
お待たせしました。続きを書きたいと思います。
という前に、一昨日の記事で間違いをご指摘いただいたので、訂正したのですが、その確認のために色々ネット上で調べてみると、結構このベルマーク運動に関しての批判もあったようなので、そのこともご紹介したいと思います。古くは花森安治さんが『暮らしの手帖』の中で、批判されていたようです。また、最近では、ブロガーの柳下玲優さんの日記でも詳細に批判が書かれています。どちらもざっと見ただけですが、きわめて正しい批判であると思います。
さて、ベルマーク運動の担い手たる専業主婦への「(ベルマークを集めるという)低賃金労働(注1)」の強制、商売としてあこぎであること、という上記の先駆者の方々の批判は正しいとして、末端ながら教育に携わっている僕として、「なぜに文部科学省が「教育的」として奨励してるの?」「なぜに朝日新聞が「教育的」として奨励してるの?」というところが気になってくるわけです。
(注1)たとえば、僕の娘の小学校では、半年間で13000点ほど(13000円相当)集め、応募したそうです。半年間で学校に行く日を少なめに見積もって100日、そこで毎回3人のお母さんが1時間ずつ作業したとして(いずれもかなり少なめの見積もりです)、100×3×1=300時間の労働で、時給換算にすると時給44円ほどになってしまいます。これなら、お母さん方が時給800円でパートをして、そのお金から募金をして学校に寄付した方がよほど学校にもお母さん方にもお互いにとってプラスになるわけです。もちろん、それは「子供が参加できないので、教育的でない」という批判は可能なわけですが、ベルマーク運動が本当に教育的といえるかどうかは後述いたします。
先述の花森安治さんがベルマーク運動に反対した理由として、「教育を商売に利用するな!」と(何と1970年という早い時期から)おっしゃっていて、僕はもちろんそれに大賛成なのですが、「そもそもベルマークを切って集めて景品をもらうのが教育なのか?」というところにこそ、一番ひっかかってしまいます。もちろん、それを「ベルマーク運動など『教育のため』というのは建前で、企業が売り上げを伸ばすために過ぎないんだ!」と批判するのは簡単ですが、文部科学省なり、学校なりが、これだけこの運動に深く関わっている、あるいは実際に学校の現場でこれが(献身的ボランティアによって!)為されているということは、何かしら「教育的」であるとこの運動がとらえられているからでしょう。
では、どういう部分が「教育的」なのでしょうか。どうやらベルマーク運動を検証することで、日本の文部科学省や朝日新聞、各学校の「教育観」が見えてきそうですね。ですから、もう一度丁寧に追ってみましょう。
①みんなのために、(膨大なベルマークを切り貼りする、そもそもマークの付いた商品を買う)努力をする。(しかし、それが非効率であること、あるいはそれは企業の購買誘導策にだまされていることに関しては異議を唱えない)
②その膨大な(しかしあまり意味のない)収集作業を通じて、親と親、親と子、子と子との間の連帯感を高める。
(同時に、そのような意味のない収集作業に異を唱える人を排除する)
③その努力の結果が景品というごほうびになる。(そこでの自分たちの費やした時間や努力を鑑みれば、買った方が早かったなどとは決して言ってはならない。)
かなり、意地の悪い補足をしましたが、まとめてみると、文部科学省やベルマーク運動に参加している学校で理想とされる「教育」とは、
「その努力が何のためであるのか、その努力が本当にその方法で一番効率がよいのか、そもそもその努力の目的はその努力に見合うものになりうるのか、あるいはその努力が外部の他の勢力にうまく悪用されていないかをチェックすることについては子供達を無関心にし、さらにはそのような異論自体を差し挟まないような集団を形成した上で、子供達を徹底的に努力させる。」
ということになってしまうのではないでしょうか。
つまり、これは「鬼畜米英が本土に上陸してきたら、竹槍で応戦だ!」という軍国教育と、本質的には何も変わっていないのです。そもそもアメリカ人やイギリス人が悪なのか。竹槍で銃に応戦することにどの程度勝ち目があるのか。あるいはそもそもこの軍国教育によって、本当に得をするのは誰なのか。それは本当に「みんな」のためになっているのか。そういった点は全く吟味されないままに、竹槍を作り、敵を迎え撃つ訓練に励んでいたこととベルマーク運動との違いが、僕にはわかりません。
誤解しないでいただきたいのは、そのような運動に従事する一人一人の善意を茶化したり、けなしたりしたいのではない、ということです。こうした諸々の運動が善意から為されていることを僕は間違いがないと思っています。しかし、それだけになかなか批判するのが難しい。「そのような努力の仕方は、かなり危険ですよ!」と言っても、「この怠け者!」と「この非国民!」と同じトーンで言われてしまいそうです。現実に、ベルマーク運動は現在広範に広がり、私たちの足下でも「善意」によって広がっていきます。しかし、それこそが太平洋戦争中の日本で起きていたことなのではないでしょうか。私たちは「善意」を持っているだけではだめで、冷静に観察する眼や、考え抜く頭が必要なのではないかと思います。
私たちが警戒すべきは、ただ、私たち自身の愚かさであるのです。そのことを自戒を込めて、教えていきたいと思います。それと共に、「何でもいいからただ努力する姿勢さえ、子供達に伝えられればいい。それが教育だ。」的な言い回しを、学校教育や受験勉強の正当化によく大人は使ってしまいがちなのですが、子供達の「なぜ勉強をしなければならないの?」という深い問いに対して、より考え抜いた答えを出せるように、努力していかねばなりません。そのような努力を、教育に携わる人間は続けていき、子供達に、あるいは子供達のことを深く思うお母さん方に、意味のない努力、誰かに利用されてしまうような努力をさせていてはならない。そのように強く思っています。日本史で学んだ軍国主義を防ぐための努力とは、僕にとって、大上段な政治運動ではなく、このように日常に潜む思考停止から自らを切り離そうと努力し、丹念に考え抜く姿勢を自らの中にも、教え子達の中にも鍛えていくことであると考えています。(それが完璧にできているかと言えば、まだまだ穴だらけなのですが。)
という前に、一昨日の記事で間違いをご指摘いただいたので、訂正したのですが、その確認のために色々ネット上で調べてみると、結構このベルマーク運動に関しての批判もあったようなので、そのこともご紹介したいと思います。古くは花森安治さんが『暮らしの手帖』の中で、批判されていたようです。また、最近では、ブロガーの柳下玲優さんの日記でも詳細に批判が書かれています。どちらもざっと見ただけですが、きわめて正しい批判であると思います。
さて、ベルマーク運動の担い手たる専業主婦への「(ベルマークを集めるという)低賃金労働(注1)」の強制、商売としてあこぎであること、という上記の先駆者の方々の批判は正しいとして、末端ながら教育に携わっている僕として、「なぜに文部科学省が「教育的」として奨励してるの?」「なぜに朝日新聞が「教育的」として奨励してるの?」というところが気になってくるわけです。
(注1)たとえば、僕の娘の小学校では、半年間で13000点ほど(13000円相当)集め、応募したそうです。半年間で学校に行く日を少なめに見積もって100日、そこで毎回3人のお母さんが1時間ずつ作業したとして(いずれもかなり少なめの見積もりです)、100×3×1=300時間の労働で、時給換算にすると時給44円ほどになってしまいます。これなら、お母さん方が時給800円でパートをして、そのお金から募金をして学校に寄付した方がよほど学校にもお母さん方にもお互いにとってプラスになるわけです。もちろん、それは「子供が参加できないので、教育的でない」という批判は可能なわけですが、ベルマーク運動が本当に教育的といえるかどうかは後述いたします。
先述の花森安治さんがベルマーク運動に反対した理由として、「教育を商売に利用するな!」と(何と1970年という早い時期から)おっしゃっていて、僕はもちろんそれに大賛成なのですが、「そもそもベルマークを切って集めて景品をもらうのが教育なのか?」というところにこそ、一番ひっかかってしまいます。もちろん、それを「ベルマーク運動など『教育のため』というのは建前で、企業が売り上げを伸ばすために過ぎないんだ!」と批判するのは簡単ですが、文部科学省なり、学校なりが、これだけこの運動に深く関わっている、あるいは実際に学校の現場でこれが(献身的ボランティアによって!)為されているということは、何かしら「教育的」であるとこの運動がとらえられているからでしょう。
では、どういう部分が「教育的」なのでしょうか。どうやらベルマーク運動を検証することで、日本の文部科学省や朝日新聞、各学校の「教育観」が見えてきそうですね。ですから、もう一度丁寧に追ってみましょう。
①みんなのために、(膨大なベルマークを切り貼りする、そもそもマークの付いた商品を買う)努力をする。(しかし、それが非効率であること、あるいはそれは企業の購買誘導策にだまされていることに関しては異議を唱えない)
②その膨大な(しかしあまり意味のない)収集作業を通じて、親と親、親と子、子と子との間の連帯感を高める。
(同時に、そのような意味のない収集作業に異を唱える人を排除する)
③その努力の結果が景品というごほうびになる。(そこでの自分たちの費やした時間や努力を鑑みれば、買った方が早かったなどとは決して言ってはならない。)
かなり、意地の悪い補足をしましたが、まとめてみると、文部科学省やベルマーク運動に参加している学校で理想とされる「教育」とは、
「その努力が何のためであるのか、その努力が本当にその方法で一番効率がよいのか、そもそもその努力の目的はその努力に見合うものになりうるのか、あるいはその努力が外部の他の勢力にうまく悪用されていないかをチェックすることについては子供達を無関心にし、さらにはそのような異論自体を差し挟まないような集団を形成した上で、子供達を徹底的に努力させる。」
ということになってしまうのではないでしょうか。
つまり、これは「鬼畜米英が本土に上陸してきたら、竹槍で応戦だ!」という軍国教育と、本質的には何も変わっていないのです。そもそもアメリカ人やイギリス人が悪なのか。竹槍で銃に応戦することにどの程度勝ち目があるのか。あるいはそもそもこの軍国教育によって、本当に得をするのは誰なのか。それは本当に「みんな」のためになっているのか。そういった点は全く吟味されないままに、竹槍を作り、敵を迎え撃つ訓練に励んでいたこととベルマーク運動との違いが、僕にはわかりません。
誤解しないでいただきたいのは、そのような運動に従事する一人一人の善意を茶化したり、けなしたりしたいのではない、ということです。こうした諸々の運動が善意から為されていることを僕は間違いがないと思っています。しかし、それだけになかなか批判するのが難しい。「そのような努力の仕方は、かなり危険ですよ!」と言っても、「この怠け者!」と「この非国民!」と同じトーンで言われてしまいそうです。現実に、ベルマーク運動は現在広範に広がり、私たちの足下でも「善意」によって広がっていきます。しかし、それこそが太平洋戦争中の日本で起きていたことなのではないでしょうか。私たちは「善意」を持っているだけではだめで、冷静に観察する眼や、考え抜く頭が必要なのではないかと思います。
私たちが警戒すべきは、ただ、私たち自身の愚かさであるのです。そのことを自戒を込めて、教えていきたいと思います。それと共に、「何でもいいからただ努力する姿勢さえ、子供達に伝えられればいい。それが教育だ。」的な言い回しを、学校教育や受験勉強の正当化によく大人は使ってしまいがちなのですが、子供達の「なぜ勉強をしなければならないの?」という深い問いに対して、より考え抜いた答えを出せるように、努力していかねばなりません。そのような努力を、教育に携わる人間は続けていき、子供達に、あるいは子供達のことを深く思うお母さん方に、意味のない努力、誰かに利用されてしまうような努力をさせていてはならない。そのように強く思っています。日本史で学んだ軍国主義を防ぐための努力とは、僕にとって、大上段な政治運動ではなく、このように日常に潜む思考停止から自らを切り離そうと努力し、丹念に考え抜く姿勢を自らの中にも、教え子達の中にも鍛えていくことであると考えています。(それが完璧にできているかと言えば、まだまだ穴だらけなのですが。)



