嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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通信第1号

以前、塾で発行していた読み物です。現在、第14号まであります。随時、アップしていきたいと思います。

第一回  洗剤は飲めるか

さて、始まりました。嚮心塾通信。第一回のタイトルは「洗剤は飲めるか」です。
結論は、飲めません。飲んだら、体に悪いですから気をつけてください。

というと記念すべき第一回がもう終わってしまうので、どうしてなのか、もう少し考えてみましょう。小さな頃、疑問に思ったことはありませんか。洗剤は服をきれいにしてくれるのに、どうして飲んではいけないのかな。泥とか「きたない」ものを飲んだり、食べたりするのがいけないのはわかるけど、どうして服を「きれいに」してくれる洗剤は飲んじゃいけないのかなって。今、小さな子を抱えるお父さんやお母さんも、洗剤を『ばっちいから飲んじゃだめ!』と小さい子に注意するとき、ちょっと違和感はありませんか。
 もちろん、これには一応の答えがあります。「洗剤」と僕たちが呼んでいるものは、界面(かいめん)活性剤(かっせいざい)であり、衣服の繊維(せんい)にしみこんだ汚れを繊維から浮かして、水に溶かし出すための薬であり、決して体に無害な物ではないからです。洗剤自体がきれいな(無害な)物ではないだけではなく、「洗剤が服をきれいにする」ということも実は間違っています。洗剤はあくまで汚れを浮かすだけであり、服から汚れを溶かしだして落としてくれているのはあくまで水でしかありません。(ですから、「洗剤のいらない洗濯機」というのも可能なのです。)
 「洗剤はきれいだ」というイメージは、洗剤自体はきれいな物でなくても、それを使って洗濯することで服がきれいになることから、生まれてくるのでしょう。ただ、上に見たように、服をきれいにするから「洗剤はきれいだ」とはとてもいえません。
 当たり前のことを言うな、とおしかりを受けるかもしれません。しかし、これが、案外(あんがい)当たり前ではない。洗剤の混じった水は生活排水として川や海を(以前ほどでないにせよ)汚し続けているのを知っているはずなのに、私達が洗剤を使うことに罪の意識のかけらもないのは、案外「洗剤はきれい」というイメージがしみこんでいるせいかもしれません。

 こんな例は他にもありますね。日本の植民地政策が戦後の韓国経済や台湾経済の発展の基礎となったとしても、日本によるそれらの地域の植民地化が正しかったとは言えません。各家庭では「きれい」を生み出す洗剤が、それそのものは有害であるように。悪意が良い結果を生むことも、善意が悪い結果を生むこともあるからといって、結果の良し悪しから元の悪意を反省しない、あるいは善意をくみ取ろうとしないことはやはり乱暴な態度でしょう。
 タミフルを飲めば副作用が出て「危険」だとしても、タミフルを飲まないでインフルエンザで死んでいくことが「安全」なわけでもありません。もちろん、逆もそうです。ここで僕達は「確率」という不確実なものにたよることになっていますが、どんな場合にも「きれいはきたない、きたないはきれい。」ということがあり得ることを考えていなければならないでしょう。
 これらを見てみると、洗剤の場合には当たり前に思えていたことも、自分達が普段(ふだん)簡単に確かめることの出来ない専門的なことや大局的なことになってしまうと、やはり「服をきれいにしてくれるのだから洗剤はきれいだ」的な思いこみが大きな力を持ってしまうと言えるでしょう。


 シェークスピアの作品『マクベス』の中に出てくる魔女達が『fair is foul , and foul is fair』(みんなこの言葉の意味がわからずに苦労して訳しています。たとえば「きれいは汚い、汚いはきれい」は福田恆在訳)と言い、主人公であるマクベスの心を乱し、彼の後の人生を暗示します。しかし、この言葉は人の心をかき乱すための徒(いたずら)な言葉ではなく、むしろ真理の一側面を見事に貫いているからこそ、人の心をかき乱す言葉であるように思います。

 冒頭(ぼうとう)にあげた「洗剤は飲めるか」という問いに対する答えは簡単です。しかし、なぜ、そのような誤解が生じるのか、あるいはそのような誤解を私達は他にしていないか、ということについて反省してみることが大切です。「洗剤はきれいだ」という思いこみは、服と洗剤と水とを区別しないで何となく全体に「きれいだ」というイメージや言葉を貼り付ける、その幼稚な乱暴さのせいです。そのような乱暴さがあるからこそ、幼い子供は言葉を覚えていくとさえ言えます。言葉によって何かを切り取り、それをその名前で呼ぶことには、「概念(がいねん)の創出」だけでなく、その「概念に収まりきれないイメージの捨象(しゃしょう)」が必要であるからです。(だから「言葉の発達が早い子」というのは「言葉をつくることと(言葉にならない)イメージを捨てること」ができるというだけで、それがかしこさの本質を示していると考えるのは偏っています。感じる物が豊かであればあるほど、それを軽々しく言葉には出来ないでしょう。)
そのある「概念の創出」が仮に現実の一側面を正しくうがっているとしても、それと同時にその概念によって捨てざるを得なかったことや、捨てるという意識すらなく見落としてしまったことに対しても心を配り、何とか拾い集めていこうとしていくのでなければ、結局単純な概念や単純な信念へと自分の心を委(ゆだ)ねるしかなくなります。私達はそのような失敗に対して、本当に注意を払って行かねばなりません。そのような薄っぺらな見方で定義される「幸福」や「正義」が、どれほどの暴力を生みつつあるのですから。

 もちろん、マクベスの魔女のように「すべてのfairとされるものはfoulでしかない」とか、「すべてのfoulとされるものこそがfairなのだ」といっても、この社会から一定の距離を置くことで自分の「立ち位置」を決めたがる人間の衒(てら)いのように聞こえてしまうでしょう。また、実際にそうであることも多いです。しかし、だんだんと衒(てら)いになってしまったその言葉も、その始まりは、何らかの真実味のある抗議であったとは言えないでしょうか。そのような衒(てら)いの群れにうんざりしたからといって、「洗剤はきれいだ」的な乱暴なくくり方に心を委(ゆだ)ねることはやめたいものです。論理などゼノンのパラドクスを引くまでもなく、その一つ一つの要素の抽出(ちゅうしゅつ)の仕方によっていくらでも現実を裏切ることが出来るのですから。
 
何らかの論理や、何らかの概念を通して目の前の現実を見ざるを得ない人間の愚かさを自覚しながらも、それでもその見方では抜け落ちる物を何とか見取るために、一つ一つに、じっと、目を凝(こ)らしていきたいものです。
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