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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「虐待」とは。

塾の役割というのは、結局は決定権は塾生のご家庭にあるからこそ、こちらの仕事としてはどこかで一線を引かねばならないわけです。しかし、そのことが大きな間違いを生むのだとしたら、こちらとしてはどこまで介入すべきであるのか、というのが本当に難しいところです。児童相談所はよく虐待死が露見するたびに批判されるわけですが、どこまで踏み込むべきか、逆にどこからは一線を引くべきかの判断は、本当に難しいものだと思っています。もちろん、恒常的な親からの暴力などとわかりやすい場合ならともかく、恒常的な子供の自尊心を掘り崩すような暴言ならどうか、子供に対する徹底的な時間管理ならどうか、などと一つ一つ判断に迷うケースが多いと思っています。

どの場合が緊急でどの場合が緊急ではないのか、どのような場合には強制的な介入が必要であるのか、とても一筋縄ではいかないですし、ましてや殆どの場合親御さんにはそのように子供の尊厳を傷つけているという実感がないわけですから、こちらとしても対応が本当に難しいです。もちろん、これらは親御さんの愛情が深いからこそ、このようにこじれてしまうわけですが、物理的な暴力がなくて児童相談所が介入できないようなケースでも、「この親子関係がこのまま続くと危険だな…。」というケースは多々あります。そして、そういうケースほどに親御さんはその事実に気づいていないことがほとんどです。

ときに両者からサンドバッグになりながらも、何とかそのような関係性の間を取り持てるように努力はしているのですが…。なかなか難しいです。両者からボロクソに言われながらも、何とか歪な親子関係に気づいてもらえるように、必死にやっていきたいと思います。それとともに、虐待死のニュースがあるたびに児童相談所の方々をたたかないでほしいと思っています。そのような中、リソースもひどく限られている中で、何とか必死にやっていると思うんですよね。児童相談所をたたく暇があるなら、まず自分自身のお子さんへの接し方がパワハラ気味になっていないか、自尊心を傷つけるものになっていないか、そういったことを徹底的にチェックしていただくことの方が大切かと思っています。これはもちろん、僕自身の娘に対する苦い経験も踏まえて、のことです。過大な期待や要求そのものが、幼い子供の心をどれだけ深く傷つけるかについては、もっと(僕自身も含めて)親たちは敏感にならねばならないと思っています。

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手に入らないものなら。

「結局手に入らないものなら望まなければ良かった。」という後悔というものは誰でもしてしまうものです。それを求めるがゆえに、しんどくなるのであれば、最初から何も求めていないかのように生きることの方が楽に思えます。

そのように何もかも、自分に手に入らなさそうなものは「どうせ手に入らない」と決めつけてそのためには少しも努力をしない、しかし努力をしていないとそのように自分が諦めていることが周りにもバレてしまうから、努力をしているふりをする、という受験生もこれだけ長く教えていると、いるものです。自分が傷つかないために、自分が正しく鍛えられる努力を出来る限り避けて、努力をしているふりをしているうちに、何が努力であるかさえ自分でよくわからなくなってしまい、その「ふり」から抜け出そうにもどうしようもなくなってしまう。これもまた一つの悲劇です。

だからこそ、このような子たちを目の前にしたとき僕は、そのような「ふり」を辞めるように言います。しかし、これだけでは全く不十分です。その子達はそもそも自分を鍛えることを自分では望んでいないからこそ、「努力をするフリ」を一つこちらが見抜いては改善しようとしたとしても、また別のところでそれをやるだけです。24時間、365日受験生をチェックすることはどのような教師にもできないからこそ、彼ら彼女らの努力をするフリを具体的に見抜いて修正していくだけではなく、彼ら彼女らがそれを修正して自らが生きていくために正しい力をつけることを望んでもらえるようにしていかねばなりません。そのように受験生の内的動機と外的手法が両方とも鍛えられて初めて受験は合格するものです。逆に言えば、その本人の内的動機を鍛えることなくして、外側から指摘をするだけで合格させることは(もちろんどのレベルを目指すかにもよるのですが)高いレベルではまず無理であると思っています。また、その受験生の内的動機をmotivateすることについては、嚮心塾はその名(心と嚮(む)き合う)の通り、他の塾や教育機関ではできないことをしているとは思います。

しかし、です。そのようにmotivateされて、自分自身の人生のために自ら作った諦めの「殻」から出ては、自分の努力と力で人生を切り開こう、と努力を始めた子たちの全てが良い結果を得られるわけではありません。当然そのようにせっかくやる気を出して真剣に取り組んだにも関わらず、望む結果を得られなかった受験生が毎年出てきます。その子達に僕がやっていることは、彼ら彼女らがせっかく諦めていたものを蒸し返し、掘り起こし、その気にさせ、そしてそれなのに手に入らないという事実を突きつける、という最も残酷なことをしてしまっているわけです。もちろんそうならないようにこちらでもあれこれと必死の準備や努力を行います。受験生自身の努力が決して空回らないように、あれこれと工夫をして毎日頭を悩ませます。しかし、それでもなおそのような受験生を生み出してしまっていることは事実であり、僕自身の抱え続けなければならない罪であると思っています。

その罪は全面的に僕にあることを認めた上で、それでもなお、僕はいずれ彼ら彼女らが自分の作った諦めの「殻」から抜け出ようとしてもがいたこと、そのもがいたことがうまく形には繋がらなかったかもしれないけれども、そこでついた力、戦った記憶は、決して無駄ではないことに気づいてもらえる日がいつかは来るのではないか、と思ってこのアプローチを続けています。そこに僕や嚮心塾を思い出す必要はありません。ただ、しんどいことしかない私達の人生の中で、その記憶が少しでも彼ら彼女らの足元を照らす何かになってくれるのではないか、ということについては信じています。

今年も華やかな合格者を塾として宣伝せざるをえないのとともに、本当に頑張ったけれども望む結果が得られない受験生をゼロにすることもできません。しかし、その頑張りは強がりや自己正当化ではなく、本当に決して無駄ではありません。
いつかその事実が伝わるように、彼ら彼女らが生きていってくれたら、と思います。



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受験は、死に似ている。

この時期は受験生とのやり取りが濃密なので、実は一つ一つエピソードを書いていくとなると、一日10本くらいは書けてしまいます!(大河ドラマ化決定!?)なので、惜しいながらもさすがに全てをブログに書くわけに行かないのですが、昨日の話を。

しっかりと頑張っている受験生ほどに、自分がしっかりと頑張るために外部からの情報をシャットアウトしようとしたがりがちであることは前にも書きました。それがあるポイントをすぎると、今度は僕への質問が減ってきます。なぜなら、「自分の勉強で足りないところは自分で把握している。だからそれを埋めることが最優先で、そこで先生に聞くことなど一つもない!」というように考えるからでしょう。昨日もそのように頑張っているからこそ視野が狭くなってしまっている子から、勉強の進め方について質問が出るかな、出るかな、と思いつつ出ないままに塾を閉める時間になってしまい、その子が帰ろうとするので、「何か聞きたいことはないかい?」と聞いてみました。すると、「あるのですが、今日はもう遅いので明日にします。」といってサラリと帰ろうとしたので、むんずと引き止めて(比喩です)、「それがいけないのだ!」ということを叱りました。

そこから彼の具体的な勉強の進め方の悩みを聞き、それについてどうすべきかを指示したあとに、「正しい方向に勉強しなければ、結局努力が全て徒労に終わってしまう。特に直前期にはそれで貴重な時間がどんどん減ってしまう。また、ここまで一通り勉強してきて、できるようになっている部分も多いからこそ勉強する内容によっては勉強時間が徒労に終わる。直前期だからこそ勉強の方向性に対しては丁寧に聞いていかねばならない。」という話をしました。

そこからさらに、「そもそもそれは塾が終わる直前に気づいたことではなく、もっと早く相談したかったことなのでは?」というところから、「それを早いうちに腹を割って相談できないところに君のもつ個性の限界がある。人間には様々な個性があって、ある方向へと有用な個性も別の方向へは有害だったりする。だからこそ、自分がどのような努力を惜しまないのかだけではなく、どのような努力は出来る限り避けようとするのかについて考え、疑っていかねばならない。君が努力を惜しまないことについては君の個性は有用だけれども、一方でその努力を他者へは開こうとしないこと、その努力が方向性を違えていたとしても気にしようとしないことは、君の個性がその限界を露呈しているんだよ。そして、『100%合格する』ためには、自分ができる努力だけではなく、自分にとって苦手な努力をも避けずにやっていかねばならない!」という話をしました。大分スッキリとした顔でその受験生は帰れて良かったです。

塾に何年か、あるいは何ヶ月かでも通ってもらって僕との間に信頼関係を作っていくのはすべて、このような瞬間のためでしかありません。彼ら彼女らにとって見えにくい、手が届きにくいような、自身のpersonalityが阻害する類の努力を僕が提案して伝えられる瞬間のためにこそ、他の全ての地道な作業を一つ一つ紡いでいくことになります。逆に言えば、このような「無茶な」メッセージ(受験前で必死に努力している子に「君の努力は足りない!」と言っているわけですから。)が伝わる瞬間にこそ、僕は人間の可能性を強く感じるのです。

人間は(もちろん僕も含めて)どうしようもなく愚かであり、自分の見たい現実ばかりを見て、見たくない現実からは目をそらして生きています。他の人には見えないような世界を覗いているはずの「専門家」ですら、自分が一つの見えない世界を覗けていることにあぐらをかいて、自分が見たくない現実からは目を背けているかもしれないと疑えずに自分の判断能力を盲信しがちです。そのような中で、それでも受験という自分のこれまでのすべてが否定されるものの前では、人間は謙虚になることができる。そこにこそ、人間の可能性がある、と僕は思います。

「受験は死に似ている。」とかつて、塾生が言ってくれました。この言葉は僕自身も高校生のときに自身の受験で強く感じていて、僕の恩師が話してくれていたことだったからこそ、彼がそのように言ってくれることはとてもうれしいことでした。このことは別の卒業生・元講師も書いてくれていましたが、どうにもごまかしようのないものの前に、人間はごまかすことを諦め、謙虚にならざるをえないという点で、受験と死は似ている、と僕は今でも思います。

だからこそ、受験直前のこの時期の受験生とのコミュニケーションは、そのようなごまかしようのない終わり、虚飾を許さない終わりに対して自らの至らなさをどこまで乗り越えようとしていけるか、という緊張感をはらむものになります。それを少しもムダにしないように、彼ら彼女らの乗り越えるべき課題に切り入れるように、最後まで全力でもがいてぶつかっていきたいと思います。

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人間は、直前まで伸びる!

今日はさすがに忙しく、「この期間毎日ブログを書くぞ!」という誓いがもう既にピンチを迎えているので、さらっと書ける教育のことでも書こうと思います。

勉強が間に合わずに苦しんでいる高校3年生に、学校の先生方が「現役生は最後まで伸びるぞ!頑張れ!」と励ますことが多いのでしょう。この言葉はよく使われます。この励ましの動機自体はもちろん素晴らしいものなのですが、この言葉が呪いのように浪人生を縛り、「浪人したってこれ以上伸びないかも…」「一通り勉強してきてしまったからもうあとは実力をキープするだけかも…」ということを言ってしまう受験生は多く、そのたびに僕は「そんなことない!」と言葉を尽くして説明をしなければならなくなります。

僕も長いこと受験に携わっていますが、もうこれ以上何を勉強しても点数が上がらない、という受験生には一人も出会ったことがありません。どのように優秀な受験生にも、必ず鍛えるべき弱いところがたくさんあり、それを鍛えよう、それが終わったらこっちも鍛えよう、とやっているだけでもあっという間に受験までの時間が過ぎていきます。だからこそ、「現役生は直前まで伸びる」のは正しいとしても、「浪人生も直前まで伸びる」も正しく、何なら「人間全て死ぬ直前まで伸びる!」がほぼ正解なのではないか、と思います。まずはこのことを強く訴えたいです。「これ以上勉強しても伸びない」というときは必ず、「全てやり尽くした」の「全て」を自分に都合よく解釈しているだけ、あるいは自分の弱いところは見たくないのでそもそも視野に入れないようにしておいて、それ以外の部分を「全て」と言っているだけだと思います。

もちろん、それを自分の力で見つけていくのは難しいとしても、見るべき人が見れば必ず弱点があるのだと思います。

裏を返せば、教師がやるべき仕事とは、そのような見落としがないかどうかを、どのようにできる受験生に対しても
最後の一瞬まで徹底的に疑い抜き、調べ尽くしていくことです。それはその生徒がどのような絶望的な状況においても諦めないのとともに、その生徒がどんなに模試やその他の材料が彼の成功を約束しているかのように見えているとしても、必死に疑いぬく姿勢を保たなければなりません。このような姿勢はときに、受験生本人からも嫌がられることもあるでしょう。人間は見たいものを見ようとするものです。自分が諦めたいときに、自分以上に自分のことを諦めない教師はうっとうしいものです。あるいは、自分が不安な気持ちを何とかゴマかして本番の入試をやり過ごしたいときに、徹底的にもっと鍛えなければならないポイントを探そうとし続ける教師もまた、うっとうしくてたまらないと思います。

しかし、です。入試には、あるいは現実には、と言い換えてもいいですが、決してごまかしがききません。自分の脳内で「こうあってほしい」と思うように現実が進むことのほうがありえないことです。だからこそ、そのどちらの態度をもとりながら、ときに受験生本人に嫌われながらでも、僕は最後まで何とか合格可能性を探るとともに、その合格可能性を徹底的に疑っていきたいと思っています。

人間は、直前まで伸びるのです。もちろん、それを誰に対しても全て実現できるほど僕には能力はありません。
しかし、それを最後まで決して諦めずにやるべきことを徹底的に尽くしていきたいと思います。
(ナメック星の長老のように、簡単にできたらよいのですが、実際には徹底的な試行錯誤とすべてを疑うことからしかそれはできませんので、恐ろしく地道な作業です(もっともその後修行して悟飯やクリリンももっと強くなったわけですから、ナメック星の長老も僕と五十歩百歩かもしれません。体型は間違いなく五十歩百歩です!)。そういえば、過去にはメガネの度が合っていないことを見抜くことでセンター試験直前に点数が上がった受験生もいました!)。

ここからはセンター試験、高校推薦入試、私大入試、中学入試、私立高校入試、都立高校入試、そして国公立大学入試と息をつく暇もないのですが、最後まで「人間は、(死ぬ)直前まで伸びる!」と言い続けて努力していきたいと思います。

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「限定ラーメン」の大切さ。

放置気味のこのブログの更新頻度が高いと、「そろそろあいつもやけになって気が触れたか!」と思われるかもしれませんが、単純にこの時期は朝8時から夜9時半まで塾にいるため、バタバタしているとはいっても空き時間は結構できます。そこでこまめにブログを更新していこう!と何度目かの決意をした次第です。

さて、嚮心塾に通っている生徒たちは必然的に今どこのラーメン屋がアツいかについて最新情報が得られるわけですが、実力のあるラーメン屋さんと言ってもお店ごとに様々な方針があります。一つの味を極めようとするお店もありますし、様々な味の限定ラーメンにチャレンジするお店もあります。どちらが正しい、どちらが間違っている、ということはありません。それぞれにポリシーがあってのことであると思います。

ただ、僕自身は様々な限定ラーメン、それもお店のメインの味ではなく、それとは遠い味にまで色々とチャレンジをするラーメン屋さんの方が好きです。通常のメニューをブラッシュアップし続けながらも、全く違う方向性の味を作ろうとするその努力には本当に頭が下がります。

限定ラーメンを作ろう、というこのような努力は一つは常連さんへのファンサービスという側面もあります。一方で、作り手自身が単調な作業にならないよう、自分自身が常に何かにチャレンジできるように、という目的もあるわけです。

自分を鍛えるときに大切なのは、そのように視野を広げていくことであると思っています。ある部分において自分が高いクオリティを安定して出せるようになったとして、それを維持すればいい、と守りに入るのか、少し隣の分野を見ればまだまだ自分が全然わかっていないことを受け入れてそれにも取り組んでいこうとするのかで、その人が成長できるかどうかは大きく変わってしまいます。人間というのは怠惰なもので、「うまくいっている」と感じるときにはやはり努力などできないものです。これに関しては、どのように超人的努力を重ねるアスリートや学者、芸術家であっても間違いのない真理だと思います。だからこそ、我々一般人から見て「超人的努力」を重ねているかのように見えるそれらの人々は、実はある部分についての「完成」よりもまた別の部分についての不十分さに目を向け、それをまた必死で埋めようとしている、ということの繰り返しをしているからこそ、当人たちには「そんなにすごいのに何でまだ努力できるの?」という問い自体が意味の分からないものであるのだと思います。将棋の羽生さん、プロテニス界のフェデラーなど、野球のイチローなど既に常人から見ればあまりにもさまざまなものを達成した人たちがなお、貪欲に自分にできないことを乗り越えていこうとする姿勢、というのはそのように視野を広げることから生まれるのではないか、と思います。

もちろん、この視野を広げる、ということが適切にできるかどうかが難しいわけです。ラーメン屋さんが「よし!視野を広げて新たなチャレンジをしてスキルアップをするために寿司も握るぞ!」とやるとたいていの場合失敗します(名店「四つ葉」のように数少ない例外がないわけではないですが。また将棋の羽生さんのチェスや森内さんのバックギャモンのように視野を広げた先までまで強くなるという例外もあるわけですが)。

この適切な視野の広げ方というのを言語化・定式化できるかチャレンジしてみると、
「自らの不完全さを痛感できるほどには視野を広げながらも、それに取り組む努力を自己肯定できるほどには遠く離れていてはいけない。」
ということではないかと思います。あくまでも視野を広げて自分がそれをできていないことを自認したときに、それを自分の「負債」と思えるか「新しいことにチャレンジする俺(私)、かっこいい!」と思えるかの分かれ目がその判断基準になると思います。前者の場合には自身がより鍛えられていくものの、後者の場合には新たなことに取り組むこと自体が目的になりがちです。後者のような循環に入ってしまうと、結局自らを鍛えているつもりで何も鍛えられていない、という失敗に陥ることになります。

これらを踏まえれば、その適切な視野の広げ方を教える側としては固唾を飲んで観察し、どのように広げていくかをアドバイスする必要があります。野球のノックで言えば「とれそうでとれないギリギリのボール」がノックの受け手にとって一番練習になる、というところでしょうか。それが近すぎても視野が広がらず、遠すぎればそれが捕れないことに悔しさを感じにくいため、あまり自分を鍛えることになりません。「これができていないのはまずいのでは?」と思える範囲を少しずつ広げていけるように、こちらとしては「ギリギリのところへの球出し」を一人一人に大して常に狙ってはいるのですが…。これが本当に難しいです。

一人一人の生徒たちが覚えた手順でラーメンを作るのではなく、彼らにとって力のつくような「限定ラーメン」を作ることにも果敢にチャレンジできるように、即ち自らの視野を少しでも押し広げられるように、残りわずかとなった入試期間の中でできる限り様々な工夫をやっていきたいと思います。

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竹内英人先生にアクティブ・ラーニングの特別授業をしていただきました!

ご報告がだいぶ遅くなってしまったのですが、先日、なんとこの小さな嚮心塾で、あの受験数学の新たなバイブル、Focus Goldの筆頭著者である竹内英人先生に特別授業をしていただきました!数学のアクティブ・ラーニングの授業をしていただき、塾生たちも本当に楽しみ、喜んでくれていました。何よりも、僕自身がとても勉強になりました。本当にありがとうございました。

生徒たちがまず個別に問題を解き、それを元に話し合い、そして他の生徒達に説明をするというこの形式には様々な形での気づきが生徒たちにもたらされていると思いました。以下、アクティブラーニングが効果的であるポイントとして気づいたことを書いていこうと思います。


①他の生徒達がどのように考えているか、を聞くことができる。それによって自分が押さえられていない勉強のポイントについて気づくことができる。

これはどの先生も実感としてあると思うのですが、どのようにわかりやすい説明をしても、それを生徒たちが100%把握しようとする姿勢を持てていないケースが大半です。これは「実際に100%身につかない」のが問題だという意味ではなく、そもそも100%身につけようと聞き手の側の生徒たちは思っていない、ということがあります。そのように講義の「大事なポイントだけ」を取捨選択して彼らは効率よく勉強しているつもりでありながら、それを的確に取捨選択することができるのはそもそもかなり優秀な子でなければ難しいため、結果としてポイントを外した勉強しかできなくなります。

しかし、アクティブ・ラーニングにおいては一つの問題について同じ生徒とディスカッションをするので、自分と同じ生徒たちがどこまで理解している、あるいはどういうことを重視している、ということを感じ取ることができます。そして、それは教師から学ぶときよりも遥かに学習効果が高くなります。実際に自分と同じ立場である受験生がそれらのポイントをしっかりと重視することによって成果を上げていることを実感できるからです。これはアクティブ・ラーニングの効用の中でもまず第一に大きいことであると思いました。(同輩から学ぶ、という意味で「peer study効果」とでも呼べるでしょうか)

実際に塾でも僕が「長文でも英文の品詞分解まで徹底的にできることが大切だ。」「数学の定理や公式で教科書にある範囲は全て導出できることが重要だ。」と口を酸っぱくして言っていたとしても、変に受験情報に耳年増になっている受験生ほどに高をくくって「そんなことしないでも、できるようになるでしょ。。」と手を抜きます(こういうのは教師がいくら言っても、聞いてもらえません。。)。そのようなときには、僕はその子よりも実力のある先輩の受験生が実際にどのようにやっているかをその子に見せてもらうような機会を作ります。そして、実際にその子よりもその教科ができる受験生が、そのような努力を徹底していることを見せられると、そのような受験生も仕方なくやるようになります。教師の100の言葉より、同じ受験生の1の実践ですね!

アクティブラーニングはこのpeer study効果が極めて大きいと思います。


②アウトプットの機会を多く取れる。他の受験生のアウトプットを聞くことができる。

勉強において、どうしてもインプットの時間が長くなれば、自分が理解できているかどうかをチェックしにくくなります。みんなの前で自分が理解しているはずのことをプレゼンテーションすれば、必ず自分の理解の足りなさに気づくことができるようになります。また、自分の理解をそのままアウトプットしようとした結果、それが相手に伝わらなければ、自分の論理にどこか飛躍があるかどうか、というチェックも働くようになります。

これだけだとそもそもその問題を解けるような、グループの中でも勉強のできる子だけにメリットがあり、説明を受ける側の勉強のできない子にはメリットがないように思えるかもしれませんが、勉強のできない子側にも他者のアウトプットを聞ける、ということは大きなメリットがあります。それは数学の答案や解説の作り方を構成論的に聞ける、ということです。問題集の解答、あるいは講義での講師の説明というものは過不足の内容に、かつ順番が前後しないように整理された後のものです。そのような答案を最初から作ろうと思えば、当然「そんなに過不足なく、構成まで考え抜いて数学の答案を書くことなんてできない!」と思えてしまいます。

しかし、同じ受験生がする説明は、どんなにできる受験生であってもたどたどしく、順番が前後したり、紆余曲折する中で、だんだんと筋道が明晰になっていきます。そのような説明を聞くことで、その問題ができなかった受験生にとっても「なるほど。できる受験生であってもこのように前後しながら考えていって、構成を後から整えていくもので、最初から解答のような完璧な答案が書けるわけではないのだな!」ということがよくわかります。そのことは今はまだその問題が解けなかった生徒たちにとってもまた、問題集の解答のように一分の隙もない代わりに消化しにくいものよりも、その問題の考え方へのヒントを得やすいと思います。


③間違いを恐れずに「試行錯誤」ができる。

生徒たちにとって、試行錯誤を阻害する最大の要因は、「正解」です。どのように試行錯誤をしたとしても、正解を覚えたほうが早い、となってしまえばその試行錯誤の時間をなくしていってしまいます。そして試行錯誤の際に一番重要であるのは、自分の間違いを恥ずかしがったり隠したりしない、ということです。間違いには必ず間違えただけの理由・必然性があります。その理由や必然性を自分で理解しないままに、「正解」を覚え込もうという勉強をすればするほどに、ほんの少しの変化をつけられただけで対応できなくなるような薄っぺらい学力になってしまいます。逆に自分の間違いがどこまでは有効な考え方であったのか、どこからズレが生じて間違いになってしまったのかを逐一理解していくことが自分の理解を深め、どのような問題にも対応できる実力を身につけることにつながっていきます。

そのためには、自分の間違い方をポイッとゴミ箱に捨てるようにdeleteしてしまうのではなく、しっかりと残し、それがどこまでは有効で、どこからは外れてしまったのかをさらけ出し、蓄積していくことが大切です。そしてそれが生徒同士のやり取りで行うアクティブ・ラーニングにおいてはその「間違いを隠さない」「間違いを恥ずかしいものと認識しない」ということにおいて、講義や演習形式の授業よりもさらに生徒たちに心理的ハードルが低い、というところがとても優れていると思います。これは一つには、他の生徒は「正解」を抱えていないからであると思います。それに対して、どうしても講義形式、演習形式において先生は「正解」を抱えています。その「正解」を抱えていない、ということが生徒たちの試行錯誤をのびのびとさせることにつながります。

これに関しては嚮心塾でもかなり苦心していて、そもそも「間違いは恥ずかしいことではない」「間違いを隠して正解を覚えるのではなく、自分の間違いがどうして間違いであるのかを理解していくのが勉強」ということをそれこそ「こんにちは」と同じ頻度くらいで、繰り返し繰り返し生徒たちには話しています。また、普通の塾よりはその意識も共有されているとは思います。しかし、どんなにその権力関係を掘り崩そうと努力しても、教師と生徒の間には一定の権力関係ができてしまうため、これも生徒同士で話し合うよりも僕との関係性において「間違いをさらけ出せ」ているかといえば、それはやはり限界があります(このために、わざとこちらが間違えたり…などと「正解」を抱えないように色々工夫をしています。)。この点でもアクティブ・ラーニングは優れていると言えます。

⑤「理解する」とは何かを疑い、体得することができる。

塾では中1〜大学生までに授業をしていただいたわけですが、特にこの形式の授業が必要なのは若い世代であると思いました。理解が追いつかないほどたくさんの問題を解かされてしまった結果として、「理解する」というのは「問題を解いて答えが合う」ことだと勘違いしてしまった状態が続けば、学年が上がれば上がるほど勉強についてはどうしようもなくなってきてしまいます。せめて、それがアクティブ・ラーニング形式の授業を通じて「『理解する』というのは他の同年代、もしくは下級生の子たちに理解してもらえるような説明ができること」というような、「理解する」のより正しい近似としての目標設定が早い段階からできていれば、その後の勉強方法が大きく変わってくると思います。その点でもアクティブ・ラーニングは特に小中学生くらいから行うことが一番効果的であるとも思いました。


⑥「教科書が進まない」「範囲が終わらない」批判について
これはまあ、終わらないでしょう。その点ではこの批判は正しいといえます。しかし、その「範囲を終わらせる」が現状どれほど受験生の役に立っているのか、と言えば極めて怪しいと思います。ここまでに書いたとおり、受験生の理解を犠牲にする形で形式上終わらせるとしても、それは教師側・学校側の自己満足に過ぎません。もしくは「カリキュラム未消化」を糾弾されないための自己保身にすぎないようにも思います。

塾でも毎年浪人生を教えているわけですが、たとえば数学に関してだけでも「教科書レベルはもう隅々まで大丈夫なので、その先からやろうか!」と言える受験生などほぼいないです(もちろん、高3以前から塾に通ってくれた子にはそこを徹底しているので、浪人時には大丈夫なのですが)。。東大や医学部を受けたい、と言っていても、です。

僕はむしろ反転授業方式で教科書を読み進めて、わからないところを質問で解決していく、という形で授業を進めていって、一通り終わったらその単元について問題を解いてディスカッションをしていく、というのも良い形なのでは、と思いました。

ともあれ、今は高校生にとって多くの時間を占める学校の講義があまり役に立てていない状況であるわけで、そのためには少しでも多くの学校でこのアクティブ・ラーニングを導入することで受験生たちが自分たちの理解のたりなさを実感できる機会ができると良いと思っています。


などなど、とても勉強になりました。少しでもより良い教育をできるように、学ばせていただいた多くのことを活かしていけるように、必死に頑張っていきたいと思います。

それとともに、この形式の授業が多くの高校で広まっていくことは日本の教育にとって必ずプラスになると思っています。
竹内先生、本当に有難うございました!

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「教育」が虐待に変わるとき。

児童虐待のニュースは跡を絶ちません。そのたびに心を痛める人も多いこと、なんとかしたいと思い、手の足りていない児童相談所の拡充を少しでも目指すべきだ!と主張することはもちろん抗うべくもなく、正しいと思います。しかし、そのようなあくまでも外からの取り組みを進めるだけでなく、「虐待」がなぜ起こるのか、について虐待する親を「人でなし!」などと批判する前に、彼ら彼女らの気持ちを理解していくことがとても大切であると考えています。

これに関して、糸口となるのはこのような事件が発覚するたびに、虐待をしていた親から「教育だと思っていた。」「しつけだと思っていた。」というコメントが繰り返されることだと考えています。つまり、彼らは(当たり前ですが)虐待をしようと思って虐待をしていたわけではなく、子供に「教育的指導」「しつけ」をしているつもりであるのに、それが結果として子供を死に至らしめてしまった、ということになります。だからこそ、彼らの考える「教育」や「しつけ」がどこから虐待へと転じてしまっているのかを考えることは、彼らと何ら変わることのない私達自身にとっても、大切なことであるのです。

では、教育と虐待の境目とはどこにあるのでしょうか。もちろん、暴力を振るう、とか食事を抜いたり減らしたりするといった具体的な行為については、明確に虐待であるといえるでしょう。しかし、そのように一般的に「虐待」として共通理解が得られやすい行為を列挙していく方向でなく、もっと抽象化して定義するとすればそれは、「現に効果が上がっていない教育をずっと続けること。」と定義できるように思っています。すなわち、現に効果が上がっていない教育方法を続けることは、虐待である、という認識をもつことが大切であると思います。

教育やしつけという目的を持ち、それを通じて我が子の「問題点」を直そうとするのであれば、仮に暴力をふるったり、食事を抜いたり、という方策が自分の子供にとってその当初の親が問題視した行動を減らす方向へと機能しているかどうかを絶えずチェックするはずです。そしてそれによってその子の行動が改善していればよいですし、そうでなければまた別の手段を考えていく、ということが教育やしつけであると思います。(もちろん、これには「効果的な体罰ならそれを容認するのか」という問題があります。これに関して難しいのはたとえば暴力や食事を抜くなどの虐待行為によって外見上はそのような子供の「問題」行動が収まる、という短期的成果を得てしまうこともある、ということです。僕自身はそれがあくまでも外見上の成果でしかない、という点でこれを否定しますが、長くなるのでそれはまた別の機会に書きたいと思います。)

しかし、実際にはそのようなチェックはほとんど為されていないのが現状であると思います。そのような自分がそれしか知らないような教育方法・しつけ方法で子供の行動が改善するはずであると思いこんでいる親からすれば、うまく改善されない、という事実に対して「自分の教育方法と努力は正しい。それによって改善しない子供が悪い。」という気持ちになっていきます。このような気持ちになれば、当然「だからこそ、自分が子供に暴力をふるったり食事を抜いたりすることは、そのように自分の言いつけをちゃんと聞かない子供にとっての罰であり、正当である。」という自己正当化のサイクルが生まれてきます。

すなわち、自分の「しつけ」や「教育」に効果がないことを自分の方法に問題があるかどうか、他の方法を試してみるべきか、という可能性には考え至らずに、「自分の方法は正しい(だって、これしか私は知らないのだから。)。だとすれば、それで改善しないのはこの子が悪い。」という思考プロセスを経て、「だから「問題」行動を改善しようとしないこの子にとって、自分の行う「しつけ」が多少苦しみや痛みを伴うものであったとしても、それはこの子が悪いのだから、仕方がない。」と変質していきます。そして、さらには自身がそのような「正当な暴力」を振るうことのできる立場にいることに、喜びさえ覚えるようになります。

私たちの人生は、苦しい。苦しみながら虐げられ、様々なことを我慢して生きているわけです。その中で「正当な暴力」を振るえる立場を(仮にそれが自らの思い込みに過ぎないとは言え)得てしまえば、それを止めるだけの自制心などないことは、たとえば昨日オウムの受刑者7人の死刑が執行されたときに、松本麗華さんに浴びせられた言葉の暴力を見ればよくわかるでしょう。そのようにして、人は暴力が「正当」であれば、それに手を染めたがってしまいます。

このように彼らの心理をたどれば、彼らと僕らの心理はひとつづきです。我が子の子育ての中で、ここに書いたようないらだちを感じずに育ててきました!というのは僕は偽善者でもない限り言えないのではないか、と自分自身の子育てを振り返っても思います。子供は大人の言うことなど聞きません。そもそも大人が何を「問題」と見ているかもよくわかりません。それを理解してもらうための手段を尽くすことなく、自分の既存の手段で伝えようとしては全く伝わらずにイライラする。そこから虐待まではほんのすこしの道のりです。だからこそ、ひどい虐待が明るみになっていたときに、そのような虐待をしてしまった親を「非人間」扱いすることこそが、僕は間違いであると思います。

あるいは、です。たとえば多くの「進学校」で出されている宿題の中には、「教育」とはいえず「虐待」としかいいようのないもの、この宿題をやることで生徒にどのようなプラスの効果があるのかわからないような「写経」のような宿題がたくさんあります(「問題集の膨大な数の問題をすべて解いて、わからなかったら解答を写しなさい。」という類の宿題です。こんな雑駁な分量だけ多いやり方によって、生徒に力がつくわけがありません。)。そして、それをやってくることをむりやり生徒に強いる先生方も残念ながら、多いのです。これらもまた、自分の教育方法が本当に効果的かどうか、目の前の生徒に合っているかどうかを吟味しないまま、「この方法しかない!」と信じ込んではそれを無理矢理子供たちに強制している、という意味では、虐待であると言えるでしょう(さすがにそれを「努力しない子達が悪いのだから正当な暴力だ!」と教師が認識している、とまでは思いたくありませんが。。でも残念ながらそのようになってしまっているケースもあると思います。)。子供たちの時間を、彼ら彼女らにとって無意味な作業で奪ってしまう、ということがどれだけ大きな罪であるのか、だからこそ教育に携わる人間は、親であれ教師であれ、自分のやり方が目の前の子供達にとって効果を上げられているのかどうかを、まず自分自身が誰よりも厳しくチェックし続けていかねばなりません。

教育は、このように容易に虐待へとなりえます。だからこそ、今自分がしていることが、本当に目の前の子供達のためになっているのかを、絶えず疑い続ける姿勢が親にも教師にも重要であるわけです。

この仕事をしていると、いかに親や教師の独りよがりの熱意や愛情が、子供たちにとって単なる虐待にしかなっていないかを思い知らされます。その中で肉体的な死に至るものは少ないのですが、子供たちの心や将来、その他様々なものをその「虐待」によって殺してしまっている、というケースがとても多いと思っています。言い換えれば、ほとんどの学校や家庭において、広義の「虐待」は起きています。

もちろん、僕自身もまた、その失敗から逃れられるわけではありません。これだけ教育のことばかり考えてきてそれに取り組み続けてきてもなお、「今の叱り方は単なる虐待でしかなかった。失敗した。。」と思う判断ミスも多くあります。だからこそ教育というのは本当に難しいことであるという認識をみんなで共有した上で、伝えたいことが子供たちにどう伝わっているのか、逆にどう伝わっていないのかを懸命に目を凝らして見続け、伝わらないときにはその伝え方の手法を考えたり他の人から学んでいくことが大切であると考えています。

人間は基本的に、自分の見たいものしか見ない生き物です。自分が懸命に努力して、それでも伝えるべきものが伝わらないとすれば、それを相手の努力が足りない所為にしたくなります。しかし、それこそが教育を虐待へとおとしめる入り口であるのだと思います。そこで自分自身の手法に問題があり、他の話し方、他の実践の仕方から何とか伝えるべきものを伝えられないか、鍛えるべきものを鍛えられないかを絶えず反省し、徹底的に探し続けることでしか、自分が愛しているはずの我が子や教え子を自分の手や言葉でただ苦しめるだけになる、という悲劇を避けることはできません。

僕自身も少しでも自分の行う指導が虐待に陥らないようその精度を少しでも高めていくとともに、このことを何とか伝えていけるように、必死に各ご家庭や学校の先生にも向き合い、子供たちを守っていければと思っています。

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成功は失敗のもと。

「失敗は成功のもと」という言葉はよく使われます。それだけでなく、このブログでも何度も書いてきましたし、たとえば現在配布しているパンフレットでもそのことについて書いています。(「何度も、間違えよう。」)これについては一般に広まっている考え方でありながら、その実践がなかなか難しい、という意味でもその重要性について繰り返し強調していかねばならないことであると思います。

ただ今回はそれとは逆のことについて書きたいと思っています(ですので、ブログタイトルは間違いではありません!)。

一般に成功は失敗のもとでもあります。これはどういうことかといえば、人間の失敗にはたいてい彼らがそうする理由があり、そしてそれは殆どの場合彼らがそのような態度、行動、考え方で過去に成功してきているのがその理由である、ということです。つまり、過去においてそのようなやり方である程度の成功を収めているからこそ、そのやり方がいつでもどんな場合でもうまくいく!と思い込み、そのやり方を継続していく中でその過去の成功したやり方がうまくいかないような状況に変わっているのにも関わらず、同じやり方を続けて失敗を続けてしまう、ということです。

具体的に勉強に関して言えば、たとえば単純に暗記さえ頑張れば中間テストや期末テストはなんとかなる、という成功体験を繰り返してきた結果として、はるかに範囲が広くはるかに難易度が高い受験に関しても「とりあえず覚えればいいんでしょ?」というように取り組んでは失敗する、ということはとても多いのです。逆に(それよりはケースとしては少ないのですが)理解をすることを徹底してきたがゆえに、「理解していれば覚えていなくても大丈夫!」と覚えることを軽視し、時間のきつい入試ではそれゆえに間に合わなくなる、という失敗もあります。

これは別に受験勉強に限りません。サッカーでも強引にシュートを狙うフォワードよりも周りのプレイヤーを使えるタイプのフォワードになろう、ということで成功してきたプレイヤーがその考えにとらわれ、そうは言ってもシュートを打つべき場面で打たないがゆえに大成しない、ということもあります。あるいは将棋は自陣の固さがまず大事でしょ!と固めてから殴り合うことで強くなってきた棋士が、昨今のソフトの発達以降の自陣が薄いままに進めていく将棋に適応しにくい、ということもあります。どの世界でも、それこそ超一流のプロであっても、今までの自分の成功を形作ったものが、状況が変われば自分の失敗の源泉となってしまうこともまた多いのです。それほどに「これさえやっていれば永遠に大丈夫!」と言えることなど、どのような分野においてもありません。だからこそ、考え続け、変わり続けていかねばなりません。

嚮心塾でやっていることは、だからこそ、その一人一人の「成功体験」の効用と限界を見定め、その成功体験のままに任せていい部分と、それでは通用しない部分とを指摘しながら、受験生一人一人が過去の成功にとらわれて自分が身につけるべき努力の方向性を勝手に局限しないように、丹念に押し広げていく作業であると言えるでしょう。その点で、「成功は失敗のもと」であることをどれだけ教える側が自覚できているかどうかが重要となります。

ただ、この「成功は失敗のもと」もまた、口で言うのは簡単なのですが伝えることが極めて難しいものです。なぜなら、そのような成功はその受験生にとっては自己のidentityにも繋がっているからです。40年間足を棒にするような聞き込みで犯人を捕まえてきた刑事さんが(そんな方が本当にいるのかは知りませんが)聞き込みよりもむしろtwitterをチェックする方が犯罪捜査に役立つようになったとしても、そこに対応することは単に先入観があるから難しいというだけではなく、自己の人生を否定するのに近い感覚をもつと思います。たとえば大学受験生のようにまだ18歳くらいの子たちであっても、そのような「これを否定したら自分ではない」という思い込み故に努力をしても力がつかない、という悪循環に陥っていることが多いのです。

そしてそれは、彼らのidentityに関わる部分であるからこそ、そのような指摘を聞いてもらうためにはそれを指摘する側との強い信頼関係が必要になります。彼らのidentityを否定したいわけでも、枠に入れて無理やり自分の理想に近づけたいわけではなく、純粋にそのような過去の「成功」にこだわること自体が次の限界を産んでいることを指摘して受け入れてもらうためには、そのアドバイスが単に教師の側の都合や偏見ではなく、本当に受験生本人にとってそれが必要であると教える側が判断していること、またその主張には少なくとも伸び悩んでいる彼にとって試すべき価値があるかもしれない、ということを理解してもらう必要があるのです。

この信頼関係を築いていくのが本当に難しい、というのが教えていての実感です。そして、この信頼関係を築くのを非常に難しくしているのは、そもそも子供たちにとってほとんどの周りの大人は教える側の都合、あるいは偏見、好みなどによって、子供たちに大人達が成功したやり方を(何の根拠もなく)矯正させようとしてくるケースがとても多い、という不幸な事実ゆえでもあります。

だからこそ、まずは子供たち自身の成功体験やidentityに寄り添い、それに対して僕自身が偏見もなく、むしろ肯定的に評価し、その成功体験とそれから導かれる彼らの方法の効用については最大限に評価していった上で、その限界を指摘する、というプロセスをとっていく必要があるわけです。(ちなみにこの「成功は失敗のもと」という点に注意深くあれば、アドバイスをする人が先輩であれ、兄弟であれ、親であれ、教師であれ、自分の成功体験を語るということがいかに生徒にとっては有害であるのかにも思い至るはずです。その成功体験はそもそも状況が違うだけではなく主体が違うわけで、自慢話以上の何かのヒントになることの方がむしろレアケースであると思います。むしろ失敗体験の方がアドバイスとしては有益なことが圧倒的に多いです。)

さらに話を広げれば、子供たちが「何かを理解できない」ということは、だいたい「何かを理解できている」がゆえであるのです。いや、これは子供たちに限りません。大人たちについてもそれは言えるでしょう。自分にとって理解できないものを真に理解できなくしてしまっているのは、自分が既に理解している何かに帰着させて考えよう、という考え方です。もちろん多くの場合において、自分が理解している何かに帰着させて考える、ということは多くの成功体験を生むわけですが、同時にその「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものについては拒絶するという姿勢につながります。「理解は無理解のもと。」でもあるわけです。しかし、その「既に自分が理解できているもの」に帰着できないものをこそ、受け入れ、意味を考え、咀嚼していく作業こそが実は、過去の自分の延長ではない自己の可能性を開くためには、とても重要であると思っています。どのような理解にも効用と限界があることを、常に意識していかねばなりません。

ともあれ、今年もまた一人一人のちっぽけな成功体験に閉じこもって生きることのない受験生生活を受験生達が送れるように、そしてそれをまず伝えられるだけの信頼関係を築いていけるように、日々努力していきたいと思っています。

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普段温厚な人がキレると、なぜ私たちは怖く感じるのか。

素朴な疑問として、普段温厚な人がキレるとなぜ私たちは怖く感じるのかについて、考えてみたいと思います。

もちろん、まず最初に言えるのは「いつもと違う」ということがこれから起こる事態の予測可能性を大きく下げる、という事実に対して恐怖を感じるという理由です。人間は基本的に繰り返すこと、ルーティーン化することで自らの注意力を落としてでも目の前のことに対処できるようにすることで日常生活を送っています。だからこそ、その今までの習慣が通用しなくなる事態に関しては、根本的に恐怖を感じやすいからです。それは今までに習慣化してくる中で不要としてきた自身の注意力を再び喚起しようとする自己防衛本能のようなものであると思います。

ただ、これだけが理由ではないのかな、と僕は思っています。普段温厚な人がキレる時、私たちは「彼or彼女が怒っているのは、彼or彼女の側に怒る原因があるのではなく、私の側に怒らせる原因がある。」という事実に思い当たらされる、ということも大きいのではないかと思います。裏を返せばいつでもなんでも、細かいことにプリプリ怒っている人は、目の前の人に対して「怒るべき事実が今ここに存在している」ということを伝えることができません。普段怒らない人が怒るからこそ、それが怒っている主体の属人的な要素ではなく、怒るべき(あるいは怒られるべき)事実がここにある、という事実の提示に繋がるのであると思います。その「怒られるべき」事実の提示に対して自分から反省がなされれば健全ではあると思うのですが、反省をする、というのは大人になればなるほどできなくなるものですから、自分が反省すべきことはない、という前提に立った上で、目の前に提示された事実の解釈として「怖い」という反応が起きるように思います。

このことを教育に引きつけて話せば、普段から何もかもを厳しく取り締まる先生の言うことは生徒たちにとっては「何もかもをきちんとやらねばならないのだ!」という気づきには全く繋がるどころか、「あの人はそういうウルサイ人だね!まあ、気にしなくていいや。」という反応になります。逆に自分たちに自由を認めてくれたり何でも任せてくれる先生が「でも、これだけはきちんと守れ!」という時には、どのように幼いあるいはやんちゃな子供であっても「これは守らなければならないルールだ!」と必ず認識します。厳しい注意が注意する側の属人的な要素であるのか、それとも大切な事実の提示であるのかを彼らは賢くも判断している、ということになるわけです。だからこそ、親や教師にとっていちばん大切なことは、いかにガミガミ言わないか、言うとしてもその頻度をいかに落とすことができるか、であるのです。

このように教育的効果を考えれば、怒る、あるいは注意するというのは出来る限り頻度を落とした方がはるかに効果的である、という結論になります。「うちの子は何回言っても言うことを聞かない!」ではなく、「うちの子に何回も言えば言うことを聞くわけがない」のです。「何回も言う」ことが、そのことへの注意や関心を低下させ、それが重大な事実の提示ではなく、単にその人がうるさい人だから怒っているのだ、という結論につながってしまうのだと思います。大切な注意をより効果的にするためには、普段から注意する頻度を出来る限り少なくすること、子どもたちの自発性を出来る限り尊重した上で、それでもここは直さなければならない、というところに関しては決して譲らずに注意をしていく、ということが必要であるのです。

ここまではまあ当たり前の結論なのですが、さて、なぜ親や教師は何回もガミガミと怒ってしまうのでしょうか。もちろん、これには様々なくだらない理由もあります。算数の掛け算の順序の強制や、分数の線や筆算の線を引くのに定規を使わせる、などはその代表例でそれらは主にその指導の合理性を度外視して、子供たちに盲目的な従順さを学ばせるための指導になってしまっていると思います。
これらの論外な指導はひとまず脇において、その「ガミガミ」を起こしてしまう理由の中で一番問題であるのは、「完璧主義であること」です。そして、その完璧主義とは子供のためではなく、主に教える側のためであることがとても多いと感じています。子供達が何か「正しくない」ことをしていると、自分が気になって仕方がない。あるいはそれを今指摘しておけば教える側の自分の責任は果たしたと逃れることができる。だから、それを直させなければ気が済まない、というものです。このような矯正は主に「間違いは間違いなのだから、早く直した方が結局その間違いを続けなくて良い!」という考え方に基づいているという意味では基本的には子供たちへの愛情に基づいているとも言えます。

しかし、僕の実感としては、子供たちが間違いを犯している時、その間違いには必ず必然性があります。だからこそ、その間違いを形式的に矯正することは子供たちにとっては「理解できていないものを受け入れる」ことにつながってしまうのだと思います。ここでも大切なのは、間違いの指摘がそれを注意する側の属人的な判断だと思われないように、間違いを指摘することが「事実の提示」になるように気をつけていくことです。それが事実の提示になるためには、もちろん理解をしてもらえるように説明を尽くしていくことも大切であるのですが、そもそもそれでは通用しないという事実を子供たちが感じられるようになるまで、教える側がじっと待つことが必要となるのです。

このように書くと「もう十分待った!それなのに気づかないんだから教え込むしかないではないか!」という反論ばかりが起きるようにも思うのですが、教えていて反省させられことが多いのは、自分を含めた教える側がその「待つ」ということがいかにできていないか、いかに結論を急いでは子供たちに考えさせないことをしてしまっているか、ということの方です。「事実の提示」をしていくためには、事実をして子供たちに語らしめねばなりません。それはまた、子供たちの試行錯誤を徹底的に認めていく、ということでもあります。


温厚である人が怒りを表明するときには、我々はその人の怒りが属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推します。同じように、子供たちに私達が注意をすることが、決してその注意が属人的ではないこと、事実に基づいていることを類推させられているのか。それを親としても教育者としても絶えず反省していかねばならないと思っていますし、そのような親子の行き違いから子供のことを良かれと思ってガミガミ言ってしまっては結局子供にとっても親にとっても不幸になってしまっているご家庭に対しても、しっかりとこのことが伝わるように仕事をしていきたいと思っています。

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自称進学校に騙されるな!その2

前回の続きです。

前回はいわゆる自称進学校の特徴として、

①大量の宿題・小テスト・補講、その他を強制し、生徒の自由に自習できる時間を際限なく奪ってくる。受験生の時間を管理さえすれば受験がうまくいくと勘違いしている。
②自校の生徒のレベルに合った教材ではなく、一般に難関大学受験に必要とされる教材をひたすら繰り返しすことを要求する。それで力がつかなければ受験生本人の努力が足りないことにされる。
③理解よりも暗記を重視する。
④これらの指導に対して全く反省がないことの証左として、そもそもカリキュラムの見直しすらあまり行われていない。そのくせ、「うちの学校でしっかり勉強していれば塾や予備校は必要ない!」と豪語する。

という特徴を挙げました。自分の通っている高校が、このような特徴をもっていると感じる高校生は間違いなく今すぐ逃げた方が良い、またそのときにどのように自己防衛をしていくか、ということも書きました。

今回は、では「自称」ではない進学校、誰もが知っている有名進学校はそのあたりのことをちゃんとクリアしているのでしょうか。(もちろん僕自身の通った経験だけでなく、教える中で見聞きする「有名進学校」の進め方を踏まえてのものですが、個人的な観測の範囲での考察に過ぎない点はご容赦いただけたら。)

これも結論から言うと、あまり良い指導をしているとはいえません。
上の①から④の問題点のうち、有名進学校でその問題点を免れているのは①と、かろうじて③です。①に関しては、高校生の自由になる時間が自称進学校よりはだいぶ多いと思っています。また、③に関しては意識的ではないにせよ、
そもそも授業を行う能力の高い先生が多いことから自然とそうなっているかもしれない、という弱い傾向はあるように思います。

一方で②の教材選びやカリキュラムづくりの雑さ、④の「学校の授業をきちんと聞いていれば…」という根拠のよくわからない自信に関しては、いわゆる有名進学校でも同じです。結局①の受験生に自由に自習する時間を多くすることと、母集団のレベルの高さで進学実績に差がついている程度で、実は有名進学校であってもカリキュラムに関してはかなり雑であり、あまり教師の力量や計画設定とその学校の進学実績とは関係がないと思っています。

そもそもこれらの有名進学校では塾や予備校に通っていない子の方がはるかに少ないわけで、(僕の通っていた学校でも塾や予備校に行かないで受験をする子、ましてやそれで合格する子というのは恐らく学年の1%いるかいいないかであったと思います。)自称進学校の先生たちが真似をするのであれば、有名進学校の先生の真似をしてもあまり意味がないわけです。そこをわからずに教材だけを真似して、この中でいちばん重要な要素である①を削ってそれを叩き込めば有名進学校にも負けない合格実績が出る!と思ってしまっていることが自称進学校の失敗であると思っています。真似をするべき対象が違うだけでなく、有名進学校で唯一その学校が受験生の勉強に役に立っている「自由時間」を削ってしまっているわけですから。

また教材選びの失敗、というのも極めて根の深い問題です。どのような教材もどのレベルの受験生にとっても「この一冊さえ完璧にすれば!」というものはありません。言い換えれば受験生のレベルに応じてその教材が最適であるかは変わってきます。自分のレベルにあっているのであれば、先に上げた青チャートやNEXTAGEもまた、素晴らしい教材になります。逆に合っていなければ、どのように素晴らしい教材も受験生にとっては時間の空費になってしまうことになります。教師にとって必要なのは、一様な教材を全ての生徒に同じように押し付けることではなく、一人一人の生徒の現況を精密に把握し、その上でその子にとって必要な教材を紹介してはそれを進めていくように促していくことであると思います。

小テストや宿題それ自体が悪いわけではなく、そのようにその子の実力に合った教材を進めていく上でのペースメーカーや
強制力になるのであれば、それはまた有効なツールでもあります。問題は、一人一人のレベルを把握し、その一人一人に合ったレベルの教材を選べていない状態で行われる全ての宿題や小テストは、受験生の時間の空費にしかつながらない、ということであるのです。

つまり、この自称進学校の失敗、というのは実は自称進学校に限らない根の深い問題を提示してくれていると思っています。自称進学校であれば、有名進学校であれ、あるいは有名予備校であれ、このように今自分が鍛えていくべきレベルから外れたものをやらせる時間、というのは基本的には全て無駄になる以上、教師にとって必要なのは教える力以上に、その子にとって何が必要であるのかを分析し、見抜いていく力であるということです。

だからこそ、高校での進路指導の先生、あるいは予備校でのチューターという制度の軽視が僕は問題であると思っています。一人一人の生徒の各科目の(あるいは科目ごとに一人でも構いませんが)力を把握するだけの力量のある教師が各学年に一人、つけられれば、そしてその子にとって今必要なトレーニングが何であるかを的確に答えられ、指導できるのであれば、それこそ進学実績は驚くほど上がるはずです。ケンブリッジ大やオックスフォード大でもsupervisor(tutor)とlecturerとを両方用意していて、tutorも非常に重視されているらしいですよ!(これは以前に書きました。こちらを参照していただけたら!
日本ではlectureが全てで、lecturerだけが偉い!と勘違いしている分だけ、supervisor(tutor)としての役割というのがあまり鍛え上げて来られることなかったため、教育システム全体が上意下達のいびつになってしまっていると思います。そこはケンブリッジやオックスフォード、あるいは嚮心塾(!)に学んでも良いのではないでしょうか。

そしてこのことは実は受験生の自由時間のこととも関連しています。教師がそのように一人一人の生徒に今彼ら彼女らがやるべきことを的確に提示できるのであれば、自由時間が多くても、受験生は自分から努力するものです(嚮心塾を見学に来る親御さんは皆、塾での受験生たちの真剣に勉強している様子に驚きますが、これは僕がはっぱを掛けているからではなく、彼ら彼女らにとって「今やるべきもの」を提示していくことによるものだと思っています。)。「受験生が努力をしていない!よし!小テストだ!補講だ!宿題だ!」と近視眼的な解決を目指すのではなく、受験生が努力をしていない理由は自分たちのカリキュラムがその子にとって合っていないのではないかと悩み、一人一人に対してより的確なカリキュラムを練り直していく謙虚さのある教師こそが必要とされているのだと思います。逆に言えば、大人は勉強をしたいと思う高校生の邪魔をしないことが大切であるのです。

話が長くなりました。自分にとって何が足りないかを分析しては、それを埋めるための努力をしていく、という
こと自体は実は受験勉強に限らず一生必要なことです。大学受験はそのような姿勢と方法を学ぶとてもよい契機であるからこそ、高校生の皆さんには、自称進学校であれ、有名進学校であれ、どのような高校に通おうとも学校側の押し付けをまるごと信用せずに、一つ一つ吟味し、自分に足りないものを分析した上で、しっかりと自分自身を鍛えてほしいものだと思っています。

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