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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

自学自習マニュアル(その1:教科書を使った学習の利点と欠点の詳細)

東京すくすくさんの取材記事で、「この長期休校の間に教科書を使って自学自習を!」という趣旨を主張しました。
以下に答えきれなかったことをいくつか書いていきながら、自学自習に何が必要であるのか、という理解の支えにできたらと思います。

まず、自学自習において、なぜ数多ある参考書や問題集ではなく、教科書学習を薦めるのか、についてです。その主張の根拠をいくつか挙げていきたいと思います。

①「解く」よりも「読んで理解する」ことができる。
どのような勉強も、まずは理解することが大切です。理解をしていない状態のままで定理や公式だけをムリヤリ覚えておいて、問題を解くという勉強をしても、できたつもりになってもすぐに忘れてしまいます。なので、「問題を解く」というのは実は「ある程度理解をする」というプロセスをしっかりと経た上で、とりかかるべき作業であるのです。

ただ、これに関してはほとんどの学校では「先生が講義をした」=「生徒が理解した」というように、仮に見なしてしまってどんどん進んでいくので、高校生の大半は教科書の内容が理解できていないままにどんどん授業が進んでいきます。「いやいや。うちは進学校だし!」と思っておられる進学校の先生方も多いのですが、たとえば高校受験の偏差値で70オーバーの高校に通う高校生であっても、教科書の理解度、と言えばおそらく隅々まで理解している高校生は(教えている体感では)せいぜい3割〜4割くらいではないでしょうか。

逆に言えば、大学受験においてはそれほど「高校の教科書を網羅する」ということはハードルが高いのです。「教科書の隅々まで理解する」ということさえできていれば、それだけで受験勉強の下地どころか、よほど難しい大学以外にはそれで合格ができてしまう、と言っても過言ではありません。

そして理解することのためには、まず「読む」ことが何より大切です。一度では内容のわからないことを繰り返し読む。意味を調べる。こうした読む作業をじっくりとやっていき、理解を固めて行ければ行くほどに、問題を解くことの学習効果が高まります。逆に言えば、そのように隅々まで理解するまでは、「解く」ことは理解に邪魔である場合もある、とさえ言えるでしょう。(もちろん実際には「読む」→「解く」の時間配分については各科目によって、あるいはその子の得意不得意によって、変えていかねばなりません。しかし、今の小中高生が一般に「読む」のプロセスが大きく欠けていて、そこを補うだけでもかなり勉強の力がつく、ということは事実です。)

②分厚い参考書は、読みきらない。

でも、教科書ってそっけないし、わかりやすくないですよね。。だったら、「読む」系の参考書のほうがよっぽどよいのではないか!というのは正しい疑問です。しかし、教科書の一番の利点は「薄い」ということです。わかりやすく説明をしようとすればするほどに、ページ数はかさんでいきます。そうなればなるほどに、「何回も読んで理解する」ということが難しくなってきます。それに引き換え、教科書は最低限かつ十分なことをまとめたものです。だからこそ、(分量という面では)「読む」作業に挫折しない可能性が高いのです。この点で、教科書はかなりお薦めです。

③どの参考書が素晴らしいかは、わからない。
もちろん、だからといって「教科書はどんな参考書にもまさる!」というつもりはありません。もちろん素晴らしい参考書もあるでしょう。しかし、そもそも小中高生にとって「どれが素晴らしい参考書か」という情報を得ることが極めて難しいのです。さらに、「この参考書が素晴らしい!」という情報をネットや先輩その他から得たとして、その参考書が本当に自分自身にとっても素晴らしい参考書になるかどうかは、実は全くわかりません。これは同じレベルの志望校を目指して勉強するとしても、一人一人の弱点や強いところは全く違うので、本当に「1000人いれば1000通りの勉強法がある」からです。だからこそある人にとっての「素晴らしい参考書」が、別の人にとって素晴らしい参考書は正直やってみなければ、わかりません。

じゃあ何をやればいい?
教科書!

であるのです。教科書は受験勉強に置いては「ストライクゾーン」を定義するものです。
だからこそ、その「ストライクゾーン」の中で理解できていないところがあれば、それを潰していくことは最も効率の良い勉強であるだけでなく、そのような「素晴らしい参考書」を進めていくために自分に足りなかった要素を埋める手助けにもなります。

④手に入りやすい。(安いor無料。かつ全国どこでも手に入る)
最後の利点としては全国どこでも手に入る、かつ絶版その他の恐れもない、さらには安いor無料ということで、
非常に使い勝手がよい、ということもあります。


これらの利点から、教科書学習はかなりお薦めです。実際に嚮心塾でも(特に数学は)教科書を中心に読み進めて、解き進める、という指導を徹底しています。もちろん、難易度の高い大学を受ける場合にはこれだけでは当然足りません。しかし、このレベルで穴があるままに難しい問題集をやることほど、時間の無駄はないとも思います。


教科書学習の欠点として考えられるのは、
(1)答・解説がない。

まずはこれでしょう。もちろん高額な教科書ガイドも売っているわけですが、そういったものに頼らないとすると、解答・解説がないことがネックになります。
しかし、これに関してはたとえば
「読んで理解する→解答・解説のある例題だけ解く」でも十分です。そもそも教科書学習は理解するためであり、問題演習をするためではありません。教科書の説明がしっかりわかり、例題がスムーズに解ければ、あとは教科書の中の解答・解説のない問題を解くことなく、問題集に移行すれば良い話です。
(あるいは数学に置いてはたとえば数研出版の『体系数学』シリーズのように、教科書と同内容のものを解答付きの市販本として売っている教科書もあります。それを使うのも手です。)

(2)問題数が少ない。
これに関しては教科書が終わり次第、問題集に移行すれば十分です。

(3)説明がとっつきにくい。わかりにくい。
おそらくここが一番ひっかかるポイントだと思うのですが、これに関して教える立場としては、この「教科書はわかりにくい」という説にはだいぶ疑問を抱いています。たとえば一周読んだときのわかりやすさ、ということで言えば断然参考書です。
ただ、繰り返し読み直したり、解き直したり、というプロセスを経て、「それでも教科書だと全然理解できなくて!」というままに終わる小中高生はあまりいないように思います。ここに関しては、使い方の問題もかなり大きいとは思っています(もちろんそれでもわかりにくい、あるいはそもそも説明を省略しているところはあります。そういったものは参考書で、ですね。)。

といったところでしょうか。限られた紙幅では「『オンライン教育!』という趨勢への逆張りなだけじゃない?」とも
読めてしまうとは思うのですが、一人一人にあった自学自習スタイルを15年間試行錯誤してきた中での一つの結論として「教科書学習はかなり効果的である。」は是非広く皆さんにお伝えしたいところであると思っています。
(と、ここまでは主に数学について念頭に置いて書いてきたのですが、数学・理科・社会に関してはこれが当てはまるものの、英語に関しては少し違います。これに関しては次回補足した記事を書きたいと思います。)

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休校中の過ごし方について取材を受けました。

東京新聞の子育て・教育サイト「東京すくすく」さんに、一斉休校中の子どもたちの勉強の進め方について取材を受けました。リンクはこちらです。

綺麗にまとめていただいたのですが、とはいえ限られた紙幅で語りきれないところもあるので、またこちらのブログでもこの記事について色々と補うべきポイントを書いていきたいと思います。

ともあれ、一斉休校は感染症対策のためにはやむを得ないものだとしても、子どもたちの教育に多大な悪影響をもたらすことは間違いがないわけで、そのための自衛策までが親御さん任せ、その自衛策のためのコストも親御さん任せ、ではこれもあまりにもひどすぎます。その中で、どのようにコストをかけないで学習していくだけでなく、むしろ望ましい学習習慣を「ピンチをチャンスにして」つけていくための方法、などについて諸々書いていきたいと思います。

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教育はサービス業か。(その2)

だいぶ間が空いてしまいましたが、続きを。

前回は「生徒自身に自分の勉強の進み具合や効果をチェックしてもらう」ということが結局大切だと
いうことを話しました。では、そのようになっていくためにはどうしたら良いのか。

たとえばそのための一方策として、嚮心塾では「まず勉強何をする?」ということを必ず生徒自身に考えさせるように
しています。もちろん、これは一歩間違えれば「やりたい勉強ばかりをやる」という失敗に陥りがちです。しかし、一方で
「君は今日はこれからやるべきだ!」などとかっちり決めてしまえば、子どもたちは教師の指示を待つだけで考えなくなってしまいます。これでは嚮心塾が「自学自習」をうたっていようと、形を変えた強制にすぎなくなってしまい、生徒自身が「自分が今何をやるべきか」を考え、選び取っていく力は永遠につかなくなってしまいます。

一方で、それが科目間のバランスを欠いていたり、学校の課題をこなすだけになってしまうのであれば、それは
「自学自習」という体裁だけを守っているだけで、結局はその子自身の力を伸ばすことにはなりません。
そのようになってしまっている場合には、「そのような科目間のバランスでよいのか」「そのように学校の課題だけをこなしていることで果たして力がついているのか」という疑問の投げかけをこちらからしていきます。

そのような問いかけを繰り返すことによって、塾生達は「勉強さえしていれば許される」という状態から、だんだん「どういう勉強を自分はしていかねばならないのか。」という思考へと心が準備されていきます。もちろん、これはただ問いかけるだけではなく「まずは学校の課題さえちゃんとしていればいいんでしょ。」という思考停止に陥っている塾生であれば、
その課題を進めていくことが本当に実力をつけることになっているのかどうか、せっかくの貴重な勉強時間をもっと
他のことに充てるべきではないか、ということまで考えてもらえるようにあれこれ話していきます。(本当はこんなことをしないでも、学校の課題はすべて意味あるものとして終わらせた上で、とできるのが一番良いのですが…。残念ながら学校の課題の殆どはどのような目的意識に基づいてこの子達にこの課題をやらせるのかをよく考えて出していない、極めて
労力と時間の無駄ばかりの宿題が多いのです…。)

そのような考え方を身に着けてくると、やがて学校の課題のような受動的な勉強だけでなく、自分が能動的に取り組んでいるはずの受験勉強についても「これはあまり意味がない気がする」「これは意味はあるけど今の自分では時間がかかりすぎて効率が悪い」「これは逆に意味があると思うけどやりたくないのでついサボってしまう」などと、自分の勉強内容についても反省をしていくことができます。このように受験生自身が、自分の受験勉強の一つ一つの意義について、しっかりと
反省ができるようになってくれば、もうその受験生はかなり合格率が上がってくるといえるでしょう。
(もちろん、この段階に至った受験生もなお、本当に客観的に自身の勉強の効率や効果を判断することは極めて難しいものです。だからこそいわゆる「合格体験記」はその子にとってはその勉強が良かった、という道筋でしかなく、客観的な意見にはなり得ていないものが多くなります。これはたとえば理三合格者とかであれば、その客観性は他の受験生よりははるかに高いわけですが、それでも全く完璧ではありません。どうしても自身の考えるベストの勉強と、実際にやるべきベストの勉強との間にその子のpersonalityによって、「ズレ」が生じてきてしまいます。それを全教科に渡って矯正するのが、教師の仕事であると言えるでしょう。)

という一見迂遠なプロセスを経て、初めて勉強の仕方というものが生徒たちには身についていきます。

この過程を通じて思うのは、「わからないところに答える」といういわゆる「教える」という作業、というのは
このような学習への姿勢を生徒の中に作っていくという教育全体のプロセスの中では実は非常にパーセンテージが低いものである、ということです。

もちろん、「質問に答える」という行為から生徒との信頼関係が始まってくるので、勉強の内容が教えられなくて良い、と
いうことでは全くありません。そもそも勉強の内容がよくわかっていない人に、勉強の仕方を聞こう!という謙虚な姿勢を持つことはよほど優秀な子でもない限り、思えないからです。だからこそ、こちらでも「全教科教える」という無茶なことをやるために、毎年ヒイヒイ言いながら、必死にあれこれ勉強をしているわけです。

しかし、一方で、勉強の内容だけはよくわかっていても、このような姿勢を生徒の中に鍛えていってもらおう、という姿勢のないままにただ知識だけを教え込む、ということをしてしまうと教育としては大きく失敗します。あくまで、生徒が自分で答を探していけるように、そのための方法論としてどのようなものがよいか、逆にどのようなものは筋が悪いかといった方法論も含めて考えながら、学習内容を調べたり考えたりしていく能力を鍛えることが何より大切です。逆に言えば、その能力さえあれば、あとは何もかもを教え込む必要は実はあまりない、とも言えるでしょう。

ということで、塾では勉強の内容自体を考えさせるだけではなく、質問についての評価もしていきます。
生徒からの質問を受けるたびに、「それはちゃんと調べたり考えたりしたあとの良い質問だね!」と言ったり、
逆に「それはまだあまりしっかり読み込めていないから、もう何回か教科書を読み直したら?」と冷たく拒絶したりします。そのようにして、どのような質問をすべきか、ということまで考えていってもらっては、質問のクオリティを上げていけるように、と工夫をしていくわけです。

このような一つ一つのやりとりを見ると、表題の「教育はサービス業か」という問いについて考えざるをえません。
たとえばその場での顧客満足度だけを考えれば、(前回に書いたような「指導報告書の充実」は本末転倒なのでまた別として)生徒の質問がどのように練られていない底の浅い質問であっても、それに対して懇切丁寧に説明をしてあげる方が
生徒の満足度は高くなります。一方でそれは、生徒自身が考える習慣や勉強の仕方について学んでいくことを阻害するため、そのように「何でも丁寧に説明してくれる!」と喜んで通っていたとしても、実力はつかないままに終わってしまうことが多いでしょう。それでは近視眼的には満足してもらえるとしても、結局は生徒をだめにしてしまうことになります。

もちろん習いはじめの最初から「そんなアホな質問をするな!」とコワモテで怒る先生なんかに学びたくなんかありません!そのような乱暴な指導を受けておいて、「あ、これは自分がアホだ!」と気付ける子は既にある程度研鑽を積んだ子であるでしょう。
だからこそ、教える側としては「何でもアホな質問でも気軽に聞いてね!」というところから始めつつも、
だんだんと「いや、それはアホな質問だから自分で調べた方がよくない?」というように誘導をしていく、という
スキルが問われるわけです。もちろん、勉強の内容を理解することはその子の勉強へのモチベーションを上げるためにも必ず有用です。しかし、それがただ「この眼の前の便利な先生を使えば学校の宿題が困らない」とかになってしまえば、それは依存させればさせるほど、自分では考えも調べもしなくなってしまいます。まあ、google home やAlexa代わりに
なってしまうわけです。
そうならないように、という細心の配慮が必要なのは、自転車の練習の際に最初は補助輪をつけてあげたり、外した後も後ろを持ってあげながら乗る練習をするとして、だんだんと手を離していくのと同じですね。

ということで、「教育はサービス業か」という問いに立ち戻れば、「教育とはサービスを徐々に減らして自分でできる範囲を増やしてあげることが長期的に見ては最高のサービスとなるサービス業である。」というのが僕なりの定義です。
とここまで書いてみると、「そんなの当たり前だろ!」となるわけですが、しかし、これが難しい。本当に一人一人
にうまくフィットしては、その子の自分でできる部分を増やしていくのが本当に難しいものです。
丁寧に教えていくと、いつまでも依存したり、とはいえ、ここは!と思って突き放すと途端にやる気自体をなくしたり。

誰かを教えるときにうまくいったプロセスも別の誰かを教えるときには全くうまくいかない。その試行錯誤の繰り返しです。

しかし、そのように困難な道のりであっても、生徒自身が自分から考え、調べ、そして反省をしていける力をつけていけていけたときには、それこそ「顧客満足」といった二人称の閉じた関係性の中での癒着とは違う、手応えを感じることができます。この世界に一人の尊敬に値する魂が確かに誕生することになるからです。それは顧客を口八丁でだまくらかしては、当座の金銭的利益さえ得られれば、という単なる商行為の先にある意義であると思います。

そのような仕事が一人でも多くの塾生に対してできるように、今年も頑張っていきたいと思います。

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教育はサービス業か。(その1)

新年度の準備でバタバタと忙しい毎日で、少し間が空いてしまいました。

さて、教育はサービス業であるのか、という問いですが、これはもちろん「サービス業」という言葉の定義に依るのでしょう。ただ、「個別指導塾」という看板を掲げているところだと(これを嚮心塾も掲げているわけですが)、主にサービス業的な側面、つまり顧客満足度のみを重視する、ということが多いように思います。

というと、「いやいや、成績を上げることが塾の目標なのだから、結局は生徒に力をつけられているかどうかが顧客満足度につながるんでしょう?」と思われるかもしれませんが、教育というのは本人の努力がどうしても大きな要素であり、かつ
個別指導塾に通うお子さんというのは基本的に勉強にそれほど意欲をもって取り組まない、または、意欲はあるとしても方法がわかっていない子どもたちです。これらの子たちを抱えて「成績が上がった!」という結果で顧客満足度を高めようとしても教える側としては極めて難しくなります。労力に見合う成果を得られることは少ない分、この方向で努力するのはまだ教育という行為自体に使命感を感じて取り組む、奇特な若い大学生のみになるでしょう。

その中で顧客満足度を上げるにはどうしたらよいか。それは当然、「こちらはベストを尽くしている」ということが保護者の方に理解しやすい努力を保護者の方に見えるようにやっていくことになります。通ってくれている子が力がつくかどうかについては半ば諦めて、ですね。この最たるものがいわゆる「指導報告書の充実」です。保護者にとって「見える」部分
であるところに関しては徹底的に手をかけて立派なものを作ります。それこそ、個別指導の生徒に教える授業中の時間を潰してでも、「完璧な指導報告書」を作ります。そのようにして顧客満足度を上げることで、親御さんにお金を払わせ続けようとするのです。まあ、詐欺のようなものです。

ただ、この詐欺に引っかかるのはやはり「自分に見えているところだけで判断する」という親御さんの失敗でもある、と言えるでしょう。教育というのはその成果が極めて見えにくいものです。同じように「結果が出ていない!」状況であったとしても勉強の方法やモチベーション、その他はしっかりと改善し、あとは結果が出てくるのを待つだけ、という状況もあれば、このまま待ち続けても決して結果が出てくるようにならない状況もあります。しかし、親御さんに見えるのは模試の成績だったり学校の成績だったり、目に見えるものしかないからこそ、その目に見えるものが改善しないのであればどれも同じだ、となってしまいます。その結果として「親御さんの目に見えるもの」だけを体裁よく取り繕った個別指導塾に騙されてしまう、という悲劇に陥るわけです。

教育の効果を観測しようとすれば、観測の誤謬をつかれて、このように観測に対応した歪な「発達」によって教育の効果の実態が掴みにくくなってしまいます。本当に教育産業の罪は重いのですが、逆に言えば、それほどに教育というのは効果が出るまではどんな熟練の教師にも難しく、特に生徒本人のモチベーションが低いときにはそれこそ手を変え品を変え、何をやってもどうしようもないからこそ、このような歪な生存戦略をとることで発達してきた、ということもあるのかもしれません。僕はこのような個別指導塾を、否定しますし、それこそ絶滅すれば良い、とは思いますが、一方でそのような個別指導塾をのさばらせているのはやはり、生徒自身がモチベーションを失う制度であったり、モチベーションを失ってサボる我が子に届くような何かしらの言葉も用意できないままに、ただ「勉強が最低限のレベルではできる」という事実のみを用意しようとする、親御さんの歪な親心であるとも思います。

生徒本人が自分の勉強について、それをやるべき意味に気づき、それができていないことに自分で悩まねばなりません。
逆に言えば、親御さんが「自分の子供が勉強をしない、できない」ことに悩んでいるうちは、子供はあまりそれについては悩んでいないことが多い、というのが実情であると思います。(このようなとき、彼ら彼女らは親御さんの「勉強しなさい!」というリクエストに応えることに精一杯で、自分自身がそれについて考えたり悩んだりする余裕を失っている、と言えるでしょう。確実に彼らの将来の可能性を狭めていることに関して、誰かが心配しているうちは、真剣には悩まないものです)
だからこそ、まずは、彼ら彼女らに「それで本当に良いのか」を考えてもらっていく、というプロセスがどうしても必要であると思っています。

さて、ということで前置き(!)が終わって本題に入ろうとしたのですが、長くなりすぎました。また続きは明日にでも書こうと思います。

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失敗を失敗ととらえるために。

大学受験で志望校に合格したばかりの大学生など、「自分には何でもできる!」と、一歩引いて見れば恥ずかしい万能感に包まれているわけで、そのような状態の教え子たちに苦言を呈しては現実に目を向けさせることが自分の役割だと思ってやっています。とはいえ、僕自身も恥ずかしく、また忘れられない苦い思い出があります。

大学受験で自分が落ちることなど考えてもいなかった尊大な僕は、第一志望の大学しか受けていませんでした。それがうまくいき、教え始め、教えていけば教えていったで、他の東大生よりはまだ視野が広い分、より一人一人にコミットして教えられるわけで、教えるアルバイト自体が自分の「万能感」にも繋がる、という悪循環でもありました。もちろんそのことに自分では気づかず、です。

その当時働いていた塾では、校舎の教室長の先生が我々大学生チューターに仕事の裁量権を広く任せてくれていたおかげで、自分から仕事を見つけては一人一人の生徒の役に立てないか、ということを拙いながらもやり始めていました。そのときに、映像授業をとるために通ってくれていた社会人の医学部再受験生の生徒と出会い、彼の勉強の現在のレベルと受けている映像授業のレベルとの乖離から、このままではせっかく続けていても力がつかない!と思い、出来る限り僕が今の彼に必要な勉強をデザインし、教えるということをやり始めました。

その生徒は社会人の学生であったため、自分の仕事が終わってからようやく勉強ができます。勉強の開始が20時、21時からとかになり、当然その塾を閉めるまででは長く教えることもできないために、連日泊まり込みで教えては、家に帰るのは週に1,2回ということが続きました。朝まで教えて、そのまま大学の講義を聞きに行き、また塾に来て教える(もちろんその夜遅くになるまでは他の生徒も教えていました)という生活の繰り返しの中、「こんなゆるい進級条件なのに、更に自分がサボるためにシケプリ(「試験のプリント」の略語。講義をクラスの各学生が分担してノートを取ることで講義をサボる制度で、東大には残念ながら根付いています。)とかやってるなんて、頭の悪い東大生は本当に救いようがないな!」と入学時に全てのシケプリを拒絶して自分で勉強していた僕は、大学の勉強に手が回らなくなり、大学の試験前日も徹夜で塾で教えてはその足で試験を受けに行っていたため、ドイツ語の単位を一つ落として留年することになりました。

しかし、それほどに心血を注いで教えていても、その当時は所詮ハタチ前後の大学生なわけで、教える勉強の内容はわかっても、どのように力を伸ばすかについてはまだまだ圧倒的に自分の理解が足りていませんでした。もちろん、社会人として働く彼のトータルの勉強時間も彼自身がどんなに努力する人であったとしても限界があるわけで、かといって生活のためには仕事を辞めるor休んで受験勉強に専念する、ということも物理的に不可能でした。その状態を続けていても、やはり彼の学力は伸びず、入試でも点数が取れず不合格に終わりました。

そして、年度の終わりに、これをいつまで続けていくのか、ということを改めて彼と話し合いました。
僕が自分の教える力の不足を詫び、改めて次の一年をどうするかを相談したときに、彼から

「ここまでしてもらったからには、先生がどうすべきだと思うように決めてください。このまま続けていけば合格できると先生が判断するのであれば、しんどくても続けていくし、逆にこれを続けても無理だと先生が判断するのであれば、諦めます。」と言ってもらいました。

そこで僕は、
「残念ながらこのままの状況を続けていったとしても、医学部に合格できるとは思えません。仕事を休んで受験勉強に集中できるのであればまだ可能性が見えてくるとしても、この状況の中で歯をくいしばって勉強したとしても、今の学力から仕事をしながら医学部に合格するのは難しいと思います。」と言いました。

それを受けて彼は、
「わかりました。きっぱり諦めます。今まで有難うございました。」
と言って退塾していきました。

そのときの僕がどういう気持であったのかは一概にはわかりません。もちろん保身の気持ちもあったでしょう。自分自身が少なくとも多大な労力と犠牲を払って、それでも力になれなかったという事実から距離を置きたいという気持ちがなかったかと言えば、嘘になります。しかしそれ以上に、だいぶ年下の僕に彼がそのように自分の人生を左右する判断を委ねてもいいと言ってくれたことに対して、その場しのぎの嘘をつくわけには絶対にいかない、という思いだけは覚えています。

そしてそれは、僕自身にとって人生で初めての挫折でした。自分が努力をして結果を出すことなど勉強であれスポーツであれ、その他何であれ、極めて容易なことであると思っていたその当時の僕にとって、
自分が必死に努力したにも関わらず、一人の心ある、努力を惜しまない人のなけなしの努力、かけがえのない努力を自分の力量が足りないがゆえに見殺しにしなければなりませんでした。僕自身は自分や自分の家族の人生を生きるくらいなら十分に余力があるとしても、その外の人を支え、力になっていくためにはこの上なく無力で愚かであり、
偉そうな自己満足のような「努力」をいくら言い訳のように積み重ねたとしても、その自身の無力さや愚かさは決して拭えはしないという事実に気付かされました。

もちろんこれを自分の失敗ととらえないことはできます。恐らく多くの人は
それを自分の失敗とはとらえないことで、何とか傷つかないように生きているのかもしれません。しかし、
たった一度の自分の人生において、これはやはり僕の失敗ではないのか。これを僕の失敗ではないと切り離して
生きるとして、それで僕に親しい友人や家族は皆幸せそうに暮らすことができたとして、果たしてそのような人生に
何の意味があるのか。

そこからの僕は、様々な紆余曲折があろうとも、結局は「自分にもっと力がなければ、目の前の人たちを救えない。」という動機に衝き動かされてここまで生き永らえてきた、と言えます。そうは言っても「だからもう今の僕は力がついたので、誰でも救えます!」となっていればよいのですが、23年前のあの頃の自分と比べて、
できるようになったことはとてつもなく増えてはいます(増えたのは体重だけではありません!)し、
力になれる子の幅もはるかに広がっているとは思うのですが、できるようになればなるほどに、
それでもまだまだ無力感を感じることばかりです。
しかし、その失敗を相手のせいにするのではなく、あくまでも自分の失敗としてとらえ、どう乗り越えようとしていくか、
という課題については恐らく死ぬまでずっと取り組み続けることになると思っています。


ということを書こうと思ったのは、あの23年前の再受験生のお子さんが今年嚮心塾に入塾してくれたからでした。
久しぶりの再会に照れくさそうに「娘が先生のところの塾を気に入ってさ。」と話す彼に、
僕はいつもの軽口を出すこともできずに、深く頭を下げることしかできませんでした。

あれからも僕はたくさんの失敗をしてきました。そのたびに打ちひしがれ、必死に反省し、何とかできることを増やそうとしてきました。それらの試行錯誤を彼のお子さんの力にも変えていけるように、必死に教えていきたいと思います。

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「暗記」とは何か。

「暗記よりも理解!」「暗記はすぐに頭から抜けるけど、理解は決して頭から抜けない!」というのは塾で教えるときに繰り返し繰り返し話している鉄則です。また大まかな勉強全体の方針も、それに沿ってやっていくことで問題ないと思います。

しかし、「そうは言っても英単語は暗記だよね。」「そうは言っても漢字は暗記だよね。」と、「青チャートの解法全部覚える!」的な無意味な暗記は排除してもなお、受験において「仕方がない暗記」というものは肯定されているように思います。もちろん、僕自身も暗記すること全体を否定するつもりもありません。
しかし、実際には「暗記」とは何か、という定義は一人一人の生徒で全く違っています。また教師の側でその「暗記」の定義を押し広げ、やり方を変えていくこともできます。
そのような一人一人の定義をどのように押し広げていくか、が教育の役割でもあります。

たとえば英単語を例にとりましょう。塾では受験生に毎回英単語テストをすることが多いのですが、これは実は英単語を定着させるためにしているのではありません。もちろん、その目的は表面的な目的として、本当の狙いは
その受験生が「暗記する」という概念をどのように捉えているか、その認識の仕方をこちらが把握するためにやっていることです。

英単語を覚えるときに意味を無理やり覚えている子ほどに、英単語帳での「場所」によって覚えているため、近いところにある英単語の意味を取り違えたりします。このような子はその英単語の文字の意味をじっくりと味わうことなく、ただ場所だけで覚えることを「暗記」と定義しているがゆえにこのような誤りをおかすため、単語の接頭辞や接尾辞、語源を辞書で調べることを徹底させます。

これはまた「似たようなスペル」の単語を取り違える子にも言えることです。似たようなスペルの単語同士でも必ず違う語義の語幹があったりするわけで、その違いを辞書で調べていく、ということまで指導していきます。
そのように指導していけば、接頭辞・接尾辞・語幹の意味を増やしていくことになり、それがまた他の単語を覚えるときにも類推をききやすくしていきます。

また、英単語と関連して、英熟語の覚え方でも単純暗記なのか、単語のイメージや前置詞のイメージからその熟語の意味を引き出してこれるのか、で大きく定着度が変わってきてしまいます。英熟語を「覚えるもの」と思っている受験生は意外と多く、単語や前置詞のイメージから熟語のイメージを引き出してこれないままに英熟語の訳語だけを覚えては結局何も定着しない、ということも多いです。また、この点からも英単語の意味や前置詞のイメージが定着していない子に英熟語をやらせる指導の仕方、というのも大きく間違っているといえると思います。英単語をしっかり身につけてから、英熟語を始めていく方が効果的であるからです。

もちろん、これらのやり方は教師が教えなくてもできる子は自然にやっていることです。しかし、できる子は自分の「暗記」の仕方の中で辞書を引いたり接頭辞・接尾辞・語幹を覚えていくのが当たり前のことだと思っているので、こういった努力全体を含めて「暗記」と呼ぶ言葉遣いをしていきます。だからこそ、

できるA君:「英単語は結局暗記(ただし辞書で引くのは当たり前!)だよね!」
できないB君:「やっぱ、そうかあ(辞書に触りもしない)。。」

という誤解が生まれ、B君としてはできるA君と全く同じように勉強しているつもりであっても
全く身につかないままに終わっていくということになってしまいます。

もちろん、どのような受験生も最初からはこのような勉強法はできません。また、ある教科についてこの「暗記」の内実を解きほぐしては理解をしようとしていくことをできている受験生であっても別の教科、特に自分の苦手な教科については
なかなかそれができていない、ということもまたよくあることです。嚮心塾で殆どの受験生に単語テストをしていくのは、一人一人の生徒の頭の中での「暗記」「理解」という言葉の定義をそのように確認していき、それについて正しい方法を鍛えていき、さらにはその一つの単元についての正しい方法を他の教科にも応用しようとしていける子か、それともそうではないかを観察しては次の指導を考えていく、というその子のpersonalityへの理解を他の教科の指導に活かしていくために、単語テストをしています。そのようにして一人一人の生徒の言う「暗記」の定義を揺るがしていくことが勉強に関しては正しいアプローチであると思っています。

このように、「勉強法を言葉で伝える」というのは極めて難しいことです。なぜなら、その言葉の定義が一人一人の中で大きく違うものであるからです。だからこそ、勉強の仕方を正しい方向へと修正していくためには、まず生徒たちがどのような定義で認識をしているのかを確認していきながら話をしていく必要があります。

となると、いわゆる巷であふれる「勉強法」の本、あるいはその生徒の中での定義を確認することなくなされる全ての教師のアドバイスはいいかげん極まりないものであるのでは、と思ってしまいます。勉強のできる同級生からのアドバイス、とかなおさらです!(塾ではよく「東大に受かった同級生が『この参考書をやれば受かる!』と言ってた」的な雑なアドバイスをいちいち論破しなければならないこともあるのですが、このような雑なアドバイスが多くの場合において有害でしかないのは、今回の話からもおわかりいただければ嬉しいです!)

逆に言えば、受験生の中のそのような「定義」の部分から粘り強く探り、変えていくことができれば子どもたちの能力など(もちろんごく一部の天才は別として)そんなに大差がない、というのが教えている中での僕の実感です。たとえば塾からも難しい大学に合格している生徒はたくさんいますが、阪大医学部に合格した初期の生徒は、彼の高校からはおそらくこれから二度と阪大医学部への合格者は出ないであろう偏差値の高校(実はその高校からは他の子がもう一人慶応医学部に合格しているのですが、これも恐らくその高校からは二度と出ないでしょう。しかしこれも僕の教え子です!)に通っていましたが、しかし彼はその高校(正確には中学受験で入ったので中学ですが)には補欠合格で入りました。つまり、一番ビリで入って、その高校の卒業生でも歴代トップクラスの学力を身に着けた、ということです。

もちろんこれは、そのような一つ一つの勉強についての定義を粘り強く更新する、という作業を誰からもされることなく、
自分でもできないままに、多くの子の才能が日の目を見ずに終わっていっている、という悲惨な事実でもあります。そのようなことをしていけば、どのように鍛えたはずの受験生にも、あるいは「どんなに努力しても力がつかない」と嘆く受験生にも、必ず力がついていくと思っています。

そのように一人一人の生徒の認識の仕方、定義を把握しながら、押し広げていくという作業を僕ももっと瞬時にできるように、自分自身の教える力、観察する能力を鍛えていきたいと思います。

そして、何よりそれを教師からされないでも自分自身にその定義を吟味する目を向けられるような受験生をこそ、育てられるように努力と工夫をしていきたいと思っています。生徒一人一人の思考回路や定義を読んではそれを指導に充てていくこと自体は、それなりに今もできています。しかし、それを生徒たちが自分自身で自分に対してできるようにしていく、というところまではまだまだ道半ばです。しかし、それが(この卒塾生のようにあるいはこの卒塾生のように)できて初めて本当の教育であると思っています。

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宿題は税金。受験勉強は貯金。

どくんご東京公演も無事終わり、バタバタと忙しい中、また塾の日常に戻っています。
あっという間に今年も9月。ここからが受験生の本番です。努力をする姿勢、努力の方向性といったところはだいぶ一人一人の受験生の土台ができてきて、成果も少しずつ見えてきているからこそ、ここからはそれらの必要な努力をしても尚、一人一人の中でどういう部分がこぼれ落ちてきてしまうのかを検証しながら、埋めていく作業になります。
教える側にとっては受験生との対話がますます必要となり、かつこれまでのコミュニケーションの中で蓄積してきた
一人一人の受験生のpersonalityへの理解と踏み込みが問われていくところです。
しっかりとやっていきたいと思います。

さて、どくんごの感想も書かねばならないところなのですが、あまりに久しぶりのブログなので、ここらで筆慣らしに勉強のことでも。(一応学習塾なのです!)

最近の中学や高校はあまりにも宿題が多く、中高生は宿題に忙殺されています。
しかし、その中には学習効果の極めて低い、「理解してもいない分野でいきなり問題を大量に解かされる」「解けなかったら解答を写してくる」などの作業系の宿題も非常に多いわけです。理解してもいないことを丸暗記をさせて、いったいその努力が何に繋がると考えているのでしょうか。

このようなアホな宿題を出す先生の指示など、無視すればいい!と言いたいところではあるのですが、
中学生は内申点に響くから、という理由で脅され、高校生はそれが「平常点」になるから、という理由で脅されて
やらざるを得ない状況に追い込まれています。

ただでさえ、勉強に積極的な意欲を持つにはあまりにも多感な時期の中高生の、なけなしの貴重な学習時間が、
学習効果が低いこのような「作業」にすぎない宿題で奪われていく、ということが犯罪的ですらあると僕は思うのですが、
その中でも中高生の勉強への意識を変えるためによく使っている言葉が、
この「宿題は税金。受験勉強は貯金。」
という言葉です。

税金をいくら支払っても貯金が生まれないのに対して、貯金は貯まれば貯まるほどに税金もそこから払うことができます。
自分にとって力にならない作業をひたすらやっていても、結局受験勉強の力がつかずに受験勉強では立ち往生してしまう(だけでなく実は定期試験も結局点数がとれません。)のに対し、受験勉強の力を地道につけていくことは定期試験もノー勉強で高得点を取れるようになっていきます。
だからこそ、勉強時間を何に充てるか、というときに宿題をやる、試験勉強をするのは愚かしいことであり、受験勉強を地道に普段からやっていく方が圧倒的に賢いわけです。(理想を言えば、宿題や試験勉強を全くしないでも定期試験ではそこそこの成績がキープできるように受験勉強を進めていくのが良いです。もちろん、定期試験には受験に必要ではない科目もあるので、それは試験前にやらなければならないわけですが)

しかし、このような戦略を多くの高校生が取ることができないのにはいくつかの理由があります。
一つは先に書いた、学校の先生からの脅しなわけですが(学校の先生方には生徒を平常点や内申という言葉で脅す前に、そもそも自分たちの出している宿題が適切な量か、それをやることで本当に力がつくのか、他の教科との兼ね合いで今それをやるべきかどうか、など、内容、量、時期などを考えて出していただきたいです。。)、
それ以上に大きな要因として、親御さんの「学校の宿題はやるべきもの」という思い込みがあります。

しかし、昔と比べて今の中高生は圧倒的に宿題の量が増えています。しかも、極めて無意味な作業系の宿題ばかり。。
その事情も理解せず、「宿題をやることが勉強だ!」という強制をするがゆえに、中高生のほんのわずかな
学習意欲も無駄遣いされ、そしてやる気をなくしていきます。

税金のたとえを出しましたが、宿題と税金の大きな違いは「宿題はやらなくてもよい」ということです。
宿題をやることが今の自分にとって適切な勉強であれば、もちろんやるべきです。しかし、あまりにもレベルが合っていない、あるいはそもそも無意味な作業でしかないような宿題をやるくらいなら、それこそ教科書を読み直す、とか
受験勉強に役立つ他の勉強をすべきです。そして、それを何より親御さんが奨励すべきです。
それだけで、世の中にあるほとんどのいいかげんな個別指導塾など経営が成り立たなくなるくらい、
「学校の授業がよくわからないから塾に行く」という事態は減らせると思っています。

そのように受験を睨んではその子にしっかりと力のつく勉強の方向性を与え、教材を指定し、そしていらない宿題の取捨選択をした上で「貯金」に取り組むとき、ほとんどの「勉強嫌い」と目されていた中高生は、実は自発的に、そして極めて真剣に勉強するようになります。彼ら彼女らを勉強嫌いにしているものは、学校の先生方の考えの足らない宿題、それに盲従することが「勉強」であると信じ込み片棒を担ぐ親御さん方、そしてそれを儲けるためならさらに中高生の力にならないと知っていても片棒をかつぐ学習塾業界、という考えの足らない大人たちです。そのことに対して大人たちはもっと真剣に反省をし、「宿題をしろ!」「試験勉強をしろ!」と間違った方向性を推奨することで、中高生の未来を奪っていないかを反省しなければならないと思います。

嚮心塾も一人一人の中高生に少しでも「貯金」を作っていけるように、何より誤った方向性を大人に提示されているせいでなけなしの努力も無下に浪費されてしまっている(この点でも宿題は税金と似ています。)彼ら彼女らの将来を守っていくためにも、これからも必死に戦っていきたいと思います。

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嚮心塾は英語民間四技能試験に対応しません!

センター試験後継の英語民間四技能試験は多くの致命的な問題点を抱えたまま、来年度から実施されてしまうことになってしまいます。それに対して英語教育・英文学の先生方が反対の署名を届けたばかりですが、この問題については社会の基盤を掘り崩すような大きな改悪であるのに、社会の関心があまりにも薄すぎると思っています。
(問題点の整理に関してはこのブログが比較的まとまっていると思います。)

あまりにも多くの問題点があるずさんな変更であるために、その問題点についていちいち指摘しにくくわかりにくい、ということもあるのですが、それ以上にことをめんどくさくしているのが、「入試」改悪であるということです。

我が子の受験について心配されている親御さんは、「我が子の人生の大事に変更がなされる」と聞けば、それがどのような変更か、改正か改悪かを考える前に、まず「うちの子はそれで大丈夫か」「うちの子はその試験にどう対応するか」ばかりを考えます。これにはまた、教育産業もひどいもので、このような親御さんの不安を「ビジネスチャンス!」とばかりに煽り立てて、「新テストに対応できます!」と売り込もうとします。このようにしてどんなにおかしな改悪であったとしても、それに抗議することよりも前に、「対応」することに忙しく、結果として抗議もせずに黙々と従う、という失敗をおかすことになってしまいます。

このような奴隷根性の日本人が香港のデモを見て「香港加油!」とか言うこと自体が烏滸がましいというか、ちゃんちゃらおかしい話でして、「お前たちもこっちを応援してないで、もっと自分の戦うべき相手と闘ったほうが良いのでは?」と香港の人たちからも心配されてしまうと思うのですが。。(もっと日本人は「怒る」ことを覚えたほうが良いと僕は思っています。)

英語の習得にどこまでスピーキング・リスニングが必要であるかはそもそも何のためにその外国語を学ぶのか、とリンクしているため一般論を話すのが難しいところではありますが、基本的な英文法の徹底無くして英語が上達することは不可能です。これだけは断言ができると思います。それを徹底した上で、自分の鍛えたい分野をさらに特化して鍛えていく、ということが理想なわけですが、このような入試改悪を「ビジネスチャンス!」と見ては利益誘導を図る教育産業やそれと癒着した文科省には、同じ教育に携わるものとして本当にうんざりします。しかし、彼らはどだいそういうものです。私企業が利益を最大化するためにあらゆる手を使うことを「文科省なら拒絶してくれる」と勝手な期待をするのも、どだい人任せな態度でしかありません。

僕が何よりも問題であると思うのは、このような利益誘導をしっかりと情報を集めては批判をすることもなく、「変化」に「対応」しなきゃ!と唯々諾々とその準備をしていく教師・保護者・受験生です。闘うべきときに闘わずに、そのような恣意的な改悪を防げるわけがないではありませんか。

嚮心塾は、「新テストに対応します!」などと口が裂けても言いません。それは英語の習得にとって、明らかに
失敗であると思うからです。英文法を叩き込み、品詞分解を徹底し、(大学受験レベルなら)目に触れる英文全ての構造を分析できるようになってからでも、スピーキングやリスニングをしっかり鍛えることは決して遅くはありません。
ましてや、こんな適当な採点と基準の民間試験もまざった新テスト対策なんて、という感じですね。(もちろん、英検やtoeflはある程度しっかりしたテストです。)そこに関しては子どもたちの学力をきちんと鍛え続けていけるように、頑固にやっていきたいと思います。

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無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため。

受験が終わってようやく一段落!のはずが新しく塾の体験に来てくれている子たちへの応接、さらには引っ越しの準備などでバタバタしていてなかなか時間がとれません。。何とか時間を作ってはやらなければならないことをしっかり進めていきたいと思います。イチロー選手の引退についても書きたいことが山ほどあるのですが、また次回に書きたいと思います。

「今いる場所から、最短距離で。」というのは嚮心塾のホームページを作るときに作ったキャッチコピーなのですが(考案時間30秒!)、なかなか気に入っています。しかし、「最短距離で」というのはどうも誤解を招いてしまうように思っています。それはなぜかと言えば、「最短距離で」と言ってしまうと、どうしても様々な無駄を省いていって、とにかく効率化をすることが嚮心塾の理想であるかのように聞こえてしまうからです。

もちろん、受験とは時間との闘いであるからこそ、無駄な勉強をしている暇はありません。今やっている勉強の中でうまくいっていないもの、力をつけることにつながっていないものはさっさとやめてしまって、自分がやるべき勉強に集中すべきです。その点では嚮心塾は「無駄を省く」ことをひたすらやっていく塾であるとは言えると思います。

しかし、このように自分の力になっているかどうかわからないものをさっさと排除し、確実に足りない部分を埋めるような勉強だけに専念して、無駄を排して、徹底的に勉強していった先に僕が受験生に何を要求するのかと言えば、「どれだけ無駄なことをやれるかが合否をわける!」ということを説いていくことになります。

ここはなかなか伝えにくいところです。自分の勉強がうまくいっていないとき、というのはたいていあれこれ「やりすぎ」です。だとすると、このようなときに必要なアプローチは無駄なものをとにかく排除して必要なものを最小限に絞り、それを定着するところまで徹底して繰り返していく、ということになります。
しかし、です。そのアプローチによってある程度力がついた後は、どうしたらよいかと言えば、そのように「無駄」として切り捨ててきたものの中に自分にとって今なら意味のあるものがないかを探しては埋めていく、という作業が必要になります。「東大にこんなのは出ないから。」「MARCHではこんなの出ないから。」と言って、様々なものを切り捨てていく子と、それもまた無駄にはならない、と思って丹念にそういったものを一つ一つ消化していく子とで更に合否が分かれていくことになります。無駄な勉強など、実は一つもないのです。

だからこそ、教える側としてはある段階までは無駄を徹底的に切り捨てて身につけるべきものを繰り返し咀嚼できる環境を受験生に整えてあげながら、しかし、段々と最初はまさにその受験生に「こんなの無駄だから、やらなくていいよ!」と言っていたものを後から「これもやった方がよいにきまってるじゃん!」と手のひら返しをしていかねばなりません。もちろん、「この手のひら返し」がその場の思いつきや気分でなされるのであれば、全く信頼をえられないわけですが、受験生の発達段階を見ながら、必要な時期にそのように彼らの評価基準を押し広げることができていければ、それはより強固な力となっていくわけです。

というのは受験指導の話ですが、「無駄を省くのは、無駄を愛せるようになるため」というのは教育に関わらず、どの分野でも言えることであるのだと思います。たとえば演劇などの表現においても徹底的に「無駄」を排した演出でありながら、しかし一見「無駄」に見えるものが入ってきたとたんに我々はその「無駄」の意味を考えるようになります。そしてそのとき、「無駄」は決して無駄なものではなくなってきます。それはまた、最初からゴテゴテと無駄があるときには愛せなかった無駄を愛せるようになっている、ということでもあります。(この極致が僕にとってはどくんごの芝居です!)

つまりこれは「外」の世界と出会い、それを受け止めるためには、内部を突き詰めることが必要となる、ということであるのでしょう。その突き詰めがないままに「外」を取り入れようとするのは、外が外のままでおわってしまい、(取り入れてもその「無駄」の意味がわからないという点で)「無駄」が無駄のままで終わってしまいますし、その突き詰めを徹底した後に「外」を取り入れようとしないのもまた、(その「無駄」の意味がわかるようになっているのにそれと向き合おうとしないという点で)やはり「無駄」が無駄のままで終わってしまいます。

だからこそ、徹底的に無駄を省くのは、無駄を愛し、その無駄の意味がわかるためでもあるのです。受験勉強の内部で無駄な受験勉強を省く必要があるだけでなく、受験勉強ということ自体が生活や人生の他の部分を排除しては特権的な受験勉強、というもののために他のすべてを「無駄」と定義する営みでもあります。それはまた、暴力的であるとさえ、言えるでしょう。しかし、そのように無駄を省くことが、自身を磨き、その一旦は「無駄」と定義した外界を愛し、意味を受け取るために用いることができるのなら。。
そのような願いを込めて、日々しっかりと生徒たちに向き合い、このような姿勢を伝えていければ、と思っています。

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「個別指導」の定義について。

「個別指導」という看板を出している塾は山ほどあって、嚮心塾ももちろん「個別指導」をうたっているわけですが、「生徒一人に先生一人」あるいは「生徒2〜3人に先生一人」というのが個別指導であるのだとすると、嚮心塾は「生徒30人〜40人に先生一人」なわけで、こんなの詐欺だ!となってしまいます。

ですが、こちらでは個別指導の定義をそのように考えていません。むしろ、真の個別指導とは、「勉強とは何かについて、生徒一人一人の認識の枠組みを変えることができる指導」であると考えています。これはすなわち、勉強とは何か、それはどこまで徹底することが効率が良いのか、逆にどこでサボることは効率が悪いのか、そういったすべてを一つ一つ手取り足取り改善していく、という意味では嚮心塾ほどに「個別指導」をしている塾はそんなにないと思います。人数だけ一対一でも教師が知っている知識を垂れ流し、それを生徒が吸収するための姿勢ややり方を持っていれば身につくし、もっていなければ何も身につかない、ということではやはり「個別」に「指導」できているとは言えないと僕は思います。

「学習について生徒一人一人の認識の枠組みを変える」というのはすなわち、どのようにすれば勉強ができるようになるか、どうして自分は勉強ができていないのかに気づかせていく、ということです。勉強をしない子は、実はそんなにいません。子供というのは様々な空気を読んでついつい勉強してしまうものです。しかし、その際に、どういうところはサボってはならないか、逆にどういうところはサボっても大丈夫かといったところをわからないままに自己流でやれば、結局勉強はしていたとしても何も力がつかないことになってしまいます。

しかし、このようなケースで子どもたちを責めることは一番してはならないことです。子どもたちは彼らの考える「最善」を尽くしていることが多いからです。ただ、彼ら彼女らの考える「最善」が現実からはずれていて、やるべき勉強を後回しにしてはやらなくてもいい勉強ばかりをしているからこそ、「勉強しているのに力がつかない!」という状態になってしまっています。そこを解きほぐし、どのようなことをやるべきかに気づかせていくのが指導者の力量であり、「(真の)個別指導」にしかできないことであると思います。

特に一般に子どもたちは考えなく手を動かすことを「勉強」と定義してしまうことが多いです。彼らの言う「勉強」は漢字の練習であれ、英単語の綴りの練習であれ、自分がその漢字や英単語を覚えているか、とは関係なくただノートが埋まっていくことに快感を覚えます。
また理解できているかどうかには興味がなく、「何となくこんな感じだった。」と解けた問題については一顧だにしません。その上で、間違った問題について真剣に考えるかと言えばそうではなく、間違ったものは何でも「ケアレスミス」というように分類して、次は自分ができる気でいます。その中で本当に「ケアレスミス」であるものはほとんどありません。
(もちろん、これらの特徴について、「子どもたち」は生まれつきそういうものだ、とは僕は思っていません。どこかで何らかの誤った教育によってそのようになってしまっているだけだとは思います。)

このような誤った学習習慣を粘り強く変えていくこと、さらにはそのように変えたほうが結局彼ら彼女らにとっても勉強の力はつくし、結局理解してしまえばテストの点も良くなってお母さんに怒られないし、その上受験にも役立つ!というようにほんのちょっと、努力の方向性を変えることで彼らの努力が「勉強しているフリ」から、「実際に彼ら自身の人生を支える力」になっていくという事実を伝え、説得していかねばなりません。

そこまでしてこそ初めて「個別指導」であると僕は考えています。だからこそ、僕はほとんどの個別指導の塾というのが
「先生対生徒の人数比」という建前を隠れ蓑にして、結局そのような生徒の改善すべき内面や思考には入って行けていないと思っています。もちろん、そこまでの力量、あるいはやる気のある先生が安い時給で集められるわけがないので、そこは仕方がないわけですが、しかし、「個別指導」というやり方にはもっと可能性があるはずなのに、あまりにもつまらない個別指導しかないこの状況は本当に残念です。嚮心塾だけはそのような本当の個別指導をより磨き抜いていけるように、必死にやっていきたいと思っています。

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