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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

かつやのチキンカツ。

かつやといえば、常識にとらわれない攻めたメニューを出すことで有名です。最近はこの「とんこつチキンカツ丼」が少し話題になっています。https://www.ssnp.co.jp/foodservice/515032/
こんなの興味本位以外の動機で誰が食べるの?と思ってしまうかもしれませんが、これでそこそこ成立しています。なぜかなら、チキンカツが入っているからです。かつやのチキンカツはとてもおいしいのです。どんなに攻めたメニューで、全体としては「これアリなの?」と疑問に思ったとしても、チキンカツが入っているだけで、食べた後は「まあ、チキンカツがおいしかったし、よいかな。」となります。

言い換えれば、かつやの攻めた商品開発は、チキンカツという絶対的エースがあるからこそなせる技です。これは同時に、攻めているようで守っている。あるいは根幹では守りながら、枝葉で攻めている、とも言えるのかもしれません。リスクヘッジとしては正しいものの、これが「攻めている」としか評価されないとしたら、商品開発の方向性としては少々閉塞感があるのかもしれません。チキンカツが必要条件になった商品開発は、果たして「開発」と言えるのか、という問題ですね。


さて話は変わりますが、先日、生徒の英単語テストをしていたときのことです。その生徒はだいぶ勉強が進んでいて、いまや派生語を見出し語から出せるように、という練習にまで進んでいました(嚮心塾では英単語を派生語まで一気に大量に覚えるのではなく、まず見出し語を徹底して、記憶の「幹」をしっかりと作った上で、「その見出し語がかなり定着してきた」とこちらで判断できたら、その見出し語に対して派生語を品詞とともに引き出せるように練習をしていきます)。

その状況で派生語のテストをしたところ、それができないだけではなく、「見出し語○○の形容詞だよ!」とヒントをあげたときに、その○○自体の意味にも反応が鈍かったので、テストを止めて質問(詰問?)タイムに入りました。

僕「ここまでの単語学習の流れは、見出し語を覚えて、そこから派生語を引き出す練習だよね。」
生徒「はい。」
僕「その派生語を覚えるときに見出し語自体があやしかったらどうする?」
生徒「見出し語も覚え直すべきです。」
僕「では、なぜそれをしてないのかな?」
生徒「今は派生語のテストだから…それを覚えていればよいかと思って。」
僕「しかし、ここまでの学習の流れを考えれば、派生語だけを(そこをテストされるからといって)覚えることが記憶を定着させていくためには無意味だとはわかるよね。」
生徒「はい。」
僕「そういう姿勢が『考えないで勉強する』ということではないかな。それは東大を受ける上では(この子は東大志望です)、やはり通用しないのかな、と。そして、そのレベルの受験生になってくると、こういうとき、必ず「そもそも見出し語忘れてたら意味ないじゃん!」って自分で復習するんだよ。それが「やらされている勉強」と「自分で考える勉強」との違いなんだよ。そして、こうしたattitudeの違いを、君らは「地頭の差」って言って誤魔化してしまうわけだけれども、それは端的に自分で考えているか考えていないかの違いでしかないし、その考えるための方法や材料を言語化して伝えているのだから、それを踏まえて一つ一つ必死に自分で悩まないと、東大のレベルでは通用しないよ。」

というやりとりをしました(雰囲気は和やかに話したのですが、文字に起こすと、詰問調ですね。。反省です。)。この生徒はとても頑張って勉強はしているものの、自発的に考える、ということがとにかく苦手で、自発的に考えるとはどういうことか、ということをこうした機会をとらえてしっかりと伝えていかねばなりません。そうしなければ、こちらが考え抜いて方法論や作戦を提案したとしても、結局は僕の言う通りに勉強しているだけになってしまうからです。医師に患者の身体の様子が全てわかるわけではないのと同様に、教師に生徒の勉強の細かい具合まで全て把握することは不可能です。だからこそ、このような「不調」に対して、どのように対応すべきかのattitudeを、概論としての方法論においても、個別の失敗についても徹底的に鍛えていかねばならないわけです。そこがしっかりと鍛えていけると受験生が自分で自分の勉強を分析して必要な手立てを講じることができるようになってきます。そして、そこまでできるようにしていかないと、高いレベルではやはり合格し得ない、というのが実感です。

もちろん、何も指示を聞いてくれない、あるいは「分厚い青チャートを周回しなさい」「UpgradeやNEXTAGEを周回しなさい」みたいなアホな指示に従ってしまうよりは、僕の指示に従ってくれたほうが勉強の効率もよくなりますし、実力も上がるでしょう。しかし、東大・京大・医学部レベルになってくると、それだけではやはり合格するのは難しいと思っています。こちらがそのように提示した方法論についても「なぜそれが良いのか」「そのような方法論が良いとしたら、もっとこうしたらさらに改善することになるのではないか」のように考えていく習慣をつけていかなければ合格できません。

逆に言えば、中学受験や高校受験で必死に勉強してきてそれなりの成果をあげてきた子達というのは、そうした習慣が当然身についています。だから、高2や高3くらいまで勉強をサボっていても、そこから頑張っても何とかなります。それをつい「地頭の差」という言葉でわかった気になりがちではあるのですが(そしてそれは当然ありますが)、こうした思考習慣や学習習慣の徹底、ということである程度差を詰められるものだともこちらでは思っています。

しかし、これを身につけていってもらえるように徹底していくことは本当に大変です。英語に限らず、数学でも等式変形の「=」一つ一つについてなぜそれが言えるのかを考える習慣がつけば、定理や公式を自分の言葉で説明したり、より少ない定理から他のことが言えないかを考える習慣がつけば、そしてどんな難しい問題を解いていても自分の中であやふやなことは必ず教科書に立ち戻る習慣をつけていければ、抽象的でわからないときに具体例で調べたり書き出していく習慣をつければ、そして何より図やグラフを理解するために描く習慣をつければ、そこから先は勉強したことが全て身についていきます。しかし、そうした努力を怠っては、「大量の問題をとにかく解く」という「努力」に甘んじていれば、いずれできるようになるだろう、という甘い考えをもってしまいがちであるのです。(また、その中高生の誤った考えを助長するような物量主義が教育現場にはびこっていることも中高生には本当にかわいそうなことです。。)

つまり、人間は「(自分で考えないで他人に言われたことをする)努力をすることで、(考える)努力をしないようにできる」わけです。そのように「努力」することの結果として、一般受験は残酷な結果を出して見事に機能します。そのような思考停止のための甘美な「努力」は、かつやの美味しすぎるチキンカツと同じく、必要な挑戦をむしろ阻害するものになってしまっているのかもしれません。

そしてそれはどのような「勉強法」や「指導法」によっても決して防げるものではないのかな、とも思っています。先に挙げた派生語のみ覚えようとしていた子のように、考えないで勉強している方が楽である以上、どのように作り込まれたプログラムや教授法であったとしても、やはり考えることをサボれる契機というのは生徒の側でいくらでも作ることができてしまいます。そうした一つ一つの具体的な失敗を、丹念に指摘し続ける努力、ということを教える側がやっていかなければ、やはり固着したattitudeの部分を動かすことは難しいと思っています。

それはひどく泥臭く、とても根気のいる作業です。「この流れでこれを勉強しておいて、何故ここをサボる!?」と悶絶したくなる毎日です。しかし、それを丹念に伝えていけるように、こちらも地道に泥臭くまたあれこれ考えていきたいと思います。
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