
皆さん、お久しぶりです。久しぶりと言えば、今日の東京は久しぶりに雨が降りました。ところで、僕は天気予報での、「今日はあいにくの雨です。」とか「週末はお天気が崩れます(雨が降ります)」という言い方が大嫌いです。あの言い方は、雨をバカにすることを通じて都市に住む人間の思い上がりを示していると思います。これだけ科学が発達しただのなんだのいばってみても、ちょっと雨が降らなければすぐに生活に使う水がなくなってしまうのが、我々人間の文化の脆弱さであるのに、さらには雨が降らなければそもそも農業自体もなりたちえないのに、「雨を嫌がる」気持ちと、それに迎合する天気予報とに対して、表面に浮かぶ感情だけでの言説を繰り返している気がしてならないのです。
もちろん、僕だって、生活の中で雨が降ると面倒くさいことは多々あります。洗濯物は部屋干しか乾燥機にしなければならないし、娘のお迎えだって自転車が使いにくいです。しかし、それは僕の都合であり、結局はあまり大切なことではなく、様々な支障は生じるものの、決して生きていくのに根本的な障害となるものではありません。しかし、雨が降らずに飲み水がなくなる、あるいは農業がやっていけなくなる、というのは、めぐりめぐって僕が生きていくのに根本的な障害となるものです。
このように考えればわかるものの、それがなぜテレビ画面の中では「あいにくの雨」「お天気が崩れる」という言い方になるのか。それはやはり、1000万人の都民の不快は、少数の人々にとって生存にかかわるかもしれないものよりも、優先されやすい仕組みができあがってしまっているのだと思います。たとえば一人の人にとっての生死の問題が1000のインパクトをもつ(仮に生死の問題を一人の抱えるインパクトの上限と想定しています。)として、おそらく「ある一日に雨が降って不快だ・いろいろ困る」というのは、冷静に考えればその1000分の一以下でしょう。仮にそれを大きめに1と見なすと、前述の予報士のコメントになるのは、「1000万人が感じる1の不快は、総計1000万になり、大きなインパクトをもつので、それに沿ったコメントをすべきだ」という圧力が何らかの形で働いているからであるのだと思います。もちろん、この計算で行くと、「1000万人にとっての1の不快」は「1万人の死」に等しくなってしまうわけで、単純な理論モデルの作り方としてもかなり雑ではあるのかもしれません。しかし、そのような計量的な考え方が(もちろん具体的にそのような手法をとらなくても)何らかの形で影響を及ぼしている結果として、あのような天気予報のコメントになっているのであれば、やはりそれは多数者の大して重要ではないリクエストに、少数者の重大なリクエストがどうしても負けざるを得ない、というちょっとぞっとするような社会構造があるのではないでしょうか。
ビジネスでもそういうことはあるようで、「十人から1万円を集めるビジネス」よりは、「千人から100円ずつ集めるビジネス」の方が、同じ10万円でも、1万円を出すことに対してはみんな慎重になりやすいものの、100円であればとりあえずやってみようか今後はより儲かりやすいわけです。グリーやモバゲーは、そのようにして今は破竹の勢いで儲かっていますね。そして、そのように拡大すればするほど、さらにテレビCMをたくさん流し、巨大な影響力を持っていきます。一人一人の人生にとって、グリーやモバゲーの占める重要度というのは、どんなにはまっている人でも、たいしたものではないでしょう。しかし、それを何百万人がやることで、社会の中ではその「ひとりひとりにとってたいしたものではないもの」こそが、もっとも巨大な権力として存在することになってしまいます。
「それが民主主義だ。」「それが市場経済だ。」と言い張るのは簡単なことであるとは思います。僕も別に社会主義がいいだの市場経済がだめだの言うつもりは全くないのですが、しかし、上に述べたような欠陥が少なくともこの私たちの社会にあることは自覚しておいた方がいいことには間違いがないのではないか、と思います。
学習塾というのは、グリーやモバゲーとは対極の商売です。一人あたりの単価が高く、何万人単位で指導することは出来ません。その意味では、時代に逆行する、やがては絶滅する商売であるのでしょう。しかし、僕は学習塾のグリーやモバゲー化を目指すのではなく、一人一人の人生全体を1000としたとき、そのうちの、500とは言いませんが、大部分を占めるような重大なリクエストに一つ一つ応えていきたいと考えています。そのような取り組みこそが、世の中をよくしていく、ということにつながるのではないか、と考えています。
もちろん、僕だって、生活の中で雨が降ると面倒くさいことは多々あります。洗濯物は部屋干しか乾燥機にしなければならないし、娘のお迎えだって自転車が使いにくいです。しかし、それは僕の都合であり、結局はあまり大切なことではなく、様々な支障は生じるものの、決して生きていくのに根本的な障害となるものではありません。しかし、雨が降らずに飲み水がなくなる、あるいは農業がやっていけなくなる、というのは、めぐりめぐって僕が生きていくのに根本的な障害となるものです。
このように考えればわかるものの、それがなぜテレビ画面の中では「あいにくの雨」「お天気が崩れる」という言い方になるのか。それはやはり、1000万人の都民の不快は、少数の人々にとって生存にかかわるかもしれないものよりも、優先されやすい仕組みができあがってしまっているのだと思います。たとえば一人の人にとっての生死の問題が1000のインパクトをもつ(仮に生死の問題を一人の抱えるインパクトの上限と想定しています。)として、おそらく「ある一日に雨が降って不快だ・いろいろ困る」というのは、冷静に考えればその1000分の一以下でしょう。仮にそれを大きめに1と見なすと、前述の予報士のコメントになるのは、「1000万人が感じる1の不快は、総計1000万になり、大きなインパクトをもつので、それに沿ったコメントをすべきだ」という圧力が何らかの形で働いているからであるのだと思います。もちろん、この計算で行くと、「1000万人にとっての1の不快」は「1万人の死」に等しくなってしまうわけで、単純な理論モデルの作り方としてもかなり雑ではあるのかもしれません。しかし、そのような計量的な考え方が(もちろん具体的にそのような手法をとらなくても)何らかの形で影響を及ぼしている結果として、あのような天気予報のコメントになっているのであれば、やはりそれは多数者の大して重要ではないリクエストに、少数者の重大なリクエストがどうしても負けざるを得ない、というちょっとぞっとするような社会構造があるのではないでしょうか。
ビジネスでもそういうことはあるようで、「十人から1万円を集めるビジネス」よりは、「千人から100円ずつ集めるビジネス」の方が、同じ10万円でも、1万円を出すことに対してはみんな慎重になりやすいものの、100円であればとりあえずやってみようか今後はより儲かりやすいわけです。グリーやモバゲーは、そのようにして今は破竹の勢いで儲かっていますね。そして、そのように拡大すればするほど、さらにテレビCMをたくさん流し、巨大な影響力を持っていきます。一人一人の人生にとって、グリーやモバゲーの占める重要度というのは、どんなにはまっている人でも、たいしたものではないでしょう。しかし、それを何百万人がやることで、社会の中ではその「ひとりひとりにとってたいしたものではないもの」こそが、もっとも巨大な権力として存在することになってしまいます。
「それが民主主義だ。」「それが市場経済だ。」と言い張るのは簡単なことであるとは思います。僕も別に社会主義がいいだの市場経済がだめだの言うつもりは全くないのですが、しかし、上に述べたような欠陥が少なくともこの私たちの社会にあることは自覚しておいた方がいいことには間違いがないのではないか、と思います。
学習塾というのは、グリーやモバゲーとは対極の商売です。一人あたりの単価が高く、何万人単位で指導することは出来ません。その意味では、時代に逆行する、やがては絶滅する商売であるのでしょう。しかし、僕は学習塾のグリーやモバゲー化を目指すのではなく、一人一人の人生全体を1000としたとき、そのうちの、500とは言いませんが、大部分を占めるような重大なリクエストに一つ一つ応えていきたいと考えています。そのような取り組みこそが、世の中をよくしていく、ということにつながるのではないか、と考えています。
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