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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

組織における内部告発の問題②

大分、間が空いてしまいました。前回は、検察組織の証拠ねつ造に伴うこの一連の事件をきっかけに、組織において内部告発が自浄作用のために必要だということには大筋において皆が合意できるとしても、内部告発がその組織の当面の存在意義としての目的よりも高く評価されなければ、そのような内部告発をしたいと思うincentiveが組織内部で生まれ得ないという一方で、内部告発がその組織の追求する目的やひいては存在意義よりも高く評価される「組織」などというものがそもそも維持しうるのか、それは必ずや崩壊せざるを得ないのではないか、ということについて考えてみました。

それこそ、こんな問題は原核生物が細胞膜を作ってその内側を「自己」と定義したときからさかのぼっては、絶えず問題であり続けるような困難な問題であるわけです。ある組織がその自己を存続させていくためには、不正を犯さねばならない。しかし、その不正があまりに過ぎれば、結局組織同士の淘汰が働いて、全て共倒れになってしまう。しかし、かといって、その不正をなさなければ、その組織自体が維持できない。なんだか、どこででも問題になる、あるいは身近な話で行けば私たち一人一人の生き方にもまた、絶えず問われている難しさであるかもしれません(「強くなければ、生きていけない。優しくなければ、生きていく資格がない。」などという言葉もありました。)。(ちょっと大風呂敷を広げすぎました。すみません。)

ここまで僕が長々と書いてきて気付いたことは、「内部告発が機能するためには、必ず健全たる外部を必要としている。」という事実です。たとえば内部の不正をもう不正とは感じないような「外部」しかない場合には、どこに告発しようと無駄なわけです。これはたとえば、ゾンビ映画でよくある恐ろしいシーンを考えるとわかりやすいのではないでしょうか。「ゾンビがおそってくる!」と恐怖におののいて交番に駆け込み、「おまわりさん、ゾンビが…」と訴えて助けを求めようとしたら、そのおまわりさんももうゾンビ化していて食われそうになり、あわてて逃げ出す、というあのシーンです(交番ではなく、親しい友達や家族のパターンもあります)。あのようなシーンの恐ろしさがどこにあるかといえば、「ゾンビがおそってくる異常事態」に対して、「交番」というものが一種の外部として主人公に認識されていることにあるのだと思います。もちろん、そのゾンビ化に対して、交番(や親友や家族)がそのゾンビ化の外部となっている、ということ自体が主人公の思いこみであるわけです。しかし、自分を脅かすこの異常事態(ゾンビ化)に対して、どこかに外部があるはずだ、という希望が完全に裏切られることに見ている私たちは出口のない恐ろしさを感じるわけです。

内部告発をする側の人間も、そのゾンビ映画の主人公のような気持ちで居るわけですから、当然「主任検事がこんな不正を働いた!」と特捜部長や副部長に言っても、「まあ、君も我々の仲間(ゾンビ)になりなさい。」ととりこまれそうになって、あわてて逃げるわけです。もちろんそれで今回の事件の場合には新聞記者の調査報道があったために、内部告発をした検事も「ようやくゾンビ化していない人間(外部)をみつけた!」と安堵の思いで話し、そしてこのように明るみになりました。その意味では「外部」が機能できて、何とか助かったゾンビ映画のようなものです。(もちろん、最高検が「外部」かどうかはわかりませんよ。ゾンビ映画のよくある怖いラストシーンありますよね。「皆さん、もう安心してください。ゾンビはもう絶滅しました。我々人間はゾンビに勝利したのです!」と演説する英雄もまた、実はゾンビであることを匂わせるラストです。)

まとめれば、内部告発を組織の中で奨励することが難しいのであれば、内部告発を可能にするのは健全な外部が存在し、さらに贅沢を言えば、そこへのチャンネルが確保されていることが必要であるわけです。(ゾンビ化した村が絶海の孤島であれば、そもそも外部へとたどり着く望みはないわけです。)

しかし、このたとえのような問題理解の仕方、そして問題解決の仕方にはざっと考えても、三つの難点があります。一つはその「健全たる外部」など存在しなかったらどうしたらよいのか。そして、二つ目はゾンビにゾンビとしての自覚がなければそもそも内部告発は生まれないということ、そして三つ目は先ほどのチャンネルの確保の問題です。

一つ目の難点については、「健全たる外部」をどこまでも求めるのではなく、「外部は常に健全である」という立場を取ることが良いように思います。すなわち、ある組織に所属する人間がその中で蔓延している違和感を感じるような慣行に皆がどっぷりとつかり、それを何とか指摘したいと考えても、「内部告発をしても自分の所属する組織を傷つけるだけだ、だって外部はもっと汚いのだから。」と隠蔽してしまうのが実は大部分の組織人の動機なのかもしれません。そんなときは、とりあえず外に出してしまいましょう。そのとき、外部がクリーンかどうかはあんまり関係がなく、外に出すこと自体が重要であるのだと思います。ゾンビから逃げるためにたどり着いた隣町がまだゾンビだらけであれば、さらにその外を目指すしかありません。

二つ目の難点については、我々が何らかの組織に属する以上は、我々は常にゾンビとなる危険と隣り合わせであることを痛切に自覚していなければなりません。もちろん、これは検察や官僚批判だけではありません。また、僕のような自営業を礼賛し、企業勤めを批判しているのでもありません。全ての人間は必ず、国家、あるいは家庭という組織に属しています。あるいはそのように有形の組織でなくても、無形の合意形成に何となく参加したことから、組織のように圧力を受ける場合もあります(「普通と違うのは怖い」など)。賢い人ほどに、その危険性を自覚していて、賢くない人ほどに「そんなことはない!私は独立した人格だ!」と強弁したがるのは世の常でしょう。

と書いてきて、力尽きました。この続きについては、また次回書きたいと思います。予告をしますと、三番目の難点については制度として用意する、というだけでは無理で、ここまでに述べた「外部が存在することの必要性」についての共通理解、そしてさらには、外部が存在することで初めて、内部は存在するのだということを社会契約論と絡めて、書いていきたいと思っています。このブログが、均質なこの世界における「外部」に、少しはなりうるように、次回ももう少しがんばって書いてみたいと思います。
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