嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

組織における内部告発の問題①

厚生労働省の郵便不正事件では、朝日新聞のスクープ以降、あの事件の主任検事が証拠品改ざんの容疑で驚くべき早さで逮捕され、さらにはその上司の元特捜部長と副部長までがその主任検事の証拠改ざんをかくまった容疑で逮捕されました。最高検は「徹底解明を目指す」と、自らの自浄作用をアピールするのに必死です。その中で、逮捕された元特捜部長の「最高検のストーリーには乗らない。」という名言が出てきました。今回は、このことについて考えてみたいと思います。

そもそもこの「最高検のストーリーには乗らない。」という言葉が検察官から出てくるということは、もう少し長く説明すれば「我々検察官というのは、常にまずあらかじめストーリーを描き、それに沿って取り調べをしているのであって、決して虚心坦懐に取り調べをしてくる中で事実がどのようであったのかを考えるわけではない。」という暴露であるように、僕には思えます。もちろん、発言した検察官の方は「この場合はそういうおかしな取り調べだ!」というように、この個別の事件について言っているつもりなのでしょう。しかし、このような発言をするということ自体が、彼ら検察官が取り調べをしている過程でやはり「既存のストーリー」を少なからず意識し、そこに沿うように取り調べをしていることを示しているように思います。そうでなければ、このような言葉が出てこないのではないでしょうか。たとえば、最高検と見解の相違について争うとしても、「最高検は事実誤認をしている」とか「最高検は新たな冤罪を作ろうとしている」とか、言い方は他にもあると思います。このような言葉が逮捕直前のインタビューで出てくるということ自体が、検事という職業が既に描いたストーリーに基づいて証拠固めをしていき、その既存のストーリー自体を決して疑わない職業である一つの確かな証拠なのだな、と僕は勝手ながら感じました。

もちろん、そのような決めつけを排し、ただひたすらに真実を知りたいと個人的に願う検事さんも必ずやいるのだと思います。しかし、そのような検事さんの個人的動機をくみ上げるようなシステムに検事さんの世界がなっているのかどうかは、なかなか難しいのではないでしょうか。上司が「おそらくこういう事件ではないか。その証拠固めをしてくれ!」とストーリーを描き、それに従って部下が取り調べをしていく中で、部下が「やっぱりこの最初のストーリーが違うのではないか。」と感じたとしても、それを上司に進言して「なるほど。ありがとう。危うく冤罪をつくるところだったよ。もう一度初めから考え直そう。」と言える上司が果たして、どれほどいるというのでしょうか。これは上司の人間性だけの問題ではありません。たとえば上司の描いた最初のストーリーに沿ってそれを補強する調書をとれる検事と、最初のストーリーを見直させる調書をとれる検事とで、後者の方が高く評価され、「手柄」扱いされるのでなければ、このような冤罪事件はやはりなくすことはできません。なぜかと言えば、最初のストーリーを補強する調書は間違いなくプラスの手柄と考えられるのであれば、そのような見直しを促す調書は(たとえマイナスではないにせよ)ゼロの手柄でしかないのであれば、やはりそのような進言をしようとする検事は(出世を考えれば)いないわけです。それではいくら、寛容に処されたとしても、やはり一向に最初のストーリーの見直しは増えないでしょう。見直しを奨励し、見直しにつながる提言をした検事が逆に出世するための手柄をたてたと見なされる組織。しかし、そんなものが一体可能なのでしょうか。

これは検察組織だけの問題ではありません。真実の追求のために、組織内での内部告発を奨励するのであれば、必ず直面せざるを得ない問題です。ある組織全体で追求している目的があるときに、その目的を追求することのために手柄を立てた人がその組織の内部で評価されていく仕組みを作れば、このようにその「目的」自体の欠陥を気にすることなく、ひたすらにその目的へと奉仕する(この場合は村木元局長を何とか起訴する)という方向へと組織の一員達は働くでしょう。そのような組織においては、暴走を歯止めするものは一人一人の良心しかありません。それは非常に危険な組織です。しかし、かといって、そのような暴走を内部告発する人が評価され、ゆくゆくはトップへと昇進していける組織には別の問題があります。内部告発をする、というのはある意味でその組織のほぼ全体、掲げられた目的を疑いもせずに追求していたほぼ残り全員という大多数を全て敵に回すわけです。もちろん、その中には内部告発自体の必要性を理解してくれる人はいるでしょう。しかし、そのような人であっても、組織の中でその内部告発者が昇進していくこと自体には一抹の不安を覚えるのではないでしょうか。その理由は、内部告発者が評価される組織、というのはある意味で裏切りを奨励する組織、秘密警察による統制をうける組織のようなものになってしまう恐れもまたあるからです。「ある目的のために一丸となる」という組織の定義と、「お互いがお互いを密告して出世しようとする」という裏切り競争の関係とは、やはり原理的に矛盾せざるを得ないわけです。

このように考えると、「検察はしっかりしろ!」と言っているだけではやはり何も解決しないようです。人々が所属している組織全てに、同じような問題が内在しているからです。この対処法としてはいわゆる第三者委員会のような独立機関を設置して、それにチェックさせるというのが一番良いのでしょうが、この社会におけるあらゆるある程度以上の規模の組織すべてに第三者委員会を作る、ということはまず不可能でしょうし、たとえば権力機関全てに対してそれを作ることですらなかなかに難しい、というのが実情でしょう。(さらにはそれらの第三者委員会に対するチェックはまた、どうしたらいいの?などと訳が分かりません。)

また、第三者委員会だらけでいいんかい(!)ということとは別に、誤った目的を掲げてしまう可能性をもつ組織にとって、内部告発は結果として組織の存続を正当化する確かな手段であるのにもかかわらず、組織の内部で内部告発を評価するシステムを作れば、その組織自体が自壊するか、あるいは有用なものになりにくい、というディレンマについては仕方がないものとしてしまってよいのか、という問題についても考える必要があります。長くなりましたので、また次回に続きます。結論は見えませんが、引き続き考え続けたいと思います。
(追記)
科学者が仮説(hypothesisですが、これも一種の「ストーリー」です)をたてては検証していく作業を、検事が自分の仕事と同じだと考える気持ちがあまり納得のいくものではない理由として、科学者には真実に対する敬虔(けいけん)な気持ちがあるのにもかかわらず、検事には真実に対する敬虔な気持ちが薄いまま社会の秩序を維持するという目的をそれより優先している、という主張も、特に科学者の間ではあると思います。しかし、もちろん僕はそういう部分もあるとは思いますが、それよりも「同じストーリーを追う科学者達は組織ではない(世界各国で違う組織で、その仮説を検証している人々が居る)が、同じストーリーを追う検事達は組織である」という理由の方が、大きな理由であると思います。逆に科学者でも、一つの組織として同じストーリーを立証しようと追求しているときにはねつ造がおきやすいのではないかと思います。
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