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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

ジュリアノ・メール・ハミス監督を悼んで

2007年に塾で上映会をした映画『アルナの子どもたち』の監督であるジュリアノ・メール・ハミス監督が今年の4月に暗殺されていたことを、遅ればせながら最近になって知りました。もちろんこのような危険と常に隣り合わせの中で覚悟の上で彼はthe freedom theatreの活動をされていたと思うのですが、それでも本当に断腸の思いです。

身内への愛情故に「敵」を憎しみ合う単純な精神をmajorityとする社会においては、ユダヤ人とパレスチナ人の融和を目指す彼の活動はどちらの側からも危険なminorityとして攻撃されざるを得ないわけです。その問題は、パレスチナにおいてだけではなく、ここ日本においてもまた、majorityの抑圧にminorityは身の危険や精神の崩壊の危機を感じて生きざるを得ない訳です。

「家族を他人より優先するのなんて当たり前だ!家族を敵に殺されれば、お前だってそんな綺麗事など言えないはずだ!」という繰り返されるstereotypeな主張は、何よりユダヤ人の母とパレスチナ人の父をもつジュリアノさんにとっては何の意味ももちません。自分の家族を、人為的・概念的な「~人」というfictionによって分断されざるを得なかった彼の悲劇に対する想像力の欠如は、日本人もまた猛省すべきことですが、しかし、彼はそれを自らのidentityとして捉え直し、ユダヤ人とパレスチナ人の融和を目指して活動を続けてこられました。その一個の人生が暗殺によって終わらせられても、しかし彼が苦悩の中からそのように決断したこと、さらには『アルナの子どもたち』という素晴らしい映画を残したことは消せません。

そして、『アルナの子どもたち』という映画に対して、「パレスチナ問題を理解するため」などという限定的な文脈における理解にとどまってほしくないと僕は思っています。僕はこの映画を、「書かれなかった(ドストエフスキーの)『カラマーゾフの兄弟』の第二部」のようなものだと思っています。あれほど清純なアリョーシャ(三男ですね)が、皇帝暗殺を狙うテロリストに変貌せざるを得ない、というドストエフスキーの構想しか残っていないその第二部、最も心優しい者こそが、暴力に手を染めざるを得ないというのがこの世界の現実の残酷さであるという事実を描こうという彼の試みは彼の死によって挫折したわけですが、しかし、私たちは『アルナの子どもたち』を見ることでその一端に触れることはできるはずです。その上で、このようなあまりにも残酷な世界の現実を、どのように乗り越えうるのかについて、私たちは足りない頭を総動員して考えていかねばなりません。「大変なところもあるんだね」ではなく、私たちが今生きているこの世界こそがまさにその「大変なところ」であるわけです。

塾でも再び、教室を使って『アルナの子どもたち』の上映会を開きたいと思います。またその告知はこのブログでもさせていただきたいと思っています。

最後に、ジュリアノ監督、本当にお疲れ様でした。僕も(どのように死ぬにせよ)いつか死ぬそのときまで、最後まで一人一人の狭い認識の壁を乗り越えさせられるように、何より僕自身が自分の狭い認識の壁を乗り越え続けられるように、歩み続けたいと思います。
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