
このブログには「その1」とか「続く」とかばかりで続きを書かないで放置している記事が山ほどあって、ちょっと反省しております。何も書こうと思っていたideaを忘れてしまったわけではないのですが、そもそもブログを書く時間がとれておらず、「自分が死ぬまでに少なくともこれだけは伝えておきたい!」という思いが強すぎて、Aー②とB-①なら、B-①を優先し、それなのにも関わらず、Bー②を書く前にCー①を書いてしまう、という繰り返しであるからです。僕の頭の中にあるものを少しでもはき出したい。それが役に立つか立たないかは別として、少しは人間の考える力の向上になるのではないか、という不遜な思いから書き散らしております。
ですので、何だか「第一回宮崎吾朗監督作品」みたいな煽(あお)りばっかりのブログだな、と思った皆さん。ご期待下さい。『ゲド戦記』がさんざん不評だった宮崎吾朗監督もしっかりと第2回監督作品である『コクリコ坂から』を撮り、しかもなかなか好評ではありませんか。ですので、僕の「その1」だらけのブログも、そのうちそれぞれの「その2」をひょっこり書くかもしれません。
と、冗談はそれぐらいにして、この「『教育』という行為の存在する意味(仮題ですが)」という文章に関しては、上のような書き方をせずに、できる限り、書き継いでいきたいと思っています。という決意がどこまで続くか分からないほど塾はバタバタとはしているのですが、それでも、これは僕が教育という仕事に携わる以上、ずっと考えてきたことであるからです。
まあ、その思い入れの強さが作品作りにプラスになるのかマイナスになるのかは、それこそ宮崎吾朗監督の(原作に思い入れの強い)『ゲド戦記』と(原作に思い入れのない)『コクリコ坂から』を見ても、難しいものです。
だからこそ、出来不出来を気にせずに、次回から書いていこうと思います。
ですので、何だか「第一回宮崎吾朗監督作品」みたいな煽(あお)りばっかりのブログだな、と思った皆さん。ご期待下さい。『ゲド戦記』がさんざん不評だった宮崎吾朗監督もしっかりと第2回監督作品である『コクリコ坂から』を撮り、しかもなかなか好評ではありませんか。ですので、僕の「その1」だらけのブログも、そのうちそれぞれの「その2」をひょっこり書くかもしれません。
と、冗談はそれぐらいにして、この「『教育』という行為の存在する意味(仮題ですが)」という文章に関しては、上のような書き方をせずに、できる限り、書き継いでいきたいと思っています。という決意がどこまで続くか分からないほど塾はバタバタとはしているのですが、それでも、これは僕が教育という仕事に携わる以上、ずっと考えてきたことであるからです。
まあ、その思い入れの強さが作品作りにプラスになるのかマイナスになるのかは、それこそ宮崎吾朗監督の(原作に思い入れの強い)『ゲド戦記』と(原作に思い入れのない)『コクリコ坂から』を見ても、難しいものです。
だからこそ、出来不出来を気にせずに、次回から書いていこうと思います。
- 関連記事
-
-
その3。教育という行為の意義。そして、その限界を迎えるとき。
-
その2。エルンスト・ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」
-
「教育」という行為の存在する意味その1~SFから~
-
「教育」という行為の存在する意味~その0
-



