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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

通信第2号

4年も前の文章ですので、話題が古いかもしれませんが、内容はそんなに古くはないと思いますので、
多少我慢してお読みいただけると有り難いです。


第2回 ノミは人間か。人間はノミか。

 今回は「ノミは人間か。人間はノミか。」というタイトルで書こうと思います。ええ、結論はノミは人間ではありませんし、人間はノミではありません。前回と同じおふざけはここまでにして、ではなぜ違うのかということを考えていきましょう。

 「天井効果(ceiling effect)」という言葉があります。何も天井がないところでピョンピョン元気に高く跳ねていたノミ達をふた(ノミ達にとっての天井)のある箱に入れておきます。すると最初は以前のように高く跳ねていたノミ達も天井にゴチンゴチン頭をぶつけている間に「これはアカン」とでも思うのか、天井にぶつからないように跳ねるようになるそうです。それだけではありません。このかわいそうなノミ達を箱から出して、天井のないところにおいても、もう、その箱の中の「天井」にぶつからないような低い位置にしか跳ねなくなってしまうというのです。
 この話を聞くと「なんて人間的な」と思うかもしれません。現に以前テレビで野球解説者の江川卓さんが同じようなことを言っているのを僕も聞いたことがあります。彼は豪華なジャイアンツ打線の中で江藤選手が7番バッターにするオーダー案を強く否定して、こういいました。「江藤を7番バッターなんかにしちゃだめだ。7番にしたら、7番としての打撃しかできなくなってしまう。そういうものなんです。」と言っていました。これもまた天井効果なのでしょうか。勝負の世界に常に身を置いている一流のプロ選手ですら、このようになってしまうのですから、「人間はノミとは違うぜ。」と威張るのも、なかなか難しいようです。ジャイアンツが最近弱いのも、いい選手をとりすぎで一人一人の責任感を働かせる余地がないのでしょう。
 もちろん、人間には自らの置かれた環境に自らを合わせるようにではなく、より高みを目指して努力する姿勢を持つ者もあります。たとえば、画家のポール・セザンヌは「芸術家の仕事はただ自然を写し取ることだけだ」といってひたすらに制作を続けました。彫刻家のジャコメッティは「私は1000年生きたい。1000年仕事を続ければ、私の彫刻ももっとましになるだろうに」と言って制作を続けました。こうした人もいるわけです。また、野球選手でも、たとえばイチローは「去年捕れなかったボールが捕れるようになるとかそういう進歩のために努力をする」と言っていました。こういった人達であれば、大丈夫なのかもしれません。たとえば、イチローならジャイアンツに入っても、結果を残していけるのでしょう。(ただ、イチローがメジャーリーグに挑戦した理由が「日本では物足りない」ことが理由だということを考えてみると、これもまた怪しいかもしれませんが。)

 天井など本当は存在しないのに、自分の心の中で勝手に天井を作ってしまって、それに頭をぶつけないように飛んでいるという状態になっていないか、自分のことを絶えず反省していくことが、私達には必要です。

 もちろんだからといって、「環境に自らを合わせるのではなく、環境を自らに合わせていくことが出来るのが人間だ。」という人間の定義が正しいと思うのも、これだけ環境破壊が進んでいる現状を振り返ってみれば、やはり大きな問題があります。しかし、環境に満足せずに遙かなる高みを目指すというその姿勢は、人間の定義として採用するに足るものであると思います。問題は、「遙かなる高みを目指す」ことはよいとして、さて、高い方ってどっち?ということであるのです。
 重力に逆らってノミが高く跳ねようとするのと同じように、我々も重力に逆らって摩天楼(sky-scraper<天をこする者>)を築き上げるような努力は、まあ言ってみれば地球の中心へと重力が働くという環境の産物でしかありません。地球の中心へと働く重力に逆らって何かを動かすその動きに可能性を感じることは間違っていないとしても、地面から離れることこそが人間にとって、高みを目指すことだ、と思いこんでとにかく地面から離れることに心血を注ぐことは、やはりある一つの方向への努力が自分にいくばくかの自由を与えてくれたからという理由からその方向での努力の価値を信じ続けたいという願望に支配されてしまっていると思います。結局人間がこれほどまでにも不便であることを憎み、便利にしていくことに快感を感じるその心の動きもまた、そうであればあるほど生存に適しているが故にそうプログラムされた一種の走性にすぎないのかもしれません。それは人間を本能の奴隷から立ち上がらせるものの、習慣という第二の本能の奴隷へと鎖をつなぐ先を変えただけであるのです。
 「天井」は上にあるとばかり決まっているのではありません。横にも、前にも、あるいは過去にも未来にも、あるいは人と人の間に、人と物の間に、あるのです。「天井とは上にあるものだから、地球の中心へと向かう重力に逆らい、どこまでもどこまでも上に登っていけば天井効果を免れることが出来る」という思いこみもまた、天井効果を生み出します。たとえば、宇宙旅行に情熱を燃やすアメリカ政府も日本政府も中国政府もホリエモンも、どうしてもそういう思いこみの奴隷であるように僕には見えます。そこに自由は、即ち外界はあるのでしょうか。「宇宙に行くことが人類の夢だ」となどと平気で言えてしまう精神には、どう控えめに見積もっても「ファシズム」としか呼びようのないものを、僕は感じるのです。

 箱から出された後に箱の天井を怖がらないノミが、まだ箱の天井を怖がっているノミ達を「おまえ達は天井効果に負けるなんて、ノミと一緒だな。」と笑っている世の中であるように思います。そのような軽薄な笑いに耐え、重力に逆らうことで我々が四本足から二足歩行をして生きる力を付け、それがこの人間の文明のすべての源となったという事実の恩恵を深く感じ取りながらも、重力に逆らう方向で努力し続けさえすれば天井を突き破ることができるのだ、という思いこみに心を委ねて生きてよいのかどうかを疑い、考え抜くことこそが、我々をノミと分かつ唯一の道なのではないかと思っています。

平成18年1月6日       
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