嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

嚮心塾国語講座第一回「せっけんが一寸法師になっちゃった。」

こちらは何とか元気にやっております。申し訳ないくらいにです。

タイトルはNHK教育テレビ『日本語であそぼ』で先日紹介された五・七・五の型式の文章です。6歳の子の投稿作だそうです。たまには学習塾らしく、この文章を元に現代文の問題を作って、考えてみましょう。

「問い1『せっけんが一寸法師になっちゃった。』という文の意味を解釈せよ。」

解答例1「せっけんを使っていたら小さくなってしまった。」
講評:大半の解答はこのような書き方になってしまうと思います。しかし、これは「一寸法師」≒「小さなものの象徴」というように、短絡的にとらえ、それでこの文意を汲んだと思ってしまっています。しかし、小さいものを何でも「一寸法師」にたとえますか?「せっけんが一寸法師だ!」ということを発見したこの子の感動は、ただ「使っていたら小さくなった!」というだけではおそらくないわけです。その感動をより丹念に追っていくために、「一寸法師」という言葉をより丁寧に言い換えていく必要があります。

「一寸法師」→小さな人間→小さいながらに頭、手足、胴体とがあり、私たちと同じように話をしたり行動したりできる存在

と言い換えてみると、それがどうしてせっけんのたとえとして用いられているのかが、よくわかるのではないでしょうか。せっけんも使っていく中でどんどん小さくなっていきます。しかし、そのように使われて小さくなっていくせっけんは、どんなに小さくなっていっても、決して「せっけん」としての機能を失いません。それが、小さいながらもやはり1つの過不足のない全体としての「一寸法師」であるかのように、この小さな詩人は感じ取ったわけです。それをふまえて解答例を作ってみると、

解答例2:せっけんを使っていたら小さくなってきた。しかし、小さくなってもせっけんはせっけんであり、その機能を失わない点が、人間をその機能を失わないままに小さくし、1つの完(まった)き全体として存在している一寸法師のようだという感動を表している。

ここまでで合格ラインでしょう。(こんな試験を本当に出す大学があるとすばらしいのですが。)
蛇足かもしれませんが、僕ならばこの解答例2にさらに下のように付け加えたいところです。

解答例3:せっけんを使っていたら小さくなってきた。しかし、小さくなってもせっけんはせっけんであり、その機能を失わない点が、人間をその機能を失わないままに小さくし、1つの完(まった)き全体として存在している一寸法師のようだという感動を表している。そもそも、私たちはどこからが部分で、どこからが全体であると言えるのだろうか。細胞の集積によって生命が構成される、ということを私たちはこの何百年かで学んできたわけだが、それは「私たち自身とは何か」を知ることになるのではなく、私たちを分解してしまっていった結果として、どの要素にも私たちは存在していないという事実に気付かざるを得なくなってしまったのかもしれない。それに比べて、このせっけんは、どこまで小さくなってもせっけんだ。おとぎ話に現れる一寸法師のお話とは、人間を含む様々な生物が決して自らの自意識が当たり前のように想定している「自己」がいかにはかなく、もろいものであり、危ういバランスの上にようやくなりたっているかを理解しているが故の、先人の憧れの現れであるのかもしれない。…

ふう。少々やりすぎました。長くなりすぎたので、その後は書きませんが、そのように色々と考えられるわけです。このように、読解問題で大切なのは、
①文の意味をしっかりと理解する。その際に言葉の意味に徹底的にこだわる。
②その上で、その文を書き手がどのような気持ち(あえて論理や主張と言いません。「気持ち」です)で書いているのかを徹底的に想像する。

ということです。特に、①に関して、できていない子達があまりにも多い、というのが現状であると思います。
「『一寸法師』?ああ、ちっちゃいってことね。」と短絡的に理解をして、そこで止めてしまうことが多いのです(テレビでの解説もそうでした。まあ、子ども向け番組なので、ということかもしれませんが)。しかし、そこでの「一寸法師」という言葉には、詩的な感動が伴っています。「せっけんがちっちゃくなっちゃった!」では収まらない感動が何なのか。作者自身の感じるその表現の必然性、あるいはさらに作者も自身では気付いていないかもしれないその表現の必然性を、言葉の意味に徹底的にこだわることから、理解していかねばなりません。それが②のプロセスです。


その上で。大人である我々は、このような子どもの鋭さに絶えず注意を払い続けていかねばなりません。ほとんどの子どもは天才で、ほとんどの大人は凡人です。それ故に、彼らのいわんとする意味の深さを私たちがむげに却下してしまっては、彼らを凡人にしてしまっていることが多いのではないでしょうか。

言葉の意味のやりとりをしたいし、そこに対して少しでも感受性をもつことのできる子達を育てていきたいと思っています。それは型式ばかりの遺憾の意や謝罪ばかりが溢れるというグロテスクなこの社会への1つのアプローチだと思っております(もちろん、卑近なところではそれをしっかりやると受験にも受かりやすくなりますね)。

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