嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法(就職する君へ)、現場一流トップ三流 その1

 下働き、雑用、と言われるものをほとんど全ての若い子達は嫌がります。「こんなことをしても意味がない!」「そもそも自分に何のメリットもない!」という反応がほとんどではないでしょうか。また、そうでなく下働きを嫌がらない子達も、それは何らかの「社会への奉仕」なり「自分の属する共同体への奉仕」を1つの美徳として、幼いときからすり込まれているが故にそれらに対して肯定的であるわけです。しかし、僕はそのどちらの態度も間違っていると思います。下働き、雑用を徹底的にすることは、自分が力が付くという意味で、純粋に自分のためになります。

 僕がそれに気付いたのは中学三年生くらいでしょうか。結局何かをよく知っている人に任せる、ということがこの社会における分業を作り出しているとしても、その「よく知っている人」というのはほとんどの場合「凡才にはわからないような高度な内容を専門的に勉強してきた人」である必要が無い場合が多いと思います。つまり、「ちょっとIpadの使い方がわからなくて…」とか、「ちょっとパスポートの取り方がわからなくて…」ぐらいのことは、言ってみればそれをやろうという意志と、そのやり方を調べる努力、さらにはそれをやる際に起こる些細な細かい手違いに耐える忍耐強ささえあれば、誰にでも身につくものであるわけです。しかし、実際には若い子はともかく、大人であってもそのように今までの自分が経験してきていない作業に関しては、二の足を踏んでしまい、結局誰かに聞かざるを得ない、あるいは聞いてもできなくてお金を払ってお願いしたりせざるを得ない、ということが多いのではないでしょうか。
 そして、下働き、雑用とはそのような何かをしていく際の煩雑な手続きその他を自分にそれをやる必要が無くてもこなす機会を与えてもらえるわけですから、そのような作業を徹底的にやり、様々なことの手順に精通していくことが、どんどん自らの「力」になっていきます。自分が普通に生きていく中では決して関わることの無かった手続きやプロセスに習熟する機会を得られ、しかもそれをやることによって、周りの人からは感謝を受ける。これほど「お得」なことはないわけです。だからこそ、若い世代には、学校のことであれ、部活のことであれ、ボランティアのことであれ、その他様々なことに取り組み、どれ1つ面倒くさがらずにやっていってほしいと思います。みんなが嫌がる仕事を率先して徹底的にやっていけば、みんなからの人望を得られるという小さな利益以上に、君たち自身の中に、さまざまな手続きに習熟し、それに対する心理的抵抗感がなくなっていきます。それこそが何よりも君たちの頼もしい力になるでしょうし、この残酷な社会の中で君たち自身が一目置かれ、生きていくためのスキルとなるでしょう。(就職によって身につくことはそれなのかな、と僕は思っています。「自分のやりたくない仕事をしたくない!」と飛び出すのは上に述べたような「くだらない仕事」の数々がいかに人々の意識を支配し、それをできるかできないかによって、その人が周りから重宝されるかどうかを決定するという事実をあまりに軽視していると思います。しかし、だからといって、そのような雑用を決して嫌がらない姿勢やそれが自分の力に確かになっていく、それぐらいほとんどの人々は自分の習熟していない雑用を乗り越えることができずに暮らしている、ということを学んだ人間がその後もなお、その「奴隷」生活を送るべきかどうかは僕には疑問です。この意味でも就職にもまた効用の限界があると思います。)

 話を戻すと、僕は少なくとも高校生の3年間はそれに気付いていて、それに気付かない周りの同級生達が「雑用」をいやがっては勉強したがるのを「なんてアホなんだ!」と思いながら、自分は徹底的に働いていました(今考えると、嫌な奴ですね。すみません。もちろん勉強もできました。なおさら嫌な奴です。さらにすみません。ただ、弁解をしますと、このことに気付けない子達がいくら勉強をしても、このことに気付ける子には勝てない。それは厳然たる事実だと思いますし、教えていてもその違いを感じます。視野を狭く狭くとって「ここだけが受験に出るのだからここだけやっていれば大丈夫!」ということを子供達の感性を殺さないよう戦略的にやるのではなく、一人一人の感性まで根こそぎ殺してしまうかのようにやってしまうのでは、やはり限界があるわけです。「感じるな!考えるな!覚えろ!」という勉強方法ではやはり上限ができてしまうと思います)

 その後ヘーゲルを読み、『精神現象学』における、彼の「主人と奴隷の弁証法(注1)」について知ったときにも、「こんな僕みたいな子供にもわかることをおおげさに言うだけで大哲学者と呼ばれるなど、楽なものだなあ。」と不遜にも思った覚えがあります。(もちろん、力を蓄え独立を準備していく奴隷と、奴隷に依存していく主人との間での力関係の逆転が起こるということを、その当時の僕はたとえば日本の平安時代から鎌倉時代に移行する過程での貴族から武士の権力の推移などと結びつけて社会経済的な観点から肯定していただけでした。それがヘーゲルの言うように内面の問題としての自由となるかどうかについては、かなり難しいと思います。ニーチェの言うようにそれが「奴隷の道徳としてのキリスト教」的な側面、つまり「奴隷が奴隷労働を通じて精神的な自由を獲得できる」が故に、「奴隷は(精神的に)自由だ!」という主張は、「だから奴隷はそのまま奴隷でよいのだ!」という主張へと容易に置き換わるわけです。個人的な心情としては僕はヘーゲルの言うこと(彼の言う「自由」)がよく分かるのですが、それを主張することはこの社会における戦略としてはあまり正しくないと思います。そして、このことについては以下で触れていくつもりです。)

 しかし、今回の福島の原発事故でもよく言われた、「現場一流、トップ三流」という言葉を考えてみると、僕はどうも、ヘーゲルの言葉の含蓄をくみ出し切れていなかったのではないか、そこにまだまだ学ぶものがあるのではないか、と思っています。それは社会経済的にも、あるいは精神的にもです。

 この「現場一流、トップ三流」という言葉はトップの情けなさを揶揄し、現場のすばらしさをたたえることで、ますます現場の人に頑張ってもらおうという意図でよく使われていると思います。しかし、そもそも「現場一流、トップ三流」であれば、やはりシステムとしてはうまく機能していないと言えるのではないでしょうか。もちろん、逆よりはまだましにせよ、「現場一流、トップ三流」という言葉をことさらに言い出して、トップを揶揄してもあまり建設的ではないように思います。

そうそう。ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」にもどれば、奴隷が様々なことが出来るようになり、自由を感じ、能力も高まることはもちろん当たり前の事実であるわけです。「主人は奴隷の奴隷となり、奴隷は主人の主人となる。」うんうん。その通りでしょう。しかし、問題はそのように最前線で働くが故に英知も技術も鍛えられる人々の意見が、全体には反映されていかないというこの仕組みをどのように変えていくことができるか、という困難な問題に対して、まだ人類社会は答えを出せていないということなのではないでしょうか。奴隷と主人との間でどうしてもそのような鍛えられ方の差ができてしまうとしたら、そこで主人と奴隷が入れ替わらなければならない。それをたとえば暴力的な革命に依らないとしたら、他の方法を私たちはまだ見いだせていないのではないでしょうか。

「国会議員は国民の中から選ぶから、主人と奴隷の入れ替えがおきているはずだ。」というのは建前としてはわかりやすいのでしょうが、世襲議員はもちろんのこと、そうでなくとも実はこの建前は破綻していると僕は思います。たとえば各業界団体の中で国会議員候補として祭り上げられる人たちは、(それが日本医師会であれ連合であれ)大体現場で働くことから離れて、その団体の政治活動に熱心である人たちが多いわけです。あるいはメディアでの露出が多い人もまた、国会議員になりやすい。あるいは地方議会を経て、ステップアップして国政へ、という人も政治という現場では働いてきているのでしょうが、社会の現場では働いていない。即ち、現在の日本に於いては、何か1つの職業を徹底的に極め、一人の職業人(政治家・メディア露出の多い職業を除く)としてキャリアを積んできた人が国会議員になるのはきわめて難しいわけです。この例外といえば、起業家ぐらいでしょうか。

では、会社はどうでしょうか。会社でもやはり、出世コースがあると聞きます。たとえば東京電力では、福島第一原発の所長は出世コースなのでしょうか。東京電力では、本当かどうかわかりませんが、「東大法卒、総務畑」が社長コースだと言われているそうです。というと、やはり出世コースからは外れているのかもしれません。そんなことを言わないまでも、そもそも今実際に福島の第一原発で体を張って作業をされている作業員の方々の一体誰が将来東電の幹部になれるのでしょうか。いや、そもそもその作業員の方々は東電の正社員ですらない場合がほとんどかもしれません。そのような事実を鑑みると、そしてこれが東電だけではなく、広く日本企業に蔓延している総合職と一般職、さらには派遣労働者という身分差別、さらには官庁におけるキャリアとノンキャリアの差別などを総合して考えれば、やはり「奴隷」は「主人」になりえないシステムしか我々は作り得ていないのではないか、という忸怩たる思いを持たざるを得ません。

 本当に「現場一流、トップ三流」に問題意識を感じるのなら、そもそも就職試験に「大卒」という要件を外す大企業が増えるべきでしょう。あるいは初期の選抜でそのようなものがそれなりには必要であるというのなら、社員の評価制度を整え、コースをもっと流動的にすべきでしょう。しかし、そのような議論にはならない。それは結局「現場一流、トップ三流」と揶揄されようと今の仕組みを変えない方が、現在の「偽装能力主義」を変えずに済む点で、(現在の仕組みに慣れている人々にとっては)ありがたいという合意があるのではないでしょうか。現場を賞賛し、トップは揶揄に耐えさえすれば、奴隷は労働に自由を見いだし、主人は奴隷に隷属するという精神論によって、身分の変更を避けることができてしまうわけです。まさにニーチェの批判したとおり、「奴隷の道徳」の徹底のためのスローガンが僕は「現場一流、トップ三流」という言葉なのではないかと疑わざるをえません。

そのように考えると、ヘーゲルの言葉も、もちろんニーチェの批判した側面はあるものの、奴隷的立場に居た人々に対する応援歌であったようにも聞こえてくるわけです。「今は苦しいかもしれないが、君たちにはどんどん力がついていく。そして、その力はいずれこの社会のありようも変えて、君たちを今の立場から解き放ってくれるだろう。それも必然的に。そのときを待とうではないか。彼ら(主人)はやがて、力を失っていく。しかし、その力を失う前に、無理矢理反抗をしてはならない。それは結局君たちの命を粗末にするだけだ。君たちは今、自分対に力が付いていき、彼らからは力が失われていく、というただその一点を心の支えにして、頑張れ!」という、応援歌だったのかもしれません(ちょっと好意的な解釈すぎるとは思いますが)。

 しかし、私たちはその後の時代に生きています。人々が現場で苦しみ、どのように力を付けようと結局それが組織全体に響いていかずに、主人は主人、奴隷は奴隷の関係が決して入れ替わることのないシステムを、皆が信じている時代に生きています。どのような努力も、苦労も、それが次の英知を生み出す母体となる前に(人もその人達の経験も)使い捨てられていく社会に生きています。そのような社会に於いては、主人と奴隷の弁証法を信じることは、もはやその最良の意味に於いてすら、ごまかしにしかなりません。この辺りが、現代の抱える閉塞感なのではないでしょうか。このような社会では、結局身分関係を維持し続けるために、現場で生まれた英知は社会全体にフィードバックされることなく闇に葬られていくわけです。その結果として、社会全体がより、様々なことへの対応能力を失う方向へと退化して行かざるを得ない。それが、現在の私たちが抱える問題であると思っています。

その意味で、「福島の人たちを見殺しにするな。」「現場の人たちを見殺しにするな。」という意見は、単なる同情を超えて、思想的に意味のある言葉であるわけです。

と書いて、力尽きました。次回に続きます。

 
関連記事

このエントリーをはてなブックマークに追加
PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する