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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

受験の極意!?ぬりえ方式。

嚮心塾では入塾テストをしていないのですが、もし行うなら時間制限を作って「塗り絵テスト」などをしてみるのが良いかもしれません。これは、文字通り塗り絵を、キツめの制限時間で塗ってもらい、色を塗らなければならない部分の面積の何%を制限時間内で塗ることができるか、「全体の面積の中で塗れた面積が大きいほど合格!」というテストをします。

このようにテストをした場合、一人一人様々な塗り方をするとは思います。ただ、東大受験生、あるいはもっと純粋に理三受験生に塗らせた場合、まず間違いなく、同じ色で塗ることができる領域を一番大きいところから順に塗っていくことになると思います。逆に色をちまちまと塗り分けなければならない細かい領域については、必ず最後に回すでしょう。これを「賢い」と呼ぶのか「せこい」と呼ぶのかは評価が分かれるところだとは思うのですが、単位時間の中で最大のパフォーマンスをあげようとすればそのようにした方が効率が良くなりますし、受験に強い子ほどに、ここに関してはやり方が一つに収斂してくるように思います。

このやり方がこのようなテストにおいてなぜ最適かと言えば、人間の脳みそというのはどうしても様々なことを念頭においた状態では(アプリケーションをたくさん開いているパソコンのようにメモリを食って)処理速度が遅くなるからです。塗り始め、というのはどこを塗っていたとしてもまだ塗り終えていないところまで早く到達しなくては!そもそも到達できるのか?と様々なことが不安になってしまいます。そのように不安を抱えた状態でさらに脳に負荷のかかるような細かいところを塗ろうとしても、なかなか正確には塗ることができず、結局そこに時間がかかってしまっては広いところを塗り終えられなくなってしまいます。だからこそ、このような課題の場合、まずは広い領域からどんどん塗っていくことで精神的な不安を減らしていき、より眼の前の課題に集中できる状況を作ってから、より細かい作業へと移ることが大切です。

塗り絵の話はわかりやすいのですが、これが受験になると、なかなか実践されていません。
だからこそ、これこそが受験において一番大切なことであると嚮心塾では考えています。嚮心塾版「受験の極意」ですね。入試においても上の塗り絵の例と同じように、一周目では決して深追いをせずに、自分の脳への負荷が小さい問題から順に解いていき、難しい、めんどくさい問題などは深追いをしないことが大切です。なぜなら、人生がかかった入試においては、答案が埋まっていない状態ではどのような実力のある受験生でも、冷静な判断などできるわけがないからです。そのようにして、1周目にさらっと埋められる問題がしっかりと埋まってからだと、飛ばした問題に2周目に取り組むときには、1周目とは比べ物にならないほど、目の前の問題への集中力が高まります。だからこそ、1周目にわからない問題に粘ることは愚策でしかありません。

また、この解き方には別のメリットもあります。「難しい!」と思って飛ばした問題が実は受験生の勘違いや問題文の読み間違いで実は簡単な問題なのか、それとも本当に難しくて手が出ない問題であるのかを見分けるのが合否の分かれ目です。しかし、1周目で「難しい!」と思った問題を同じ1周目で粘ってもう一度読み直そう!としても、そこでは先ほど読んだばかりで前の解釈が頭に残っているため、読み直したつもりでも当然前の解釈に引きずられてしまい、せっかく読み直しても結局同じように「わからない!」となってしまうことになります。しかし、1周目で飛ばして他の問題を解いてから戻ってきて2周目を解けば、先程問題文を読んだときの解釈は忘れているので、問題をもう一度読み直すときに自らの勘違いや読み落とし、読み間違いに気づくことができます。この点からも「1周目に深追いせずにさっさと飛ばして、一通り解ける問題を解いてから2周目にもう一度考える!」というこの作戦は非常に有効です。(ちなみにこれは「一周目で粘って問いちゃった方がリード文とか設定を再度読み直さないで済む分、時間短縮になる!」という主張への反駁にもなっています。合格ラインをはるかに越えた実力を持つ受験生であっても、この種の読み間違いや勘違いを入試の最中にどうしてもしてしまうものです。だからこそ、そのような読み間違いや勘違いに気づくための作戦が必要であるのです。)

嚮心塾で勉強を教える以外にやっていることはこれだけです。もちろん、この解き方には受験生一人一人で向き不向きがあるので、一人一人に最適化していけるように、細かな点でカスタマイズはしていきます(たとえば、2周目にはどのくらい粘るのか、を飛ばした問題の多さによって変えることなど。このあたりも解き方が単純であれば単純であるほどに、受験生の脳への負担は小さくなるので、「最も点数が高くなる解き方」と「最も解き方自身に頭のメモリを使わなくてよい解き方」(プログラミングで言えば、「行数の少ないコードで表現できるか」ですね!)の2つのパラメーターの中で最適解を一人一人に探していきながら決めていくことになります。)。ただ、どのようにバリエーションをつけるとしても「1周目でしっかり粘ってバチッといい点をとろう!」というやり方には絶対にしません。それくらい、入試において1周目の精神状態というのは異常なものであり、その状態で難しい問題やめんどくさい問題に取り組むことは自殺行為であると思っています。

ちなみに、なのですが、この話を書くと(細かいカスタマイズはともかく、「しんどい問題を飛ばす」ことについては)恐らく「そんなの、当たり前じゃん!」という子たちと「ええ!?そうなの!」という子たちとにきれいに分かれます。僕自身、こんなことは自分が受験生のときには(もちろんそうした方がより良い理由がここまで言語化はできていなかったものの)当たり前のことと思っていました。この点において、恐らくいわゆる「有名進学校」の生徒と「それ以外の学校」の生徒との間でスキルの差が大きいのかな、と思います。ただそのスキルの差というのはなかなか可視化されない(有名進学校ではみんな当たり前のこととして自分で勝手に身に着けてやっている一方で、それ以外の学校の子たちはそのような無形のスキルを学ぶ場がない)からこそ、有名進学校以外の子たちが真面目に勉強して力は十分にあってもなかなか東大や医学部に合格しにくい、という差がついてしまうようにも思っています。その差を嚮心塾では何とか埋めたいし、そのためにもこのように勉強以外の様々な要因をも徹底的に言語化し、伝え、鍛えていけるようにしていきたいと思っています。国公立入試は最後の追い込みです。一人一人の受験生が本番で力を出せるように、最後まで徹底的に考え抜いていきたいと思います。

(なので、最初に書いた「制限時間つき塗り絵テスト」を入塾テストにした場合、現状で同じ偏差値であるなら、ちまちました難しいところから塗ってしまう子の方が、やり方を変えるだけで一気に伸びる、ということになります。実はこういう「偏差値○○アップ!」は見る人が見れば、とても簡単に達成できてしまいますがまやかしです、というお話でした!)

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月4万円で医学部に!「激安」医学部受験。

私立医大受験もいよいよ佳境になってきています。ここまでに私立医大を受けている塾の浪人生たちは全員がどこかの私立医大で1次合格をしているので、思い通りではないにせよ、まずまず順調であるとは言えます。もちろん2次試験に通るかどうかは予断を許しません。最後までしっかりと対策をしていきたいと思います。

しかし、その浪人生たちも高3の秋時点では本当にひどいものでした。みんな(? 一人怪しい子もいましたが!)真面目に勉強はしていたものの、全く学力が足りなく、何をしていいかが全く間違っている、というところからこちらがアドバイスして努力を積み上げて、そしてこのレベルにまで来ました(去年医学部に合格した子もそうでした!彼の高校では少なくとも過去10年間医学部合格者はいませんでした)。そもそも嚮心塾から医学部を目指す子たちのほとんどは、高校も有名進学校ではないこと、あるいはそこに在籍していても成績が極めて悪い状態から地道に鍛えていき、私立医に受かるレベルにまで達していることを考えると、彼ら彼女らのその努力には本当に頭が下がります。それと同時に、適切な方向へと努力を積んでいけば必ず学力はつくもので、そのことをほとんどのケースでは見殺しにしておきながら「うちの学校からは無理」「君の今のレベルからは無理」という「呪いの言葉」を垂れ流してしまっているのだと思います。

医学部受験は異常に過熱していて、医学部受験のためだけの予備校の学費は高いところだと年間300万ではきかない(年間400万、500万もザラです。。)中、月に4万円のお月謝(年間48万円!)でこれだけ鍛えられる塾というのはなかなかないとは思うのですが…。面白いもので、安すぎて「こんな塾じゃ受からないんじゃない?」と怪しまれ、あまり医学部受験生が集まらないという悲しい運命を嚮心塾は辿っているようにも思います。そもそも私立医学部が学費がバカ高いからこそ、それを賄えるご家庭というのは経済的に余裕があるわけで、その受験を「年間48万円で鍛えて必ず合格させます!」というのと「年間500万円で鍛えて必ず合格させます!」というのでは(教育内容がわからない保護者の方には)信頼度が違うわけです(彼女の誕生日にレストランに行ってお店の人に「この1万円のワインはこちらの10万円のワインよりもはるかに美味しいです!」と仮に薦められたとして、そこで1万円のワインを選べるか、という問題ですよね。。高い方を買っておけば仮に失敗したとしても、お金を出す自分(親)の努力が足りないせいではなくなり、受験生本人、あるいは高い医専予備校のせいにできる。受験でも親御さんのそのような心理が結局このような学費の高騰を招いてしまっていると思います。もちろん、高い学費を払っても全くうまくいかないケースも多々あるわけで、だからこそワインと違って塾はしっかりと選ぶべきだと思います。)。
塾のマーケティング戦略としてはむしろ「プレミアム東大・医学部コース」とか名前をつけて、お月謝は通常の倍の8万円です!などとやるともう少し信頼してもらえるのかもしれません(それでもまだ比較するとだいぶ安いですが)。

でもいいんです!!大切なのは医学部に行き、医者になっていく彼ら彼女らが、くだらない特権意識を持たずに受験に受かる、ということだと思います。自分の努力は周りの人の支えや環境の良さがあったからこそ形になっただけなのに、それがあたかも自分の努力であるかのごとく勘違いしては、人生がうまくいかない人を「努力の足りない人」と見下すことがないように、他の受験生と隔絶した空間としてではなく地続きの空間として嚮心塾があり続けることが大切なのではないか、と考えています。(もう少し嚮心塾にも医学部受験生が来てもらえるとなお嬉しいですが!)

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「かわいそう」に逃げ込ませるな。

入試というのは残酷なもので、一点差で落ちても大差で落ちても不合格は不合格です。だからこそ、不合格が続くと自分のこれまでの努力を全否定されたような気持ちになってしまい、「どうせ努力しても無駄なんだ。。」「こんな結果になるのなら、努力なんかしなければよかった。。」「そもそもあんなどうしようもない塾に通ってるから、不合格になるんだ。。」などと、否定的な考えへとどんどん落ち込んでいきます。

ただ、不合格が続いたとしてもごく僅差で届いていないだけかもしれません。ここで大切なのは「どうせ努力しても受からない」と諦めることではなく、「どこを復習すれば入試でもっと点数を取れたか。」「どのような失敗を入試では防ぐべきか」です。もちろん、自分だけでそのように気持ちを切り替え、かつやるべきことへと意識を集中していける受験生、というのはあまりいないので、そのためにこちらは様々な説得をします。その中でよく僕が話すのが、「『かわいそう』に逃げ込むな!」という話です。そのようなキツイ状況はご家族から見れば、どうしても「かわいそう」だからこそ励ましたり、何とかケアをしてあげなきゃいけない、と思いがちです。ですが、そのように励ましたり気を使ったり、とすればするほどに受験生本人は自らの被害者意識をこじらせて、「今何をすべきか。」という当事者意識を持てなくなっていってしまいます。そのように受動的になっている受験生ほどに、次の入試も失敗する可能性が高まります。だからこそ、こちらは心を鬼にして叱咤激励をしなければなりません。

自分が勉強面で次の入試に向けてできる復習はないか、今までの入試でした心理的な失敗をどのように防ぐか、次の入試にはどのような心持ちで望むのか、次の入試対策として苦手分野の復習以外にやるべきことはないか。それらすべては、「ここまでどこも受かっていない自分はなんてかわいそうなんだ。。」と浸っているうちには何一つできないことです。落ちるのは自分のせいだと考えれば、自分が何かしら今足りていないところを埋める努力をしようと思えるようになり、合格する可能性は必ずそれをしないときよりも増えていきます。そのように最後まで諦めない受験生こそが最後の最後に合格する、ということを可能にします。

結局自分の人生で招いてしまった失敗をどこまで「自分のせい」と思えるかどうかが勝負を分けることになります。もちろんそれを他人のせいにするためのロジックなどいくらでも作ることができるでしょう。「塾が悪い」ということにしたければしてもらっても構いません。しかし、それでは受かりません。「自分は正当な努力をしたけれども塾が悪いので落ちた」と思っている受験生は、自分の改善点を見つけられないからこそ、次の入試も同じように失敗する可能性を払拭できません。しかし、そこで今までの入試で自分が何ができていないか、どういう失敗をしてしまっているか、そういったところを必死に探し、埋めようとしていく受験生は次の入試をそれらの点を修正した上で受けられるわけです。その差が合否として現れます。だからこそ、こちらとしては「かわいそう」に逃げ込ませるわけにはいかないのです。

必死に努力をしてきた子でも結果が出ないことはもちろん入試においてはあります。しかし、一年間必死に努力してきたということは、今現実から逃げて良い理由にはなりません。一年間必死に努力してきてもなお、今この瞬間にダメな自分、足りない自分を見つめて歯を食いしばって頑張れるか、が勝負を分けます。そのことを伝えるために、疎まれても嫌われても必死に喋ろうと思います。

そして、何より受験生本人に対して思い出してほしいのは、そのように逃げ腰になって、みんなに慰めてもらって「自分は悪くない!」と言い張ったりごまかしたりしても、入試にそれは通用しません。入試は君の周りの人ほど君を特別扱いして慰めてくれません。あくまで点数という観点から公平に、即ち冷酷に判断するものです。だからこそ今君がやるべきことは、立ち上がって戦うことです。その一番キツイ状況でそれでも立ち上がって戦えるかもまた、「この1年の努力」の中に含まれているのだ、ということを肝に命じて頑張って欲しいと思います。

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「合格しよう!」と思うな。タスクフォーカスの大切さについて。

昨日でセンター試験が終わりました。結果が良かった受験生も悪かった受験生もいますが、いずれにせよそのことを引きずっていても意味がありません。まだできること、次にできることに集中していくことが大切だと思います。

前号くらいの『ハイキュー』(大人気のバレーボール漫画です!)にタスクフォーカスの話が出ていました。これは「自分にコントロールできないことまで含めて良い結果を出そう!」と考えれば、当然迷いや悩みが増えることでパフォーマンスが低下して、結局結果も出せなくなる、という状況を避けるために、自分がコントロールできることに集中する、という意味の言葉です。(古くはイチローさんがよくこのような内容を話していました。「首位打者をとれるかどうかは自分にはコントロールできないことなので、自分が今打てなかった球をどのように打つかだけに集中している。」という一見そっけなく聞こえるあのコメントが、タスクフォーカスの好例でしょう。)

そしてスポーツと同じく受験においてもこのタスクフォーカスが重要です。「合格しよう!」というよくある意気込みは、受験における合格が他の受験生との相対評価であることを考えれば、自分にはコントロールできない状況までを目標に含めている、という点でタスクフォーカスができていないわけです。そのように目標設定をすれば、当然当初の目論見からのズレに対して精神的に修正が効かなくなってきてしまいます。

では、「自分は良い点をとろう!」はタスクフォーカスできているのでしょうか。それも違います。受験は相対評価であり、自分が良い点をとれなかろうと、他の受験生と比べてそこそこであれば合格できます。
そして、大学受験においては問題の難易度を大学の先生が「間違える」ことは多々あるので、
自分が全然できていなかったとしても、他の受験生ができていなければ合格します。
それなのに「良い点をとろう!」という目標をもってしまっていると、現実の試験でそれが実現できなそうになったとたんに諦める気持ちが生まれてきます。その諦めの気持ちがあるせいで、その後頑張ればうかっていたとしても、
結局粘れず落ちてしまうことになります。

だからこそ、受験においてのタスクフォーカスした目標設定とは「自分にできる問題は見逃さないようにしよう!」ということです。実力があれば、それができれば受かります。それができてもなお、不合格になるとすればそれは自分の実力が足りないからであり、自業自得です。自分の実力以上に出して合格しようと思うことがすべての間違いであるのです。

と、口で言うのは簡単です。それを自分の人生がかかった大勝負のときに、それができるようにするためには「自分にできる問題は見逃さないようにしよう。それがしっかりできて落ちたなら落ちてもしょうがない。」と受験生本人が心底思える状態にならねばなりません。そのときに一番障害となるのが「何とかして受かってほしい」という周囲の期待と「受かって早く受験を終わらせたい」という受験生本人の願望です。もちろん受験生本人はそのような願望と常に戦わざるを得ません。だからこそ、周囲の期待を受験生本人に伝える(言葉で言わなくても、お守りを渡す、とか無言のプレッシャーはありますよね。。)のは愚策中の愚策であるのです。

「合格するための一番の近道は、合格しようと思わないこと。」などとまとめると禅問答っぽいのですが、これはタスクフォーカスという観点から見ても正しいといえるでしょう。

さて。終わったセンター試験の点数は良かろうと悪かろうと、今さら変えることはできません。
それについて悩んだり、もっと取れていればと悔やんだり、あるいは良い点数で喜んだり、というその全てが
自分がこれ以上コントロールできないことに思考の対象を向けている時点で、やるべきことをやれていない、
タスクフォーカスができていない状況だとも言えるでしょう。だからこそ、これからできることに目を向けて
そこに時間を必死に費やしていくことが大切です。

どのような絶望にも、最終的な絶望などはありません。絶望のその先にこそ、可能性がある。
それを見逃さないように、前を向くことが大切です。一人一人の受験生がそのように思えるように、
こちらも全力を尽くしていきたいと思います。

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中学受験を地獄にしないための2つのポイント。

中学受験も真っ盛りのシーズンになってきて、塾でもその対応に追われています。首都圏では埼玉受験が始まり、2月1日からの東京受験に向けて、どの受験生も最後の追い込みをしているところだと思います。

首都圏では中学受験が過熱しているため、中学受験をさせなければ不安であるのとともに、それに必死になるあまり親子関係が崩壊したらどうしよう、という懸念も親御さんの中には多いと思います。また少し前にバズった東大生の記事のように、中学受験というとどうしても「暴力をふるってでも親が子供に無理やりさせる」というイメージが強く、また実際にそのようなケースも多々あるため、中学受験をさせるにしてもさせないにしても悩ましいところです。

しかし、僕は2つのポイントを満たせば、中学受験は必ず子供の成長にとってプラスになると思っています。もちろん毎年中学受験生を抱えている受験塾の経営者がこんなことを言っても「そりゃ、お前が儲かるからだろ!」という話になるわけですが、その満たすべき2つのポイントを書いていきたいと思います。塾選びの参考にしていただけたら嬉しいです。

①家で宿題をしない。させない。

中学受験に詳しい保護者の方であれば、これを①に持ってくる時点で「非常識なことを!」とお怒りになるかもしれません。しかし、これは絶対条件です。先に上げた中学受験が親子関係を破壊する一番の原因は、「膨大な量の宿題を塾から出され、それを家で子供にやらせようとして母親と子供がどんどん険悪になっていく」ということです。塾で勉強して疲れて帰ってきているのに、家では塾から出される膨大な宿題を(殆どの場合)母親に無理やりやらせられることで、子どもたちはストレスが爆発します。それを避けるだけでも中学受験の結果、親子関係が崩壊して家庭内暴力に至ったり、せっかく中学受験に成功したものの、お子さんが勉強にウンザリしてしまって中高6年間を少しも勉強しないで過ごす、ということが避けられます。

教える側から見ても最近の中学受験塾の宿題はあまりにも多すぎると思っています(「ブラック中学受験塾」ですね。)。とりあえずあれもこれもやらせておけば!と雪だるま式に膨れ上がり、結局真面目な親御さんほどにそれをお子さんに消化させるので精一杯で精神的にすり減っていく、という悲劇を生んでしまっていると思います。

また学習効果の観点から見ても、たくさんの宿題をイヤイヤながら何とかこなす、ということはその勉強の質が非常に悪くなる(子供は無理やりさせられたときに目の前の勉強に頭を使うことはできません。)ため、効果もとても低いものになります。親子関係を崩壊させ、嫌がる子供のために「子供の将来のためには仕方ない!」という決意で無理やり大量の宿題をやらせているのに/から、成績はどんどん下降していく、という悲劇的な状況を僕も教える仕事についてから何度も見てきました。この状況だけは避けねばなりません。

だからこそ中学受験塾を選ぶときにはまず宿題の量を聞いて確認し、宿題が多くない塾、できれば宿題がない塾を探すべきです。嚮心塾はそのような観点から家での宿題をほぼゼロにして長いですが(ちょびっと宣伝!)、大手でなくても同じような問題意識をもってそのような指導をしている中学受験塾はきっとあります。それを探すべきです。

また、どうしても自宅の近くには宿題の多い大手塾しかない、という場合にはその塾に通うとしてもご家庭でやる宿題を厳選して「宿題をすべてやらない」ということが大切です。目安としては1日30分くらいで終わる量を上限にして、それを毎日繰り返すというのがよいでしょう(塾によっては5分の1〜10分の1くらいになります!)。またレベルとしては基礎的なものに限ることが大切です。これは基礎的なものから発展的なものまで全てをムリヤリ宿題で一周するよりは基礎的なものを3周する方が学習効果は高いからです。また、発展的なものであればあるほどにお子さん自身が解けないこと、さらにはそれをご家庭で教えようにも教えられないこと、さらに発展的なレベルの宿題に時間をとられて勉強時間が長くなること、など様々な宿題由来のストレス要因が増えてしまいます。「宿題は量もレベルも徹底的に絞って、それを繰り返す」ことが大切です。

②模試であれ、受験であれ、出てきた結果に対して絶対に叱らない。

たとえば職場であなたが一生懸命している仕事で結果が出なかったときに、上司から「結果が出ないのはお前が真剣に仕事していないからだ!」と言われて「その通りだ!」と思えるでしょうか。悪い結果がでたときに「一生懸命さ」「努力」を問題にすることは、まずパワハラであり、仮に厳しい言葉を使わなかったとしてもそのような評価のされ方をすれば、当然部下としてのあなたは「この上司、無能だな。」と思い、仕事へのモチベーションが更に下がることは間違いないでしょう。
有能な上司は結果が出なかった原因を分析し、その対策を一緒になって考え、その上で部下の方で改善すべきポイントがあればそれを具体的に指示するものです。決して部下に「一生懸命さ」「努力」を強要したりしません。

しかし、この当たり前のことが、中学受験においてご家庭で守られることは極めて少ないです(「ご家庭で」だけではなく、中学受験塾自体でもこのようなパワハラまがいのことをしている場合もあります。)。。結果が出ないときはまず間違いなく、勉強法が悪いのです。決してお子さんを叱って改善する問題ではありません。そこを親御さんだけではわからないとすれば、通っている塾で聞いていくのが良いでしょう(この際に「気持ちが足りないんです!」と根性論を唱える塾、さらには「うちで出している宿題を全部やれば大丈夫!」という塾は怪しいです。勉強がうまくいっていないときに、勉強をより網羅的にやろうとするのは下策中の下策であるからです。勉強がうまく行っていないときはとにかく勉強内容を基礎的なレベルのものに絞り、それだけを徹底することが大切です)。

このように結果が出ないときに叱られ続けることで、子どもたちは勉強へのモチベーションを失っていきます。それは最初に出した例を考え合わせれば、大人も理解しやすいことだと思います。さらには親御さんはお子さんと接する時間が長いからこそ、子どもたちの勉強していない時間の粗(あら)ばかりが目についてしまいます。しかし、自身を振り返れば家でもバリバリ仕事しないでリラックスする時間ありますよね?子どもたちが家でリラックスできない、その状況がいかに異常であるのかについてしっかりと考えなければならないと思います。そのようなとき、家庭はパワハラの横行する「ブラック家庭」になってしまっていると思います。

結果が出ないときに絶対に叱らないこと、その暇があれば、勉強方法の中での改善ポイントを探すべきであること、決してそれをお子さんの努力不足という理由にしないことが大切です。そして、中学受験塾は根性論や「うちのカリキュラムに従って宿題を全てこなせば大丈夫!」(この言葉はつまり「私にはお子さんが力がつくための理路がわからないし、探す気もありません」という意味です)それを一緒に探してくれる塾を選ぶべきです。


以上の二点を厳守するだけでも中学受験はかなり「地獄」になりにくくなるはずです。
中学受験など、一つの手段であり、決して目的ではありません。
卑俗な人生設計という観点から見たとしても重要なのは大学受験であり、中学受験はそのための手段でしかありません。
大切なのは、中学受験を通じて、お子さんが勉強する意欲や姿勢、またその方法を鍛えていくことであり、それは一生を通じて学ぶことの一つの土台となっていきます。その先に勉強する意欲を根こそぎ刈り取ってしまうような中学受験はどのような観点からも有害でしかないからこそ、上記の2つの特に重要なポイントを守って行われるべきだと思います。

そんな塾なんてない?いえいえ、嚮心塾はこの方針でずっと中学受験対策をやっています(2回めの宣伝)!しかし、嚮心塾にかぎらず、探せばお住いのお近くにそのような良心的な塾は必ずあります。ここでも大切なのは「中学受験塾で宿題がないなんて!」という常識を疑う勇気であると思います。

その上で、その地獄のような中学受験の結果、苦しみ傷ついてしまい、勉強への意欲を失ったお子さんは、是非嚮心塾に通っていただけたら嬉しいです。自分が勉強していくことは、親の名誉欲を満たすためだけでも「将来安定した職業」に就くためだけでもなく、純粋に自分の人生を豊かにするものです。たとえ強制から始まり、散々苦しまされてきたとしても、しかし勉強に罪はありません。どうか勉強自体を嫌いにならないでいただきたい。自分の人生を台無しにすることが自分をひどく苦しめた親への仕返しだなんて思わないで、あなたの人生をあなたのためにこそ大切にしてほしい。
そのためにこそ、こちらも出来る限りのことを尽くしていきたいと思っています。

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進学先としての学習院大学がお薦めな理由。

毎年毎年、受験生に学習院大学をお薦めしては、その親御さんに「そんなGーMARCHでも影が薄い大学、絶対に許しませんからね!」と怒られる、という経験ばかりですので、この機会にそのお薦めの理由をブログに書いてまとめておきたいと思います。

学習院大学がお薦めの理由
①教授の質が(異常に)高い。
学習院大学といえば、誰を思い出しますか?そう、田崎晴明先生ですよね!その圧倒的な実力、ユーモア、幅広い(Perfumeに限らない)教養、わからないことに対する謙虚な姿勢、そして教育にかける情熱、どれをとっても本当に素晴らしい先生だと思います。Caltechの大栗博司先生の『数学の言葉で世界を見たら』という今度出る本でもわかる通り、一流の物理学者というのは数学もめちゃくちゃできるわけですが(大栗先生は数学科の先生でもあります)、田崎先生も大学で物理を学ぶ人のために大学範囲の数学の教科書を自力で書いて、しかも無償で配布されています(先ほどのWebページにあります。)!数学の教科書を書くことができるという実力だけでなく、それを既存の数学の教科書がわかりにくいので、自分で書いて配布してしまおうというその姿勢は本当にすばらしいと思います。
他にも数学なら飯高茂先生がつい最近まで教えておられました。どの学部でも粒ぞろいだとは思うのですが、特にこの学習院大学理学部の教授の豪華さといったら、下手に早慶に行くよりよっぽど良いのでは、と思ってしまうくらいです。
 また、文系でもたとえば学習院大学の法学部の先生は、ちょっと前まではほぼ僕が東大で習っていた先生(東大名誉教授)ばかりでした。東大を退官して学習院にというおきまりのコースから「東大の養老院」と言われたりするわけですが、そもそも若手の先生たちもこれから東大教授になると見られている人(優秀とされている先輩たち)ばかりです。だからこそ、「東大教授は実力がある」という命題がもし正しいのなら、学習院大学でもほぼ同等の教育を受けられるということになります。しかも、東大より少ない学生数で、です。

②付属の高校が少ない。
「先生は大切だけど、周りの学生のレベルも大事だからね。」というのがよく言われることです。
しかし、学習院大学の学生のレベルは本当に見劣りがするのでしょうか。たとえば学習院大学は付属の高校が2つしかありません。それに対して、たとえば早稲田大学は付属・系属の高校が7校、慶応大学は付属の高校が5校あります。その付属上がりの大学生が多いことを考えれば、そして付属上がりの大学生が一部の上位層を除いて受験生ほどには勉強をちゃんとしてきていないことを考えれば、そんなに平均的なレベルは変わらないと思います。(話は脱線しますが、僕は大学受験を本当はすべての高校生に義務化すべきだと思っています。18歳くらいで必死に努力した経験、というのはやはりとてもその後の人生にとっても大きいと思います。もちろん、スポーツ、芸能活動、将棋(中村太地さんは早実→早稲田政経ですね)、囲碁、その他の自分を大学受験以上に研鑽しなければならない他のことで忙しい中での進学であればよくわかるのですが。そういう特例のみを認めるべきだと思います。実際には「付属校ビジネス」に大学側が走っては系列校を(無分別に)増やしていくということが、特に最近は多いと思います。早稲田や中央のことですが。このまま、すべての中学か高校が早稲田か慶應の系列になってしまったら面白い(!)ですね。(横浜駅SFの)すべての駅が横浜駅になってしまうかのように。)

そもそも、「周りのレベルが低いと刺激が少ない」という理由で勉強をしないような大学生自体が、間違っているといえば間違っています。そんなことを言えば、日本では、東大か京大以外は進学する意味がありません。刺激を与えられる層というのは、どんなに失敗しても東大入試や京大入試で落ちようのない層であるからです。そのような層は早慶には決していません。さらに言えば、これから東大京大を蹴ってHarvardだのYaleだのに進学する層が増えていけば、今度はそっちを目指すのでしょうか。一つ言えることは、他人から刺激をもらわねば頑張れない人間は、おそらくどこに行っても二流である、ということです。これを理由として学習院を蹴るなら、そもそも早慶も蹴らねばなりません。東大や京大だって世界中から集まるIvy Leagueに比べれば刺激が少ないでしょう。優秀な同級生を求めて、そこまで行きますか?僕は、そのような動機で進学している時点で、どこに行こうと二流であると思います。日常の中で、努力をしなければいけない理由や問題を自分で見つけてはそれに取り組むことが何より大切ではないでしょうか。

③就職に強い。
「そんなこと言って就職に強くなければ」というのもまた、どこの大学を出たかが就職のための必要条件となっている日本では重要だと思います。しかし、学習院大学の就職内定率は2013年度で96.5%です。これは、早稲田大学の学部での就職内定率95.7%と比較しても見劣りがしないといえるでしょう(ちなみに、青山学院大で80.4パーセント、立教大学で79.6%です。)。さらに、この「就職内定率」は母集団が問題になります。ほとんどの学部生は大学院に進むか就職活動かを天秤にかけながら、就職がうまくいかなければ大学院に進みますが、その場合は(結果として大学院に進んだということで)母集団から外してカウントしているでしょうからです。全学部生に対しての就職希望者の割合は学習院大学で78.2%、早稲田大学で68.6%なので、院進学に流れる割合も学習院の方が10ポイントくらい低い中でのこの就職内定率はかなり高いといえるのではないでしょうか。

④まとめ
ということで、学習院大学はお薦めです。なので、塾で塾生にお薦めした際に、是非僕に石を投げないでいただけるとありがたいです。大切なのは、①の要素については調べにくいのでなかなか親御さんにわからないのも当然だとは思うのですが、②や③の要素については公開されている情報である程度調べられるわけで、それを調べないで自分のもっているイメージと世間で通用している名前だけで判断されてしまうことであると思います。もちろん、この僕の主張も、もっと細かく調べていけば様々な欠点が見つかるかもしれません。そのように「名前で門前払い」ではない建設的な議論は大歓迎なのですが、あまりにも門前払いを食ってしまうことが多く、そこに関しては残念に思っています。

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努力する、ということ(続き)

何日か前に、努力をさぼる子への叱責の話を書きました。それくらいでやめておこうかとは思ったのですが、
僕自身についてもやはり苦い反省を込めて書かねば卑怯でしょう。僕自身も、小中高ときわめて努力をしない子でした。

勉強であれ、スポーツであれ、自分がやろうと思ったものに関しては努力をしなくてもある程度のレベルに達することは僕にとってきわめて容易でした。もちろん、それで勉強であれあるいはスポーツであれ学校内で満足するのではなく、全国レベル、あるいはワールドクラスを目指す、という選択肢をとらなかったのは、僕の井の中の蛙ぶりでしょう。しかし、中高生の頃の僕というのは、何を頑張っていいのかが本当にわからなくて、みんなが要求するものはたやすくできるけれども、しかし自分がそれをどこまでも追求する気にもなれない、というひねた子供でした。だからこそ、僕は(今では本当に恥ずかしいことだと反省しているのですが)努力をするふりをよくしていました。このブログを中高生時代の同級生がどこまで見ているかはわかりませんが、おそらく彼らの知る僕のイメージは「努力家」ということになっていると思います。しかし、僕は努力をしていませんでした。同級生に見えるところでは勉強をしたりしていましたが、それは彼らに「彼が勉強できるのは努力をしているからだ。」と納得してもらうためのものでしかありませんでした(実際に受験生になるまで、学校の休み時間くらいしか勉強していませんでした。帰宅してからは学校の勉強などする暇を惜しんで、本を読んでいました。)。これは部活についても、言えます。僕は中学に入ったときは運動ができなかったのですが、徐々にできるようになり、持久走に関しては学年でもトップ10に入るところまで行きました。これも、「自宅近くの公園で走る」などの努力をしたというように同級生には言ってきましたが、部活で走っているうちに、より良い足の筋肉の使い方、体重移動の仕方などの走り方がわかってきただけです。実際に自主的に部活以外で走ったのは、おそらく一度か二度しかなかったと思います。運動にせよ、勉強にせよ、それらの全体を自分がどのように認識しており、どのように認識とアウトプットにずれがあり、それをどのように修正していけば良いか、ということを考えるだけで方法を誰かに学ばずとも、できるようになりました。

もちろん、それらの「努力したふり」というのは何も嫌みでやっているのではなく、皆が努力してもできないのに自分が努力せずにできてしまう、という事実に対して、僕なりに悩んだ上での一つの結論でした。人に見せる努力をできる限りすることで、彼らが努力しようとする動機を削がないようにしたい、という配慮でした。(そのような不毛な配慮をすることなく、もっと高みを目指す、ということをなぜ目指さなかったかと言えば、僕はその方向にも可能性がないと絶望していたのです。それについてはまた近いうちに書きたいと思います。)

開成の同級生(もちろん東大の同級生も)がもつものですら、そのように「不自由な能力」にしか見えなかった僕にとって、教え始めてからは本当に衝撃でした。これほど目の前にある事実に気がつかないままに生きているのか、と。これほど努力を重ねては失敗することができるのか、と。

そして、目の前の生徒の問題を自分の問題としてとらえざるを得なくなったとき、それは、僕のちっぽけな優越感を打ち砕き続けました。誰かに劣ったと思ったことは、生まれてから一度もないし、おそらくこの先もそんなにないだろう。しかし、何だ、この無力感は。皆が自分の可能性を必死に信じて努力しているのに、それを努力しないでできる僕は、彼ら彼女らに何か手助けをできるかと言えば、何一つできていない。その意味では僕もまた単に「自分のことはできる」というだけで、彼ら、彼女らに対して少しでも何かが貢献できている訳ではない、という意味では無力に等しいのだ、と。努力が見殺しにされ、誠意が踏みにじられるような才能の違いという、この世界に存在する残酷なギャップを広げることには自分が寄与してしまっているとしても、そのギャップを乗り越えようと努力し続ける目の前の一人一人を少しも手助けすることができないではないか、というあの無力感、絶望感を僕は今も忘れることができません。それとともに、自分の能力に心なく依存し、努力をすることに目を背けては生きてきた自分の情けなさ、自分一人についてのことができるということで、それ以上の責任を担おうとしてこなかった自分の小児性についても。

あれから、20年近くが経ちました。あのときよりも、はるかに一人一人の受験生に様々なことができるようになってきたことは確かであるとはいえ、しかし、あのとき噛み締めた無力さを味あわずに済む年を僕はまだ一度も迎えたことがありません。今年の皆の懸命の努力も、明日からの前期試験の発表でそれぞれにとって一つの結果が出てきます。しかし、中には必死の努力にも関わらず、目的を果たせない受験生もいるでしょう。しかし、今の僕には、彼らを笑うことは、ほんの一部分たりとも、できません。なぜなら、それは、僕自身の無力さでもあるからです。

人間は無力であり、人間は自分に与えられた分を弁えずに多くを望んで努力しても、失望ばかりを得るのでしょう。僕は自分の社会的選抜に関しては、そのようなことを感じれなかったとしても、塾生一人一人の結果を自分の責任であると思うが故に、同じ無力さ、同じ失望を共有してきました。しかし、にも関わらず、人間は努力を止めません。だからこそ、人間は美しいのであると思います。それは、敗北を礼賛しては「奴隷の道徳」を強要することではなく、我々が決して打ち勝つことのできない各々の死に対して、どのように準備するかを教えてくれるからです。ソクラテスは「哲学とは、死ぬための準備だ。」と言いました。あるいは、ルソーは「人間達は、死ぬことを恐れて、生きることを忘れている。」と言いました。どのような競争に打ち勝とうと、最後には100%死ぬ我々にとって、敗北を恐れずに努力し続けることは、死を恐れずに生きることに通ずるのでしょう。

あの頃の僕に、その人間のジタバタの美しさを伝えてくれる大人たちが極めて少ないとしてもいてくれたことで、僕自身が
勘違いした人生を少しは送らずに済んでいるのかもしれません。僕も、塾生一人一人に、それを伝えていきたいと思います。明日からの結果がどうであれ、ですね。

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絶望に直面し続けるために。

昨日も本当に様々なことがありました。
明けて、今日国公立大学の入試です。今まさに、皆が懸命に解いているところです。

この前期試験にくるまでに、様々なことがありました。一人一人をとっても、様々なことがありましたし、
さらには嚮心塾では他の人の不幸や苦しみを、自分とは関係がないと言えない生徒が多い以上、この塾で勉強する、ということはただ勉強だけではなくいろいろなことを考えざるを得ない一年となります。

そのような中で、最後まで努力し抜いた彼ら、彼女らが最後の勝負を今日明日と迎える訳です。
もちろんやれるだけのことは徹底的にやってきたつもりですが、それでもこの二日間は
しっかりと応援し続けたいと思います。

それとともに、受験をするというのは不合格を味わう、ということです。どこも落ちずに第一志望に合格する生徒など毎年一人二人いるだけでしょう。あるいは第一志望以外すべて落ちて、第一志望に合格するならまだしも、どれもうまく行かずに不本意なもう一年を強いられる子もいます。全員合格を建前でなく本気で目指しているとはいえ、僕の力が足らずにそのような失敗をしてしまう受験生も毎年います。

しかし、そのような状況に置かれてからが勝負です。絶望的な状況を前にして、絶望するかどうかは、自分の心一つの問題です。絶望的な状況が目の前に100あろうと、1億あろうと、そこで自分が実際に絶望して努力をやめるかどうかは、純粋に自分の選択の問題であり、意志の問題であるのです。そこには何ら因果関係はありません。

人間が自然法則、生物学的法則にいかに支配されているかを強調することは、自らの自然に対する立場を思い上がっては勘違いしている人間にとって一つの教訓とはなるものの、一方で様々な因果法則を意志にまで及ぼすという誤りを犯しがちです。しかし、意志は自由であるのです。どのように絶望的な状況に直面し続けようとも、自分がその状況において絶望するかどうかは少なくとも自明のことではありません。であるからこそ、「絶望的状況」において絶望する人は、絶望することを自らの意志で選んでいるのだと言えるでしょう。たとえ、その「絶望的状況」が他者と比較して、あるいは自身のこれまでの人生と比較して、比べ物にならないほどに絶望的であろうと、そこから自分がどうするかは、自分自身の意志にゆだねられています。

魯迅がよく引いた「絶望の虚妄なることは、希望がそう(虚妄)であることと同じだ。」という言葉に僕は若い頃、よく励まされてきました。今、僕がこの言葉を言い換えるならば、「絶望ということが心理的な事実としてはあるとしても、あるいはそれを自分の環境へと投影した情景としてはあるとしても、それは自らが自らの心理を投影して描いた一つの世界像にすぎない。」ということでしょうか。

しかし、私たちは残酷なほどに、自由であるのです。絶望に浸っている間に次の絶望の種が襲いかかるほどに、自由であるのです。だからこそ、絶望的な状況に接してそれでも自分が絶望せずに前を向いて戦えるかが、絶望的状況しかないこの世界においては、常に問われていると言えるでしょう。

受験など、たいしたことではありません。大学受験が一生を左右するという脅し文句も、ある意味では正しいでしょうが、そういう面もあれば、そうでない面もあります。少なくとも受験に関わる職業に就く我々は、受験至上主義にならないように視野を広くとる必要があるでしょう(この業界の利益の追求が、真理の探究を妨げるからです。)。しかし、受験を通じて絶望に直面するという機会を擬似的にでも経験できること、そしてそれへと立ち向かう姿勢が問われる、ということは一人一人のこれからの人生にとってこの上ないgiftであるのではないか、と思っています。

今日も明日も、塾生たちが必死に頑張っても、でもうまくいかないことだらけでしょう。特に今日の夜は毎年修羅場です。
合格していった受験生達も何人も「今日のテストでもう落ちることが確定してるから、やめて帰りたい」という弱音を吐いてきました。しかし、最後まで戦い抜いてほしいと思いますし、全力でそれを支えていきたいと思います。自分の無力さをどんなに痛切に感じては絶望的状況に陥ろうとも、その持てる力で頑張るしかない、という状況こそが人生の縮図なのですから。

絶望的状況において、絶望するという選択肢を選ぶのはあくまで自分の意志でしかないということ、絶望的状況故に絶望するという論理関係は少なくともこの世界においては成立していない、あるいは外的な観察による推論としてなら成り立つものの、事象同士の因果関係にはなりえない、ということを、最後まで伝えては励ましていきたいと思います。

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模試の意味について。オリンピックもまた捨てゴマにすぎないこと。

この直前期に書くのもどうかとは思うのですが、あまり模試のないこの時期だからこそ、言えるかと思って書きます。それは、中学受験、高校受験、大学受験において、模試の使い方が親御さんや学校の先生方にはよく理解されていないということです。正確に言えば、「模試によってそこまでの勉強の達成度がわかる。」「模試が良くないのにこのままで受かるはずがない。」という思考様式にほぼ正しいところはない、ということです。

なぜなら、模試を受ける時点で高得点をとれることを期待できるほどに仕上がっている受験生というのは、受験に合格する中でもごくわずかであるからです。また、同じ問題によって様々な層の受験生の実力を測るということ自体が、きわめて雑なはかり方であると言えるでしょう。簡単な問題を大量にこなすことが得意な子、難しい問題にじっくり取り組むことが得意な子など、さまざまなタイプが一つの模試で点数を競うことなど、根本的に無理があるでしょう。それぞれのタイプの子は、もちろん志望校の入試問題で合格点がとれるように努力する中で、自分の弱いところを埋めていく、ということが必要ですが、それをしていくからといって、模試で点数がとれるかどうかはわかりません。むしろ総花的に個性のない模試の問題に自らの力の傾向を合わせていくよりは、志望校の問題に合わせていく方が無駄がないでしょう。

毎年、受験生を教えていると「こんな模試の成績で大丈夫なんでしょうか…。」というご心配をいただくことが多いのですが、純粋に模試の成績は合否とは全く関係がありません。過去問を解いて、その出来具合を見ることが一番です。ましてや、受験学年でない生徒の模試など、当人もそれほど受験に対する準備が出来ているわけでもないのに、他の子と比べて心配になるのは、もったいないことだと思っています。

もちろん、このように書くと「できていないところを知るためには模試を受けた方がよい」という当たり前すぎる反論をいただくでしょう。そして、それはその通りです。冷静に出来ていないところを見つけ、それを穴を埋めるため、というだけであれば模試を受けた方がよいでしょう。しかし、大体の親御さんや先生方はそれができません。点数と偏差値と合格可能性だけを模試の成績表で見るのではないでしょうか。しかし、模試の中でそれらの情報というのは、一番無駄なところです。「合格可能性」の怪しさぐらいはさすがにお気づきの方も多いとは思いますが、点数や偏差値というのも基本的にはその時点で測るのは先に書いた理由から、あまり意味がありません。大切なのは、どのような間違いをしているかそれはどのように復習できて次からは間違えないようになっているか、ただそれだけです。あるいは、その模試の失敗から本人がどのような教訓を汲めているか、と言い換えても良いでしょう。

その意味では、模試の成績はむしろ直前まで悪ければ悪いほどよい、というのは言い過ぎでしょうか。もちろん、一度間違えた間違いを繰り返ししているようであれば、それはそれで問題なのですが(実はそれも一つの有益な情報でもあります。繰り返し間違えるその間違いを訂正することに労力をかけることが果たして有効な勉強方法であるかはきわめてあやしいからです。たとえば「ケアレスミス」を防ぐということについていえば、「ケアレスミス」で多くを失点している子に「とにかくそれを防げ」ということだけ繰り返して言うのは、本人にとって大きなストレスになり、受験勉強が嫌になってしまうでしょう。あるいは、受験生が「どうせ自分はミスが多いから受からない」と諦めることになってしまうかもしれません。しかし、ケアレスミスは緊張感と反比例して減ります。入試が近づき、「絶対に落ちたくない!」という本人の思いが強くなればなるほどに、それを減らすための指導がより効果的になります。)、模試で悪ければ悪いほど、本番の入試で本来出るはずの失敗を事前に明確にできている、ということです。そして、そのように本番の入試前に気付くことが出来ているのであれば対策がとれるという点で、その模試は失敗したことによって有益となっています。(もちろん、それを分析する人がいなくては無意味でしょうが)

これは、模試だけでなく本番の入試にもまた言えます。中学受験、高校受験はまだ短期決戦ですが、国公立だけでなく、私立も受験する大学受験では、かなり長い期間にわたってとびとびに入試を受けねばなりません。だからこそ、どこにピークを持って行くか、逆にどこの入試はそんなに重視せずに受けるだけにするか、ということを考えていかねばなりません。もちろん、高い受験料を払っていただいて、それを「試し受験」のように使うこと自体は親御さんに対して非常に気が引けるわけですが、この直前期の仕上げの時期に、本命校の前に出てくる失敗は、それだけの価値があるのです。逆にそれを「全部受かるつもりで!」などと焦点のぼやけた勉強をすれば、それこそ全部落ちる可能性もあります。その辺りの戦略、どこにピークを持ってくるか、逆にどこはある程度捨て駒としてでもそこから得る教訓を生かしていくか、というところで指導者の力量が問われるわけです。嚮心塾を卒業した生徒なら誰もが、僕のこの話を自分の受験に引きつけて思い当たる節があると思います。

今朝、北京オリンピックのサッカー日本代表の監督だった反町さんの話を今日新聞で読んでいて、このことを書きたくなりました。
北京オリンピックでは日本代表は一次リーグで敗退して、さんざん批判されたわけですが、その代表からは本田選手、香川選手、長友選手、岡崎選手、など日本のサッカー選手の歴史の中でも必ず名の残るような選手達が育ちました。サッカー選手にとっての頂点はオリンピックではなくワールドカップである以上、どんなにオリンピックに国民の注目が集まり、お金が絡んでこようとも、「そこで結果を出すことが全て」では全くないわけです。むしろ、近視眼的にオリンピックでの勝利だけを目指すのではなく、理解のない国民の批判やプレッシャーに耐えながらも、代表選手一人一人の将来をにらんで、かれらにとってのよい経験になるように指導していたとしたら(そして今日のインタビューではその考えが反町監督にはあったことが感じ取れました)、反町監督は「国賊」扱いされようと、名監督であるのです。指導者とは、そうあるべきですし、僕もそうありたいと思っています。オリンピックの時だけちやほやされようと、そこで選手達一人一人の将来を潰してしまうのであれば、意味がありません。現在、社会に流布している(しかし一時的な)評価によって物事の大小を考えるのではなく、長期的な成功とは何かという観点に従って物事の大小を考えられる人間が一流の人間であるのだと思います。その意味ではオリンピックさえ捨て駒にできる人間こそが、超一流なのではないでしょうか。(将棋で言うと、価値のある大駒や金銀を損してでも一手でも早く相手を詰ませた方が勝ちですが、我々凡人ほどに駒得にこだわっては、大局観を持てずに結局負けてしまいますよね。)

受験で言えば、もっと短い期間ではありますが、最後の第一志望の入試までにちやほやされようと、第一志望に受験生が受かることを犠牲にしてしまえば、意味がありません。逆に、受験期間中は様々に失敗を重ねようと、どんなに徹底的に叩かれようと、その様々な失敗を最後の第一志望の合格に繋げられるのであれば、それは耐えていかねばなりません。

あと一ヶ月、そのように一人一人の受験生の志望校の合格にこだわって、徹底的に考え抜いていきたいと思います。

もちろん、「大学受験での志望校の合格」という近視眼的な成功が、その子の人生全体をダメにするようなものであれば、それはまた問題です。何もかもに僕の意を尽くしては失敗を防いでいくことと、一人一人の自主性を育てることとの間のトレードオフ故に、第一志望の合格の可能性を100パーセントにすることを単に目指せばよい、とはいかないところに、教育のさらなる難しさがあります(鉄○会方式でたくさん合格しても、大学入学後伸びないですよね)。ともあれ、あと一ヶ月、全力を尽くしていきたいと思います。

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必要性を伝える、ということの難しさ。

長い記事を書こうと書きためては、新たな要素を加えていくうちに、だんだん書き終えられる自信がなくなってきたのと間隔が空きすぎたために、別のことを書きたいと思います。

現在、日本の小中高の生徒達の中で勉強の必要性を感じ、それを自発的にやっている層というのはおそらくごくわずかなのではないでしょうか。ですので、学校や塾も含め、教育機関のやるべきことはただ生徒の知識欲を満たせばよい、ということではなく、勉強をしていかないとどのように将来不利益を被るかを説いたり、あるいは基礎的な勉強自体が様々な学問への土台として持つ意味を話したり、何とかしてその必要性を子供達に理解してもらわねばならないわけです。もちろん、「それをせずに結果だけ出せれば良い」という先生方もいるのかもしれませんが、僕が教えている手応えとしては、生徒自身がその勉強をやることにどのようなものであれ、意味を感じていかねばやはり実力をつけるとしても(かなり低い)限界があるし、それを感じる力がない子に説明能力の高さやステップの踏ませ方のうまさだけで、実力をつけるというのはとりあえずの緊急避難的にそれをやることが必要な場合はあるとしても、長期的にそれをやっていくのはそもそも良い教師ではないと思います。

しかし、必要性を感じていない子というのは、そもそも情報を得る力と想像力が欠如しているわけです。つまり周りが何となく遊んでいるので、自分も何となく遊んでいて何とかなるのだと思っています。しかし、たとえば本を読めば、どのような新書の作者紹介にも「○○大学卒」というのが書いてあるわけで、少なくとも大人が読むような新書を読む子であれば、作者のプロフィールに必ず最終学歴が書かれ、しかもそれなりの新書であれば大体がその著者の出身大学が東大や京大や早慶ばかりであるという窮屈な社会がこの日本であることを知るはずです。あるいは新聞を読んでいる子であれば、役所の人事異動や大きな会社の人事異動が新聞に載るときに、同じく最終学歴が書かれ、かつ事務次官クラスであればほぼ東大ばかりであることは気付くはずです。
この窮屈な社会で生きていながら、それらのことに気付かずに日常を過ごせてしまっているという点で、「勉強は出来なくても他のことが出来れば…」という可能性をその子がこれからの努力によって実現することが出来る可能性はきわめて低くなってしまっている。芸能人を目指してもそこで接するテレビ局の人間はみな高学歴、漫画家を目指してもそこで接する出版社の人間はみな高学歴であるわけです。

突き抜けた才能に学校歴などはいらない。それは事実です。しかし、その突き抜けた才能を駆使したり、あるいはおこぼれに預かるところには高学歴の人間がうようよと群がっている。その事実を少しでも目を開けば気付くことが出来るはずなのに、そのことにあまりにも鈍感すぎて自分の将来を損なってしまっている若い世代があまりにも多いことに驚きます。そして、このことを口を酸っぱくして説いてもまったく危機感が伝わりません。

もちろん、高学歴ワーキングプアは増えているでしょう。それはポスドクの研究者はもちろんのこと、それ以外でもどんどん増えていると思います。しかし、それは日本人の雇用自体がきわめて不安定になってきている中で、東大や京大卒といってもその全てが安定した職業につけなくなっているというだけの話であり、たとえば卒業生の卒後五年の平均収入や、卒後五年時の低所得者層の割合などのデータがあれば、東大や京大、早慶とその他の大学で
かり有意な差があるのではないかと思います。今まで目に見えなかった高学歴ワーキングプアが存在しつつあるからと言って、「だから学歴は無意味だ」と短絡的判断をするのはかなり危険なわけです。

それはなぜか。人間の能力を測ることなどきわめて難しいからです。だとすれば、大勢の人数の中から有望な候補を選ぶためには何らかの短絡的な指標がほしいと考えるのが採用側の理屈でしょう。そして、大学入試の結果という尺度は、おそらくあと何十年かは日本社会において他の尺度にとって代わられることはないでしょう。それは人間の能力を測る尺度としてはきわめて不十分であるものの、しかし、他の尺度よりは、入試における公正な評価を目指す大学教員の教育者の本能という献身的な努力をその評価の公正性を担保できる資源として広く利用できること、我が子の将来を考えそこに投資したいと思う家庭に育っているという背景を本人が持っていること、そして何より本人が努力を出来る人間であるか、努力をして一定の成果を達成できたことがあるかということなど様々な要素を見極めるのにきわめて有効な尺度であるからです。

僕は、自身が大学受験生であった20年ほど前には、大学受験の成果をいちいち誇る同級生にウンザリしていました。大学受験など人間の一面しか測れないことは目に見えているし、それの成否が人間の価値を決めるということも、ありえないと思っていました。しかし同時に、この日本社会に於いて大学受験を軽視するということがどれほど恐ろしいことであるかを、おそらく大学受験の成否に大騒ぎする同級生よりも理解しているつもりでした。大学に合格したときに思ったのは、「これでこの窮屈で偏狭な社会の中で、一方的に排除されることはないだろう」という安堵感でした。

そこから20年が経ち、改めてその尺度の恐ろしさを痛感しています。もちろん、誰もが大学受験で結果を出せば成功するわけではありません。そもそも「成功」が何かこそが難しい。しかし、僕の高校の同級生がfacebookで各々流してくる「充実した毎日」を表すかのようなニュースフィードは、残酷なまでに学校歴によって閉じたコミュニティーの中で謳歌(おうか)されるものであり、決して平均的な36才のありようではないと思います。僕は彼らの無邪気な言葉、無邪気な幸せや無邪気な充実に嫌悪感を感じます。しかし一方で、そのような例を引いては、何となく日々を過ごしていけば、何となく生きていけると思っている中学生に意識を変えるように何度も何度も説得しても、全く理解されないままに「勉強なんて面倒くさいから」という理由でサボられ続けていくわけです。
受験勉強が自分の今後の人生に密接に関わっているということを何とか伝えようとしても、なかなかにうまくいきません。

こうした状況は特に地元から高校受験をする中学生に多いのです。しかし、誤解を恐れずに言えば、東京都において高校受験をしている、という時点で、(よほど優秀で中学から私立に行くのがもったいないと言って国立や開成に受かる層を除けば)東大や京大に合格するのは高校3年間ずっと必死の努力をしなければ不可能である、ということであるのです。東京都はどこでも私立の中高一貫校が中学生から生徒を抱え込み、そして高校2年までに全ての内容を終わらせるカリキュラムを組んでいます。都立高校は日比谷や西といったトップクラスの高校であれ、数学ⅢCを高3で終わらせます。これで、中学からの一貫教育組に受験で勝てるわけがないのです。実際に西高生が嚮心塾にも通い始めてくれていて、彼ら彼女らが皆とても優秀であるのにもかかわらず、あまりにも受験勉強のトレーニングを受けていないこと、さらには大学受験の準備の大変さにたかをくくっているのに驚きます。都立高入試のトップレベルの子達ですら、その意識から変えていかねばならないわけです。ましてや、他の高校に入学して喜んでいる子達を見ると、僕は本当に心配になります。そして高校受験が終わってからが本当の勝負なのだと言うことを一生懸命、口を酸っぱくして伝えようとするのですが、なかなかに伝わらないで苦労しています。

もちろん、天才は東大や京大にいかなくてもよいのです。しかし、日本社会に於いてまだまだ学歴が尺度として採用される時期が長く続くであろうこと、さらには(様々な例外は双方にあるものの)東大や京大、早慶を出た人々とそうでない人々との格差がまだまだこれからも続くであろうこと、そしてそれは後から気付いても仕方のない格差であるので(一方で就職には年齢差別もあるので)18才、19才、20才ぐらいの時点でそのことに気付いていて、学歴を得るために努力を出来る子とそうでない子の情報格差、親の教育への投資意識の差、またはそれを許す家庭の経済状況が、一生を通じてとりかえしのつかない所得格差として現れてくる、ということは少なくとも僕は学校で広くみんなに教えるべき事実であると思います。そして、学校の授業だけではそれを補い得ないということもまた、学校で教えるべきことであると思います(まあ、絶対にやらないでしょうが)。

嚮心塾は、「親の収入格差が教育格差になり、それが子供の世代が成人した後の貧富の差を拡大再生産する」というその負の連鎖を断ち切る一つの仕組みとして機能しようと、「月々2,3万円程度(受験生と非受験生で違います)で全教科を見る、夏期冬期講習費なし、教材費なし」という値段設定で8年前の創立当初からやっています。それは「私立高校の学費(月4,5万円)+塾や予備校に払う費用(これも月最低4,5万円、高いところだと月10万円以上+講習費)」を3年間ないし6年間払える層でなければ東大や京大、早慶や医学部に行けないという事態を防ぐための塾としてです。おかげさまで、塾自体は様々な方の支えもあって、東京のみならず千葉や埼玉、神奈川からも通っていただいております。しかし、そこで大勢通ってくれている生徒の一人一人は、やはり「受験勉強で努力してしっかりと自分の夢を叶えたい!」と願っている子が多く、「受験勉強なんかやりたくないから、できるだけさぼりたいな」という子の意識を根本的なところから変えていくところまでは、なかなか仕事が出来ていないのというのが苦い現状です。もちろん、僕はそれを諦めません。必要性を伝えることの出来ない自分の言葉の足り無さを練り直し、彼ら彼女らがどのようにそこで苦しめられていく可能性があるのかを丹念に描き、その上で努力をする手助けを少しでも段差を小さくしては取り組みやすくできるようにしていきたいと思っています。

しかし、このことだけは是非皆さんに伝えたいのです。東京都において、高校受験を強いられている時点で、もう大学受験への準備という意味では(一部のトップ層を除いて)差をつけられているのだということを。その中で難しい高校へ合格しようと、簡単な高校へ合格しようと、高校受験の偏差値を信用しないでほしいのです。それは(中高一貫校の囲い込みにより)純粋に選択肢が少ないからこそ、高校からの入り口を維持している高校の偏差値が高くなっているだけのものです。しかし、高校から早慶に行ったとしても、大学受験組よりは学力が圧倒的に低く、学部の四年間でその差はとりかえしのつかないものだということが思い知らされるでしょう。そうなればもはや「早」や「慶」に自分のアイデンティティを重ねるような大人にしかなれません(早慶に行くのなら、東大や京大に落ちて早慶に行くのには意味があると僕は塾でよく話しています)。

東京都での高校入試は、サッカーで言えば海外組が誰も集まれないから集められる日本代表のようなものです。あるいは、奨励会員が出られない将棋の高校選手権のようなもの(囲碁も同じですね。院生が出られない高校選手権のようなもの)です。プロとして一線で活躍する人は出られないのです。そこでの優越を誇ることがいかに本番(この場合は大学入試)では通用しないかがよくわかるでしょう。そして、この事実を中学校の先生はおろか、高校受験用の学習塾も何も言わないことが僕には許せません。高校受験をした子は、そこからが勝負であるわけです。そこから中学受験で着々と大学受験の準備を中2や中3からやっている子達と勝負できるように追いついていかねばなりません。それを「井の中の蛙」のような自己満足で終わらせては、結局才能を磨かずに不本意な大学受験を強いられていくという悲劇を少しでも減らせるように、嚮心塾は努力し続けたいと思っています。
何度話しても伝わらなくても。あるいは、浅い満足感を子供達に与えては、それ以上努力しない方向へと誘導する
大人達がどんなに周りに多くても。


(補足)「これからはアメリカの大学への進学が主流になっていくから、日本の東大・京大なんて…」という声も最近はあります。たとえばIvy Leagueと日本の東大や京大の研究者のレベルや研究環境の差は当然あるわけですが、「日本の優秀な層が皆アメリカの大学に行って東大や京大が空洞化する」ということは僕はまずありえないと思います。その理由の一つはたとえばHarvardであれば、年間300万円くらいは学費がかかるわけで、それが4年間+生活費などを含めれば、東大・京大に通う子のどの家庭でも負担できる額ではないからです。もちろん、向こうの大学は奨学金が充実しているわけですが、しかしアメリカ東海岸の大学でfull scholarshipを得るなどというのは、日本人の中でもきわめて優秀な層、東大、京大のほぼトップクラスでも厳しいのではないでしょうか。それにはやはり他のアジア諸国の優秀な層(しかも彼らは国内の大学に進んでも仕方がなく、アメリカに行かねばならない強い動機がある)が応募してくるからです。

さらには、courselaやedxの発達があります。これは(長い記事で大学というものの意味と将来像についてまとめて書こうと思っていたのですが少し書くと)映像授業の発達により、一流の講師の授業がonlineで世界中で見られれば見られるほどに、それを発信する側の大学とそうでない大学とで役割が明確に変わってきます。一部の「世界大学」と大多数の「地方大学」へと分極していく、ということです。そして東大や京大は(自身は「世界大学」になりたがってはいるでしょうが)明らかに「地方大学」になっていくと思います(日本語という制約があるため)。また、無理に世界大学を目指さない方が逆に良いようにも思います。そのような分極化がこれからますます進んでいく中ではやはり、日本という地方における「地方大学」として東大や京大の権威というのはむしろ局地的に増すのではないかと思います(一歩日本を出ると誰も知らない、という今も揶揄される状況がさらに強まっていくのではないかと思います。)。その意味で、「もう東大や京大なんてlocalな学歴なんて無意味だ」と言いたい気持ちはよくわかるのですが、むしろそこで判断されてしまうという圧力はより強くなっていく可能性もあると思います。

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