
先日、ネット上で興味深いニュースがありました。ブックファースト川越店の店長さんが「最近は池上彰ブームで池上さんの著作がたくさん並んでいるけど、このバブルはいつまで続くのだろうか。過去にも勝間(和代さん)バブル、茂木(健一郎さん)バブルがあった。この池上バブルは一体どこまで続くのだろうか。そもそも出版業界も著者も「こんなに無理してたくさん書かなくてもいいのに」と思うレベルの著書まで出て、バブルがはじけるというのはいかがなものか。」という興味深い提言を自身のブログに書いたというものです。
さらに、これに対してこれまた売れっ子著者の内田樹さんが「ウチダバブルの崩壊」とブログで書き、確かに流されて出版ラッシュになっていたことを反省して、これからは企画を厳選して、じっくり質の高い本を書きたい旨を述べられると、当の名指しされた茂木さんや勝間さんも自身のブログで、「それぞれの本はいただいたチャンスを最大限に活かして、全力で書いている。(なので、バブルをねらったものではない。)」という反論をされていました。
このような話し合いが今までに無かったこと自体がまずは気持ち悪いと思います。なので、積極的に意見を表明したおのおのの方の態度自体をまずはすばらしいとは思うのですが、それをふまえた上で僕はやはり茂木さんや勝間さんのような立場はとてもナイーブなものであるように思います。
いわゆる「出版不況」と呼ばれる中、出版社にとって一番リスクが低いのは「この人の本なら売れる!」という企画を立ち上げることであるわけです。そのような状況が新たな書き手を発掘するというリスクをとるよりも半ばテレビタレント化して知名度の高く、かつそれなりにヒットした本の書き手である「知識人」に出版企画が殺到する理由になっています。そのような背景を深く考えずに、「せっかくチャンスをいただけるわけだから。」と(自分が自信を持って書けない分野に関しても)さまざまなことについて書く、というのは、すなわち「自説の必要性が社会の中で高まっているから」出版機会が増えていることを利用しているのではなく、「新たな書き手を探すというリスクをとりたくないために」出版機会が増えることを利用していることになってしまいます。いやしくも、出版業界の未来やまだ見ぬ良い本を世の中に生み出したい、というこの出版文化自体への思いが少しでもあれば、そのようなナイーブな仕事の引き受け方自体がどのような悪影響を生み出しうるか(新しい書き手の発掘・育成に資源がまわらなくなること)について考えていないのは、あまりにも考えが足りないと思います。その点では、僕は内田樹さんの立場の方がはるかに思慮深いように思えます。
しかし、まあ、このようなバブルは「池上」「勝間」「茂木」の前にも「養老(孟司さん)バブル」とか「齋藤(孝さん)バブル」などとあったわけです。だから昨今の「出版不況」のせいだけではなく、やはり二匹目のドジョウを狙う気持ちというのは、著者の側にも出版社の側にもどのような状況であっても強く働くのでしょう。しかし、出版業界がどのような状況にあろうと、著者の側で常に考えねばならないことがあると僕は思います。それは自らの不勉強さ、不完全さについてです。もちろん、自らが不勉強であることや不完全であることを口実にして、社会に対して担うべき責任を担おうとしないのであれば、やはりそれは問題です。その意味では、その当時のあるいは歴史を通じての人類最高の知性であっても、全てを見渡す事が出来ない以上は不勉強であり不完全であるわけですから、「自分は不勉強であり不完全であるから著作を書かない」という逃げ口上を言っていてはならないわけです。しかし、このように多作な方々がどうなのかはわかりませんが、僕などは勉強をすればするほどに、自分が不勉強であることを思い知らされます。もちろん、こうした方々もたくさんの本を読んでいらっしゃるのは確かでしょうが、そもそも、そのような意味で勉強をしておられるのかどうか、きわめて疑問であると思ってしまいます。なぜなら、自らが一番他者に伝えたいと思うテーマこそが、本当に正しいかどうか分からない、という姿勢をどこかで失ってしまっているように思えるからです。「勉強」というのは、自分の伝えたいことをどのように伝えるかという手段や道具を獲得するために行われるのでは、やはり、底が浅くなってしまうのです。自分の一番伝えたいことそのものが、本当に正しいのか、それとも間違っているのか、それを絶えず検証し続ける姿勢を失ってしまえば、どのような勉強も既に決定した結論への「証拠固め」となってしまいます。自分が一番伝えたいテーマ自体がそもそも正しいのか間違っているのかへの吟味のない勉強、というのは、たとえれば、検察官の思い描くストーリーになるように無理矢理証拠固めをしていくような努力であるのだと思います。そのような捜査が恐ろしい冤罪を生みかけていたのは、この前の厚生労働省の村木元局長に対する凜の会事件でも明らかになりましたが、あのような検察の態度を自分の身を省みた上で批判できるだけの言論人が、日本に一体何人いるのかを、僕は知りたいと思っています。
ただ、率直に言えば、僕の本心は別の所にあります。もちろん、より多様な書き手に開かれた出版文化、というものにこの苦しい状況の中でも少しでも近づけてほしいと僕は思いますし、そのこととの関係をふまえて、言論人の方々には自分の立ち振る舞いを再考していただきたいと思っています。しかし、僕の中でもっと率直な意見としてあるのは、人はそんなに簡単に本を読んだだけでは変わらない、ということを本の書き手も、読み手も自覚しておくことが大切であるということです。
本を買う人は、この自分の(それは社会からの圧迫も個人の内面も)閉塞した状況の打開策のヒントが、毎月出版されるなにがしかの本の中に少しでもあると思うことをやめた方がいい。本の書き手も、そのようなヒントを毎月刊行される自分の本によって少しでも伝えられると考えることをやめた方がいい。誰かが自らの閉塞した状況をどのように打開してきたか、を本に書いても、それは読み手のほとんどにとっては感動の対象にはなるものの、決してヒントにはならない。逆に書き手がどんなに人類の命運は自分の文章にある、という悲壮感をもって書いたとしても、そのような決意で生きている人間自体が少ない以上、その内容が伝わるわけがない。その身も蓋もない冷酷な事実をまず直視し、おのおのがそれぞれの問題に対して真剣に悩むことをまずやっていかねばならないのだと思います。茂木さんや勝間さんは、他の人にヒントをあげている場合ではない。自分がまさに今、(出版不況に伴う彼らへの依存という)閉塞した状況に追い込まれているわけですから。多くの人が本を読むのは、「本の中に何らかのヒントがある」ことを期待しての行動です。しかし、僕はこの「本を読めばヒントがもらえる」「本を書けばヒントが与えられる」という希望への過剰な期待(幻想とでもいえるでしょうか。)が、かえって、人々の本に対する姿勢をきわめて不健康なものにしているように思えてなりません。
自分の抱える問題が、そのように毎月出る、書店で何千円かで買える本によって少しでも前進する程度のものであるのだとしたら、それは問題に取り組む自分の努力が、圧倒的に足りないのです。今出ている本など、100年後という短いスパンですら、一体何%が(国会図書館以外に)残っていると言えるのでしょうか。そのような本によって、ヒントがたやすく買えるのなら、その程度の努力しかできていない自分を恥じて、懸命に問題そのものを悩んだ方がよいのではないでしょうか。あまりにも「自分自身が考え抜く」、という姿勢をおろそかにしては本に頼る人が増えているために出版界が盛り上がるのであれば、それ自体もまた、生産的ではない「バブル」であると思います。そのような本の買い方自体に僕は異議を唱えたいです。
もちろん、この「『本を読むこと(書くこと)』によっては問題は解決し得ない」というのは、古典(岩波文庫など)に関しては少しだけ別なわけです。古典は何百年もの吟味を経て、今僕たちの手に残っているという意味では、確かに価値のあるものばかりであると思います。それを「読んでも価値がない」とは断じません。しかし、古典を読むこと自体を問題への取り組みであると勘違いしてしまっては困ります。むしろ自分が日々直面する問題に徹底的に取り組んでいなければ、私たちに古典の価値などわかるわけがありません。オーギュスト・ロダンは「厳しく自己を鍛えた人間でなければ、美術館を見るな。」と言いましたが、これは単に「見ても、わかるわけがないから。」であるのです。それは古典と言われる価値のある本についてもまた、同じように言えることです。
様々な出版バブルに対して、僕が思うのは、「もう、他の人の考えに答を求めるのはやめて、自分の目で観察して、自分の頭で考えませんか。」という提案です。誰の本が何万部売れたかは知りませんが、そんなのを買って読んでいる暇があるなら、自分で悩みましょうよ。といいたいものです。悩めば悩むほどに、古典と呼ばれる本の価値も、現代的意義も、わかるようになるでしょう。そして、書き手は、自分の本がそのような古典に100年後になれるかどうかを、自分の著作としての最低ラインとして(自分のチェックは甘いものですから)検証した上で、勉強し続けては、それだけの質のものを書いていこうと努力していくのがよいのではないでしょうか。そうしたら、バカ売れは減るでしょうし、そもそも「今、話題の本!」という売り文句自体に反応しなくなる人が増えるでしょう。おのおのの取り組む問題に、効果的な「共通の薬」があるわけがないことがよくわかるはずでしょうから。そのような社会に少しでも近づけると、健康的なのではないか、と思っています。(そうなると僕も、「老後は印税生活でゆったりと…」というバラ色の計画は捨てねばなりませんね。残念です。でも、それが正しいと思います。)
さらに、これに対してこれまた売れっ子著者の内田樹さんが「ウチダバブルの崩壊」とブログで書き、確かに流されて出版ラッシュになっていたことを反省して、これからは企画を厳選して、じっくり質の高い本を書きたい旨を述べられると、当の名指しされた茂木さんや勝間さんも自身のブログで、「それぞれの本はいただいたチャンスを最大限に活かして、全力で書いている。(なので、バブルをねらったものではない。)」という反論をされていました。
このような話し合いが今までに無かったこと自体がまずは気持ち悪いと思います。なので、積極的に意見を表明したおのおのの方の態度自体をまずはすばらしいとは思うのですが、それをふまえた上で僕はやはり茂木さんや勝間さんのような立場はとてもナイーブなものであるように思います。
いわゆる「出版不況」と呼ばれる中、出版社にとって一番リスクが低いのは「この人の本なら売れる!」という企画を立ち上げることであるわけです。そのような状況が新たな書き手を発掘するというリスクをとるよりも半ばテレビタレント化して知名度の高く、かつそれなりにヒットした本の書き手である「知識人」に出版企画が殺到する理由になっています。そのような背景を深く考えずに、「せっかくチャンスをいただけるわけだから。」と(自分が自信を持って書けない分野に関しても)さまざまなことについて書く、というのは、すなわち「自説の必要性が社会の中で高まっているから」出版機会が増えていることを利用しているのではなく、「新たな書き手を探すというリスクをとりたくないために」出版機会が増えることを利用していることになってしまいます。いやしくも、出版業界の未来やまだ見ぬ良い本を世の中に生み出したい、というこの出版文化自体への思いが少しでもあれば、そのようなナイーブな仕事の引き受け方自体がどのような悪影響を生み出しうるか(新しい書き手の発掘・育成に資源がまわらなくなること)について考えていないのは、あまりにも考えが足りないと思います。その点では、僕は内田樹さんの立場の方がはるかに思慮深いように思えます。
しかし、まあ、このようなバブルは「池上」「勝間」「茂木」の前にも「養老(孟司さん)バブル」とか「齋藤(孝さん)バブル」などとあったわけです。だから昨今の「出版不況」のせいだけではなく、やはり二匹目のドジョウを狙う気持ちというのは、著者の側にも出版社の側にもどのような状況であっても強く働くのでしょう。しかし、出版業界がどのような状況にあろうと、著者の側で常に考えねばならないことがあると僕は思います。それは自らの不勉強さ、不完全さについてです。もちろん、自らが不勉強であることや不完全であることを口実にして、社会に対して担うべき責任を担おうとしないのであれば、やはりそれは問題です。その意味では、その当時のあるいは歴史を通じての人類最高の知性であっても、全てを見渡す事が出来ない以上は不勉強であり不完全であるわけですから、「自分は不勉強であり不完全であるから著作を書かない」という逃げ口上を言っていてはならないわけです。しかし、このように多作な方々がどうなのかはわかりませんが、僕などは勉強をすればするほどに、自分が不勉強であることを思い知らされます。もちろん、こうした方々もたくさんの本を読んでいらっしゃるのは確かでしょうが、そもそも、そのような意味で勉強をしておられるのかどうか、きわめて疑問であると思ってしまいます。なぜなら、自らが一番他者に伝えたいと思うテーマこそが、本当に正しいかどうか分からない、という姿勢をどこかで失ってしまっているように思えるからです。「勉強」というのは、自分の伝えたいことをどのように伝えるかという手段や道具を獲得するために行われるのでは、やはり、底が浅くなってしまうのです。自分の一番伝えたいことそのものが、本当に正しいのか、それとも間違っているのか、それを絶えず検証し続ける姿勢を失ってしまえば、どのような勉強も既に決定した結論への「証拠固め」となってしまいます。自分が一番伝えたいテーマ自体がそもそも正しいのか間違っているのかへの吟味のない勉強、というのは、たとえれば、検察官の思い描くストーリーになるように無理矢理証拠固めをしていくような努力であるのだと思います。そのような捜査が恐ろしい冤罪を生みかけていたのは、この前の厚生労働省の村木元局長に対する凜の会事件でも明らかになりましたが、あのような検察の態度を自分の身を省みた上で批判できるだけの言論人が、日本に一体何人いるのかを、僕は知りたいと思っています。
ただ、率直に言えば、僕の本心は別の所にあります。もちろん、より多様な書き手に開かれた出版文化、というものにこの苦しい状況の中でも少しでも近づけてほしいと僕は思いますし、そのこととの関係をふまえて、言論人の方々には自分の立ち振る舞いを再考していただきたいと思っています。しかし、僕の中でもっと率直な意見としてあるのは、人はそんなに簡単に本を読んだだけでは変わらない、ということを本の書き手も、読み手も自覚しておくことが大切であるということです。
本を買う人は、この自分の(それは社会からの圧迫も個人の内面も)閉塞した状況の打開策のヒントが、毎月出版されるなにがしかの本の中に少しでもあると思うことをやめた方がいい。本の書き手も、そのようなヒントを毎月刊行される自分の本によって少しでも伝えられると考えることをやめた方がいい。誰かが自らの閉塞した状況をどのように打開してきたか、を本に書いても、それは読み手のほとんどにとっては感動の対象にはなるものの、決してヒントにはならない。逆に書き手がどんなに人類の命運は自分の文章にある、という悲壮感をもって書いたとしても、そのような決意で生きている人間自体が少ない以上、その内容が伝わるわけがない。その身も蓋もない冷酷な事実をまず直視し、おのおのがそれぞれの問題に対して真剣に悩むことをまずやっていかねばならないのだと思います。茂木さんや勝間さんは、他の人にヒントをあげている場合ではない。自分がまさに今、(出版不況に伴う彼らへの依存という)閉塞した状況に追い込まれているわけですから。多くの人が本を読むのは、「本の中に何らかのヒントがある」ことを期待しての行動です。しかし、僕はこの「本を読めばヒントがもらえる」「本を書けばヒントが与えられる」という希望への過剰な期待(幻想とでもいえるでしょうか。)が、かえって、人々の本に対する姿勢をきわめて不健康なものにしているように思えてなりません。
自分の抱える問題が、そのように毎月出る、書店で何千円かで買える本によって少しでも前進する程度のものであるのだとしたら、それは問題に取り組む自分の努力が、圧倒的に足りないのです。今出ている本など、100年後という短いスパンですら、一体何%が(国会図書館以外に)残っていると言えるのでしょうか。そのような本によって、ヒントがたやすく買えるのなら、その程度の努力しかできていない自分を恥じて、懸命に問題そのものを悩んだ方がよいのではないでしょうか。あまりにも「自分自身が考え抜く」、という姿勢をおろそかにしては本に頼る人が増えているために出版界が盛り上がるのであれば、それ自体もまた、生産的ではない「バブル」であると思います。そのような本の買い方自体に僕は異議を唱えたいです。
もちろん、この「『本を読むこと(書くこと)』によっては問題は解決し得ない」というのは、古典(岩波文庫など)に関しては少しだけ別なわけです。古典は何百年もの吟味を経て、今僕たちの手に残っているという意味では、確かに価値のあるものばかりであると思います。それを「読んでも価値がない」とは断じません。しかし、古典を読むこと自体を問題への取り組みであると勘違いしてしまっては困ります。むしろ自分が日々直面する問題に徹底的に取り組んでいなければ、私たちに古典の価値などわかるわけがありません。オーギュスト・ロダンは「厳しく自己を鍛えた人間でなければ、美術館を見るな。」と言いましたが、これは単に「見ても、わかるわけがないから。」であるのです。それは古典と言われる価値のある本についてもまた、同じように言えることです。
様々な出版バブルに対して、僕が思うのは、「もう、他の人の考えに答を求めるのはやめて、自分の目で観察して、自分の頭で考えませんか。」という提案です。誰の本が何万部売れたかは知りませんが、そんなのを買って読んでいる暇があるなら、自分で悩みましょうよ。といいたいものです。悩めば悩むほどに、古典と呼ばれる本の価値も、現代的意義も、わかるようになるでしょう。そして、書き手は、自分の本がそのような古典に100年後になれるかどうかを、自分の著作としての最低ラインとして(自分のチェックは甘いものですから)検証した上で、勉強し続けては、それだけの質のものを書いていこうと努力していくのがよいのではないでしょうか。そうしたら、バカ売れは減るでしょうし、そもそも「今、話題の本!」という売り文句自体に反応しなくなる人が増えるでしょう。おのおのの取り組む問題に、効果的な「共通の薬」があるわけがないことがよくわかるはずでしょうから。そのような社会に少しでも近づけると、健康的なのではないか、と思っています。(そうなると僕も、「老後は印税生活でゆったりと…」というバラ色の計画は捨てねばなりませんね。残念です。でも、それが正しいと思います。)
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