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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

つなぎ

ブログが書けません。書きたいことは多いのに、ばたばたと忙しいからです。さすがに受験シーズン突入で、しんどくなってきました。しかし、あきらめませんよ!ということで、つなぎの記事を書いております。

先日、塾生達に「塾の卒業生があんまり塾に遊びに来ない!どうしたらいいのか。」という人生相談に乗ってもらいました。彼らから出てきた意見としては、

「(僕が)怖いから来れない。」「自分がさぼっているときは来れない。」

というものでした。
「そんなことないじゃん。こんなにバカ話ばかりして、伝えたいことはほんの少ししかしゃべってないのに…」
と反論したものの、「そのバカ話も、何らかの伝えたい内容が込められていて、得体が知れない。」

と言われました。全くひどい言われようです。しかし、なるほどやっぱり塾に来にくいのは僕のせいなのだな、ということがよく分かりました。

もちろん、塾で教えているときも、いわゆる「雑談」はむしろ多い方です。しかしその「雑談」の中に何かしら「これを伝えたい・知ってほしい」「これについて考えてほしい」「こういう問題に気付いてほしい」という動機をもっている事がほとんどです。そういうのって、重たいんでしょうね。

太宰治が道化を演じていたとしても、道化を演じてもなお、彼の中には「重たい」一点が残らざるを得なかった訳です。どこまで人でなしを演じても、誰よりも人である部分を消せなかったわけです。どのような演技もそのような自己をひきずらざるをえない、ということは、端的に言えばこの薄っぺらな社会の中では生きる場所がなくなる、ということでもあります。

もちろん、だから「太宰のように自殺」というのもまた、薄っぺらな生き方でしかありません(誤解しないでいただきたいのは、太宰の死を薄っぺらだと言っているのではありません。それは余人にはただ黙るしかない彼の苦しみがあったことは確かだと思います。しかし、それをまねては「それしか方法はない」というのは他の可能性を尽くしていないという意味で、薄っぺらであるという意味です。ベルクソンが『時間と自由』で述べるように、あるいはポパーが『歴史主義の貧困』で述べるように、我々にとって過去が最良の教材であることと、我々が過去の奴隷であることとは全く別のことであるはずです。もちろん、人間の理性など限界だらけのものであるのでしょうが、そのことは我々が過去と全く同じように振る舞わなければならない理由にはならないのです。そのような過去を踏襲した選択を(それが過去に何度も繰り返されているから、という理由だけで)選ぶとき、私たちは私たち自身の心の弱さに負けて自らの自由を捨てているのでしょう)。しかし、「自分が真剣に生きている!」と見られるような演出をしていた10代前半から20代までに比べて、はるかに今の方がアホなことをいい、自分の恥をさらし、自分の情けなさ、弱さをさらけだしているのにも関わらず、「重たい」と見られているということは、塾にとっては致命的な課題であるとともに、僕にとってはまた感慨深いことでもあります。

つまり、僕が伝えたいのは、「卒業生のみなさん、いつでも遊びに来てね!」ということです。いつでもwelcomeですよ。You are welcome.It's my pleasure.(英語的に間違ってますかね。)

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