嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

先生の役割

 先日、塾生が学校で「問題」を起こして、停学となりました。しかし、その「問題」とは、ケータイを使っていじめられている子を守るために、そのいじめっ子達のケータイを奪ってきた、ということでした。
 もちろん極端なその行動をいさめることは、大人として必要であるかもしれません。しかし、僕がこの話を聞いて憤慨したのは、誰も先生達がそのいじめに対して責任を感じていないことでした。「そのようないじめがあったなんて知らなかった。でも、僕たちの努力が足りないせいでつらい思いをしてしまっていた子を助けてくれて有り難う。君のおこしたことは向こうのご父母からは問題視されるかもだけど、全力で守るよ!」と先生方には言ってほしかったものです。

しかし、実際にはそんな言葉をかけるどころか、「いじめなんて本当はなかったんじゃないか。当人(いじめっ子)達に聞いてもそんなことしてないって言ってる。」「だいたいあの子達がそんなひどいことをするわけがない。」という、きわめて幼稚な論理で、その勇気ある行動を起こした子を説得できると考えているその先生達の人間としてのレベルの低さが現れただけでした。当人が証拠もないのに、自分の悪事を認めるはずがないなど、小学生が考えても分かる理屈です。「だいたいあの子達がそんなひどいことをするわけがない」に至っては、現実を見ようとするのではなく、完璧に先生達の妄想です。自分の人間を見る目にそんなに自信があるのでしょうか。自分たちに見落としが本当にないと自信を持って言えるのでしょうか。僕は学校の先生方よりは遙かに一人一人の塾生に深くコミットして教えているという自負はあります。塾生達も、親にも学校の先生にも話せないことを僕に話してくれたりする場合がほとんどです。しかし、それでも「この子がそんなことをするわけがない」などと言えるほどに一人一人を理解しているとは言えません。それほどに、一人一人の人間の精神も行動も複雑であると思います。

結局「いじめはない方がよい。」という結論が先にあり、それに反する事実は全て都合が悪いのでしょう。それを告発したり、身を挺して防ごうとしている若い子達の勇気は、このように「いじめはない方が良い。」ので「あったいじめもなかったことにしてしまおう。」と握りつぶされていってしまうわけです。

そうそう。僕はこのような現実を、毎日さまざまな子から相談されるからこそ、福島の原発事故で東京電力や政府があんなにみんなに叩かれることがあまりよく分かりません。もちろん、東電はひどい。政府もひどい。でも、上記の学校の先生達がやっていることも結局同じことでは?と思ってしまいます。自分たちに都合の悪い事実は見なかったことにして、蓋をして、そして口封じをしてしまう。その口封じの仕方がお金に依るのか、脅しに依るのか、権威によるのか、法律によるのかの違いはあるにせよ、みんな日常の中でやっていることです。福島の学校の校庭の放射線の安全基準値が年間20ミリシーベルトに引き上げられて、問題になっていますが、学校では「いじめ」の基準値がこうやって簡単に引き上げられてばかりではないのでしょうか?「これはまだ『いじめ』ではない。なぜならこれを『いじめ』と認定すると、私たちはいじめを認めてそれに対処しなければならなくなり、そのことに伴う全体への不利益の方が遙かに大きくなるから。」という姿勢です。そのような姿勢こそが、問題を先送りにし、結局思いやりのない社会を生み出しているわけです。

内田樹先生の『街場のone piece論』(『One Piece Strong words』(集英社ビジュアル新書)に所載)にある、「大きな公共性」と「小さな公共性」の対立とは、まさにこのことであるわけです。ほとんどの場合、組織や国家に属する人間は、「大きな公共性」を引き合いに出して、「小さな公共性」を見殺しにすることを正当化します。そのことに対して、『One Piece』という漫画は「『世界の正義』より自分の仲間の方が大切なんだ!」という強い主張を訴えます。なぜ、それが共感されるのかといえば、その「世界の正義」という「大きな公共性」が何となくうさんくさいもので、実はそれはただ「小さな公共性」を見殺しにする口実のために使われる、ということに僕らは何となく気付いているからです。(それを描いている『One Piece』という漫画は、僕は本当に素晴らしいと思うのですが、その詳しい話はまた別の機会に譲ります)。目の前の不正義を見逃すことが、巨大な社会の秩序のために必要だというのなら、そのような巨大な社会など、いらない。そのように力強く宣言するワンピースのルフィの姿勢は、内田先生のご指摘の通り、我々の心に響くわけですし、塾生の学校の先生達の態度とは、全く対極にあるわけです。もちろん、「そのような人ばかりになったら、社会が破綻するじゃないか!」ということも考えねばならないわけですが、僕はやはりそれを心配しすぎて失敗しているのが、この肥大化した国家や社会なのではないかと思っています。

実はこれは、ルソーの『社会契約論』ともつながってくる話であるわけです。「この社会は私たちの同意から成り立っていなければならない。」と言ってみると、「あれ?今のこの社会って本当に私たちが同意できるようなものなのかな?」という疑問が生まれ、それが市民革命につながっていったわけです。そういう意味では、「小さな公共性」というのは決して「大きな公共性」と矛盾するものではなく、むしろそこに血を通わせ、絶えずより良いものへと作り替えていく原動力であると思います。その意味でも、僕は冒頭の塾生を学校の先生達にほめてほしかった。若い彼ら、彼女らの「こんなことは許せない!」という気持ちこそを、励まし、勇気づけ、その上で洗練させていくことこそが教育ではないのか。その気持ちをくじいてしまうことに、一体どんな意義があるというのか。それは結局「非常時には20ミリシーベルトまで大丈夫です。(だってそう言っておかないと困るから。)」という政府の無責任さと何が違うのか。そのように強く憤りを感じています。

大切なのは、他者を責めることの前に、他者のその汚さが自分の中にもないかどうかを深く考え抜くことです。いじめを黙殺する教師に、放射線量を黙殺する政府を責める資格はありません。僕自身もまた、そのようなことを日々の中でしていないかどうか、絶えずチェックをしていきながら、真摯に一人一人に向き合っていきたいと思っています。

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