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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

通信第6号

この回は、再び架空のインタビュー形式です。この形式は時間がかかる割に、踏み込んで掘り下げるのが難しく、最近はこの形式で書くのをさぼってしまっていますが、また書きたいとは思っています。



第6回 なぜ電車の中で携帯電話で話すのか。~その一~

間隔は空きましたが、どっこいまだまだ続けちゃう嚮心塾通信です。今回は突撃インタビューの第2弾として、電車の中で携帯電話で話す人へのインタビューを試みました。彼らや彼女らがなぜ話すのか、少しでもその原因がわかれば良いと思います。

僕 「あ、早速携帯電話で話している女性がいました。話し終えてからインタビューしてみますね。すみませーん。」
女性「………。」
僕 「あ、いえ。ナンパをしているのでも、怪しいものでもありません。ちょっとお聞きしたいのですが、今、電車の中で携帯電話で話していましたよね。」
女性「(キッとにらんで)何よ、謝れとでも言うの?」
僕 「いえいえ、そういうわけではないんです。ただ、なぜ携帯電話を電車の中で使うんですか。たとえば社内アナウンスでも「車内での通話はご遠慮ください」といってますし、そうでなくてもこの閉じた空間の中で電話でしゃべれば迷惑なことぐらい少し考えればわかるでしょう。また、心臓にペースメーカーを入れている人々にとってはその携帯電話の電磁波でペースメーカーが乱れて、死に至ることだってあるそうです。それなのに、なぜ使うんですか。」
女性「はい、はい。私が悪かったです。もうしません。これでいい?」
僕 「そういうことは言っていません。なぜ使ったのかを聞いているんですが。」 
女性「だって…仕方がなかったから。友達との大切な約束に遅れちゃって、どうしても連絡しなきゃいけなかったの。」
僕 「なるほど。どうしても仕方がなかったんですね。たとえばその友達との約束を反故にするよりは、周りで誰が不快になろうと、誰が死のうと、そんなことは大したことではないということですね。」
女性「そう言われると、いやだけど。少なくとも、私にとっては、そうかも。」
僕 「私にとっては、とはどういう意味ですか。」
女性「だって、この電車で偶然一緒に乗り合わせた人にいくら嫌われても別に痛くもかゆくもないけど、大切な友達に約束も守れないような人間だって思われることは本当に辛いから。」
僕 「なるほど。少しわかってきました。つまり、あなたは自分勝手だから携帯電話で話したのではなく、あなたに待たされ、その末にはあなたという親友に裏切られて傷つくであろう相手のために携帯電話を使ったということですね。」
女性「ええ。そういってもらえると少しは気が楽になるけど…。」
僕 「でも、ここにいる大勢の人達は、あなたにとってつきあっている相手ではないから、その人達のことを心配する必要はない、仮に心配するとしてもあなたが親しくつきあっている相手のことを優先して良い、そう思っているということですね。」
女性「『優先して良い』とまでは言わないけど、優先したくはなるし、実際に優先してしまうことが多いかも。」
僕 「それはなぜですか。」
女性「だって。自分が相手のことを思いやったときに、ちゃんとそれをわかってくれてその思いやりを評価してくれる相手がいいもの。もし大切な友達との関係がうまくいかなくなったとしても、それでもこのまわりの私に無関係な人のことを思いやってここで携帯電話で話すのを我慢したとしても、一体誰が私のその、身を切るような思いやりに気づいてくれるって言うのよ。そんなことより、ここで多少冷たい目で見られても、友達には私がちゃんと約束を大切にする信頼できる人間だって思ってもらえる方がいいじゃない。」
僕 「なるほど。先に、僕は『あなたは自分勝手ではない』と言いましたが、少し違ったようですね。」
女性「どうしてよ。」
僕 「あなたは自分の思いやりが評価されることを求めている。その意味で、『私が思いやることをちゃんと評価して私のことも思いやってよ』という気持ちがあるように思います。つまり、愛されたがっているんですよ。」
女性「そんなの、当たり前じゃない。」
僕 「いや、当たり前ではいけません。そのようなあなたの振る舞い、つまり自分の相手には優しく、他の人々には冷たいというその態度のもたらす結果は、たとえば家族を守るために中国人や朝鮮人を殺すというものではないのですか。イスラエル軍がユダヤ人を守るためにパレスチナ人を殺すのも同じです。戦争はまさにあなたのような態度から生まれるのではないですか。」
女性「そう言われてみれば、確かにそうかもしれないけど…。でも、人間はそんなに強くないし。思いやることだって、その見返りがほしいのよ。その見返りはものとかお金じゃなくたっていいけど、せめて気持ちだけでも見返りがほしいじゃない。」
僕 「それはそうです。自分の思いやりを理解してもらえる相手を大切にしたい、というのは間違っていないと思います。思いやりの有り難みもわからない人間を無理して思いやり続けることなど、豚に真珠かもしれませんしね。でも、そこに自分がその見返りを期待する、つまり自分のかけている思いやりをわかってほしいという気持ちが入ってしまうことが問題であると思うのです。そのように思えば、どうしても相手を限定して狭い範囲の人々と思いやりの交換をすることで優しくあろうとする気持ちも、愛されたいという欲求も満たされてしまうからです。」
女性「それだったら、何がまずいの?満たされてるんだからいいじゃない。」
僕 「それならたとえば、あなたが今ここにいる人々に自分の思いやりが理解してもらえないとあきらめているのはなぜですか。それはあなたの思いこみであり、そのことがあなたの優しさをある狭い範囲にとどめているのに、それでもあなたは満足してしまっているではないじゃないですか。その満足が、やさしさの限界を作るのです。『家庭の幸福は諸悪の元だ』とか誰か(編集部注:太宰治。彼の『家庭の幸福』という小文にある)も言ってたじゃないですか。」
女性「そんなこと言われたって…。じゃあ、あなたは、あの、向かいに座っていやな顔して私を見てた、あのおじいさんやおばあさん達の方が正しいって言うの。」
僕 「いいえ。」
女性「あの人達は口を開けば、『最近の若い子は公共の精神がない』とか『廉恥心がない』とか『思いやりがない』とかいうけど、あの人達だって、昔だったらそんなことをすれば村八分みたいに周りからのけ者にされて生きていけないから、他の見知らぬ人の前でそういうことをしなかっただけじゃない。」
僕 「それは、あなたのおっしゃるとおりです。彼らや彼女らに別に思いやりが多いわけではない。ただ彼らはそのように世間を広く取ってそこをも思いやることが、現実に生きていくために必要であるからそのようにしてきただけです。別にそれは思いやりではなく、単なる打算でしょう。だから侵略戦争にも平気で賛成できたのです。それなら、彼らの「世間」の中には苦しむ人はいないのですからね。その「世間」をどんなに広く取ろうと、「世間を大切にしなければ自分たちが生きていけない」から「世間」を大切にするのでは、そしてそれは「世間」が「世界」という語になろうと、「地球」という語になろうと、「宇宙」という語になろうと、それはやはりエゴイズムでしかありません。自己を含まない他者を思いやること以外に愛という名はふさわしくないのです。ベルグソンも言っていました。「家族への愛や国家への愛という二つと、人類への愛とは、量的に違うのではなくて質的に決定的な違いがあるのだ。」(編集部注:ベルグソンはフランスの哲学者・思想家。この言葉に似た意味は『道徳と宗教の二源泉』の中にある)とね。」
女性「ほら、だから、あなたの言うような思いやりなんて昔からなかったんじゃない。だから、わざわざその人だってそんなこと言わなきゃいけなかったんでしょう。」
僕 「今までにないから、という理由であきらめて良いわけではないでしょう。人間の歴史がエゴイズムという汚辱にまみれたものだとしても、それを何とか変えていこうとすることもできるのですから。」
女性「……。あなた、友達いないでしょう?」
僕 「それはそうですが……。それでも数は少なくても話し合える友達だけがほしいんです。ですから、まずは僕と一緒にお茶でも飲みながらもっとお話ししませんか。」
女性「ほら、しっぽを出した。そんなに偉そうなことを言っておいて、結局、私の気を引きたいだけなんでしょう。自分が愛されるためにみんなを犠牲にするのも良くないけれど、みんなを愛している姿勢を見せることで自分を愛してもらおうとするのもやっぱり卑怯なエゴイズムなんじゃない?さようなら。」
僕「確かに……。」

 最後の最後に少し下心がでてしまいました。まだまだ反省すべき点が多いです。しかし、伝えたかったことは話せたように思います。
問題の本質は、それを助長する機械(携帯電話)やその動きに取り込まれている一人一人(若い人たち)に責任を押しつけてしまえば、かえって見えなくなってしまいます。もちろん流れに飲み込まれるだけの彼らにも責任はありますが、この社会全体が考えてこなかった未熟で幼稚な部分について、もっと一人一人が考えて行かねばならないことを強調する方がむしろ必要なことであると思います。眉をひそめて「マナーの悪い」彼らを見るときには、ここで描いたような精神構造が自分の中にもないか、自分自身にも眉をひそめながら反省してみることが大切です。その上で、しっかりと注意していきましょう。

(このインタビューは、うちの奥さんの目が怖いので、一応フィクションとさせていただきます。フィクションの方が、真実を描くことも多々あるのですから、ご勘弁を。)                           2006年5月3日

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通信第5号

この文章を書いた後に、僕の家庭では無洗米を買ってこないと、僕が奥さんに叱られる、という状況になりました。家庭生活の難しさ、ですね。それでも、このように表現することは単なる負け惜しみなのか、それとも、魂だけは殺させはしないという決意の表れであるのか。どちらにするかは、僕次第であるようです。


第5回お米は洗わない方がよいのか。

 無洗米、というお米が今や大分普及しています。袋から出したらすぐに水を張り、炊くことができるというスグレモノです。あのわずらわしい、それでいてなかなか楽しくもある「米を研ぐ」という作業をなくすことができるので、忙しい家庭では大助かりだそうです。僕は以前にこの無洗米というものを知ったときには、「ああ、また一人一人のめんどくさがる心のせいでよけいなエネルギーを使うようになっちゃって。自分で食べる米を自分で洗うのを面倒くさがるなんて、人間として最低だ。」と冷たい目で見ていました。
 ところが、そのように見てもいられなくなってきたようです。無洗米は実は「環境によい」と言われていることを僕は最近知りました。それは次のような理由からです。
 私達は大部分が米の研ぎ汁を排水口に流してしまいますが、そのように下水に流してしまえば、下水の中に研ぎ汁に含まれる多量の栄養分が混ざり、それはやがて川から海へと流れます(下水を処理すると言っても汚れを取るだけであり、水に含まれる栄養分は取り出すのが難しいのでしょう)。そして、海の水に栄養をたくさん含んだ下水が流れ込み、富栄養化(海水中の栄養分が異常に増加すること)が起きて、プランクトンの異常発生などが起き、海の生態系が崩れてしまうのです。私達がパンを食べるようになったと言っても、一日に一回もお米を研がない家庭が何軒あるか、と考えれば、やはりこれは大きな問題です。
さらに、無洗米は精米した後にまだ米にくっついている養分を機械で分離して作るのですが、その栄養のあるゴミをためて有機肥料として農家で用いるそうです。そうすれば、人間が食べる米の部分以外を確実に土に返すことができるようになり、栄養分を海中に捨てるというもったいなくしかも海が汚れることをしなくて済むのです。このように米の栄養分を水に溶かす前に集めて土に返す方が、水に溶かしてから処理するよりも圧倒的に処理のコストは少なくなります。よく、三つのRとかいいますが一般にreuse(再利用))はreduce(ゴミを減らす)よりもコストが圧倒的に少なく、reduce(ゴミを減らす)はrecycle(リサイクル)よりもコストが圧倒的に少ないことを考えれば、このように無洗米を使うことがどれだけ環境によいかわかるでしょう。
 このいいことずくめの無洗米を前にして、「無洗米なんて、どうせ米を洗うのをさぼりたいというわがままさの産物でしかなく、使っちゃいけない。」という僕の判断を改めねばならないようです。(もちろん、家庭で鉢植えの植物に米の研ぎ汁を与えるというのも自分で米を洗うことと環境に良いことを両立しうる一つの方法ですが、しかしこの場合、鉢植えの植物に栄養を与えるよりも耕地に栄養を与える方が、より必要なところに栄養を与えていると言えるのではないでしょうか。)
それに対して、無洗米を使うべきではない理由を挙げていきましょう。まずは、手で洗っていた労力を機械で行うために、その機械を動かすエネルギー(電力、ひいてはそれを生み出すための石油など)が余分に必要であるということです。これはやはり無視してはならない問題だと思います。なぜなら、人間の活動のあらゆる部分を機械で代替させようとすることこそがエネルギーの消費を増大させ、その結果としての地球温暖化につながっているからです。問題は、ある問題を解決するために機械を発明することには人間の意識と努力が向きやすいものの、その機械を動かすためのエネルギーをどうするかについては、無頓着であるという人間の態度が結果としてエネルギーや二酸化炭素の問題へとしわよせをしているということです。
 次に考えられるのは、人々が米を研ぐことをもはや面倒くさがってしなくなってしまうことで、何でも用意されているのが当たり前だと思い、用意されていないことに対して文句を言うようになる、という事態です。たとえば、米を研がないことに慣れてしまった人々はもっと研究が進み、実は無洗米を使うより使わない方が環境に優しいことがわかったとか、そのような技術ができたとしても、そちらを選び直すことはできないでしょう。便利さに慣れることで生まれた怠惰さは、その今の自分が前提としているものに対する疑いを自分の人生全体への攻撃であると敵視する性質を産み出します。人間はそのとき無洗米なしには生きられない存在となってしまっているでしょう。

 さて、ここまでを踏まえてみて、私達はどちらを使うべきなのでしょうか。僕はやはり、無洗米ではなくふつうの米を使いたいと思います。なぜなら、無洗米を使うべき理由が明確でわかりやすいのに対して、無洗米を使うべきではない理由はわかりにくく、その効果がはっきりしない分、切り捨ててはならないことを感じるからです。僕にはどうも、「ほら、無洗米の方がいいじゃないか」という主張の裏には「メンドクサイ」とか「モウカルゼ」とかいうエゴイズムがプンプン臭います。初めは、考えてそちらを選んだ人たちですら、それが続く内にそれを疑えなくなる麻薬のような力があるように思います。
 経済学では我々の見ている範囲で効率が最もうまくいっているとしてもその効率の良さは我々の見ている部分の外に何かを押しつけ、しわ寄せをしているが故にそれが成り立つということを「外部不経済」といいます。しかし、なぜ「外部」が生まれてしまうのかについて考えてみると、「人間の認識には限界がある」という当たり前の事実のせいだけとは言えない気がします。どうも、人間には一度判断を下した理由にたてまえと本音とがあるときには、その本音の部分に引きずられて、たてまえとして採用した合理性や判断を疑わないという姿勢があり、その姿勢こそがこの「外部不経済」を生んでいるようです。もちろん、そもそも経済というものが外部不経済を作ることによってしか受益者をつくれないものであるのかもしれない、という疑いについても考えて行かねばなりません。それは帝国主義やケインズ理論や従属理論を引くまでもなく、正しいように僕には思えます。ただそのような一つ一つの経済の考え方自体への批判の前に、批判を加えたくないという心の弱さを私達が見つめ、反省をして行かねば何も変わらないと思います。
 問題を解決するための機械を作るけれども、その動力としてのエネルギーを心配しないという外部不経済から、それらがすべてうまくいったとしてそのように自分が生きていくための取り組みから切り離されていく人間自身の精神の荒廃という外部不経済まで、結局問題のツケを「目に見える部分」から「目に見えない部分」にまわしちゃえ、という態度があります。この無洗米というものも、一見すごくうまくいくように聞こえるものの、結局また新たにエネルギーを必要とせざるを得ないという事態と、また新たに人間が生きるに値するだけの人間ではなくなるという事態を引き起こしてしまいます。水の汚れは目に見え、人間の精神の荒廃や何もかもにエネルギーを必要とすることは目に見えにくいために、これが「地球に優しい」と言われてしまうのでしょう。そのようにして「目に見えない部分」によせられていく「シワ」は、やはり取り返しの付かないものであると思います。僕は別に人間至上主義者ではありませんが、しかし何なら海を米の研ぎ汁で生き物が住めないようにしてしまったとしても、それでも人間が怠惰ですべてを何かに頼らねば生きていけなくなるよりはそちらの方が圧倒的にましであると思います。無洗米を疑えない人間は新たな問題に対処する意志を失うでしょうが、米を自分で洗う人間にはその米の研ぎ汁の問題も、他の新たに生じる問題にも何とか対処していこうとする意志が残っていくように思うからです。今私達が抱えている問題に対処するために、私達が心を失わざるを得ないのであれば、やはりそれは決して解決にはならない。それどころか、それは大きな暴力ですらある。このことを伝えていきたいと思います。
どんな目的にも無条件に肯定すべき理由はありません。それは現代の人類にとって究極的な大義へとなりつつある「環境への配慮」という点においてもまた、そうであるのです。もちろん、経済発展よりは環境保護を、という意見には僕も大枠としては大賛成ですが、人間の精神よりも環境保護を、というのには大枠としては同意できません。私達の意志がどれほど弱く、どれほど情けないのかについて、もっと冷徹に見つめた上で、何を為すべきかを考えていかなければならないと思います。               2006年4月1日




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通信第4号

古い文章です。朝日新聞の広告もライブドアの粉飾決算事件も、今や記憶が風化してしまっているかもしれませんね。


第4回 言葉にチカラはあるのか。

第3号から大分時間があいてしまって申し訳ありません。「これでわけのわからない文章も終わりだ」、と思ったみなさん、ご期待に添えなくて申し訳ありませんが、まだ続けちゃいます。

朝日新聞の最近の広告に「言葉は、感情的で、残酷で、時に無力だ。それでも私達は信じている。言葉のチカラを。」というのがあります。僕は、基本的にその広告の方向性自体は良いと思うのですが、その「言葉の可能性を信じている。」という言葉が、どうにも軽くていやらしくて、我慢がなりません。「そんなに絶望的でも『言葉の可能性』を信じている僕達ってかっこいいでしょ」という臭いがプンプンする気がするのです。目の前で死にかけている人がいても「私達は言葉のチカラを信じている。」といってワープロに向かってそうなイメージが湧いてしまいます。それはただ自分の取り組み方以外の取り組み方がないのかどうかを考えないようにしてしまっているだけなのでは、と思ってしまいます。

言葉のチカラということでいえば、たとえば僕も以前、

「絶望の虚妄なることは、希望がそう(虚妄)であるのと同じである」

という魯迅(中国の作家)の言葉に、感銘を受けたことがあります。もちろん「希望がそうであるのと」という部分は魯迅のシニシズムを表しており、手放しに肯定しうるものでも軽々しく否定できるものでもありませんが、それでも自分の絶望にこもりがちである僕は、この言葉にとても勇気づけられました。ただ、ちょっと表現としては甘く、現実をとらえ損ねていると思ったので、僕はこれを次のように言い換えたことがあります。

「この世界の現実は、私達の想像以上に絶望的ではあるが、私達の絶望ほどには絶望的ではない。」

僕は、このように言い直すことで、より正確な表現になったとは思いました。しかし、正確な表現になったことに心が充足する自分を、嘘くさいとも思いました。

 なぜなら、このように現実を表す象徴をいくら練り上げようとも、ある象徴をどちらの方向に用いるかは、すでにその象徴を「知覚」する主体の心の内に用意されている、ということがおそらく冷酷な現実であると思うからです。たとえば、「この言葉や音楽を聞いて、元気が出た。」という誰にでもある経験も、あくまで元気を出したいと願っている自分がいるからこそ、そうなるのでしかないと思います。そのきっかけにしうるものを自分の意志から「きっかけ」に選んでいるだけでしょう。魯迅の言葉を「きっかけ」に元気の出た僕は、その前から「元気を取り戻したい」と思っていただけだ、というのがおそらく正しいのです。それはまた、僕がどのように言葉を工夫しようとも、そのように触媒として援用される以外に何かの役に立つことはないということを意味します。そこに物質がなければ、いくら酸素があろうと光も熱も起きません。それと同じように、どんなに深く真理を貫いた言葉でも、それを理解する準備のない人間には何も働きかけないのです。

 さらに問題はあります。それが理解されたとして、そもそもその言葉は役に立っていると言えるのでしょうか。たとえば僕は魯迅の言葉と出会っていなければ、また他の似たような言葉と「出会って」(即ち無意識のうちに探し出して)いたでしょうし、1つも出会わなければ、自分自身で元気を出そうと決意していたかもしれません。僕が魯迅の言葉から受け取ったこの「感銘」は、もはやそこから逃れることができないまでに完結した自己をあえて外へと照射してからそれを受け取ることで、あたかも「外から何かを受け取った」という事実をでっちあげたいという願望によって作り出された物であるのかもしれません。(自分たちの会社の中にある株式の売却益を外から得た売上であるかのように粉飾したライブドアのように。まさにあのようなことを、僕達は認識のレベルにおいてしているのかもしれません。外から何かが伝わりうる、あるいは自分も他の人へと何かを伝えうるという希望を信じるために、です。ラッセルも「人間はどうして自分の脳の中のことしか見れないのか」と言っていました。僕はそこに「どうして人間は自分の脳の中のことしか見ていないのに自分の脳の外を見ている振りをするのか。」と付け加えた方が良いとも思います。)

それを思えば、先の僕の言葉は言葉としてもまだまだ甘すぎました。僕は、自分の言葉にこのように訂正をしなければならないと思います。

「この世界の現実は、私達の想像以上に絶望的ではあるが、私達の絶望ほどには絶望的でないのかもしれない。」

 魯迅の言葉も、それを翻案した僕の最初の言葉も、それがこの世界の現実を描こうとするつもりでありながら、やはりある種のプロパガンダとしての役割を帯びてしまう甘さがありました。この世界の汚さに絶望して死を選ぶ人間をこの世につなぎ止め、もう少し生き延びさせるための説得の言葉として利用される隙があります。もちろんそのように悩む人々に頑張って生きてほしいという思いを、僕もまた同じく持っています。しかし、現実を偽って自分の願望を相手に押しつける言葉はプロパガンダでしかありません。そのような嘘くさい言葉では、心を痛めるがゆえに生きることに苦しんでいる人々の心には、やはり届かないのです。
 そして、結局大切なのは、この(下線を引いた)「かもしれない。」ということです。「言葉のチカラを信じ」れば、それに向かって頑張ることはまだやりやすいことです。しかし、それはやはり、自分に都合のいい幻想を抱くことで頑張れているだけであり、「言葉にチカラはあるのだ」という思いこみの中で生きる人間を産み出してしまうと思います。言葉にチカラはあるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、そこにチカラがあると思いこむことなく、その「かもしれない」ことに、自分のすべてをつぎ込んで生きていけるか。それだけが、あらゆる局面において、僕達に問われ続けていることであると思います。

 言葉にチカラはあるのか。それはそのように生きていった末に初めて、一人一人にとってわかるかもしれない問いです。自分に何かが伝わっているのかどうかを悩むことも、自分が何かを伝えうるのかどうかを悩むことも、無駄なことです。チカラがあるのかどうかを気にせずに、「これを伝えたい」と思う気持ちという、ほんの小さな芽をのびゆくままに、天井も大気圏も気にせず伸びゆかせ、また地面へと深く深く根を下ろしていくしかないと思います。それはまた、真実へと迫る言葉を産み出すかもしれません。自らの願望を押しつけずに真実に迫ろうとする言葉のみが、言葉と行動との間の壁を壊すチカラとなりうる言葉であると思うのです。
                                           2006年3月5日

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通信第3号


第3回 公園の鳩にえさをやるべきか。

 「読みにくい」「わかりづらい」と皆様のおしかりのお言葉で恐縮するばかりの嚮心塾通信第3号です。今日は一念発起、読みやすくするためにインタビュー形式にてお送りします。テーマは「公園の鳩にえさをやるべきかどうか」です。では、早速鳩さんにインタビューしてみましょう。

僕「こんにちは、鳩さん。」
ハト「クルックー。」
僕「今日は、あなたがえさをもらうことについて、どのように考えていらっしゃるかをお聞きし  たいのですが…。」
ハト「クルックー。」
僕(あ、しまった。鳩語じゃないと通じないな。よーし…)
僕「クルックー。」
……………

ということでインタビューは無事終わりました。以下にそのインタビューの日本語訳を載せます。本当に鋭いことを言う鳩さんで、インタビュー後、僕自身非常に考えさせられ、反省させられました。


僕「鳩さん、こんにちは。今日はいくつか質問や話し合いをしたいのですが…よろしいですか。」

ハト「うん。あんまり時間がないけど、手短にならいいよ。」

僕「手短になればいいのですが…。お聞きしたいのは、先日ここの公園(上野公園です)でハトさんのお仲間にえさとしてパンをあげようとしたら、公園に『ハトにえさをあげないでください。フンの害がひどいのです。』と書いてあったので、あげた方がよいかどうか悩んでしまい、結局やめました。ハトさんはこのような場合、僕にどうしてほしかったですか。」

ハト「そりゃ、えさをくれた方が有り難いよ。」

僕「でも、ハトさん達が所かまわずうんちやおしっこをするのが問題なんじゃないですか。トイレでとはいいませんし、鳥用のトイレなど在りませんが、きちんとどこか決まった場所でしていただければ、フンの害も問題にならないように思いますが。」

ハト「バカいっちゃいけないよ。何でおれ達がどこでもフンをすると思ってるんだ。果物の種を広い範囲で様々なところにばらまいて、そうした植物が芽を出すときに一カ所に固まらないためじゃないか。その種と共に俺達のフンもあるから、そのフンが肥料にもなるじゃないか。こうやって俺達は果物や木の実を食べさせてもらったお礼をその植物にしてるのさ。それに比べて、おまえら人間は何だい。果物の種だって、全部ゴミとして燃やしてしまっているんだろう。果物を食べさせてもらった植物に何の恩返しもしてないじゃないか。その上、無駄な燃料を使いやがって。最近じゃ、おまえ等がいろんなものを燃やしすぎて、地球温暖化とかいうのだって起きてるそうじゃねえか。」

僕「なるほど。おっしゃるとおりですね。耳の痛い話です。しかし、公園の中では実際にフンがたくさんあってこれを掃除するのがとても大変なのです。この点についてはどのようにお考えですか。たとえば、アスファルトやコンクリートの所は避けて、土の地面を選んでフンをしていただければ、こちらとしても助かります。」

ハト「もう、本当に鈍くさいな、おまえは。いいか、よく考えてみろよ。そのアスファルトやコンクリートを勝手に、あらゆるところに敷き詰めたのはいったい誰だ。おまえら、人間だろう。それを敷くときにたとえば、俺達ハトに『すみません。車を走りやすくするために、あるいは靴に泥が付かないようにするために地面をすべてコンクリートで覆いたいのですが、よろしいでしょうか。』とでも聞いたのか。聞いてないだろう。そうやって勝手に敷き詰めておいて、俺達が今まで通りフンを落としたら、汚れるっていって文句を言ってるんだぜ。おかしいだろう。」

僕「たしかに…。」

ハト「もちろん、仮にそうやって聞かれたとしても、俺達は絶対に反対したけどな。だって考えてもみろよ。俺達が果物の種と一緒にフンを落とせば、植物も育つし、土の中の栄養分だって増えていくだろう。それに比べておまえらがやっているように地面をすべて覆ってしまったら、その下の土は栄養分もなくなるし、植物だって生えてこなくなるんだぜ。長い目で見て、どっちが地球環境のためになっているのか、頭の悪いおまえらだってわかるだろう。しかもだ。おまえらがそうやって地面を覆う理由が…なんだっけ。車が走りやすい、とか、靴が汚れないとか…はあ?それって、そんなに大事な理由か。」

僕「そういわれてみると…。本当に自分たちの愚かさに恥じ入るばかりです。ただ、質問のポイントがずれているのでもう一度質問し直させてください。僕の最初の質問はあなた達にえさをあげてもよいのかどうかでした。なるほど、フンの害を理由にしてえさをあげるべきではないと考えるのは、人間の身勝手であることはよくわかりました。しかし、そうでなくてもえさをあげるべきではないとは考えられませんか。」

ハト「なんでだよ。エサをとりにくい環境を作ったのはおまえら人間じゃないか。おまえらのせいでエサを探しても探してもとれなくなって、俺達は仕方なくおまえらのくれるエサを食べているとも言えるんだぞ。」

僕「まあ、落ち着いて聞いてください。たとえば我々人間がエサをやるせいで、鳩仲間の中でみんな無気力になったりはしていませんか。エサを取りに行くのが面倒くさい、だの、どうせ待ってれば人間がエサをくれるんだから、取りに行かなくたっていいじゃないか、とか…」

ハト「ううん…。確かに、それはあるな。」

僕「実は人間同士でも、そういう問題で本当に困っているのです。豊かな国が貧しい国の人々に対して申し訳程度にお金を渡しているのですが、そこでも同じように援助に頼ってしまって貧しい国の人々が自分たちで働かなくなるということが多いのです。あるいは一つの国の中でも、生活保護をすれば、それに甘えてしまって働かなくなるということもとても多いのです。もちろん、それは貧しい国の人々が悪いというのではありません。立場が逆になれば、日本人だってそうなるでしょう。しかし、人間もハトもそのように楽な状況に甘えて努力を忘れてしまう弱い動物だとしたら…どのようにお互いに助け合うということが出来るでしょうか。」

ハト「ううん。困ったな。おまえさんらの方で、何か工夫したりはしていないのかい。」

僕「一応、しています。たとえば、何にでも使えるお金をポンと渡すのではなく、物や建物をつくってそれを渡すことで他の無駄な物を変えないようにしたりしています。また技術指導や教育で一人一人に自分たちの力で生きていけるような力を付けてもらおうともしています。しかし…こうした援助の仕方はお金もよけいにかかるだけでなく、何より時間と人手がかかるので、まず援助をしている側がいやがります。」

ハト「どういうことだ?」

僕「つまり、貧しい国を救うために100万円払え、というのと、貧しい国を救うために1年間向こうで働けという二つの選択肢があれば、ほとんどの日本人は前者(前の方)を選ぶということです。金で解決できるのであれば、わざわざ自分が不自由な思いをしたり、ひょっとすると病気になって死ぬかもしれない方をとる人は、よほど向こうで苦しんでいる人のことを考えている人に限られてしまうということです。実際には人を送らねば解決できない問題が向こうに山積みで金を送るだけでは決して解決にならないとしても、このような事情から援助はお金がメインになってしまっているのです。」

ハト「何ということか…。しかし、それを俺達だってひとごととは言えないな。」

僕「ええ。あなた達だってその日本人のまくエサを喜んで食べているじゃないですか。」

ハト「…では、俺達にどうしろ、と言うのだ。おまえらのせいでエサもとれなくなり、フンも喜んで出来ない。かといってエサをもらえば俺達はどんどん家畜化していく。フンをすれば、フン害だといって怒られる。俺達に絶滅しろとでも言うのか。」

僕「……。」

ハト「ほら、そうやって黙るなよ。おまえらは、『絶滅しろ』とは言わないんだ。ただ、そうやって自分の好き勝手やって、そして俺達が絶滅したら、絶滅した後で悲しむんだろう。心からな。しかし、そんなことはけろっと翌朝には忘れて、また元気に暮らしていくんだろう。ずるいのだよ。ずるすぎる。俺達の絶滅のニュースはおまえらのひまつぶしのためじゃない。」

僕「……。」

ハト「俺達に対してだけじゃないだろう。さっきの貧しい国の人々に対してだって、同じなんじゃないのか。そのままのやり方では決して助けられないなんて、みんなとっくに知っているんだろう。知ってて、でも見て見ぬ振りをして、そして申し訳程度に助けて、そして絶滅したら、かわいそうだと言って泣くんだろう。でも泣いた次の日は、またけろっと忘れて、元気にプレステでもやるんだろう。人間は涙を流せるが、その涙は、おまえらの心を洗い流すためにあるのか。もっと他のことのためではないのか。」

僕「…それでも…何とか共に生きる道はないか、探していきたいのです。」

ハト「おまえの『エサをやるべきか』という質問も、そういうつもりなのか。でも、おまえらがそうやって議論している間に俺達も貧しい人々もバタバタ死んでいく。それでも、その質問を考えることが大事だというのか。」

僕「死んでいくことは何とかしていかなくてはならない。しかし、それでもなお、このことを考えていかねばならない。共に生きていくためには。」

ハト「話にならん。」
…………

インタビューはここでおしまいです。しかし、ハトに投げかけられた問いかけに何とか応えうるためにも、自分の立場からの押しつけや自分の立場からの思いやりを越えて、本当に相手のことを思いやっていいけるように頑張っていかねばならないと思っています。
                                         平成18年1月21日  

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通信第2号

4年も前の文章ですので、話題が古いかもしれませんが、内容はそんなに古くはないと思いますので、
多少我慢してお読みいただけると有り難いです。


第2回 ノミは人間か。人間はノミか。

 今回は「ノミは人間か。人間はノミか。」というタイトルで書こうと思います。ええ、結論はノミは人間ではありませんし、人間はノミではありません。前回と同じおふざけはここまでにして、ではなぜ違うのかということを考えていきましょう。

 「天井効果(ceiling effect)」という言葉があります。何も天井がないところでピョンピョン元気に高く跳ねていたノミ達をふた(ノミ達にとっての天井)のある箱に入れておきます。すると最初は以前のように高く跳ねていたノミ達も天井にゴチンゴチン頭をぶつけている間に「これはアカン」とでも思うのか、天井にぶつからないように跳ねるようになるそうです。それだけではありません。このかわいそうなノミ達を箱から出して、天井のないところにおいても、もう、その箱の中の「天井」にぶつからないような低い位置にしか跳ねなくなってしまうというのです。
 この話を聞くと「なんて人間的な」と思うかもしれません。現に以前テレビで野球解説者の江川卓さんが同じようなことを言っているのを僕も聞いたことがあります。彼は豪華なジャイアンツ打線の中で江藤選手が7番バッターにするオーダー案を強く否定して、こういいました。「江藤を7番バッターなんかにしちゃだめだ。7番にしたら、7番としての打撃しかできなくなってしまう。そういうものなんです。」と言っていました。これもまた天井効果なのでしょうか。勝負の世界に常に身を置いている一流のプロ選手ですら、このようになってしまうのですから、「人間はノミとは違うぜ。」と威張るのも、なかなか難しいようです。ジャイアンツが最近弱いのも、いい選手をとりすぎで一人一人の責任感を働かせる余地がないのでしょう。
 もちろん、人間には自らの置かれた環境に自らを合わせるようにではなく、より高みを目指して努力する姿勢を持つ者もあります。たとえば、画家のポール・セザンヌは「芸術家の仕事はただ自然を写し取ることだけだ」といってひたすらに制作を続けました。彫刻家のジャコメッティは「私は1000年生きたい。1000年仕事を続ければ、私の彫刻ももっとましになるだろうに」と言って制作を続けました。こうした人もいるわけです。また、野球選手でも、たとえばイチローは「去年捕れなかったボールが捕れるようになるとかそういう進歩のために努力をする」と言っていました。こういった人達であれば、大丈夫なのかもしれません。たとえば、イチローならジャイアンツに入っても、結果を残していけるのでしょう。(ただ、イチローがメジャーリーグに挑戦した理由が「日本では物足りない」ことが理由だということを考えてみると、これもまた怪しいかもしれませんが。)

 天井など本当は存在しないのに、自分の心の中で勝手に天井を作ってしまって、それに頭をぶつけないように飛んでいるという状態になっていないか、自分のことを絶えず反省していくことが、私達には必要です。

 もちろんだからといって、「環境に自らを合わせるのではなく、環境を自らに合わせていくことが出来るのが人間だ。」という人間の定義が正しいと思うのも、これだけ環境破壊が進んでいる現状を振り返ってみれば、やはり大きな問題があります。しかし、環境に満足せずに遙かなる高みを目指すというその姿勢は、人間の定義として採用するに足るものであると思います。問題は、「遙かなる高みを目指す」ことはよいとして、さて、高い方ってどっち?ということであるのです。
 重力に逆らってノミが高く跳ねようとするのと同じように、我々も重力に逆らって摩天楼(sky-scraper<天をこする者>)を築き上げるような努力は、まあ言ってみれば地球の中心へと重力が働くという環境の産物でしかありません。地球の中心へと働く重力に逆らって何かを動かすその動きに可能性を感じることは間違っていないとしても、地面から離れることこそが人間にとって、高みを目指すことだ、と思いこんでとにかく地面から離れることに心血を注ぐことは、やはりある一つの方向への努力が自分にいくばくかの自由を与えてくれたからという理由からその方向での努力の価値を信じ続けたいという願望に支配されてしまっていると思います。結局人間がこれほどまでにも不便であることを憎み、便利にしていくことに快感を感じるその心の動きもまた、そうであればあるほど生存に適しているが故にそうプログラムされた一種の走性にすぎないのかもしれません。それは人間を本能の奴隷から立ち上がらせるものの、習慣という第二の本能の奴隷へと鎖をつなぐ先を変えただけであるのです。
 「天井」は上にあるとばかり決まっているのではありません。横にも、前にも、あるいは過去にも未来にも、あるいは人と人の間に、人と物の間に、あるのです。「天井とは上にあるものだから、地球の中心へと向かう重力に逆らい、どこまでもどこまでも上に登っていけば天井効果を免れることが出来る」という思いこみもまた、天井効果を生み出します。たとえば、宇宙旅行に情熱を燃やすアメリカ政府も日本政府も中国政府もホリエモンも、どうしてもそういう思いこみの奴隷であるように僕には見えます。そこに自由は、即ち外界はあるのでしょうか。「宇宙に行くことが人類の夢だ」となどと平気で言えてしまう精神には、どう控えめに見積もっても「ファシズム」としか呼びようのないものを、僕は感じるのです。

 箱から出された後に箱の天井を怖がらないノミが、まだ箱の天井を怖がっているノミ達を「おまえ達は天井効果に負けるなんて、ノミと一緒だな。」と笑っている世の中であるように思います。そのような軽薄な笑いに耐え、重力に逆らうことで我々が四本足から二足歩行をして生きる力を付け、それがこの人間の文明のすべての源となったという事実の恩恵を深く感じ取りながらも、重力に逆らう方向で努力し続けさえすれば天井を突き破ることができるのだ、という思いこみに心を委ねて生きてよいのかどうかを疑い、考え抜くことこそが、我々をノミと分かつ唯一の道なのではないかと思っています。

平成18年1月6日       

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通信第1号

以前、塾で発行していた読み物です。現在、第14号まであります。随時、アップしていきたいと思います。

第一回  洗剤は飲めるか

さて、始まりました。嚮心塾通信。第一回のタイトルは「洗剤は飲めるか」です。
結論は、飲めません。飲んだら、体に悪いですから気をつけてください。

というと記念すべき第一回がもう終わってしまうので、どうしてなのか、もう少し考えてみましょう。小さな頃、疑問に思ったことはありませんか。洗剤は服をきれいにしてくれるのに、どうして飲んではいけないのかな。泥とか「きたない」ものを飲んだり、食べたりするのがいけないのはわかるけど、どうして服を「きれいに」してくれる洗剤は飲んじゃいけないのかなって。今、小さな子を抱えるお父さんやお母さんも、洗剤を『ばっちいから飲んじゃだめ!』と小さい子に注意するとき、ちょっと違和感はありませんか。
 もちろん、これには一応の答えがあります。「洗剤」と僕たちが呼んでいるものは、界面(かいめん)活性剤(かっせいざい)であり、衣服の繊維(せんい)にしみこんだ汚れを繊維から浮かして、水に溶かし出すための薬であり、決して体に無害な物ではないからです。洗剤自体がきれいな(無害な)物ではないだけではなく、「洗剤が服をきれいにする」ということも実は間違っています。洗剤はあくまで汚れを浮かすだけであり、服から汚れを溶かしだして落としてくれているのはあくまで水でしかありません。(ですから、「洗剤のいらない洗濯機」というのも可能なのです。)
 「洗剤はきれいだ」というイメージは、洗剤自体はきれいな物でなくても、それを使って洗濯することで服がきれいになることから、生まれてくるのでしょう。ただ、上に見たように、服をきれいにするから「洗剤はきれいだ」とはとてもいえません。
 当たり前のことを言うな、とおしかりを受けるかもしれません。しかし、これが、案外(あんがい)当たり前ではない。洗剤の混じった水は生活排水として川や海を(以前ほどでないにせよ)汚し続けているのを知っているはずなのに、私達が洗剤を使うことに罪の意識のかけらもないのは、案外「洗剤はきれい」というイメージがしみこんでいるせいかもしれません。

 こんな例は他にもありますね。日本の植民地政策が戦後の韓国経済や台湾経済の発展の基礎となったとしても、日本によるそれらの地域の植民地化が正しかったとは言えません。各家庭では「きれい」を生み出す洗剤が、それそのものは有害であるように。悪意が良い結果を生むことも、善意が悪い結果を生むこともあるからといって、結果の良し悪しから元の悪意を反省しない、あるいは善意をくみ取ろうとしないことはやはり乱暴な態度でしょう。
 タミフルを飲めば副作用が出て「危険」だとしても、タミフルを飲まないでインフルエンザで死んでいくことが「安全」なわけでもありません。もちろん、逆もそうです。ここで僕達は「確率」という不確実なものにたよることになっていますが、どんな場合にも「きれいはきたない、きたないはきれい。」ということがあり得ることを考えていなければならないでしょう。
 これらを見てみると、洗剤の場合には当たり前に思えていたことも、自分達が普段(ふだん)簡単に確かめることの出来ない専門的なことや大局的なことになってしまうと、やはり「服をきれいにしてくれるのだから洗剤はきれいだ」的な思いこみが大きな力を持ってしまうと言えるでしょう。


 シェークスピアの作品『マクベス』の中に出てくる魔女達が『fair is foul , and foul is fair』(みんなこの言葉の意味がわからずに苦労して訳しています。たとえば「きれいは汚い、汚いはきれい」は福田恆在訳)と言い、主人公であるマクベスの心を乱し、彼の後の人生を暗示します。しかし、この言葉は人の心をかき乱すための徒(いたずら)な言葉ではなく、むしろ真理の一側面を見事に貫いているからこそ、人の心をかき乱す言葉であるように思います。

 冒頭(ぼうとう)にあげた「洗剤は飲めるか」という問いに対する答えは簡単です。しかし、なぜ、そのような誤解が生じるのか、あるいはそのような誤解を私達は他にしていないか、ということについて反省してみることが大切です。「洗剤はきれいだ」という思いこみは、服と洗剤と水とを区別しないで何となく全体に「きれいだ」というイメージや言葉を貼り付ける、その幼稚な乱暴さのせいです。そのような乱暴さがあるからこそ、幼い子供は言葉を覚えていくとさえ言えます。言葉によって何かを切り取り、それをその名前で呼ぶことには、「概念(がいねん)の創出」だけでなく、その「概念に収まりきれないイメージの捨象(しゃしょう)」が必要であるからです。(だから「言葉の発達が早い子」というのは「言葉をつくることと(言葉にならない)イメージを捨てること」ができるというだけで、それがかしこさの本質を示していると考えるのは偏っています。感じる物が豊かであればあるほど、それを軽々しく言葉には出来ないでしょう。)
そのある「概念の創出」が仮に現実の一側面を正しくうがっているとしても、それと同時にその概念によって捨てざるを得なかったことや、捨てるという意識すらなく見落としてしまったことに対しても心を配り、何とか拾い集めていこうとしていくのでなければ、結局単純な概念や単純な信念へと自分の心を委(ゆだ)ねるしかなくなります。私達はそのような失敗に対して、本当に注意を払って行かねばなりません。そのような薄っぺらな見方で定義される「幸福」や「正義」が、どれほどの暴力を生みつつあるのですから。

 もちろん、マクベスの魔女のように「すべてのfairとされるものはfoulでしかない」とか、「すべてのfoulとされるものこそがfairなのだ」といっても、この社会から一定の距離を置くことで自分の「立ち位置」を決めたがる人間の衒(てら)いのように聞こえてしまうでしょう。また、実際にそうであることも多いです。しかし、だんだんと衒(てら)いになってしまったその言葉も、その始まりは、何らかの真実味のある抗議であったとは言えないでしょうか。そのような衒(てら)いの群れにうんざりしたからといって、「洗剤はきれいだ」的な乱暴なくくり方に心を委(ゆだ)ねることはやめたいものです。論理などゼノンのパラドクスを引くまでもなく、その一つ一つの要素の抽出(ちゅうしゅつ)の仕方によっていくらでも現実を裏切ることが出来るのですから。
 
何らかの論理や、何らかの概念を通して目の前の現実を見ざるを得ない人間の愚かさを自覚しながらも、それでもその見方では抜け落ちる物を何とか見取るために、一つ一つに、じっと、目を凝(こ)らしていきたいものです。

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