嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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文学の残酷性について3

前回、文学のもう一つの残酷性、「わかりたくないことをわからざるをえない」ということについて触れ、具体例を交えて書くとお伝えしました。それを書こうと思います。まずは新聞記事の中の事件を紹介したいと思います。

たとえば、2010年の1月、東京都の江戸川区で7歳の少年、岡本海渡君が両親(継父と実母)から暴行を受けた末に亡くなりました。手元の新聞記事によると(朝日新聞東京版2010年12月22日第27面)、日常的にしつけのために暴行が繰り返された末の事件であったこと、さらには継父がこの海渡君を実母と知り合ったときから本当にかわいがり、「自分の子の方が海渡君よりかわいくなったら嫌だから(もう)子どもは作らない。」とまで話していたそうです。それが事件の半年前くらいから、海渡君が継父に対して返事をしないことや謝らないことに両親が悩み、しつけのために暴力が始まったそうです。そのような海渡君の反抗の理由を曾祖母が本人に聞くと、「パパは本当のパパじゃないから。学校で先生に言われた。本当のパパなのに…」という答えだったそうで、実母は学校にも苦情を言ったものの、学校は「そのようなことは言っていないと理解している」と見解を示していて、継父は「海渡が謝らないのは、自分が本当の父親じゃないからではないか」という思いから暴力を押さえられなくなっていったと説明しているそうです。

この事件は一体誰のせいであるのでしょうか。
 短絡的には実母と継父のせいであると言えるでしょう。同じように複雑な関係性であって、やはりその関係性の不確かさに対して悩みがあったとしても暴力に行き着かないで解決ができる家庭はたくさんあるのだとは思います。しかし、この記事から分かる範囲では、継父も実母も懸命な努力をしていたと言えるのではないでしょうか。少なくとも二児の父親として、僕にはこの父親を責めることはできません。僕以上に家庭を維持するために、息子を大切にするために、必死に努力をしていたと言えると思います。
 それでは近所に住む曾祖母など周りの人々が相談に乗ってやればよかったのでしょうか。しかし、他の近所の人はともかく、この曾祖母は記事からもわかるように、間に入っては、事情を聞き解決をしようと試みています。それ以上のことをしろというのは酷でしょう。
 では学校のせいであるのか。確かに学校が不用意に海渡君に血縁関係について教えてしまったことは悔やんでも悔やみ切れないことでしょう(もちろん、これについて学校側は否定しています)。ただ、その伝えてしまったことも、たとえ不用意であったとはしても、海渡君を心配しての言葉だったのかもしれません。また、暴行が始まってから虐待を歯科医が疑い、通報を受けて学校の校長が何度も家庭訪問をした、とも記事にはありますので、それもこのような事件を未然に防ごうという努力だったと言えます。(それが歯止めをかけられなかったのは、やはりこの両親が学校に対して先に(学校で先生に「本当のパパじゃないって言われた」ことによる)不信感を抱いていたせいで、「あんたたちのせいで海渡がこうなったんじゃないか。それを私たちは必死にしつけようとしてるんだ。」と意固地になってしまったのかもしれません。)

 様々な過失はあったにせよ、誰が悪いというのではなく、しかし悲惨な事件はこのようにして起こってしまいました。現実は、このように本当に残酷なものであるわけです。ちょっとした気持ちのすれ違いが、心からの愛を、心からの憎しみへと変えていく。私たち、無知蒙昧な人間はこのような悲劇をほんの少しの幸運で逃れているだけなのかもしれません。それは同時に、一歩間違えればなすすべなく、この負の連鎖へととりこまれていく、ということです。それほどに現実に生きるのは、残酷なくらいに難しい。ただそれを感じると誰も生きることに足がすくんでしまうので、見ないようにしているというのがほとんどの人の生き方なのでしょう。

僕にとって、文学とは、どこまでもこのような現実の残酷さをつきつけてくれるものであってほしいと思っています。「わかりたくないことをわからざるをえない」ことが続けば続くほどに、どのように人と接したらいいのか、どのように親や子と接したらいいのか、どのように先生とあるいは生徒と接したらいいのかが複雑すぎて訳が分からなくなります。また、自分の何気ない言葉や振る舞いの責任の重さ、それがたとえば海渡君のような悲劇を引き起こすかもしれないという責任の重さに押しつぶされそうになります。しかしそれでも、いや、それだからこそ、私たちはこの世界に起こる悲劇の原因の一端が、少なくとも自分の無知蒙昧にあることを自覚できるのではないでしょうか。

優れた文学作品は、残酷であるが故に、この世界の現実の残酷さを予言者のように、私たちにつきつけてくれるわけです(ドストエフスキーの『悪霊』のように。あるいはそれより理解しやすいものとしては、ゾラの『居酒屋』のように。)。それ以外に、架空の物語を読む意味を、僕はあまり感じません。どのような技巧もその一点を欠けば、しょせんはひまつぶしのためでしかありません。

その上で、僕は小説を書かずに、塾をやっています。それは、この現実に苦しむ一人一人に、よりよい提案をしたいからです。海渡君の両親のように悩んでいる人がいるのなら、その相談に乗っていかねばなりません。暴行をしている側を責めることは簡単ですが、それは何の解決にもならないと思います。懸命に生きて、必死にやってもどうにもならないことに直面して初めて、そのような暴力は誘発されるからです。彼らが懸命に頑張っていることをしっかりと認めた上で、すぐには解決出来ないで待たねばならない問題があることを理解してもらい、そのための距離を確保していかねばならないと思います。

 と、偉そうに書きながらも、現実の多様さと複雑さに翻弄される人間として、わずかばかりの知性ではどうにもならない現実に打ちのめされては、自分の愚かさを痛感する毎日です。しかし、自分が愚かでなくなっていくことは、少なくともこの世界に絶えず起こり続けている悲劇を未然に防ぐことに、少しでもつながるのではないか、ということは最期の瞬間まで信じて、やっていきたいと思っています。

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文学の残酷性について2

大分間隔が空いてしまいました。入試直前の必死の受験生に申し訳ないと思いながらも、こそこそとブログを書いております。

僕は太宰治が好きです。というと、今、日本で流行のお笑いコンビ、ピースの又吉さん(熱烈な太宰治ファンだそうです)のまねのように聞こえるかもしれませんが、太宰のように自分の人生をかけて、どうしても伝えたい一つのテーマに取り組んだ作家というのは、日本の作家ではなかなか少ないのではないかと思います。

しかし、太宰治が「私が問題にしたかったのは、ただ家庭であるのだ。」とわかりやすい言葉とわかりやすい作品群を残してくれて、その中でも『家庭の幸福』などはそのものずばりをすっきりと書けているエッセイだとは思うのですが、たとえばそのような太宰の伝えたかったメッセージを理解することをぬきにして、作品を評価することを文学研究だとするのなら、たとえば文学の研究などに何の意味があるのでしょうか。太宰が伝えたかったテーマは家庭の暴力性であるわけです。それは「暴力的な親または子のいる家庭も中にはある」ということではなく、「家庭」というもの自体が、本来的に含まざるを得ない暴力性について彼は気づき、それを一生懸命伝えようとしているわけです。

そして、そのような立場はたとえばベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』などを読めば、より論点が整理され、一目瞭然です。それなのに、太宰の読者は今も増え続けていながら、その論点がわかってもらえない。専門としている研究者にも分からない。そのせいで、「若い頃、太宰治にはまるのは一種の熱病のようなもの」で、「そのような熱はいずれ成熟とともに去る。」という理解が今でも支配的であるようです。しかし、このような理解はむしろ、自分が家庭内の年少者として抑圧を受けているときには鋭敏に感じていた家庭自体の持つ暴力性を、自分が年長者として家庭を率いる立場になれば、今度は自分が抑圧を与える側であるが故に感じなくなってしまうというだけであるので、家庭自体が暴力性をもつという彼の伝えたかったテーマを裏付けてくれるものであると思います。

このように、家庭が本来的に持つ暴力性というものを伝えたい作品に対して、それを感じずに生きてきた人間がどれほど熱心に読もうとも、決して理解をしえない。ここに、文学の残酷性があるわけです。誤解を避けるために書けば、僕は全ての文学研究など無価値だと言っているわけではありません。しかし、わからないものはわからない。この残酷さを僕たちは、どのように乗り越えていけるのでしょうか。

しかし、困ったことに、文学の残酷性はそれだけではないのです。

太宰治は「文学は弱い人の味方だ。」と言って、強さをひけらかす志賀直哉をさんざんに批判しました。僕は、この「文学は弱い人の味方だ。」という意見にはどちらかと言えば、賛成しますが、しかし、これはこれで大きな問題を抱えているとも考えています。つまり、先に言ったような理解のできなさとは、そもそも乗り越えた方がよいものなのかがきわめて難しいと思っています。弱い人の気持ちを理解していけばしていくほどに、自分自身はますます「弱く」なるわけです。それは、個人にとっては「不幸」以外の何者でもない状況を招くことになるでしょう。自分とは異なる問題意識や状況への共感能力は、実は文学を読むことによっては鍛えられない(自分が経験していないものは本質的には理解し得ない)ことを一つの文学の残酷さだとしたら、もう一つの文学の残酷性とは、そのような共感能力を持つ、まれな人格がもし存在するとしたら、文学はその人の共感能力を鍛えれば鍛えるほどに、その人が誰からも搾取が出来なくしていく以上、その人を不幸にならざるを得ないところへ追い込んでいく、ということであるのだと思います。私たちは共感能力をうまくスイッチを入れたり切ったりすることで、残酷な日常生活を送れているわけです。新鮮な魚がピチピチと跳ねている映像を見て、「おいしそう!」と言うときは共感能力のスイッチはoffであり、「かわいそう…」というときは共感能力のスイッチはonであるわけです。まあ、こんな例はわかりやすい話なのですが、このような共感能力を広げていくことが小説を読むことによってできてしまうのであればあるほどに、その人は食べることも何かを行動することもそもそも困難になっていくわけです。共感すればするほどに、生きにくくなる。そのような状況では、もうこれ以上わかりたくないと思うようになるのが必然でしょう。しかし、一度、その共感の蓋(ふた)が開いてしまえば、それを完全にoffにすることはもはや無理である場合が多いのではないでしょうか。

つまりまとめてみると、文学とは「どんなにそのテーマをわかりたい人にとっても決して分からない」という残酷さを持つ一方で、「どんなにこれ以上そのテーマを分かりたくない人にとってもそれが分かってしまう。」という残酷さをもつわけです。と、書いてみると何のこっちゃよくわからん気もしますし、それは文学に限った話ではない、とも言えるとは思います。ただ、具体的にはどういうことなのか、という話もしたいので、また次回続きを書きたいと思います。

(追記)
大分前に「経済について『しろうと経済学』を書こうと思う」と書いては、多忙に任せて放置していたら、今日(1/8)の朝日新聞の朝刊でエマニュエル・トッドが似たようなことを考えているのが書いてあって、先を越されてしまいました。なので、パクリ疑惑が生じてしまったわけですが、このシリーズが終わったら、また経済についても書こうと思っております。

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文学の残酷性について1

 文学とは、またそう大上段にふりかぶらなくても、小説とは本当に残酷なものです。それは、いわゆる数学や物理学のように、「分からない人には分からない。」(とはつまり、「分かるための大変な量の努力をしていない」ということでもありますが)という意味で残酷なのではありません。むしろ逆で、「分かっていなくても、誰にでも語れる。」というシニカルな残酷さがあります。だからこそ、その小説の作者の意図が分かっていない人々が、自らが分かっていない事を分かっているかのように語る、というグロテスクな事態も多々あるわけです。
 そしてさらに残酷なのは、その小説の意図(その小説でつたえたかったもの)をわかろうとどのように努力しても、わかりようがない人々もまたいる、ということです。そこで描かれたある意味個別的な感覚や感情を、経験していない人には分かるわけがありません。こここそが、非常に残酷なところです。どんなにその筆者に惚れ込み、その作品を網羅するように読もうと、その読者がその筆者のもつ感覚や感情と通じるものをもたないのであれば、決してそれはその筆者の書く作品の理解にはつながりません。そこでは、努力が一切通用しないわけです。人間の精神に私たちが想定している「個性」がある以上、必ずそうならざるをえない。その恐ろしさについて、また続きを書きたいと思います。

(続く)

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