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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「自学自習」とはどこから来て、どこへと行くのか。

お久しぶりです。まともにブログを書くのは約3ヶ月ぶり!ということでリハビリがてら、教育のことでも書いていきたいと思います。

さて、嚮心塾は「子どもたちが自学自習ができるように!それは受験勉強が終わったあとも一生使える武器になるはず。なぜなら、勉強というのは誰かに習うことができる期間よりも、一人で勉強しなければならない期間の方が(勉強をサボるような大人にならなければ)遥かに長いから!!!」というコンセプトの塾です。この理念だけ聞けば、否定される親御さんや教育者の方、というのはあまりいないように思うくらい、「美しい」コンセプトです。

しかし、実際にはそんなことよりも「そんな綺麗事言ってないで、眼の前のテストの成績を上げることが最優先だ!自発性とかどうでもいいから徹底的に教えこんででも成績を上げてほしい!」というニーズが圧倒的に多いのもまた事実です。もちろんここには、「教師から受動的に教え込まれているだけで、生徒が勉強ができるようになるのか」という大きな問題があるので、このようなニーズというのは根本的には目的を決して実現できないアプローチを要求している、という点で本質的には間違っているとは思っています(局所的・一時的にはそれが必要な場合もあるとは思いますが)。その点では「自学自習ができるようになっていく」というのは実は綺麗事でも何でもなく、むしろ難関校を目指せば目指すほどに、必要不可欠なことであるのです。その事実への誤解はとても多いな、と思っています。

さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。なるほど自学自習ができるようになることが勉強ができて受験勉強を乗り越えられるようになるためには必要不可欠であることは一旦認めたとして、さて知りたいのは、どうやったら自学自習ができるようになるのか、ですよね。このことについて、おそらく間違いがないと最近僕が確信していることがあります。それは「自学自習」の方法論を身に着けてもらうためには、徹底的に最初に教え込まなければならないということです。

このことは、一見矛盾するように見える言明であるからこそ、少し理解しにくいかもしれません。また、「自学自習の大切さ」を主張する教育関係者も、あまりこのことを明確には伝えきれていないように感じています(管見にして僕が知らないだけかもしれませんが)。しかし、自学自習の仕方を生徒のうちに鍛えていくことを、(ここまでの18年間)徹底的に試行錯誤してもがいてきた僕自身の経験からは、この「自学自習ができるようになるためには、最初に徹底的に(様々な分岐ルートまで)教え込まなければならない」という言葉はかなり核心を衝いた言明ではないかな、と思っています。

たとえば各教科の内容に対して手触りを感じさせながら、既知の概念と結びつけては深く理解してもらえるような素晴らしい講義をリアルタイムでは受けない、という前提で自学自習は行われます。教科書や参考書として使う教材はそのような講義に少しでも近いようなわかりやすいもの、本質的なもの(そしてこの両者はトレードオフであることも多いです)を選ぶことは当然だとしても、それを一読してすべて理解できるわけがありません(もちろん素晴らしい講義も同様に、一聴してすべてが理解できる講義などは存在しませんが)。だとすると、書かれているものを理解し、定着させ、使いこなしていくために自分がわからない箇所の「壁」を乗り越えるあめの具体的なやり方をまずは教えこんでいく必要があります。その感じがつかめるように、普段塾でやっている最初に「教え込む」内容をちょっと具体的に書き出してみましょう!(企業秘密を公開!)

①読んだり聞いたりして理解できないときにどうするか。
→まず繰り返し読む習慣をつける。一度読んでわからなければ二度、三度と読む。一読しての理解力は人間同士そんなに変わらない。わからないときに繰り返し読む習慣があるかどうかが、勉強が得意な子と不得意な子で大きく差がある。

→それでもわからないときは、わからない言葉をピックアップして、その意味を調べる(←調べるための教材としてどの勉強にはどれを使うべきかの指示が必要)
→理解したあとはその言葉の意味を覚える(←覚えるための手段は何がよいか?わからない言葉が多すぎるときにそれをノートでまとめるのは有効か?その数が減ってきたらどうか?)

→言葉の意味が全てわかっても難しければ図やグラフを書いてみる(図の大きさはどれくらい?そもそも図を書くのは何が目的?問題文に図やグラフが書いてあるときだけでなく、問題文に図やグラフが書いていないときでも自発的に図が描けているか?)

→ここまでで、今勉強している範囲の前に、そもそも自分が既習分野の中で大きくわかっていない分野を見つけたときにどうするか。(そこに遡って復習すべきか?それとも今勉強している範囲を終わらせてから復習に入る?そもそも目の前の分野がわかりにくい理由がどの既習分野の理解度が低いせいなのかが、よくわからないときどうするか?)

②「書いてあることは理解できた」という自己認識が生まれたあとにどうするか?
→それを自分で何も見ずに再現できるか?
→要約して説明することができるか?(要約の度合いは?どこまで端的に言えるか?)
→練習問題を解いたときに、それが教科書の何を使っているのか分類できるか?

③「覚えている」とは何か?
→すぐに言えることorすぐに言えなくても自力で導き出せること(どのような知識は即答できなければならないか?どのような知識は導き出せればよいか?その区別をどうやって判断していくか?)


などなどです。かなり読みにくくてすみません。「おーし。企業秘密とか言わずに全部書いちゃうぞ!!」というつもりだったのですが、マジでこんなの全部書いてたらキリがありません。。(途中から雑になりました。。)

大別すれば、
Aとりあえずの方法論
Bうまくいかないときの方法論
C優先順位の付け方
D自力/他力の弁別

などには分類できるのでしょうか。こうした方法論を、様々なテストや教科指導の中で折に触れて繰り返し繰り返し話しながら、定着させていきます。(ちなみに特に大切なのは、Bです。うまくいかないときに、勉強の得意な子は自分でその解決法を見つけられるわけですが、苦手な子は「うまくいかないとき」というのは、「自分に努力できることはこれ以上ない!」と思いがちです。だからこそ、Bを徹底的に教えこんでいく必要があります。)

さて、このような方法論を自学自習の指導とすると、これって教科指導より教える内容が少ないといえるのでしょうか?僕の体感では、最初に(方法論を)教えることにかかる時間が、おそらく教科指導だけの実に10倍!!!!くらいはかかるように感じています。教える側としてはすごく面倒くさいです。内容だけ教えていたい、という誘惑についつい駆られてしまいます。。

ただ、このように方法論を徹底的に教えこんでいくと、だんだんと生徒たちがそれを自分で使えるようになってきます。そして自分で解決できることをどんどん増やしていきつつ、それでも判断に迷うときに相談していくことに繋がっていきます。そうすると、僕の仕事量も減って、生徒も実力がついて、お互いハッピー!!になれるわけです!!(まあ、実際には勉強の仕方が身に付いて実力が付けばつくほど、今度は時間を測って入試問題を解いた上での戦略会議になっていくので、僕の仕事は減るわけではないのですが。。)

逆に言えば、勉強ができる子たちが当たり前のようにやっている勉強方法をこのように徹底的に言語化し、ルーチン化し、それを方法論として身につけていってもらう、ということの先に「この参考書を何周やりました!」という行為が意味をもってきます。その点で、自学自習とは、まず最初に徹底的に方法論を教え込み、叩き込まねばならないものです。その一見矛盾するようなやり方にしか、おそらく正解はないのかな、と思っています。

こう書くと、「じゃあ一般的な方法論だけマニュアル作ってそれを徹底して身に付けさせれば教科指導なんかいらないじゃん!」と思われるかもしれません。ただ、これについては僕は否定的です。一般的な勉強の方法論のマニュアルを作るだけで、それを各教科に応用できる子、というのは率直に言ってかなり勉強への適性が高い子(東大や医学部に合格できるベルよりもはるかに上)だからです。

もちろん受験科目を満遍なくただ漫然と勉強して各教科の目の前の勉強に追われるよりは、たとえば英語と数学に絞ってそれを身につけるための方法を徹底していくことが大切だとは考えています。なぜなら、英語や数学で学んだ自学自習の方法は、科目による細かい差異はあるにせよ、他の科目の自学自習方法も洗練していくからです。一方で、教科指導を本当にゼロにしてしまって、最初に自学自習マニュアルをただ配るだけではその定着がかなり難しいのは、人間はその必要性や有効性、すなわち意味を感じなければ、それをしっかりと学ぼうとは思えないからであるとともに、具体的なことの積み重ねを通じて抽象的なことに気づいていく、というのが自然な認識の歩みであるからかな、と考えています。一つも教科指導を行わずに語られる方法論に普遍性を感じてそれを演繹しよう!と思えるのは、めちゃくちゃに抽象能力の高い(元々勉強にかなり向いている)子だけだと思います。

だからこそ、具体的な教科指導の中から泥臭く帰納的に抽出された方法論の方が、一人一人の生徒には根強く残るのではないか、という仮説を今のところは立てています。昨今は「全教科の勉強方法をコーチング!」という塾や予備校が最近は濫造されてしまっていて、嚮心塾もその同類のようにしか見えない(一応草分けだとは思うのですが…。)とは思うのですが、実は先に挙げたような生徒の勉強の方法論にまで影響を与えるような深い教科指導の方が、その生徒の勉強の定義や方法をガラリと改善する可能性はむしろ高いのかな、と思っています。(「高度に発達した教科指導は、もはやアクティブラーニングと見分けがつかない」ですね!!)



ところで、日本の学校でどこでも行われるようになった「探究学習」は、いったいどこまでその方法論を最初に徹底的に生徒たちに教えこんでいると言えるのでしょうか?これも僕の管見する限りでは、「やり方・調べ方は今回の授業で説明したぞー。じゃあやってきてねー。」という例ばかりのように見えてしまいます。実際には、指示された通りにやってみたものの躓いた生徒に対し、そこで生徒一人一人がどのプロセスでどのように躓くかをしっかりと観察し、それに対して問題解決の次の手段を提示していく、ということが必要不可欠です。探究とは失敗を乗り越えて自力で進む上での試行錯誤を意味する以上、失敗したときにどのような手段を取りうるかを徹底的に教えこんで初めて、子どもたちはそれを武器に自力で取り組むことができるようになるのだと思います。自学自習を「探究」と言い換えるのなら、探究をそんなに簡単に自分で始められるのなら、そもそも学校や塾なんか来ないですよね。我々自身が中高生のときだって、どんなに自分の優秀さに自信があった方でも、たとえば自学自習の方法を自分ですべて作り上げて合格しました!なんて受験生は殆どいません。みんな塾とか予備校とか学校とかの力を借りてようやく合格しているわけです。

そんな非力で愚かな我々大人が「探究」を子どもたちに押し付けて、ふわふわしたことをさせている暇があるのなら、自立して探究していくための方法論の見つけ方を徹底的に子どもたちに教え込んで、彼らの武器を増やしていく必要があると思っています。もちろん、僕が上に書いたような「教え込み」もまた不完全な内容、誤りを含む内容であり、それを教え込まれた子どもたちがさらに改善し、より改良しては「先生のやり方じゃ、こんなとこに不備があるのでは?」などと終わりなき探究を続けていってほしいものです。しかし、探究に終わりはなくとも、正しい始まりはある。そのことを我々大人たちは、全く伝えられていないのでは、ととても危惧しています。
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