嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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先日の追記とその他もろもろ。

前回僕が書いた内容については僕も名前を挙げた内田樹さんが『街場のメディア論』(光文社新書)という本で、同じような内容を書いているようです。(僕はまだ読んでいませんが、これから読む予定でいます。)

まだ読んでいないのですが、書評によると、メディア(媒介)の劣化ではなく、その媒介によって伝えられる内容の劣化が著しい、というのがそ本の主張の眼目らしいです。それについては僕も全面的に賛成します。

ただ、本に過大な期待をしてはならないのだと僕はやはり思います。森有正がどこかで、「フランスにはデカルトの『方法序説』を読む必要のない(注:読まなくても、そのすばらしさを体得している)農民がたくさんいる。そのような国だからこそ、デカルトが生まれたのだ。」というようなことを書いていたと思います。ある意味、勝間さんや茂木さんやその他大勢の著作物がありがたがって読まれる、というのは日本人の知的(あるいは人間的)レベルがその程度だということを指し示しているのではないでしょうか。問題は彼らだけに、あるいは彼らにそのような努力を強いる出版業界だけに、あるのではありません。

「そうはいっても本を読まなければ、知的レベルひいては人間的レベルなんてあがらないじゃないか。」という反論もあるでしょう。僕は、まずは本を読まずに本当に直面する問題の全てについてしっかりと考えるという姿勢からいくらでも自分自身は鍛えられるのだと思いますが、しかし、これはまあ難しいものです。本を読む方が確かに手軽です。そこで、おすすめするのは、「皆が読む本」ではなく、「皆が読まない本」を読むことです。あとは古い本しか読まない、というのもおすすめです。そのようにして手近に投げかけられる情報をキャッチするのではなく、むしろ「こんな本自分しか読まないだろう」という研究をするつもりで一人一人が本を選ぶのがよいのだと思います。もちろん、そんなマニアックな本は専門家じゃないと手に入らない!と思うかもしれませんが、みんな意外と古典は読んでないものですよ。その意味でも古典を読むのはお薦めです。

ともあれ、すばらしい本と運命的な出会いをするためには、自分がその本にふさわしいくらい、真剣に苦しんで生きている必要があるわけです。そのことを何よりも、大人達は忘れてはならないと思います(若い世代は比較的このことに自覚的で、「まだ自分にはわからない」と言えます。むしろ大人の方が自分に分からないものを無価値だと決めつけてしまいがちなので、気をつけねばなりません)。自分にわからない本というのも、その「自分」の方が間違っている可能性も多々あるのですから。


やはり、大切なのは、どのような姿勢で生きているかであるようです。自らの価値観に沿ったものを、すばらしいとして評価していくのか。それとも、自らの価値観を揺らしてくれるような出会いの中で、まだ矮小な自らの価値観を疑わせてくれるものを、すばらしいとして評価していくのか。もちろん、これはそう単純な話ではありません。自らの価値観が大揺れに揺れているときには、逆に安定化させてくれるものがほしくなるかもしれません。逆に徹底的に安定してしまった状態になったときにはちょっとの刺激として揺らしてくれるものをほしくなるかもしれません。ただ、自分の考え方の限界に対して、絶えずそれを思い知らせてくれるような多様な現実と接し続けていければ、その人の人生は非常に努力を要するものの、とても意味のある人生になることは間違いがないと言えるのではないでしょうか。逆に、自らの固定化したちっぽけな価値観に周りを合わせていこうとすること、あるいはそれにぴったりと合うもののみを選び取ろうとすることは、結果として当人達に予測もつかない悲劇を引き起こすように思います。特に親子の間では、そのような失敗というのは多いようです。僕には、その悲劇の予兆が見えることが多いのですが、ではそれを完璧に防げているのかと言いますと、まだまだ力不足で、防げる場合もあれば、そうでない場合も多く、日々無力感を味わっています。

ホワイトヘッドがB.ラッセルの人生を評して「ラッセルは一つのプラトン的対話である。」と言った話は(それにK.R.ポパーがかみついて、「『ラッセルは一つのソクラテス的対話である』と言うべきだ」といった話とともに)有名ですが、その言葉を借りていうのなら、「嚮心塾で行われている教育は、一つのソクラテス的対話である。」といえることを目指してやってはいるのですが、なかなか先は遠いようです。ラッセルのように、一人の人格として「ソクラテス的対話」という表現ができる人物ももちろん、きわめてまれなすばらしい人格であるのですが、それ以上に、ソクラテス的対話は「市場」における「商品」とは原理的に矛盾するように思います。このあたりが、難しいようです。市場経済にはないものを、ポランニーの努力のように考えていく必要があるようです。

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