嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

反転授業のためにタブレットを配る前に。

最近定着しているのか、下火になっているのかはよくわかりませんが、反転授業という概念自体は
以前より浸透しているのだと思います。しかし、反転授業はタブレットを配って動画を見ることではありません。
「自分で学習し、わからないことを教師に持ち寄って教えてもらう。」というのなら、学校で
数学や算数の教科書の解答と解説を配る方が、はるかに低予算で効果的に生徒たちが勉強できると思います。
これを(もちろん教科書ガイドという抜け道はあるものの)長年やらずに放置している時点で、学校には本当には教育をする気などない、と僕は思っています。(「教科書の答えを配れば、皆が授業を聞かなくなる」という批判は的外れです。なぜなら、学校は授業を聞くために行く場所ではなく、勉強を身につけるために行く場所であるからです。授業を聞かなくても、家で教科書を読み、問題を解き、そこで力がつくことの方が、50分間黙って講義を聞いては人生の貴重な時間を無駄使いするよりもはるかに勉強が身につく、と言えるのではないでしょうか。また受動的な講義の聴取よりは、自らが読み、問題を解き、というプロセスの方がはるかに勉強になることは誰でも経験したことのある真理であると思います。教科書の解答を配らない唯一の合理的な理由は、粛々と内容のない講義をする先生の権威に挑戦する生徒を生み出さない、という従順な人間をつくるための馴致のためでしかないと思います。)

そういう基礎的な部分こそ、家でやってくればよい、あるいは嚮心塾のように数学の時間に一人一人のペースで読んでは解き進めてもらって、わからないところを数学の先生に手を上げて聞く方式にすれば、もっとはるかに学習効果が高いと思います。
もちろん、現学年の教科書がどうしてもわからない子は、前の学年から遡っていったり、さらに高校範囲の前に中学範囲に遡って、さらには中学範囲の前に小学範囲へとどんどん遡っていけば、なおいっそう効果的です。しかし、そのように広い範囲の全てを教えることを高校や中学、小学校の先生に要求するのは難しいでしょう。逆に、先に進んで次の学年や学校の範囲をやることが適切である子についても、それが言えます。そういった子には学習塾を薦めるなり、あるいは学校の先生が課外で補習をするなり、ということをしていければよいと思います。

「学習塾は家計に厳しい」ということから、学校の先生からは敵視あるいは贅沢品として見られがちなわけですが、学校での教育にも当然多大な税金をかけているわけで、小中高と学校がまるまる学習効果が極めて低い現在の状況、というのは学習塾や予備校にかかっているお金以上に、はるかに巨額な税金を無駄に使っているのだと思います。学校の予算を削り、その何%かでも学習塾の補助をしていただけると、学習塾も家計も助かるのですが、問題はなぜ現在の学校教育がこれだけ無駄が多いか、ということであるのだと思います。

ということで、せめて解答くらい配りましょうよ。それでサボる子よりはそれで勉強できる子の方が圧倒的に多いのですから。それでサボる子はそもそも、授業だって聞かないと思いますし。

嚮心塾はタブレットとの配布とか、見当はずれな方向へと教育予算が使われている間にも、反転授業のメソッドをもっともっと鍛え抜き、その限界を洗い出しては対策を考えていきたいと思います。文部科学省の皆さんも、いつでも聞きに来ていただけたら。

(念のために書いておくと、もちろん僕も「全ての講義が無意味である」とは全く思っていません。所詮、本と教科書を使って自分で勉強するものなど、自分が予想する、あるいは本が提供してくれる貧弱な内容しか身につかないものです。それらの内容が有機的につながっている素晴らしい講義は、確かに講義を聞くことで感銘を受け、そもそも勉強する動機へとなりうる可能性をもった不可欠なものです。しかし、今の小中高大でそれができているか、という問題であるのです。たとえば、教科書レベルの基礎的な内容は反転授業形式にして、どんどん進めていく方がかえってそのようなinspiringな授業に先生方も取り組めるのではないでしょうか。教科書の内容も初めて聞く生徒ばかりの中で、教科書の棒読みのような授業をせざるを得ない状況で、さらにそのようにinspiringな講義をすることを求めること自体が大きな矛盾であると思います。講義には講義の形式でしかできないことが確実にありますが、少なくとも現在の小中高大は、それが可能な場所にはなっていない、と言えるのではないでしょうか。)

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1点刻みの、何が悪い。

センター試験が終わりました。
なんとか乗り切れた子も、予想外に悪い点数を取ってしまった子もいるのは毎年のことですが、ここからが勝負です。気落ちをしている暇はないので、ここからの私大入試、さらには国公立入試に向けて、どれだけ万全の準備ができるかが勝負どころです。センター試験での失敗もまた、入試本番の恐ろしさとともに、自分自身の勉強の甘い部分を見つけ、乗り越えていくための一つのlessonでしかありません。そのように、気持ちを切り替えて前向きに勉強していくことが大切だと思います。

現行のセンター試験には様々な問題があると僕も思います。僕の理想を言えば、センター試験自体を廃止し、私大と同じように国立大学も二次試験だけを行うのがよいと思っています。もちろん、それだと足切りがない分だけ、一部の国立大学(といっても東大とあと医学部だけですが)に関しては、合格人数に対して出願者が多すぎて、結局今のような入試の質を保てない、という不安もあるでしょうが、それはそれで合格発表までの日数を増やす、あるいは昔の東大のように各大学で一次試験と二次試験を用意するなど、いくらでもやりようがあると思います。

しかし、実際にはそのような方向性ではなく、現在の教育再生実行会議の答申するように到達度テストによるランク分けと「人物本位の入試」の導入が進んでしまうようです。これには以前にその疑問点をいくつか書きましたが、どのように愚かな政策であっても、それがいかに愚かがわからないところでは、やはり実行に移され、何年かその制度で入試が行われ、そして何年か分の犠牲者を出した上でまたひっそりと直されていくのでしょう。非常に腹立たしい思いを持ちますが、公教育とはそのようなものであるからこそ、僕は塾を自分で開いたのでした。その憤懣を塾での教育の質を少しでも高めるためのエネルギーに当てていきたいと思っています。

とはいえ、この教育再生実行会議の批判する「従来の一点刻みの入試の弊害を改善するため」という主張が、僕はいまいちわかりません。具体的に、一点刻みの何が悪いのかが見えてこないからです。おそらくこの主張は、「たとえば東大入試で340/550とれて合格する受験生と330/550で不合格となる受験生の間に力の差なんかほとんどない。だからこそ、そこはどちらも『一定のレベルに達している』ということで同一の評価をして、別の角度から評価し直そう。」という主張であるのだと思います。ただ、この一見妥当そうな主張の問題点は、大学は学問をするための研究機関であり、そこでの学習や研究に必要なのは、高校までの勉強の基礎力であるということを忘れている、ということです。学力をつけるには様々なアプローチがあります。それこそ、先生の言うことを聞いてコツコツ勉強してきた子から、先生の言うことなんて無視しては学校では遊んでばかりだったものの、それでも特定の分野に関しては高い関心をもち、その分野に関しては驚くべき知識欲で自ら学んできた子などもいます。ペーパーテストであれば、それらのどちらもが、目の前のテストができるかできないか、ということで一定の基準で等しく評価をできていたわけです。しかし、そこに「面接」が入れば、前者の優等生ばかりが合格し、後者の子達は大学に入りにくくなるでしょう。しかし、それはサッカーチームのセレクションをじゃんけんできめるようなもの、あるいは将棋のプロになれるかどうかを(一定の棋力以上の人の中で)あみだくじで決めるようなものではないでしょうか。大学が学問のための場でないのなら、それもありです(そしてそれが就職活動における選考ですよね、そこで学力はもちろんとして、それ以外の要素を見るのは極めて正しいことです。)。しかし、大学が学問の場である以上、その学問のための基礎的な能力以外の要素を入試で見る、というのはそれだけで大学本来の目的からかなりずれてしまうのではないでしょうか(もちろん、この議論は現行の大学入試でそもそもその学力を計り得ているのか、という反省を伴うべきものでなければなりません。そもそも、一から考える能力よりは知っておかねばならない前提となるような知識が多くなってしまっている現行の入試、特に難関大の入試は、そのために知識を詰め込む私立中高一貫校用の予備校(鉄◯会のようにですね)の存在がなければ合格できないようになってしまっていて、その点でも現在の入試で測っている「学力」といっても知識偏重になっているのではないか、という批判は十分に正しいと思います。ただ、「学力」という言葉が知識と思考力を組み合わせたものを指すとすると、知識偏重という欠点は「学力」の内部での偏りであり、もちろん是正すべき課題だとしても、それは「学力」以外のものを導入するよりはまだましであると言えるでしょう、サッカーチームがサッカーをするため、将棋の奨励会が将棋をするためであるように、大学は学問をするためであるわけですから。そして、学問には知識と思考力の双方が必要です)。

もちろん、サッカーチームや将棋の奨励会と違って、大学入試でこのような議論がなされるのは、大学が単に研究のための組織であるのではなく、労働者の質を担保するための組織である、という社会的要請があるからでしょう。ただ、それは大学入試においてなすべきではないと僕は思います。実際に就職活動の選考の時に有名大学出身であっても勉強しかしてきてないのであれば、それは評価が低くなるようになっているわけです。もちろん、その際の「人物評価」がどれほどの精度であるのかは、大学入試でそれを導入した時と同じように怪しいものであるのは事実であると思います。実際、人間が他人を評価するときはだいたい、自分に似た性質を持つ人間を高く評価するbiasが働くでしょうし、逆に自分に理解しにくいものについては低く評価しがちであるというbiasが働くものでしょうから。しかし、大学入試は(一部を除いて)学力で、その後卒業して就職する際に、学業以外に「人物」も見られる、という現行の仕組みは、大学という本来的には教育・研究機関であったものが、社会の要請によって労働者の質を担保する、という役割を担っていったという歴史的過程を振り返ってみれば、極めて妥当な選抜方法ではないかと思います。

大学入試をこのように変えて、唯一、一時的に「得する」のは新卒一括採用を行う大企業だけでしょう。そこでの選抜コストを大学入試に転嫁できるわけです。大学入試時に学力だけでなく、他の要素でも選抜がなされているわけですから、その評価に乗っかれば自社での新卒一括採用時の選抜コストを下げることができるでしょう。まあ、それぐらいが狙いなのかな、と僕は思っているのですが、しかし、これも浅はかであると思います。なぜかといえば、まずこのような事態になれば、新卒一括採用は、今にも増して学校歴で切られてしまうことになってしまいます。学力以外の他の要素で選抜されて決まった大学入試は、就職選考時には覆しようがないでしょう。いわゆる「勉強以外の要素」をすでに吟味したものが学校歴となってしまうわけですから。
そこでは再チャレンジはできません。つまり、18か、19かの大学入学時で落ちこぼれてしまえば、もうその先にもう再チャレンジできない社会になってしまいます。どのような選考も、人間が作り人間が行うものである以上、必ず評価をしきれないという失敗を伴います。しかし、それが「学力以外も考慮した包括的な選考」である(という建前である)以上、そのような評価の取りこぼしを再チェックしていこうという試みはおそらくなされないのではないかと思います。結果として、うまく用いれば必ず有用な若い人材を、ただ学校歴だけで弾く、という今の選抜制度の悪弊が、さらに強化され、さらに反論しにくい形でできてしまう、ということになるでしょう。

話が飛びましたが、一点刻みの弊害を正すために、学力以外の要素を入れる、というのは、サッカーで勝負がつかないからコイントスで優勝を決めましょう、という話でしかありません。そもそも、一点刻みの何が残酷なのでしょう。自分が必死に磨いてきた種目と違うところで勝負が決まることの方が、よっぽど残酷なのではないでしょうか。

ここで再び、「一点刻みの、何が悪い。」と僕は主張したいのです。もちろん過去の塾生にも、何人も僅差で涙を飲んできた受験生がたくさんいます。中学受験生でたった一点差で入試に落ちた子もいます。東大受験生もセンター試験でたった4点の差で足切りに合い、涙にくれた受験生もいます。また東大入試はセンター試験を110点満点に換算するので、過去の受験生では一点どころか0.8点差で不合格だった受験生もいました。それらのすべては、僕に責任があります。全て、その僅差を乗り越えられるくらいに鍛えきれなかった僕が悪い。しかし、その上でなお言わせてもらうなら、その僅差で不合格だった子たちは志望の大学には行けなかったとしても、それだけの力がついて他の大学に行くことで、必ず得るものがあったと思っています。おそらく、順当に第一志望に合格する以上に、です。自分の必死の努力によってもなお、ほんのちょっとの差で実現できないということがあるのだ、というこの世界の厳しい現実を、18や19にして学んでいるわけです。それは、「努力をすれば叶う」という幼稚な人生観しか持っていない子よりもはるかに鍛えられているといえるでしょう。さらに、受験を通じて鍛えた学力は第一志望に合格しなくても決して消えません。第一志望に不合格であろうと、高い実力はついています。このような子たちが、その高い実力を基礎として悔しい思いをバネに、ここから4年、ないし6年鍛えて行けば、きっと一流の人間になれる、と僕は信じています。

それを、「かわいそう」だのと外野がさわぐな、と僕は思います。彼ら、彼女らの人生はここからであり、その経験をかわいそうにするもしないも、これからであるのです。もちろん、僕自身もそのために、卒業した後も彼ら彼女らの力になり続けていきたいと思います。1点刻みで決めるのをかわいそう、という人間は、そもそも1点刻みの悔しさを味わったことがないのではないかと僕は思っています。

しかし、です。これからの入試の変更で、「学力は同じ到達段階だけど、面接で落ちた」ときには受験生をどう励ませば良いのでしょうか。面接官の顔色を伺い、求められていることを答えられることに全力を注ぎ、それでも評価されなかった場合には、自分の何を反省すればよいのでしょうか。教師に従順ではない自分を反省しなければならないのでしょうか。しかし、尊敬できない教師に従順である生徒は、単純に卑怯であるだけだと僕は思います。もちろん、自らの視野の狭さゆえにその教師の尊敬できる点を見つけられない、ということは往々にしてよくあることではあるのですが、しかし、今現在はその教師の尊敬できる点を見いだせていないのに、従順にしておく方が自分にとって有利であるという打算がきく若い学生は、おそらく大成しないと僕は思います。中学の内申点、さらにはこのような面接重視の大学入試、という方向への入試改革は、若者の多様性が死滅し、国を滅ぼすことにつながるのではないか、と危惧しています。

全くおかしな話です。しかし、そうした状況においても、愚かな政策によって、その時代の受験生一人一人の人生が狂わされないように、全力を尽くしていきたいと思います。そして、どこで批判されようとも、「一点刻みの何が悪い」と言っては、その一点にこだわって生徒の力になっていきたいと思います。

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L型大学・G型大学の話について

ふっふっふ。あんな長いの書いたから、次の更新は一ヶ月後くらいじゃね?と思ったそこのアナタ!
「二日に一回更新を」という目標を掲げたら、なぜか書きたいことが沢山でてきてしまい、寝かせてあるネタが
山ほどあるのです。今日は明日の朝からまた教えきゃいけないことなんか忘れて書いちゃいます!(本当はブログ書いてないで、塾のパンフレットの巻頭言を(まだ夏休み前に書いたものを使っているので)早く書き換えねばならないのですが…。)

と言っていないで、本題に移りましょう。
ちょっと前にL型大学、G型大学という話が話題になりました。L型のLはlocal,G型のGはglobalで、要は「すべての大学が教養教育をする必要はない。むしろ実用に堪える技能や知識を身につける方が大切だ。なので、G型と認定されるレベルの高い大学だけ、今までの大学での学問を、それ以外の大多数のL型の大学は実用的な知識や技術を身につけるような教育にシフトすべきだ。」という話です。産業再生機構の冨山和彦さんが教育再生実行会議ででしたかどこかで言っていて、学者の間でも意見が分かれるとは思うのですが、僕がざっと見た感じでは、ほとんどの大学教員は反対、労働関係の学者で一部賛成、それに対して産業界では賛成意見が多い、という感じではないかと思います。

まあ、この反応の別れ方自体は当たり前でしょう。基本的に大学の先生というのは、大学で勉強をしてきた中でそこに人生を懸ける価値を感じ、その道を選んできた人々ですし、そもそもその点において、エリートです。逆に言えば、産業界の人々というのは、上場企業の社長であろうと何であろうと、学問の道という意味ではほぼおちこぼれです。東大や京大、早稲田、慶応の中でのおちこぼれですよね。もちろん、日銀の黒田総裁のように学究肌で実務でも極めて優秀かつ、碧海先生と一緒にカール・ポパーの翻訳をしてるような凄い人もたまにはいるのでしょうが、それはあくまで例外的であり、おおむねこのように意見が分かれるのは当たり前でしょう。

問題は、そこで意見が分かれることではないと思っています。この論争というのは古くて新しいものなので、そもそも日本の教育制度において、ごく一部の学部を除いては学部教育が職業教育とはリンクしていない、という現実をどのようにすべきかという論争はずっと続けられてきていると思います。また大学の学部が硬直的で流動性がない時代には、その教育と労働の隙間を専門学校や各種学校が埋めるように発達してきた、という事実もあります。そのような中、(下位の大学は時代のニーズに合う学部をあれこれ作ろうとしてきたとしても)ほとんどの大学ではその労働社会によって要請される短期的ニーズを満たさないままできた、という事実は認めた上で見直していかねばならないと思います。それは学問がこの社会にとってどういう意味をもつのか、というより包括的な議論も含めて、です。

そもそも、いわゆる実用的なニーズに基づいた職業訓練校、というのは時代時代によって必要なものが変わってきます。逆にそういう当面のニーズを無視した学校というのは、ニーズを満たさないにせよ、新たなニーズを生み出すイノベーションの母胎となる可能性もある訳です(もちろん、大多数はうまくいかないとしても、です。)。そういう意味で、社会に無駄なものを抱える経済的余裕があるときには、むしろG型大学をたくさんもっておくことが賢い戦略と言えるでしょう。なぜなら、そこでうまれる新たなイノベーションは、今までにそこに可能性があるなどと予想もできなかった新たな分野を開拓するからです。一方で現在のニーズにそった実用的な職業訓練校を増やす、というのは社会に無駄なものを抱える経済的な余裕がなくなったときには、そうなりがちだというだけでなく、正しい選択であるとも言えるでしょう。しかし、それによって新たなイノベーションの可能性は少なくなり、後追いによる利益の最大化を目指そうとすることになるという欠点もあります。それはそもそも経済的に困窮しているときには必要な戦略ですが、逆に言えば(予想もしない分野でのイノベーションの可能性を放棄するという意味で)いずれ行き詰まる戦略であると言えるでしょう。

つまり、大切なのは、そのどちらも恒久的な戦略とはなりえない、ということを私たちが認識することであると思います。経済的に余裕があるときは無駄な可能性をできる限り追求することが(新たなイノベーションによって新規分野でのナンバーワンになれる可能性があるという意味で)良い戦略ですが、経済的に余裕がないときにはこれは自殺行為であると言えるでしょう。一方で、できる限り実務に特化した職業教育を広げる、ということは経済的にきついときにはとらざるを得ない戦略ですが、いつまでもそれをやっていれば、逆に新たなイノベーションを生み出すことはできず、やがて衰退していきます。なぜなら、どこでイノベーションが起きるかはどんな天才であれ、人間に予想がつくものではないからです。またこれに関して、L型大学の数を増やしても研究センターとしてのG型大学さえあれば、そこで研究をしているから大丈夫だ、とは残念ながらなりません。研究センターを絞り、競争的研究資金を争うようになれば、必ず「有望な」研究、あるいは「有望な」研究者にのみ、予算がつくことになります(現にそうなってきてますよね)。競争的研究資金を獲得できるのは既に有名なラボにどうしても偏ってしまうでしょう。当たり前です。それを審査する大家達は、既存の研究という先入観を持っているからです。しかし、どこに今まで開拓していないフロンティアがあるかは、大家にもわかりません。むしろ、その道の大家であるほどわからないと言えるでしょう。だからこそ、イノベーションが起きる為には、レベルの高く資金力のあるセンターが少しあるよりも、「こんなの、何の役に立つんだ。」という研究をしているラボがたくさんあることが大事であるのです。

このように、実用か教養か、という古くて新しい問題は実は「どっちも大事」であるからこそ、今はどっちを優先すべきか、そしてそれはどういうふうに状況が変わったら見直すべきか、という見直しのサイクルを短くすることの方がむしろ大事であると思います。そして、そのときに大切なのは、そのような変更が不可逆的にならないように制度を工夫していく、ということであると思います。

それとは別に、僕は職業柄大学入試に関わっているので、大学の先生方の大学入試を公正なものにしようという情熱というのは本当に素晴らしいものがあると、いつも感心させられます。真理の探究という個々の研究者の動機に支えられてあのような努力がなされていることが、極めて精密なレベルでの応募者の選抜に役立っていると思います。そして、それが産業界が何だかんだいって、応募者がどこの大学を出ているのかを重視している根拠にもなっているのだと思います。G型・L型を導入するかどうかの議論というのは、「たとえば真理の探究など無意味だ!」という主張をする産業界が実は、真理の探究を動機とする学者の努力に、会社の新しい構成員の質の担保をかなり大きな部分で依存しているというように、極めて複雑に絡み合っているのだと思います。大学が今、教育再生実行会議で議論されているように点数で入学者を決めなくなってくるとしたら、それによって新入社員を選ぶコストがよけいにかかる割には、あまり良質な応募者を選べないという結果に陥るのは、むしろ産業界なのではないでしょうか。このように、現在の大学のどれが役に立っていて、どれが役に立っていない、という評価も実は非常に難しいのだと思います。大学の教授達が実用的な教育に無関心であるからこそ、大学入試の選抜能力の質が高く、それが各企業が単体で学生を選抜しなければならないコストをかなり下げている、ということもまたあるかもしれません。だからこそ、それを評価していこうとすることと、それが評価しきれると決めつけてしまうこととは全く違いますし、絶えず見直しをしていくことが大切だと考えています。

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がん放置療法は、何故流行するのか。

以前、TBSの『金スマ』という番組で近藤誠さんが出て、自身の持説である「がん放置療法」について語っていた、という話です。僕はその番組は見ていないのですが、その近藤誠さんの主張に対する反論は様々に読みました。たとえば、
腫瘍内科医の勝俣範之さんのtwitter、あるいは(この番組に直接ではないものの、以前に近藤誠さんに反論した)NATROMさんのもの、さらには金スマのこの回に関してのdirectな反応としては、このブログなどが有名でしょう。

こうしたお医者さん達の反論(「そもそも大多数のがんは早期発見により治せるがんであり、近藤医師の『本物のがんは見つかっても治せないし、がんもどきは放っておいても大丈夫だから、がんを治療しても仕方がない』という二分法はおかしい」)は僕も正しいと思います。ただ、それをいくら声高に主張しても、こうした近藤さんの主張を信じたい人々にはあまり効果がないのだとも思います。このような近藤さんの主張は、それを必要とする人々のニーズに支えられているからです。それがお医者さんの間ではいまいち、よくわかっていないからこそ、こうしたデマが広がる隙を与えているのだと思います。

そもそも、人間は厳しく残酷な現実に目を向けたがるものではありません。できればそのような現実に自分が直面していることからは目を背け、だましだまし生きていきたいものです。しかし、ある日自分ががんである、とわかったら、そのような残酷な現実に急に直面させられるわけです。自分ががんである、という事実以上に厳しいのは、その時点から手術、化学療法などその厳しい現実と、そこから先何年も絶えず向き合うための努力を要求されるということです。合理的に判断できる人であれば、(もし長生きしたいとその人が思っているならば)それらの努力をすることでまだ長く生きられるのであれば、そのような治療に取り組む道を選ぶはずです。しかし、そのように合理的な判断をするよりは、何となくその厳しい現実に向き合いたいたくない、というぐらいの逃げの姿勢で「そのことについては考えないようにしたい」と思っている人は(医師のような知的エリートには想像つかないくらい)多くいるのです。そして、その人達にとっては近藤さんの話す「放置療法」は天啓のように聞こえるはずです。

ですから、本来は近藤さんのこのような主張に説得力を無くしていくためには、もちろんその主張の誤りを指摘していくことは大切だとしても、それだけでは大して影響がありません。それは理性的にどちらの主張が正しいかを判断できる人々にしか響かないからです。そして、それはごく少数でしょう。

それよりも、がん患者の治療に於いて、もっと手術にいたるまでの、そしてそれに加えて手術後のメンタルケアを充実させる、というところこそがより根本的な解決になるのではないかと思います。そして、そこに関しては僕が寡聞にして知らないだけかも知れませんが、まだまだ不十分であり、「手術とそれによって生まれるメリットを理性的に判断すれば、患者はみな手術を喜んで受けるはずだ!」という人間の理性を過信した取り組みしか為されていないように思います。近藤さんの主張が広まる、本当の原因はここにあるのだと思います。そもそも外科手術自体が(医療行為として)市民権を得たのがせいぜいこの300年くらいの話でしょう。がんの手術で100年ちょっとです。その技術の発達に多くの人々の意識が追いついていないことなど、当たり前である以上、人々の意識の低さに対してどのようなアプローチをとるかを医療に携わる人々が考えていかねばならないのだと思います。

というのを、教育に引きつけて書きますと、「このままじゃ受験、絶対落ちるよ!」「このままじゃ定期テスト絶対悪いよ!」ということを毎日口を酸っぱくして言っていたとしても、それがどのような現実へとつながっていくかを感じ取り、現在の見たくない現実を直視して一歩一歩努力できる子など、そもそも元々賢い子がちょっとさぼってました、というだけであり、全体の中ではごくレアケースです。たいていの子達は、自分の5年後、10年後など想像しないで生きていますし、毎日が楽しい、楽しくない以外にあまり関心がありません。その結果として自分が将来困ることを口を酸っぱくして周りの大人が説こうが、そもそもそれをイメージすることも、ましてやイメージした上で苦痛を伴う現在の努力を始める、ということなどはできません。だからこそ、それがどのように困るのかを丹念に本人にわかるまで何度でも具体的に説明していくことが大切です。

さらには、です。こちらが様々な子を教えていくプロセスとして、近藤さんのように「放置」しているかのように接することも、実はその子によってはあります。なぜなら、最初からその子の問題の部分に全て切り入り、「こうした全てを改善しないと後で大変だよ!」と言って、そこで始められる子、というのも既に一定の(現実を直視するだけの)心の準備のできている子であるのです。それをやったとたんに、「努力したってそんなに大変な状況だから、努力したって損するだけだ。」となる子の方が圧倒的に多いでしょう。また、今の楽しさを将来の苦しみとそもそも比較できない子も居ます。あるいは周りの大人にとても危機的な状況を耳にタコができるほど叱責され、それでそもそも大人の言うことは聞かなくなっている子もまたいます。
そうした子達には、一見「放置」しているかの外観をとりながら、その子との信頼関係を深めていき、その中で残り時間をにらみながら、だんだんと勉強のハードルを上げていく、という粘り強い努力が必要です。基本的に勉強をさぼってきた子達にとって、塾の教師というのは(親の言いなりで自分の嫌いな勉強をさせようとする)敵です。そのように敵意をむき出しにしてくる子達には、「こちらは敵意がないよ。」ということを示すところから入らざるを得ません。しかし、いつまでも楽しくおしゃべりをしながら勉強をしているだけでは、その子が受験に間に合わなくなりますし、結局はそれで将来その子自身が困ります。そういう意味でもその子の残り時間をにらみながら、しかし、徐々にステップアップしてはその子にとって見たくない現実を見ては、それに向かって努力するという姿勢を鍛えていくことが大切であると思います。

そういう意味では、「放置」もそのままに終わらずに治療の入り口とするのであれば、それはまた一つの高度な戦略であるのだと思います。そこにやってくる人々は、「手術や抗ガン剤による治療」というきついが正解である選択肢を選ぶ(少なくとも病気に関しては)理性的な患者ではないからです。近藤さんがこれだけ「放置療法」を大々的にアピールしながら、そこで自分の外来に来る患者さんにそのように接しては徐々に「やはり手術を受けた方が良いね。」という態度をとっていたら、稀代の名医だと思うのですが、現実はそうではなさそうです。ただ、それを近藤さん批判で終わらせずに、先に述べたように、そういった人々に対して医療従事者がどう取り組むかということが、教育者と同様に現在も問われ続けているのだと思います。もちろん、偉そうに書きましたが、ここでいう「そういった人々」というのは、僕自身も含まれています。自分のよく知らない分野、あまり興味がない分野について、自分が放っておいてひどい状態になっているとして、それをしっかり考えましょう、というのは誰にとっても苦痛であると思います。近藤さんの主張に飛びつく患者のことを嘆く医師も、あるいは将来を考えずに学習を後回しにする生徒のことを嘆く教師も、別の分野に関して言えば、同じように理性的でない行動をしているものです。本来、人間は理性的に振る舞うことがきわめて苦手であり、そのような理性的な行動というのは一種の訓練によって初めて獲得することが出来るものであることをもっと一人一人が自覚していかねばならないのだと思います。だからこそ、自分が訓練を積んでいないところに関しては、非理性的な行動をどうしてもとってしまいがちである、ということをよく頭に入れて自分を疑うこと、あるいは自分がプロとして接する相手の人々に対しては、そのような非理性的な行動をとる可能性が十分にあるはずだと想定した上で、どのように接していくかを考えていくことが大切であると思います。

塾の卒業生で医師になる道に進んでいる子も多いですが、彼ら、彼女らにもこの問題に真剣に悩むような医師になってほしいと思っています。

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効率をあげるには。

書きたいことがたまっていて、連日の教育ネタですみません(何度も言いますが、一応学習塾のブログなのです)。

先日、塾でなかなか勉強に身が入らない子と話し合った際に、「自分は効率が悪い。効率さえよくなれば、もっと努力する気になれるのに。」という話になりました。このことについては、このブログでも何度も書いていますが、やはり、こういう認識の子が多いのだな、と思い、また同じ話をしました。それは次のようなものです。

そもそも、勉強に限らず、どんなものでも自分が練習している量や時間が少ない中で、どんどん効率の良い練習の仕方を考えては効率を上げていける、というのは天才でしかなく、それは、東大や医学部に合格できる、というレベルではなく、余裕で合格するレベルの子達なんだよ、と。当然努力というのは、始めた当初は方向違いの無駄がたくさんあるもので、しかし、それをやってみて、「なるほど、この方向の努力はあまり効果的でないな。」という反省の繰り返しの中で、段々とピントがあっていくものなんだよ、という話もしました。そして、そこに至るまでは、努力の質をいちいちとやかく気にするのではなく、まずは量をこなさなければならない、と。

ただ、この内容をきつく言ってわかるほどには、現段階でその子の認識の歩みが追いついていない、と思ったので、「まあ、とりあえず今月はテスト勉強頑張ろう!」程度の結論に落ち着かせました。

この話の内容自体は、まあ、このブログを読んでおられるマニアの方から見れば、あるいは自分で真剣に何らかの分野への努力をしている方であれば、当たり前の話です。学習院の田崎晴明先生も以前、ご自身の日記でドラクエとファイナルファンタジーの違い、という形で「決まったストーリーをなぞるファイナルファンタジーよりは、あちこち歩き回ってはだんだんと(進むべき方向への)見当がついていくドラクエの方が、研究に近い。」という話を書かれていましたが、基本的にそれは受験勉強のような(範囲が決まっていて見当をつけやすい)ものであっても、本来はそうあるべきです。というより、受験勉強ほど見当をつけやすいものですら、他人から教えられるばかりで自分で見当をつけていけないのであるとしたら、それ以上に複雑な実社会の中でどのようなことが効率がよいか、どのようなことが有益か、どのようなことが社会的に意義があるか、などについて見当をつけていくのはほぼ不可能であると思います。受験勉強というのは、その一つの練習場であると思いますし、その「自分自身で見当をつけて洗練させていく技術を鍛えていく」ための指導をしないのであれば、結局生徒達は、将来生きていくときに、また別の人からの教え込みを必要とする、というあまり力のない大人になってしまうと思います。

ただ、この「努力の初めには多少無駄になる時間がつきものだ。」というきわめて真理に近い事実への許容度が、生徒一人一人でまるで違います。そこに、教育者としての腕の見せ所、逆に言えば難しさが出てきます。子ども達が全体として「少しの努力で最大限の成果」を求めては、努力の量を先に上限を決めておく、という子が多くなってきているのは事実であると思いますが、それでも世代の差よりは一人一人の個人差の方がきわめて大きく、その「報われない努力」への許容度を見ては、その子にとってのbest policyをこちらが考えていかねばなりません。その許容度が低い子に正論を話したとしても、それが定着して力になる前に、努力を辞めてしまうでしょう。その場合には、その努力の量のハードルを少しずつ、上げていく必要があります。(その意味で、内田樹さんのように、「最小の努力で最大の利益を得ようというマインドがそもそもおかしい!教育する側がそれに毒されているから、子ども達もそうなる!」という主張は、僕もきわめて正しいとは思いますが、しかし、伝えようという努力を欠いた提言であると思います。それをなるほど、と思える人はそもそもそのような何かができない状態にあまり陥っていないのです。そして何かを自分が苦手意識をもち、それに触らないでいたいのに、周りからはそれができないことばかりを責められる、という状況下で「(その苦手なことをする)努力に見返りを求めるな!」というのは、きわめて伝わりにくいでしょう。それを理解できる子は、自分自身を根っこから反省することの出来る、ごく一部の既に準備が出来ていて、あとはきっかけだけを求めている子達です。)

さらには、努力に抵抗感がなければよい、というものでもないところがまた難しいところです。一般に努力に対して抵抗感が少ない子ほど、その努力が自分の力となって身についているかどうか、つまり「効率」を気にしない、という傾向があります。つまり、自分の人生を勉強に費やすということにさほど抵抗感を感じない子ほど、そこで頭を使って何とか身に付けようという努力には無頓着であることが多いです。これは、「勉強をする」こと(つまり、机に向かって頭を使わずにノートにペンで何か書くこと)自体を褒められて育ってきた子に多い傾向です。これはこれで、ある方向の努力(机に向かうこと)を懸命にしては、別の方向の努力(頭を使うこと)を避けてきているわけで、指導者としてはその子の勉強の姿勢にメスを入れていかねばなりません。

結論として、その子がどのような状態に入れば学習効果が一番高いかについて教育者が深く理解している、ということは教育というプロセスのスタートであって、決してゴールではない、ということが言えると思います。もちろん、そのスタートすら理解していないのかも、と思えるような先生方が多いのは残念なことではありますが、「この子にはこういうところが足りていないから、それをこういうふうに鍛えていかなければ!」ということが的確に見えていたとしても、実際にその子をそこまで
鍛え続けられるかどうかは、うまくいくこともあるとしても、うまくいかないことも多く、苦い思いをすることばかりです。もちろん、こちら側から諦めることなどはありませんが、本人、あるいは周りのご家族が諦める、ということになってしまうのであれば、(その諦めるという判断にこちらとしては様々な異論があろうとも)やはりそれは教育者の責任であるのです。

本当に、こんな難しい仕事をよくも選んでしまったな、と思い続ける毎日ですが、何とか一人一人の成長のために、
今日も悩み続けていきたいと思います。

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天才達に学ぶ。

塾を開いた頃のぼくの目標は、「あらゆることに精通し、どの分野に於いても生徒達の力になること」でした。また、それが可能であると思っていました。しかし、開塾から来年で十年を迎えようとしている今、ぼくのスタンスとしてはむしろ一人一人の生徒達の「天才」を見つけ、それに敬意を払いながら理解をしようと努力し、そしてサポートしていく、というように変わってきたと思います。

これは、一つには一人一人の子達の抱えているものがあまりにも、深く鍛えられていることに感銘を受け続けた結果であるとも思います。もちろん、受験勉強で必要な科目についてそのように深く学んで僕を凌駕する子、というのもたまにはいますが、それよりも、小説、パソコン、カメラ、ゲーム、アニメ、鉄道、音楽、ペン回し、その他いわゆる世間では「必要」とはとらえられていない、あるいは所詮趣味としてしかとらえられていないものに、深く没頭し、こちらが知らないような深みをそこに感じている子達に学んでは、僕も視野を広げさせてもらえてきた、というところがあります。

学問の世界ではいわゆる実業や実社会から必要とされるものだけでなく、「役に立たない」とされるものを研究することの意義などは少しは理解されやすいのかもしれませんが、一旦学問の世界を離れたときには、私たち大人というものはどうも「必要性」にとらわれては、「これはいらない。」「これは必要。」と軽薄に判断しがちです。しかし、子供達は、そのように実社会からの圧力にとらわれず、軽薄な実用的判断をしません。それゆえに、そこに豊かな世界が広がっていることを、私たち大人よりも柔軟に感じとることができ、かつそこに対して没頭が出来るのです。そして、そういった一つ一つの(大人から見たら「必要」のない)世界をバカにする大人達を、目の肥えた子供達はバカにしています。僕は大人の端くれながらも、その子供達から少しでも学んでいきたいと思っています。

もちろん、学習塾など、学校以上に受験勉強の「必要」を説き、子供達に勉強をやらせる機関であるわけで、そういう意味では大人の求める「軽薄な実用性」の走狗でしかありません。しかし、「遊んでないで、そろそろ頑張りなよ。」という呼びかけも、彼らが何故「遊んで」いるのかに対する理解や共感を抜きにして語りかければ、単なる暴力にしかならないでしょう。
それでは、嚮心塾がある意味などありません。とはいえ、あるがままの彼ら彼女らをそのままに肯定し続けるだけであるのなら、(塾がビジネスとして成り立たないという問題だけでなく)そういった個々の天才性を抱えながらもこの社会との適応に悩む彼らの力になり得ているともいえません。そういった個々の天才を見抜き、評価する力がこの社会の大多数になくても、彼らは生きていかねばならないし、彼らがその天才性を抱えたまま生きていく力をつけていく、ということ自体が彼らにとってもこの社会にとっても必要なことであるからです。

この矛盾した課題にどのように取り組むかを、一人一人について絶えず苦しみながらも、しかし、一つ一つの彼ら彼女らの深く掘り下げた分野に教えを請うことを今の僕は本当に有り難い契機であると思っています。

そもそも僕自身は何かに「ハマる」ということのない子供でした。「熱中」というところからもっとも遠い子供だったと言えるでしょう。何かにハマらないからこそ、自分は何も(そこそこはできても)超一流にはなれないのだ、という事実に気付き、悩んでいた時期もありますが、何にも熱中しないからこそ、熱中してきた人に対してできることもまた確かにあるのです。そのことを、今日も一人一人の天才達に語りかけては、力になっていこうと思います。

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教育とは、裏切られ続けること。

「教育とは、裏切られ続けること。」ということをどこかで書いたと思います。
ただ、これはたやすいことではありません。何度裏切られても、そこで諦めずに、もう一度生徒を信じなければなりませんし、どのように思いやりをかけようと、努力を積もうと、それら全てを目先の衝動、目先の利益、目先の正義のためにたやすく裏切られるとき、人間の残酷さに絶望します。そのような事態に直面し、「もう二度とそのような思いやりももちたくないし、努力もしたくない!」と思うのは自然な人間の本能です。

しかし、そこで諦めては内にこもるのではなく、何度でも信頼し、思いやりをもっていくことこそが、大切であると思っています。どのようにひどく冷たく自分の利益しか考えていないように思える人も、かつてはそのように優しさをもって生きては、それを裏切られるという辛い経験からそのようにひどい振る舞いへと退行してしまっているからです。自分がそうなることは、この世界の暴力に加担することになるだけでしょう。

それとともに、「裏切る」という経験ほどに、悩み、苦しみ、考えさせることはありません。相手の善意を自分の都合で裏切る、ということはその選択が後から見て正解であれ失敗であれ、その人にとっては徹底的に考える契機になります。その考える契機は、その本人を厳しく鍛えます。もちろん、ここでも問題となるのはそもそもそれを「裏切り」と感じるまでの関係性を構築できていないことで、それこそが一番の失敗であると言えるでしょう。

なので、塾生・元塾生のみなさん。是非、僕のことをどんどん裏切ってください。僕はそんなことで心折れやしません。
その上で、その裏切りを自分の力に変えられるように、是非死にものぐるいで頑張ってください!(なかなかそれがうまくいかずに塾に戻ってきてしまい、戻ってきたときには「問題」がそのまま残ってしまっている、ということも多いのですが。そうなった場合は、それも何とかします!)

僕自身は、自分の失敗を誰かのせいにしたことは、人生で一度もありませんでした。他者と関わる際には、その他者との時間を失敗にしないために、自分が努力をすればよい、という姿勢でした。そのような僕が、そうではない
「他者」としての人類を愛そう、と決意してから教育に関わり続けたものの、結局、当初に想定していたよりもはるかにしんどい努力を強いられている僕の人生は、幸福です。次から次へと降りかかる不幸に、「幸福とは何か」を分かったつもりで定義せずにいられるからです。

その上で、選択自体に正しいか正しくないかなどはありません。それを正しいものに出来るかどうかはその後の自分の努力次第なのですから、お互いに頑張りましょう!しかし、困ったときはいつでも言ってもらえれば、力になりたいと思っています。それがたとえ、10年後20年後であろうとも、です。

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教育に必要なもの

ご無沙汰をしております。

連休中に、下の娘の自転車に乗る練習をしたところ、たった二日ばかりで乗れるようになりました。
こういうものはタイミングが難しく、去年練習したときには何回練習してもなかなかうまくいかなかったために、
途中でやめたのですが、今年は彼女自身のやる気が違って、僕が「こうした方がいい」というアドバイスを懸命に聞いて取り入れては練習していて、2日といっても合計で3時間くらいの練習ですいすい乗れるようになりました。子供の成長の早さに驚くとともに、やはり何事にもその子の中で育ってくるものを待たねば教育というのはうまく行かないのだ、ということを改めて実感させられました。

もちろん、適切な時期を待つ、というのにも様々な姿勢があります。ただ黙って、その子の成熟を待っていても、何も考えずに周りに依存している子供達は、その依存がいつかできなくなるということをイメージできないままかもしれません。なので、そのような状況の説明、刻一刻と自立を迫られる時期が近づいている中で、親の庇護がまだ可能なうちに、一人で生きられる力をつけねばならないということを説いていくことは重要です。

しかし、そのように繰り返し説明していても、本人に自分の力で生きていこうという意志がないうちは、自分に必要のないことをやれ、と言われているようにしか聞こえません。教育の本当に難しいところは、その子の内部で自覚が育つのを待たねばならない、というのは当たり前だとしても、その子の段階、あるいは状態によって、どのように待つかを絶えず考えては一番ふさわしい態度で接していかねばならない、ということです。自分の力で伸び始めた若い芽には、今までに与えられたあらゆる叱咤激励が自分の頑張らねばならない理由として、強く後押しをしてくれるものになるでしょう。しかし、まだ自分で芽を出そうとしていない芽にとっては、そのような山のような叱咤激励は、芽を出す前に腐ってしまう原因ともなります。かといってただ放っておくだけでは、そもそも自分が芽を出して茎を伸ばし行かねばならないこともよくわからないままに、ずっと休眠していることになるでしょう。このようにその子の発達段階や状態に応じて、全く異なるアプローチが必要になります。単純に「その子の自発性ののびゆくのを待つ」と言っても、待ち方にも様々なものがあり、そしてそれは(先ほどの植物の芽のたとえでは言い表せないほどに)刻一刻と一人の子にとっても必要なものが変わってくる訳です。教師はそれを懸命に見抜こうとし、一人一人に今必要なことを考えては提示していかねばなりません。そこが、教育と訓練の違いであると言えるでしょう。

僕は正直、これほど難しいことをよく皆が平気でやれているな、と恐ろしくなります。マンガ『鈴木先生(武富健治さんの作品です)』を僕は本当にすばらしい作品だと思いますが、主人公の鈴木先生はスーパーマンではない教師の等身大の人間としての悩みが描かれつつもやはり、その教育姿勢はスーパーマンのような教師です。教師が子供達の誤解をうけ、悩みを踏みにじり、心を傷つける、ということをどこまで慎重にやっていこうとも、それが完全に成功して子供達から信頼される、ということはまず無理でしょう。しかし、教師は子供達の期待も裏切らねばなりません。彼らが抱えている真っ当な主張や悩み、疑問に誠実に答えた上で、しかし彼らの考えの足りないところ、努力の足りないところについては理解し、反省していってもらわねばなりません。

教師とは、子供達を適切な時期に適切な見守り方で見守ることができず、つい感情的になってしまう親達から守りながらも、その上で子供達の「この大人は自分を甘やかしてくれる」という期待を裏切っては、自分自身で何らかの道で生きていけるように自己を教育していくことを教える、という意味で子供達の(自分勝手な)期待を裏切らねばなりません。その意味で、教師は孤独です。端的に言えば、子供を味方にするだけの教師も、親を味方にするだけの教師も、その教育者としての責任を果たしていない、といえるでしょう。

そのように、どちらの立場にも与(くみ)しない「孤立点」として生きながら、しかし、どちらからも理解されないことに倦み疲れるのではなく、一人一人の子に今必要な問いかけや投げかけ、あるいは待ち方について謙虚な気持ちで虚心坦懐に探求していく、ということがどうも教育には必要であるようです。

全く大変なことです。これだけ難しく、コストがかかるものをなぜ人間が必要とするかについては、以前にちょろっと書きました(「教育という行為の存在する意味」エントリ参照)。精神の自由、学問の自由を担保する、ということにどれだけコストがかかるのかを探求しては、強制ではない成長へとつながる道をしっかりと残していけるように、引き続き全力で教えていきたいと思っています。

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開発支援と教育の相関について

途上国支援というのは、本当に難しいもののようです。先進国でうまくいっているモデルをそのまま輸出しようとしても、それがうまくいくだけの様々な条件がその支援の受け入れ先になければそもそも無意味でしょう。ペシャワール会の中村哲さんがアフガニスタンにおける国連の支援の仕方を批判し、井戸掘り用のボーリングの大型機械を持ってきては、結局それでは岩が多すぎて掘れなくなると、国連の支援はそこで止まってしまう。だからこそ、自分たちが手堀りの井戸を掘っていく方が役に立つのだ、と言っていた話を聞いて、目から鱗のように思っていましたが、こうした問題というのは今から40年前くらいには心ある開発支援の研究者にとっては常識であったことを最近知りました。古くから認識されているその問題がいまだにあまり改善されていないのは、そもそも「開発支援」というものが広がりすぎた先進国と途上国との貧富の差を暴力的な手段によって縮めようという動機を削ぐために、先進国の善意の姿勢を見せるものであり、本気で救おうとは思っていないこと、あるいはその開発支援への善意は疑うべくもないとしたとしても、そもそも自分たちの成功モデルから離れにくい開発支援をする先進国側には、現地の状況に合うような支援、ということが一から手探りで考えていかねばならないという点で、自身の育ってきた文明を目の前の現実を認めることで完全に否定しては止揚するような弁証法的思考を必要とするから難しいのかもしれません。

平たく言えば、道路が整備されていないところに、トラックを送っても無駄でしょう。かといって、輸送用トラックを利用するために道路を整備する、というその方法が現地に本当に最適なやり方であるかは地形その他によって大きく変わってくることであると思います。あるいはアフガニスタンのように固い岩盤が多いところではそれを掘削するための機械、という無理を押すよりは多くのスコップを用意する方が有用であるのかもしれません。大切なのは、「私たちの国では農業はこうやってうまくいっている。だから、このやり方でやらねばならない!」「工業の発達のためには、まず○○が必要となる。だからこそ、それを何が何でも準備していかねばならない!」という自分たちの成功事例が現地に本当にふさわしいのか、それを進めていくことでうまくいく部分とうまく行かない部分とを見極めては、時に自分たちの成功を疑う必要がある、ということです。それは局地的、限られた時代において成り立った一つの成功例でしかなく、それを目の前の状況にあてはめることは(仮説として最初に導入してはそれと現実とのずれを絶えずチェックしては修正していくのなら良いのですが)どこでもいつでも通用する真理として、無理を押せば結局は途上国の産業や社会に思いもよらないダメージを残すことになります。

教育、というのもこの開発支援に似ています。どこまで、本来のものを尊重するか、逆にどこからは強制的に新たな手法を導入していかねばならないか、そこが非常に難しい訳です。教育で言えば、その子のこれまでの人生でできあがった人格、そこに育った家庭が与えている影響と家庭の教育方針、というものが先にある訳で、そこに対してどのようにこちらがアプローチをするかが極めて難しいのです。もちろん、一からすべてを決められるのであれば、ある程度楽です。「まずはこういうところから鍛えた方がよい。」ということ自体は、ロジックで組んでいくことができます。しかし、そこにはご家庭の教育方針もあり、ベストの戦略がとれるかどうかは極めて難しいところです。そこで、ご家庭の方針に何らかのこだわり(すなわち不自由さ)があれば、それと衝突しないようにしながらしかし、できる限り最善の戦略を組んでいかねばなりません。

しかし、それだけではありません。すべてのご家庭から塾が「受験勉強の方針についてはすべてを塾に一任する」というお約束をいただいたとして、それで僕がベストの戦略を練れるかどうかも、また難しいところです。なぜなら、肝心の受験生本人の精神にとって、その努力が意味のあるものであると認識されているかどうか、逆に言えばほかの方向の努力ではなく、なぜ今この努力をしなければならないかを自分自身で本当にわかっているかどうかで学習効果が全く変わってしまうからです。(この辺りは今年の合格体験記でもK・Y君が書いてくれていました。彼の一浪目の初めに僕が指示した勉強の内容と二浪目の初めに僕が指示した勉強内容はほぼ同じです。しかし、一浪目の初めには彼がその勉強の意味をよくわかっていなかったため、ほとんどその勉強の効果が出ませんでした。)自分では意味のないことを、しかし型通りに練習させられることで、後からその意味を獲得させるという教育方法は、もともと極めて賢い子、即ちこれだけ情報があふれる中でも一つ一つの意味を考えることをあきらめずに生きられている子か、あるいは能や狂言、歌舞伎のように伝統芸能の世界で言ってみれば「血筋故に逃げ場がない」という中でしか難しいのではないかと思います。

もっと近道がないかと試行錯誤してみては失敗し、やっぱり学問に王道はない、と気づいては地道な努力を重ねていく、というルートを通じて、自分がやるべきことの意味を自覚していく、というプロセスを経て初めて教育というのは意味をなします。そのような受験生が自ら気づく、というプロセスを無視して、「俺、この勉強法でうまくいったから、ほら、まねしてごらんよ。これ、最高だろ?」という、勉強ができるだけの凡百の大学生の「指導」がいかに本来の指導と離れているか、ということでもあります。

もちろん、このような受験生自身が様々なやるべきことの必要性に気づく、というプロセスを省くために「あの凄い先生の言っていることは絶対正しいから、それに従っていれば間違いない!」と信じてもらっては、それで理想的な勉強の進め方で進めていく、ということもまた可能でしょう。しかし、このやり方はどうしても受験生が自分で考えることをしなくなります。教師が一人一人の生徒に一生付き添える訳ではない以上、教師が生徒にすべきことは教師の言うことをも正しいか正しくないかを判断しようとする姿勢を生徒の中に育てることではないでしょうか。

このように考えていくと、教育ということのあまりの難しさに、本当に恐れ戦きます。こんな難しいことを普段、皆がどうやっているのでしょうか。皆がどうやっているかをいちいち意地悪く言わないとして、こんな難しいことを僕がどうやっていけばよいのでしょうか。全く試行錯誤の毎日です。

だからこそ、時には彼ら彼女らの生来のものをそのままにしすぎて、失敗し、時にはそれに手や批判を加えすぎて失敗し、というこの多くの失敗の中から、少しでも今、彼ら彼女らにとって必要なものを、できる限り精密に提示し、かつそれを理解してもらえるような能力を鍛えていきたいと思っています。そのためには、僕自身、あるいは今までの卒塾生への指導での成功体験をいかに僕自身が疑い、批判してはステレオタイプなそれらの教訓を目の前の「まったく別の生徒」という現実へと無理矢理あてはめない、ということこそが重要であると思っています。

開発支援に話を戻せば、こちらはさらに難しい訳です。そもそも途上国の開発支援に先進国が乗り出せるのは、彼らが彼らのやり方で成功を収めてきているからです。それなのに目の前の現実に接して、自身の技術を疑い、自身の文明を疑い、自身の歴史を疑っては、新たな気持ちで目の前の現実と格闘する、ということは、つまり自分自身の精神の中に、少なくとも産業革命以降の西欧の「成功」の歴史と同じ重さのものをもっては均衡をとらねばならないということになります。しかし、現地を踏む人にその心配はいりません。現地でその取り組みに悩めば、そしてそれがどれほど難しいことであるかを理解すれば、そのような(西欧近代の歴史を「成功」と見るという一つの)偏見は、少なくとも通用しないことを思い知らされるでしょう。問題は、現地を見ない人が開発支援を語ることであるのだ、と思います。教育について(自分の子が社会的に成功するかどうか以外には)心と頭を悩ませてこない人々が教育を語るのと同じように、ですね。

この「教育」という極めて難しい試みの最前線にて、まだまだ探求を続けていきたいと思っています。

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教育再生実行会議の「人物本意の選抜案」に関して②

前回は、教育再生実行会議の「人物本位の選抜案」が、いかに実行不可能か、あるいはそれを実行可能にするためには結局さらなる厳しい学力の選抜か、機会の剥奪によって再チャレンジを許さない社会になっていくことを書きました。今回は、そのような実現可能性の話ではなく、そもそも面接試験で「人物本位の選抜」をするとどうなるのか。それは本当に「受験エリートではない、多様な人材」を選抜することにつながるのか、についての僕の考えを書きたいと思います。

まずは話題になった秋田大学医学部での面接入試で0点になった例についての記事をご紹介しましょう。この記事です。
この記事にあるように、現在ほぼどこでも面接を課している医学部入試では、面接によって高卒認定試験を受けた受験生や再受験生が面接によって差別をされるということはよくあるようです。実際に塾でもそのような受験生には志望校を慎重に選ぶように、というのも具体的には、面接というむこうのさじ加減でいくらでも合否を調節出来てしまう制度に配点を高くしている大学を受験させないようにそのような受験生には指導しています。

年齢による差別はまだ「国立大学では税金を使って医者を養成するのだから、実働年数が明らかに低くなる学生を取るのはよくない。」などというそれなりの大義名分が立ちそうです。(もちろんこれもおかしな話で、そもそもこれだけ異常に難しくなっている国公立大学医学部入試に現役で合格するなど、一部のきわめて賢い子を除けば、中1から塾や予備校漬けの「受験サイボーグ」しかいないと思うのですが。その子達は医師になることに何らかのやりがいや使命感を感じているからではなく、ただ単に「食っていける(と思われる)職業であるから」そこを選ぶわけです。そのような子と、紆余曲折を経て再受験で医師を目指す子とどちらが社会にとって有り難いかは年齢だけでは一概に判断できるものではないと思いますが。)しかし、この秋田大学の医学部での面接で前期後期とも0点になった子は高卒認定試験を受けているとはいえ、現役生と同じ年齢であったため、そのような年齢による差別ですらありません。推測するに、単純に「高卒認定試験」というだけで、「社会性がない」と判断されたのでしょう(もちろん面接での受け答えもこの記事だけからは全容がわかるわけではありません。しかし、医学部の面接はどこの大学でも基本的にこのようなあまり大した内容でない質疑応答が多いです。それだけで200点の面接点を0点にするだけの大きなエラーを受験生がおかしたとは考えにくいと思います。)。

まあしかし、こうした事例は氷山の一角です。実際に医学部受験生を抱えていると様々な理不尽な話があります。
そのたびに、結局思うことは「面接試験」というのが一種の思想統制、あるいは同質性の確保のために使われているという現状の恐ろしさです。

これはしかし、考えてみれば当たり前のことで、人間という者は自分の価値観に近い者に当然共感を覚えます。
逆に、自分の価値観から遠い者については、よほど明白にその人のすごさが伝わらない限りは、あるいは伝わったとしても、拒絶する対象となるのではないでしょうか。たとえば大学入試で言えば、若くても40代の、しかもそこまでに研究なりなんなりで(最低限は)研鑽を積んできた大学の先生を、その先生の価値観とは違うとしても、しかし明白に素晴らしいものを持っているので、合格させてもらえる20才前後の受験生など、一体何%いるというのでしょうか。面接試験というのは、簡単に言えば、既にestablishmentである層が、自分と同じタイプの若者しか認めないためのシステムであり、有害でしかないと僕は思っています。

「有害」と言いました。これは言葉を換えれば、「入学者の多様性を阻害する」ということです。教育再生実行会議の提言として、「面接による人物評価は受験エリートだけでなく(ボランティアや部活動に積極的であるなど)多様な入学者を認めることになる。」ということらしいですが、所詮は面接官によって自らが共感しうるタイプだけが入学を認められるという点では、入学者の多様性はどんどん先細っていきます。逆に学力試験のみであれば、
もちろんその学力試験を通る学力は必要となるわけですが、それ以外の面では「面接」という思想統制がない以上、きわめて多様な入学者がいます。勉強だけをやってきた人、勉強以外にも様々なことをやってきた人などさまざまです。そこでお互いが互いの価値観の相違を認め、自分にはない価値観を持つ同級生から学ぶということができると思います。点数だけで決まるのであれば、もちろん再受験生や高卒認定試験を経て合格する同級生もいます。何も考えずにとりあえず勉強してきた自分に引き比べて、自分の目的をかなえるために学費から自分で働いて捻出してきた再受験生と机を並べて勉強してくる子、あるいは自分が何も疑いなく過ごしてきた高校生活に疑問を感じたり違和感を感じて、それはやめたものの、しかし将来のキャリア形成のために自分で勉強して大学に入ってきた高卒認定試験生など、様々な道を歩んできた同級生から学ぶことができるのは、自らの価値観を揺らされ、見つめ直すことの出来る、かけがえがない学生生活でしょう。そのような貴重な機会をアホな教授による面接試験によって奪われている時点で、僕は秋田大学の医学部の学生を本当に可哀想だと思います(もちろん、不合格にされた受験生本人が一番可哀想です。しかし、その子は勉強も出来るでしょうから、そんなアホ医学部など行かなければいいだけです。入ってしまったらむしろ苦しんだことでしょう)。

まあしかし、秋田大学の医学部の教授が特にアホだというわけではないのです。他の大学の医学部の教授もまあ似たような者でしょうし、別にそれは医学部に限らず、他の学部の教授もそうでしょう。あるいは大学教授といわず、高校の先生であればなんであれ、やはりそうでしょう。もちろん、僕も例外ではありません。
人間というのは愚かであるが故に、自分が共感を持てるような人物を高く評価しがちであり、他のありよう、他の生き方、他の価値観については実際に突きつけられ、そのようなものと共存しなければならないという極限状況に置かれて初めて、真剣に考えるわけで、「自由に選んで良いですよ。」と言われれば、自分と似ているだけのものを「これがベストだ!」と意気揚々と選ぶものです。面接試験なんて僕は本質的にはそういうものだと思いますし、もちろんそのような人間の愚かしさに警戒心を持ち続けられるようなきわめて賢い人がたまたま大学教授にはたくさんいて、その人達だけで入試業務をやってもらえる、というようなことがあるとしたら最高なのですが、そんな期待をするのは夢物語であると思います。
だから、学生の多様性を確保するためには、面接で選ぶくらいならむしろまだくじ引きの方がましだと思います。一定の学力基準を超えた人の中で抽選で選ぶとかはどうでしょう。

もちろん、就職の際にはやはり面接があるというか、面接ばかりなわけで、「大学だけ面接をしないのはおかしい!」という主張も一理あります。しかし、現在の日本社会に於いて、どこの大学を出たかは、一生履歴書に書き続けねばならないものです。簡単に言えば、ある会社でのキャリアが終わり、別の会社に行くときも絶えずつきまとってくる者であるわけです。そのような一生を通じた資格証明である大卒の学歴が、面接官の教授の価値観に類似したものかどうかで左右されてしまう、ということでもう、多様な人材を社会が活用できるかどうかが大きく変わってしまうのではないでしょうか。能力や熱意があっても、ある場所に於いては人間関係や周りとの理念の違いによって活躍できなかった人が、再チャレンジを許されるかどうかのその資格証明としての大卒の資格が、そのように審査する側の価値観によって狭く限定されてしまっているとしたら、今以上に人材のミスマッチが起きざるを得ないのではないでしょうか。僕は、そのような社会を許したくはありません。

面接によって「多様な人物を評価できる」という考え自体が妄想です。それは、自らが拠り所にし、人生を懸けてきた価値観を「これもまた真理への漸近の一つの道に過ぎない」と客観的に判断できる、人間離れした知性の持ち主が面接官であって初めて可能なことだと思います。

もちろん、学力にとらわれずに我々が神のごとく、そのような的確な判断ができれば、それに越したことはありません。しかし、それが全くできていないことぐらいは、いい加減気づきませんか。少なくとも、大学関係者の皆さんには、氷山の一角にすぎない去年の秋田大の記事を見るにつけて、そう言いたくもなります。

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