし、嚮心塾で毎日長時間勉強していくうちに徐々にモチベーションが上がり、受験当日までコンスタントに勉強を続けることができました。というのは、合格に向けて、自分以上に一生懸命勉強している仲間が常に近くにいたからです。また、どんな悩みも聞いてくれ、どんな質問にも答えてしまう(いろいろな意味で)ドラえもんのような先生の存在も非常に大きなものでした。 嚮心塾の良いところは、何よりもその学習環境にあると思います。私は勉強、特に受験勉強で一番大切なのは勉強に対するモチベーションだと思っています。嚮心塾にはそのモチベーションを保てる環境がありました。 最後に、浪人生活をそこそこ楽しく過ごせたのは紛れもなく嚮心塾のおかげです。ありがとうございました。

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2016年度合格体験記(その1)

法政大学理工学部合格(進学先)
日本大学理工学部合格                                      H・M君

自分は3年間引きこもっていました。同じ年の学生が高3になる頃からこの塾に通い始め、1浪して無事合格しました。
引きこもりをやめようと思ったきっかけは生活に息苦しさを感じたこと、親類に学校を辞めたことについて「まあ、いいよ。」と言ってもらったことです。
鬱病の人に頑張るよう言うのは良くないという話はよく聞きますよね。
当時自殺も考えていたので、今思えば自分もそうだったのかなと思います。
頑張らないように言って頑張らなくなるかもしれないから、難しい話ですが。
こうして考えていると鬱病の人は頭の中で凄く頑張っているのだと思います。

引きこもりをやめるとなると、まず大学を目指すことにしました。
大学受験には高校卒業資格が必要です。資格を取るには通信制の学校に数年通うか高卒認定試験で合格するかです。自分はこの塾に通い高卒認定試験を受けました。通信制の場合、取得に時間がかかるので。あまり考えずにその選択をしましたが今では非常に良かったと思っています。

大学受験に関して思うことはモチベーションを保つのが難しいということです。自分は目指すものが無いですし、友人も居ないですから。だからお金のため、自分のため、家族のため、充実感のため、いろいろな理由を考えて途切れるやる気を繋げていました。
そんなあまりやる気の無い自分ですが、意外に合格したことが嬉しかったです。
こういう気持ちが生きる気力になるのかなと思い、絶対に忘れないようにしていきます。

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監視と観察の違いについて

今年はビリギャルが(一人一冊として)4,5冊書けるくらいのドラマティックな合格が多かったので、素晴らしい合格体験記の数々を期待していたのですが、実はまだ誰一人書いてくれていません。。悲しいので皆さんにはご迷惑でしょうが、合格体験記が届くまでに僕が長い記事を書いて、その悲しみと間を埋めていこうと思います。

塾のパンフレットでは、「見えないものを、見よう。」と書いたのですが、今回はその「見る」ということについて、一般に流布している勘違いが多いように思うため、それについて書きたいと思います。「あの先生は生徒のことをよく見ている。」「あの先生は生徒のことをしっかり見ていない。」ということは親御さんの間でもよく話されることではあると思うのですが、そこでの「見る」という言葉の意味は対面してまさに会話している親御さん同士であっても、おそらく定義が違うのではないかと僕は思っています。

一般に「子供が良いことをしているかどうか、あるいは良くないことをしていないかどうかを監視する」するという意味の「見る」と「子供が何をしているか、それにはどのような意味があるかを観察する」という意味の「見る」があるとすると、どうしても前者の「見る」を親御さんは教師に求めがちになります。「うちの子がサボっていないかどうか、ちゃんと見てほしい!」というリクエストがなされるときの「見る」は監視という意味になります。そして、これは実は当たり前であり、例えば生まれたばかりの幼児がなにか危険な目に遭わないかどうかを(特にお母さん方は)必死に気をつけて育ててきたわけですから、そのようなnurseryの時期が過ぎたとしても、子供に対しての配慮といえば(言葉は悪いですが)「監視」をして、何か危険なことやいけないことをしていないかどうかをチェックしようとするわけです。
そして、その同じ「子供を監視する」という役割を学校の教師や塾の教師へと果たしてもらおうと要求します。これはもちろん、危ない目に遭わないようにする、という意味では乳児や幼児のときほどでなくても、必要な配慮であると言えるでしょう。

しかし、一方で、educationというのは、「ちゃんとやっているかどうか、サボっていないかどうか」を「見る」(すなわち監視する)こととは実は矛盾するものです。なぜなら、「監視する」という行為自体はそもそもその監視の基準となる価値観を疑わないことで初めてできるものである以上、監視をしているときにはある人や物の振る舞いが、ある基準に照らし合わせてみて正しいかどうかを判断すること以上の判断ができません。なぜなら、その基準に沿っているかどうかを素早く判断するためには、その基準を疑っていたり、その基準に照らしあわせて理解の出来ないものについて考えている暇はないからです。しかし、educationというものがeduce(外へと引き出す)という行為の名詞であるためには、すなわち子どもたちが自発的にしようとしていることを引き出していくためには、彼ら彼女らが何をしようとしているのか、それがどのような点では肯定されるべきであり、どのような点では改善されるべきであるかということを注意深く観察することこそが必要であり、一つの判断基準に即して判断をするだけの監視では、対応ができなくなってしまいます。「あぶないことをしないように」というnurseryにおいて、必要だった監視を自分で取り組まなければ効果の極めて低い学習へとそのまま適用すれば、「さぼっていないかどうか」を監視しては無理やり取り組ませるだけのことになります。そこでは、そもそもその学習主体がなぜサボるのか、ということについては考えもしなくなりますし、監視してとりあえず机の上で勉強に向き合わせることだけを目標とすることになってしまいます。

このように体裁だけ完璧を繕っても、人間の精神というのは様々な逃げ道を見出すものです。このように本人に内発的な動機がないままに監視されることを続けていった結果として、監視されてきた子どもたちはどのようにその監視をかいくぐっては目の前のやるべき勉強をサボるかに知恵を絞りますし、そのように自覚的ではなくても、自然にサボり方を見つけるようになります。なぜなら、親に叱られないために勉強している子どもたちにとっては、親に叱られることを防ぐための最も効率の良い手段は勉強をしているふりをすることであるからです。もちろん、そのような振りをしていても、結局は定期テストや模試、受験結果などで実際にはその勉強に意味がなかったことがバレてはしまいます。しかし、とりあえず今日叱られずに生き延びては定期試験後に叱られるまで先延ばしにできるのであれば、勉強することの意義を理解していない子どもたちにとっては上出来であるのです。懸命に勉強しているふりさえしていれば、学校の先生や塾の先生の教え方が悪いという言い訳もすることが出来ます。そのようにして、ただノートに写経のように写すけれども何も頭に入らない、という勉強の仕方を身につけるようになります。これは一見外側から見ればノートに向かってペンを動かしていて、かつ落書きもしていないので、外部の監視の目を完全にすり抜けることになります!しかし、本人は頭を使っていないし、そもそも勉強というものを監視されずにやったことがないので、結局このやり方が勉強だと思ってしまい、自分でその高度な勉強しているふりを抜け出したくても、抜け出し方がわからない、という悲惨なことになってしまいます。しかし、このように「勉強しても成績が上がらない」という悲しい悩みを抱えている子供というのは、その責任はたいてい親や教師が「監視」しかしてこなかった、ということによってそのようになってきてしまったのだと思います。勉強をさせたいのであれば、勉強することの意味をどんなに迂遠であろうとも説き続けなければならないし、わかるまで繰り返し話していかねばなりません。もちろん、それを子どもたちがすぐにわかることは難しいとしても、意味がわからないままに監視によってそれを強制させることは、やはり無理であるのです。

一つのある目的にそっているかどうかだけには極めて敏感に即座に反応するものの、そのような基準に照らし合わせようのない他のものについては黙殺する、というこの監視のやり方(小学校の宿題で出されるアサガオの観察日記などは、そういう意味ではアサガオの伸長のみを期待してはそれ以外の可能性を排除しているという点で「監視日記」であるがゆえに、なかなかやる気がおきないのではないかと僕は思います)は、もちろん、必要な時と場合もあります。先ほど書いたように、乳幼児のnurseryにおいては、必要であることは間違いが無いでしょう。その他でも予想される緊急事態が極めて選択肢が限られた可能性しかないものの、しかしそれが起きるととても困る、という状況においてはそれは有用な姿勢です。ただ、その「見る」対象が人間のように、時期によって必要なアプローチが変化していく場合にはそのようなアプローチをいつまで続けるべきか、逆にいつから「観察」アプローチにしていくか、というのは極めて難しいものであるのです。しかし、この難しさを多くの人が理解できていないことが教育において失敗が起こりやすい原因なのではないか、と考えています。

一方で「観察する」という意味の「見る」こと、というのは基本的に無責任です。それをするときは対象を何とかしよう、と思っていてはなりません。なぜなら「こうでなければならない」「こうあってはならない」という思い込みは、先入観や偏見を生み出す以上、観察の邪魔にしかならないからです。観察という行為の目的は基本的には瞬時の変化に注目するのではなく、その時点までの来歴や文脈の上でその変化を位置づけることになります。たとえば、「監視」においては「好ましくない」(とされる)変化が出てきた時でも、「観察」はそれをすぐに矯正しようとするのではなく、それを泳がせ、黙認し、その上でなぜそのような「好ましくない」行動を取ろうとするのかを考えます。観察はよく言えば、知的好奇心に富んだ、悪く言えば結果に対して責任を取るつもりのない行為であると言えるでしょう。しかし、学習に自ら子どもたちが取り組んでいく必要がある以上、外側からの監視ではなく、このように観察して彼ら彼女らの動機を理解しては、彼ら彼女らが勉強に取り組む意味を自分で理解してもらえるように説明していくためには、観察という行為は必要なものであるのだと思います。

ここまでに書いてきたように一人の人間には、その発達段階に応じて監視と観察の両方が必要なわけですが、日本の子供に対する教育がどうしても親や教師からの監視という側面が強すぎて、かえってうまくいかなくなってしまうのは、ある意味では日本人の男性が子育ての責任を妻であるお母さんに押し付けているから、という原因もあるように思います。お母さんが責任感をもって子供をまともにしようとすれば、それは乳幼児期のnursery(そしてそれはほぼ全面的にお母さんに押し付けられています)からの連想で、当然子供を監視せざるを得なくなります。一方で、父親というのは基本的に無責任なものです。その無責任さを我々男性は猛省しなければならないこともありますが、一方でその無責任さゆえに監視ではなく観察ができるところも多々あるわけです。日本での教育がどうしても観察よりは監視を重視してはうまくいかなくなってしまう、という失敗をお母さん方のせいにするのは簡単ですが、それだけではなくそもそも父親が仕事にかまけては子育てに対して無関心であることが母親をそのような姿勢へと追い詰めている、ということもあるのではないでしょうか。
ともあれ、このような監視だけの教育から逃れるために、特に先に上げたような「勉強をしているふり」サボタージュは結局テストや入試の結果でバレてしまう以上、子供の取りうる最終的に効果的な策は家庭内暴力、あるいは家出にならざるをえません。つまり親の強制力を排除しようという暴力的な手段に訴えなければならなくなってしまう、ということです。このような悲劇に陥らないためにも、監視ではなく観察が必要であることを親御さんはもちろんとして、教育に携わるすべての大人が肝に銘じなければならないと思います。(注1)

一方でこの監視と観察の違いを理解する必要がある、というのは、教育だけの問題ではないと思います。たとえば最近、「保育園落ちた。日本死ね!」という匿名のブログが話題となり、それが国会でも取り上げられ、再び保育園の待機児童問題がクローズアップされているわけですが、これに関して病児保育だけでなく待機児童の問題にも取り組んでこられたフローレンスの駒崎弘樹さんが「長年審議会で訴えても、全然広がらなかった問題が一つの匿名ブログで広がるのには、結果は良いとしても忸怩たる思いがある」ということをおっしゃっていたそうですが、「社会起業家が権力に擦り寄っても結局はアリバイ作りに利用されるだけで本気で主張を聞いてもらえない」などと穿った見方をしないとしても((注2))、あの匿名ブログがなぜ駒崎さんの日々の懸命の努力よりも影響力が大きかったのかといえば、それは日本全体に対する敵意であったからだと思います。一般にグローバリゼーションに対抗して警察権、徴税権という監視機能を高めていく国家(注3)において、観察機能は衰えていきます。だからこそ、観察のアンテナにはひっかからないものが監視のアンテナには引っかかりやすくなります。つまり、あの匿名ブログがなぜ広まったかといえば、まさに(趣旨に賛同するものであってもその表現には眉をひそめる人も多い)「日本、死ね!」という部分がテロリズム的であったからであるのです。もちろん、実際には「保育園に落ちた」という理由からテロが発生することはおそらく無いでしょう。しかし、あの物言いがテロリズム的な論理を内在していたからこそ、それは警察国家化が強まる日本においては監視のアンテナに引っかかり、無視できないものとして捉えられたといえるのではないでしょうか。保育政策に無関心な人々にとって保育園の待機児童問題は無視をしていればよい問題です。しかし、その無視が敵意として保育園に困っていない人にも向くとしたら、それは無視するわけにはいきません。これはまさに抗議の手段としてのテロリズムが、どんどんとエスカレートしていく構造と同じであると言えるのではないでしょうか。

そして、これこそが不幸な悪循環です。駒崎さんの粘り強い異議申し立てに対してよりもテロリズム(的な言動)に対して敏感に反応する、ということはさらに、より過激なテロリズムを誘発することになります。ただ、問題にすべきはその表現手段のどぎつさではなく、そもそもそのような「テロリズム」でなければ自分たちの主張を聞いてもらえない、という絶望感が蔓延していることこそが問題であるのです。それは、監視を続けられてきた子供が悲鳴のように手を染めてしまう家庭内暴力と同じものであり、子供に責任があるのではありません。そしてそれは、政治や行政が、観察よりも監視を重視する傾向にあることの帰結であるのだと思います。(もちろん、江戸時代の五人組や戦時中の町内会のような相互監視体制こそが最も効率の良い「テロを防ぐ道」です。しかし、そのような(戦時中の特高警察への密告が横行するような)社会はテロがなくなったとして、果たして私達が目指していた社会であるといえるのかは疑問です。)

政治が監視よりも観察を重視するようになるためには、やはり政権交代が絶えず起こるという緊張感があることが大切なのではないかと思っています。民主党政権が様々な下らない失敗をしたとしても、死票が多く国民の意見が正確には反映されにくいこの小選挙区制の中で唯一の利点が政権交代の可能性が高いことであるはずなのですから、政権交代をしていかねばなりません。民主党政権時には自民党が、自民党政権時には民主党が政権交代を絶えず窺(うかが)おうとすれば、丹念な観察からの新しい政策争点の形成ができるはずです。そして、これはまた責任のある与党ではなく、「無責任な」野党だからこそできる観察なのではないかと思います。

翻って嚮心塾では、監視よりも観察をどこまでも徹底していく場として、もっともっとその力を上げていきたいと思います。お子さんの監視はしませんが、観察は致します。その上で、彼ら彼女らの必然性を阻害しないように、しかしそれが社会の要求するneedsに対応する必要や意味を彼ら彼女らにも理解してもらっていこうと説明を尽くしていきたいと思います。こんな小さな場でそのような気の遠くなる努力をどんなに続けようとも、全体の流れを変えることは出来ません。しかし、監視によっては解決などしないのだ、ということを実践していくことは、ルターのいう「明日世界が滅びようとも、私はリンゴの木を植える。」につながるのではないかと思っております(うーん。多くの予備校や塾が生徒獲得のために広告をバンバン投下しているこの時期に、こんな集客の足を引っ張るような長文を書いていてよいのでしょうか。今年の卒塾生のみなさーん!早く合格体験記を書いてくれないと、こんな訳の分からない長文がずっとトップに居座ってしまうので、塾が潰れますよ!急いで助けてください!)。


(注1)これは素人の浅知恵を書き散らすこのブログでも、本当に僕自身が勉強していないところなので恥を忍んで書くのですが、たとえば統合失調症の症状として被害妄想、特に誰かあるいは複数に監視されているという妄想が典型的である、ということはこの人格形成上での監視と観察の違いとそれぞれの限界とかなり密接なつながりがあるのではないか、と勝手ながら考えています(もちろん、統合失調症の発症機序は全くよくわからないらしいですし、遺伝的要因ではない社会心理的要因に関してはそれこそ様々な根拠の無い説が多いのでしょうから、そこに付け加えることになってしまうとは思うのですが)。すなわち幼少期に自身が親や教師から観察をされていない、ということへの飢餓感が「見られたい」という欲求を強くもつ一方で、自分の側から「見られる」という行為として想像しうるものは「観察」ではなく「監視」でしかありえないために(なぜなら自己を観察する他人の内面を想像することは人間にとって多重人格の形成以上の想像力が必要であるからこそ不可能であるために、「見られる」=「監視される」しかその主体にとってはイメージがつかないために)そのような「監視されている」という妄想を抱きがちになるのではないかな、と勝手ながら考えています。もちろんこれは検証のしようのないことではあるので、たとえば幼少期の親の子育ての厳格さと統合失調症の発症との相関関係を調べるなどすれば、論文のネタにはなるかもしれませんが(既にそのような論文があったらご教示いただけたらうれしいです!)、本当のところはいつまでたってもわからないものです。ただ、一つ言えるのは被害妄想の典型として「監視されている」という妄想が出やすいというのは、それだけ我々は他人の視線に左右されやすい非常に敏感な生き物であるということであり、だからこそ先に上げた監視と観察の違いについても意識的であるべきだと僕は思います。


(注2)もちろん、このような穿った見方もとても大切です。一般に社会起業というのが「行政サービスの先駆的代替」である以上、そのようなsingle issue の取り組みは他の政治的意図に利用されやすいと言えます。たとえば社会保障の充実に極めて熱心であったナチスドイツのように。それとは別に、そもそも社会的企業が行政サービスの先駆的代替である以上、それは内政問題の改善であって、外交あるいは国際社会上の問題については自国の存在や安定を前提とせざるを得ない以上、対外政策については国益の保護という主張に与し易いという弱点があるということも言えるでしょう(第一世界大戦の際の第二インターナショナルの分裂などはわかりやすい事例ですよね。あれは一応インターナショナルだったはずなのですが、現在の社会起業と同じ問題点を抱えていると思います。それはまたハロルド・ラスキやシュトゥルムタールが指摘したことでもあります)。そのことは社会起業家自身が自覚しなければならない課題であることはまた事実です。「社会」の改良、という目的自体が国家と社会の緊張関係に無自覚に追求されるのであれば、それは暴力をも生み出してしまうことにもなるでしょう。

(注3)グローバリゼーションが進む中で、国家機能が比較的強固である先進国政府にとってそのグローバリゼーションとの戦いは端的に徴税権と警察権の強化という形を取るのではないかと思っています。すなわち、資本の租税回避のための自国企業の多国籍企業化に対抗して課税をしていくための徴税権の強化と国家間の戦争ということが先進国同士では現実的ではなくなった(それは理想的な戦争の消滅ではなく、どこまで行っても先進国と途上国との力関係は覆しようがなくなったために、帝国主義的な「下克上」政策がとりにくくなったことにより)すべての戦争は大国からの分離/独立を求める内戦か、あるいは軍事的には勝利し得ない先進国に対して民間人を標的にするテロリズムかのどちらかの形を取らざるを得なくなります。その結果として先進国はそれに対抗するために警察権を強化していきます。そのように徴税権・警察権の強化による管理社会というのはある意味でグローバリゼーションによってその存在意義を根底から問われている先進国国家の最後のあがきである、とも言えるでしょう。しかし、そのあがきの中で個々人は徹底的に管理を強化される方向へと否応なしに進んでいくことになってしまいます。たとえば昨年のパリでの大規模なテロが示したように、あるいはまさに起きたばかりのベルギーでのテロが示しているように、多様性をもつ国民というのは国家が監視をする際には極めて邪魔なものです。しかし、このような多様性への抑圧と徴税権・警察権の強化という国境を以前よりも屹立させようとする取り組みは、結果として内戦が続き悲惨な状態の続くシリアと平穏な先進国との「位置エネルギーの差」がある以上は決してテロリズムを引き起こす運動エネルギーの妨げになるものではありません。それゆえに、警察権の強化による「テロリズムとの戦い」は、その「位置エネルギーの差」(としてのシリアで起きている悲惨さ)と何とか取り組んでいかなければ、どのように、それこそ我々のすべての自由を放棄してもなお、それによっては決してテロを防ぐことが出来ないという敗北へと収束していってしまうものではないかと僕は考えています。

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理不尽さから学ぶということ。

今年、塾で四浪していた受験生が国立大の医学部に合格しました!多浪したあとに嚮心塾に来る、あるいは再受験のためにという形で塾に通ってくれる医学部受験生はこれまでも数多くいたのですが、その子は現役生の頃から塾に通ってくれており、かつここまで結果が出せずにいたのにも関わらず塾を見捨てずに通い続けてくれ、そして本当に悔しい結果が続く中でも腐らずに人一倍誰よりも努力してきた受験生であるので、本当に塾を開いてから一番と言えるくらい嬉しい合格でした!他の塾生たちもあまりにも悔しい不合格にもめげずに頑張り続ける彼の姿勢を目の当たりにして、自分の努力の足りなさ、考えの甘さを反省させられては努力の仕方を覚えていくという子たちばかりだったので、彼の合格の知らせには皆が飛び上がったり泣いたりするほどでした。本当に素晴らしかったです。

その努力家で温厚な彼が今年の受験生生活の中で一番声を荒げて憤慨していたのは、試し受験で受けた早稲田の先進理工学部の入試を受けた次の日でした。(物理もかなり難しかったですが)生物の問題はあまりにも難しく、かつ考察問題ばかりで時間が足りるわけもなく、生物が非常に得意な(名大オープンでは二回とも全国2番でした!)彼にとっても3割も取れないような入試でした。「生物受験者を取る気がないのか!」「こんなひどいのは、初めてです!」と珍しく憤慨する温厚な彼に、試験問題を見て僕ももちろん同意したのですが、その上で次のように言いました。

「確かにこの問題はひどい。率直に言って入試で出したら担当者を入試担当から外すべきレベルだと思う。しかし、だったらその試験時間を化学に充てて(比較的解きやすかった)化学の点数をもっと伸ばすことができたはず。つまり、(両方ともできますが生物がより得意である彼の)『得意な生物の点数はしっかり取らなきゃ!』という思い込みに妨げられて、このような理不尽な問題に対してベストパフォーマンスを出せなかったことが、国立入試に向けての反省材料じゃないかな。逆にいえば、それをこの早稲田の理工の入試は教えてくれたと考えれば、理不尽な難易度だとしてもそんなに腹も立たないのではないか。」というようにです。
それに対して彼は、なるほどと深くうなずき、そこからの国立大学に向けての練習の中で、得意な生物が難しくて困ったときに化学を解く時間を削って生物を解かないように、という練習をしっかりとしていました。

理不尽なことは人生の中でこれからも起こるでしょう。いや、人生とは理不尽さの連続であるとさえ言えるでしょう。しかし、その理不尽さに直面した時に、それを呪詛することで自分を向上させることを忘れる人間と、その理不尽さに接してなお、自分がまだまだ改善すべきことを見つけていこうとする人間とで大きく結果が変わってくるわけです。努力が報われずに何度も浪人をせざるを得ないという現実をつきつけられてなお、このような僕の厳しい「指導」に対して深く頷くことのできる彼の素晴らしい人間性を見たからこそ、彼のこの合格は、この社会にまた一つの素晴らしい魂をadaptできた、という喜びの深いものでした。

どのような理不尽さからも学ぶべきものを学ぶことはできます。それを阻害しているのはあくまで、その自らが見舞われた理不尽さを呪詛したくなる自分の弱い心、すなわち被害者意識です。しかし、私たちはどのような事態に対しても被害者であるだけでなく、加害者でもあるわけです。その加害者としての自分をどのようなときでも見つけ、そしてそこを改善できないかを苦慮する人間こそが、真に成長し続けることのできる人間であると言えるでしょう。今日はあの東日本大震災からちょうど5年ですが、私たちはあの理不尽さの極みとも言える自然の猛威による被害者であるだけでなく、たとえば避難の遅れ、津波に対する備え、原発事故の加害者でもあるわけです。それはもちろん被災地に住む人だけではありません。すべての日本人がたとえばあのようなずさんな原子力発電所の津波対策を、その原子力発電所の恩恵を享受することを通じては許してきたという意味で、あるいはたった5年経てば「経済のためには再稼働もやむをえない」「世界で一番厳しい安全規制です」などと平気で言えてしまう、あるいはそれを黙認してしまうという意味で、加害者でもあるわけです。それらの言明が正しいか正しくないかは別として、少なくとも理不尽さに直面してなお、自分の改善点を必死に探す彼のような受験生の態度とは対極にある、「まあ何とかなるんじゃない?」と楽観視するだらしない態度であることは間違いのないことであると思います。

理不尽な事態に対してと同様に、素晴らしい人間は、どんなにダメな人間からも学ぶところを見つけ、学ぶことが出来ます。それとは逆に、ダメな人間ほどに自分が他の人から学ぶべきことがたくさんあるとしても「でも、あいつのこういうところはダメだから。」と難癖をつけては、自分にはない彼や彼女の長所を学び取ろうという努力を怠ります。ある意味で自分のダメなところを克服し少しでも「良い先生」になろうとする教師の努力は、そのように他の人の欠点を見つけては難癖をつけることでさぼることを覚えてしまった生徒たちに逃げ場をなくすための努力でしかありません。それは教育の導入としては必要なことではあるのですが、そのような教師に接して初めて努力をする人間など、他の教師になった途端に当然サボることが目に見えている以上、それだけでは全く教育としては不十分であるのです。むしろ教育の出口としては、教師がどんなにダメであっても生徒たちはそのような教師からもしっかりと学ぶべきところは学び、見習うべきではないところは反面教師として教訓を得る、という姿勢を生徒自身が身につけていけるように取り計らっていくことであると思います。この後者の点に関しては、教育に携わる人々は教師もそれ以外も含め、かなり意識が低いところではないかと僕は思っています。つまり、まだ理想を失っていない先生方も「良い先生になる」という個人的な目標にすぎないものが教育の効果についても最大の成果を上げる、と信じがちであるけれども、実際はそうでもないことも多いということです。一人一人の人生をふりかえってみても、「あの教師みたいな人間にはなりたくない。」「あの先輩みたいにはなりたくない。」という反面教師のほうが、子供心にmotivateする力が強いことって結構ありますよね。もちろん、「良い先生」になるための努力をしたくないがために「自ら学び取る生徒の自主性を育てているのだ!」という振りをしては怠惰を決め込んでいるのも、同様にダメな教師であることもまた事実です。圧政に耐えては自由を求めることがその国の民主主義を鍛えるとしてもそれは圧政自体が正当化されるわけではないからです。教師はその子にとって今何が必要かを絶えず感知しては、そのどちらの役割をもflexibleに担えるようになっていかねばならないと思います。

alpha goに苦しい勝負を強いられている囲碁界のスーパースター、天才の中の天才でありながら、幼少期からすべてを囲碁に捧げてきたものの、その囲碁においてdeep learningの前に屈せざるを得ないというイ・セドルさんの感じるその理不尽さもまた、その理不尽さからイ・セドルさんが何を学ぼうとするかによって意味のあるものになるのだと思います。それは文字通り岡目八目で好き勝手なことを言う我々よりも、はるかに深い意味をもつはずです。何かに真剣に打ち込んだ末にそれが理不尽なものによって蹂躙されてなお、そこから何らかの意味を汲んでは再び努力をするためにこそ、我々は努力すべきなのです。誤解を恐れずに言えば、理不尽さと直面するためにこそ、私たちは努力すべきであるのです。「人物を入試で見る」などという下らない話が主流になりつつありますが、何かの技術や知識の習得に徹底的に打ち込み、打ち込んでもなお様々な要因から来る理不尽さに打ちのめされ、そこで打ちのめされてなお、その理不尽さの意味を考え自分がもっと改善すべきところを見つけていくというそのプロセスを経て初めて「人格」や「人物」がそこに立ち上がってくる、などという当たり前のことは、別にマックス・ウェーバーの『職業としての政治』の「Zache(事物)への専念を通じて個性が立ち上がる」などという言葉を借りなくても、私達が普段スポーツ選手や芸術家、プロ棋士、あるいは職人の方々の高い精神性を見るたびに思い知らされるものではないでしょうか。

人間は生まれながらに死ぬことが運命づけられています。他の動物はどうかはわかりませんが、少なくとも人間は自らの死が存在することを自覚できる以上、どのような努力もいずれ「死」という理不尽さによって奪われるということを知った上で我々はどう生きるかを考えていかねばなりません。その意味では、理不尽さからもまた何かを学ぼうとする姿勢、というのは実はソクラテスが「哲学は死ぬための準備である。」というときの「哲学」と同じものであるのかな、と僕は思っています。

そのような姿勢を受験勉強の最後の最後まで貫いた彼には、大学に入ってからも是非その姿勢で努力を続けて欲しいですし、もちろん僕もその姿勢を最期まで貫き通していけるように頑張りたいと思っています。

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2016年度入試結果(3月9日現在)

            2016年度入試結果(3月9日現在)

<大学入試・国公立大学>
熊本大学医学部医学科        1名(進学先・第一志望)
東京農工大学農学部応用生物学科   1名(進学先・第一志望)

<大学入試・私立大学>
東京医科大学医学部         1名(進学先)
日本大学医学部           1名 
早稲田大学政経学部         1名
明治大学農学部           2名(うち1名進学先)
学習院大学経済学部         1名(進学先)
法政大学法学部           1名(進学先)
法政大学理工学部          1名(進学先)
東京薬科大学薬学部         1名(進学先)
東京農大農学部           1名
<高卒認定試験>
全教科合格             1名
<高校入試>
都立富士高             1名(進学先・第一志望)
宝仙学園理数インター        1名(進学先)
錦城高               1名(進学先・第一志望)
桜美林高              1名(進学先)
堀越高               1名(進学先)


大学受験生15名(うち国公立受験者5名)、高認受験生1名、高校受験生5名、中学受験生1名での結果です。どの受験生のどの結果についても、彼ら彼女らが必死に頑張った結果であり、その結果を誇りに思っております。
                                             嚮心塾 

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受験の最中に。

ご無沙汰をしております。塾では中学入試を終え、今日から私立高校入試が始まります。また、大学入試は私大入試がもう半ばを過ぎており、ここから私大の本番そして国公立大と、まさに正念場を迎えているところです。

今年は僕の娘も小6で中学入試をしました。結果はすべて不合格で残念な結果に終わったのですが、短期間での成長ぶり、さらには勉強を必死にやることが将来自分が何をやっていきたいかへの一つのヒントになったようで、改めて中学受験は子供の成長の大切な契機になるな、と実感した次第です。勉強に終わりはありません。その意味では、今回の努力とその失敗を糧に、また引き続き努力していってほしい、と思っています。

その娘の第一志望の入試の前日に塾で教えていたときに、根本的な問題に直面するような経験がありました。それは、娘の勉強であと「こことここは復習しておきたい。」というところが何個かあって塾の営業時間を過ぎても残って教えていて、そうは言っても入試前日なのであまり遅くまではできない中でそれでも「残り時間でなんとかここまでは復習できるな。そこまでやっておけば、とりあえず後悔はないぐらい仕上げられるか。」と思っている時でした。そこで他に残っていた塾生の質問を新たに受け、それがかなり手間のかかるものだったので、それに答えていると娘の勉強の復習がもう間に合わなくなる、とわかりました。とはいえ、その質問をしてきた子も次の日に入試を控えており、娘と同じ「受験日前日の受験生」です。その際に、自分の娘の勉強を優先するのか、それとも塾生の勉強を優先するのか、そこで結局僕の生き方が問われてしまうな、と判断した時に僕は自分の娘の最後に復習したかったところを諦めて家に返し、その受験生の質問に答えようとしました。

ここまでなら美談っぽい話になるのですが、そのように判断した自分に感情がついていかず、普段なら面倒な質問と言ってもしっかり考えれば答えが出せるものも、襲ってくるあまりの悲しみに頭が30分ほど全く働かずに、結局その質問にもしっかりと答えられることなく、その塾生の子にも悪いことをしてしまいました。結局娘は初日の第一志望の学校で、その苦手な分野が出てそこがまるまる出来ずに(もちろんそれだけのせいではないにせよ)落ちました。

ビジネスライクに考えれば、営業時間をとうに過ぎている時間帯であったのですから、その質問を断ってでも娘の勉強を仕上げればよかったのでしょう。しかし、僕にとっては同じ受験日前日の受験生を目の前にしてそれをすることは、塾の理念を否定することであるため、できませんでした。しかし一方で今まで家庭を顧みずに塾のことばかりをやってきて、それこそ家族からは「他人の子供ばかり一生懸命思いやって!」「自分の子供に何一つしてないじゃない!」と非難され続ける毎日の中で、僕が自分の子供に対してできる最も大きな貢献は(こんな営業形態では、お金もほとんど残すことは出来ないでしょうから)唯一教育であるのだと思ってきました。この10年間、家庭のことは顧みずに塾をやってきて(この2月は週1日の休みすら、毎週潰して毎日朝から晩まで受験生を教えています。)ようやく子どもたちがnurseryからeducationを必要とする時期になり、ようやく力になれるときが来ました。そして中学受験はその極めて大切な機会です。その唯一残してやれる教育の機会すら、このように目の前の生徒との天秤にかけられて、どちらかを選ばねばならなくなるとは、という悲しみが僕を襲ってきたのでした。教育というものに自分の人生をかけようと選んだ時から、いずれこうなることはわかっていましたが、しかし唯一自分が与えられるものすら僕は自分の娘に残すこともできないのか、と打ちひしがれました。

もちろん、僕は家族への愛とはそもそも「愛」という言葉で語ることが不適切なくらい、本能的であり、あまり崇高なものではないと思っています。
家族への愛とは、何が優性の形質かがわからない我々個体が、自らが優性の形質であることをプレイヤーとしては信じて個体を残そうとせざるを得ない、という生物学的な本能でしかないと思います。その意味で人間が感じる「愛」という感情もまた、特に家族愛や異性愛については僕はあとづけの発明品でしかないと僕は考えています。だからこそ、自分の家族を他人よりも無条件に愛する、という姿勢はそのようなしくまれたプログラムに対する疑いのなさであり、結局は愛そのものの価値を損なう姿勢であると僕は思っています。自分の遺伝子を残すために、赤ん坊から今まで長い時間接してきたものをしか愛せないのだとしたら、それは人間にとっては絶望です。すべての戦争はそのように肉親への無条件の愛から生まれるとさえ、思っています。

一方で、誰からも愛されないという経験は、その子供に人を愛することをできなくさせるものです。もちろん、これは「片親の子は駄目だ!」とか「孤児は駄目だ!」などとレッテルを貼っているのでは全くなく、どんなに両親にさんざん愛されていてもその愛を感じようとする謙虚さをもたないがゆえに人を愛することの出来ない子供もいれば、かすかな、虐げられていく運命の中で本当にかすかにしかない運命への抵抗としての愛を、一生大切に抱えて人を愛そうと決意する人もいます。人にとって、「愛された!」という喜びこそが自分も人を愛そうと決意する大切な動機になるのだと思います。

僕にとって嚮心塾とは、そのように人を愛する場です。この世界の中で、生存のために「家族」という枠の外には決して出ようとしない愛情というものを生徒たちに注ぐことで、巷に溢れている「愛」とは別の形が少なくとも存在しうるのだ、ということを伝えるための場であると言ってもよいでしょう。ナショナリズムは家父長的国家観などを引き合いに出すまでもなく、家族への愛の疑いのなさから生まれるものです(その意味では、60年代、70年代の政治運動が挫折したあとの日本において政治的議論がなくなり、マイホーム主義へと回帰したことの帰結が、現在のようなナショナリズムの高まりに結びついている、とも言えるでしょう。私たちはどのような活動をしようと、広義の政治から逃げることは出来ません。)。愛を家族にも宗教にも国家にも利益にも利用されないために、それ以外の愛や思いやりの形が存在することが大切であるのだと思います。

もちろん、そのような取り組みを自分たちのエゴイズムのために利用しようとする人もいるでしょう。というより、そればかりです。役に立っても立たなくても、用済みとして簡単に切り捨てられるのが学習塾や予備校の運命でしょう。「単に安いから」というだけでなく、「勉強の相談するだけなら無料で便利だから」ということで塾をやめたあとも平気で繰り返し相談に来させる親もいます。それも含めて、僕は一つ一つが大切な場であると思っています。「君の利益になると思うのなら、ぜひこの塾に関わってほしい。さて、それ(コストパフォーマンス)だけが、君の求めるものなのかい?そのような人生の先に、何があると思っているのかい?」という問いかけになると思っているからです。

改めて今回のことを鑑みるに、自分の家庭と塾生とのどちらも優先しないという強い覚悟をもつべきであることと、そのための力をもっと鍛えていくべきであることを痛感させられました。これも最近、塾生と話していてよく誤解されていることだと思ったのですが、いつでも何かしらを勉強している僕を見ると塾の子たちは、僕が勉強が好きだと思っているようでした。しかし、僕は勉強が好きなわけではありません。むしろ、勉強など嫌いで嫌いで仕方がありませんでした。だからこそ、最小限の努力で結果を出せるようにと小中高と工夫をしてきただけです。しかし、このようなしんどい目標を掲げて塾をやれば、どんなに勉強をしてもそれで足りることなどありませんから、仕方なく毎日必死に勉強をしている次第です。

こんな話を娘にしたわけではありませんが、受験勉強をやっていく中で、娘が自ら「パパ、私は将来、人に思いを伝える仕事をしたい!」という話をしてくれました。何らかのものを彼女もこの経験から学び取ってくれていれば、と願っています。

その上で、残り僅かの今年の受験を一人一人誰に対してもやり残したことのないように、最後まで必死にもがいていきたいと思います。

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宿題を全部やってちゃ、だめだ。

中学や高校でよくある間違った教育方法として、課題の分量をとにかく多くする、というものがあります。嚮心塾では学校の勉強がうまくいっていない子に対して、指導することも多いのですが、そのときに真っ先にやることは勉強する教材を増やすことではなく、減らすことや、同じ教材を使うとしても、解くべき問題の範囲を絞ることをしています。その理由はあまりにも多くの問題を解けば、当然それらを3周、4周するだけの時間的余裕はなくなり、とりあえず1周、頑張る子でも2周くらいしかできなくなるからです。しかし、新しく学ぶ単元の問題集を1周か2周でできるようになる子、というのは教えていてもそう多くはありません。言葉を換えれば、それは1周で勉強内容が定着してしまう「天才」のみに許される勉強方法です。なので、そのようにやろうとしては失敗している子に対しては、「1周あるいはせいぜい2周でといたすべての問題が身につくなんて、もしかして君は天才かい?」と冗談交じりの意地悪い質問をしては、「天才でないのなら、解く問題の数をできる限り、しかも基本的なレベルのものに絞って、それを繰り返して穴がないところまで徹底しよう!」という指導をしています。

人間の記憶力に限界がある以上、このような(「選択と集中」という方針の)勉強方法がおそらく勉強に困っている全ての子にとって必要だと僕は考えていますし、勉強が得意な子であっても苦手な分野についてはこのような取り組みが必要です。しかし、このような勉強法を妨げているのは、「学校の宿題となっている問題集の範囲はすべてやるべきものである。」とか「ワークブックはすべてやるべきものである。」という一見正しそうな倫理観です。このような倫理観を学校の先生やときには親御さんがもっているがゆえに、そして子供達はその倫理観にしたがってまじめにやりさえすれば勉強ができるようになると思い込んでいるがゆえに、かえって課題はまじめにやっているものの、学習内容が身につかないという矛盾が生じることになります。しかし、これは少し落ち着いて考えれば当たり前のことで、膨大な試験範囲や課題をまじめにやっているからこそ、それらをすべて完璧にできるわけもなく、テストで点数がとれないということになってしまっているわけです。

さらに事態を複雑にしているのは、いわゆる「面倒見が良い先生」というのは一般的に 、課題の量を厳選して絞っては繰り返しやらせることにはまったく興味がなく、課題の量をとにかく増やせば良く、その膨大な課題をやっているかどうかさえチェックしていればよい、と思っているという事実です。実際に課題をちゃんとやったかどうかのチェックはするものの、その課題をやることで一人一人に力が付いているのかどうかのチェックというのに、学校の先生方はあまり興味がありません。下手すると、成績が悪かったら「課題が足りない!」とばかりにもっと課題を増やすという先生方も多いです。しかし、一般的な量の課題すら消化しきれていない子に、さらに課題を増やすのは愚策を通り越していじめでしかないと僕は考えています。

もちろん、これに関しては学校の先生だけを責めるわけにはいきません。このようなずさんな学校教育を助長しているのは、実は親御さんの側の責任でもあると僕は考えています。なぜなら、親御さんは自分の子供に大量の宿題が出ることで安心するものであるからです。宿題を出さない教師というのはそれだけで「サボっている」かのような印象をもたれがちです。しかし、大量の課題は(大量の処方薬と同じように)メリットだけではなく、デメリットも多いものです。生物学での刺激に関するウェーバーの法則のように、咀嚼できないほど大量の課題を出されれば、当然子供達はそれを適当にやります。「適当に」というのは、つまり頭で考えずにマルのついたものは自分がわかっているものと見なすことです。分量が多ければ、そのように処理することを覚えざるをえないでしょう。しかし、そこでたまたまマルがついたものについての理解が浅ければ、そのような積み重ねでどんどん勉強がわからなくなってくる、というわけです。

「宿題はすべて完璧にやるべきだ!」という倫理観を子供に対して振りかざすのなら、それをやってさえいれば本当に力が付いていくかどうか、そもそも初学者が自分の立てたプログラムで本当に力がつくのかをしっかりと考えぬいたり実験を重ねた上でそのような主張をすべきです。こちらから見れば、とりあえず分量さえこなせばよい!としか考えていないような、つまり何も根拠のない分量の課題を子供に押し付け、真面目にやっても何周も繰り返すことができるわけもなく定着しようがないようにやらせておきながら、「努力が足りない」と平気で言う教師を信用してはならないと思います。そして、そのような教師をのさばらせるのは、宿題を大量に出してもらって安心している親御さん自身であることも反省すべきであると思います。

さらに、ですね。嚮心塾では受験をにらんで、まったく勉強をしていない状態から勉強を始めていくときには、できる限り科目をしぼって、始めていきます。私大文系なら英語だけ、理系なら数学と英語だけ、中学入試なら国算だけ、というところから始めていきます。これは勉強のし始め、というのは(いままでやっていなかった勉強を急に始めたからこそ)すぐに成果がでないと勉強へのモチベーションが上がりにくい、という受験生側のモチベーションを保つ手段であるとともに、そもそも「わかる」とか「徹底する」ということがどこまでしっかりやらなければならないのかを一教科について把握できれば、それを他の教科に応用することは比較的簡単であるのに対し、各科目を満遍なく勉強していればその満遍なく勉強していて忙しいという事実に満足してしまい、どこまで勉強を徹底しなければならないのかについては受験生本人が鈍くなりがちである、ということからこのように受験勉強の手順を踏んでいくことが一番効果的であると感じているからです。

このように、「選択と集中」という戦略がたとえば勉強の力をつける、というだけのことにおいても、とても大切であると考えています。うーん。ここに書いたことをご家庭で実践するだけでも、ほとんどの個別指導型の学習塾など、この社会に必要なくなってしまうかもしれませんね。

本当にそれで個別指導型の塾が必要なくなるのであれば、社会が少しは改善されると思いますし、それで嚮心塾が潰れるのなら、それはそれで本望なのです。しかし、なかなかそううまくはいきません。それぐらいに、学校の先生の権威は強く、みながそれを信じているせいで、賢い子が「こんなの全部やったって覚えられないから、絞って典型的な問題だけやっていい?」と聞くのに対して、先生も、それを信じる親御さんも、「何言ってる!宿題は全部やるものだろう!」と叱り飛ばしては結局身につかない苦行としての(写経のような)勉強を強いられては、勉強を嫌いになってしまっていると思います。

中高生のお子さんが、そのような愁訴をしてきたときに、少しはこの記事の内容を思い出してもらえたら幸いです。
嚮心塾も学校の教師からも親御さんからも白い眼で見られながらも、これからも「宿題は全部やらないほうがいい!」という主張を続けていきたいと思います。

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