嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

相談について。

お久しぶりで、申し訳ありません。相も変わらず、ばたばたと忙しく過ごしております。

昨日、塾に相談にきてくれた方に(遠いところをお越しいただいてばかりですみません。)、「先生は誰かに相談しないんですか。」と聞かれました。確かに、僕は受験生相手に限らず、他の人の相談に乗るばかりで、自分の抱えている課題を誰かに相談する、ということが全くありません。それは何も、他の人には自分以上の知恵はだせるわけがない、と見下している訳ではありません。たとえば、僕よりも遙かに優れている部分、あるいは全体を持つ、と心の底から認めているような幾人かの友人や先生に対しても、僕は相談というものをしません。

なぜ、そのようであるのかを、その方が帰られた後も振り返り続けていたのですが、結論としては、「自分がその課題に取り組むことをだれにもじゃまされたくない」という思いが僕にはあるようです。ただ、「じゃま」という言葉には語弊があります。助言を受けることで、明らかに自分には到達できない高みにたどり着くことも出来るからです。しかし、そのような高みにいけたとしても、僕にはそのような到達を「もったいない」と感じる精神構造があるようです。自分の抱える課題に苦しむことは、僕にとっては明らかに、人生そのものであり、あえて言いかえれば、「喜び」であるのでしょう。そこを他の人に相談するのは、他の人に自分の人生を生きられてしまう、そのような感覚があるように思います。解決し得ない課題に直面し、取り組んで、苦しむ。そのこと以上に、生きていると感じられる瞬間があるでしょうか。(勝手ながら、僕はベートーベンの第九交響曲(通称「歓喜の歌」)にもそのようなものを感じます。あの曲は、一人の叫びがやがて人類全体へと響いていく、という朗らかな理想に先だつ独唱のパートが、僕には「この僕の苦しみを、僕は『喜び』と定義したい!」と聞こえてきます。それは与えられた意味の中で置換をすることで現実から目を背ける、マゾヒスティックな倒錯ではなく、むしろ与えられた意味を抜け出ていき、新たな定義をしていくことで現実と再び別の角度から向き合おうとする態度であると思うのです。)

もちろん、このように書くのは、僕のあり方が唯一正しいなどと主張するつもりでは毛頭ありません。それどころか、このようなやり方はやはり自分が気付き得なかった部分を指摘されることに対して、どうしても反応が遅れます。その意味では、欠陥を抱えていることは間違いがないといえるでしょう。しかし、僕はどうもこのやり方でなければ、とたんに力も意欲も失ってしまうようです。ですから、このような自分から始めて、足りないものに対しては耳を澄ましていく、という意識的な努力はしていくものの、そもそもその根本的なやり方自体を変えようとすることはかえって効率が悪いと思っています。

同様に、全く別のタイプの人もいるでしょう。繰り返しになりますが、それはどちらのタイプが優れている、というものではなく、お互いにかけがえがないタイプであるのだと思います。しかし、一番の悲劇はそのように一人一人の根本的な傾向というものに対する理解を深めようという努力はほとんどなされないままに、ある一定の「理想型」へと向かって、その人格をむりやり落とし込んでいこうとしてしまうことを「教育」と呼んでしまっている事実があまりにも多い、ということであるのです。そのような失敗を、学校や塾、予備校の教師も、また親もしてしまいがちです。人間というのはどうしても自分の成功体験を勝手に一般化しては、そこに誰にとってもあてはまる真理があるように錯覚しておきたい動物ですから、このような悲劇は枚挙のいとまがなく、今この瞬間も起き続けています。

このような悲劇を避けるためには、まずは大人も子供も、自分自身をしっかりと見つめることが大切です。そして、自分はどのような長所を持ち、どのような短所をもつのか、という功利的な側面での観察から始めて、自分自身の特徴の根っこを一歩一歩理解しようとしていかねばなりません。しかし、現代人は、あまりにも自分を観察する暇が少なすぎるようです。自分自身の教育を、学校や塾や親などに頼らずに、まずは自分でやっていくつもりが
ないと「さぼっているよりはこの型にはまれ!」と言われてしまいます。また、大人になってからは、忠告してくれる貴重な人間関係が周りになければないほどに、自分自身を絶えず見つめ、自分で反省を加えて行かざるを得ません。そのように絶えず自己を観察し、根本的な傾向をのびゆかせながら、反省を加えては修正を重ねていくという努力こそが、老若男女を問わず、大切であると考えています。

「相談」というテーマに戻れば、結局僕の結論としては、自分自身を理解し、反省を加えていくプロセスの中で、他人への相談が必要であるならばすればいいし、そもそもそんなに必要性を感じなければしなければよいと思います。しかし、それがどれくらい必要かはそれこそ人によって全く違うでしょうから、それを現実に対する自分の挫折の度合いから、謙虚に反省していければよいのではないでしょうか。ここでいう、「謙虚に」とは心構えの問題ではなく、「事実に対して謙虚に」ということであり、自分がそもそも反省を自分自身に対して十分に加えておらず、それで事実として明らかに失敗をしているのに、それでも自分をいいくるめてしまうということがないようにしていかねばならないということです。

と、書いてはみたのですが、そもそも、自分自身に対して反省を加えなくなればなるほどに、事実をありのままに見ることは難しくなります。「自分自身を変えねばならないなら、事実認識を(無意識のうちに)ねじ曲げる(見たい事実だけを見て、見たくない事実は見ない)」などということはよくあるようです。そのようになればなるほどに、自分が掲げる「理想型」とのギャップばかりが気になり、その「理想型」が本当に正しいかどうかのチェックも出来なくなります。そのような段階に陥っている人々に、何ができるのか。それは僕自身も、塾としても、まだまだ良い手段を講じ得ていない難題だと日々痛感しております。
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