
お久しぶりです。
朝から晩まで塾にいる機会もこの直前期は増えてくるので、またブログも更新していきたいと思います。
さて、最近の生徒たちを教えているととても感じるのはWhy?という問いを出せなくなってしまっている、ということです。これは「なぜ生きるのか」「なぜ勉強するのか」といった根本的な問いについて出せなくなってしまっているのはもちろんとして、勉強をしていく際でも「なぜこう考えるのか」と考えるのがとても苦手な傾向があると思います。だから、「どうやってこれを解くのか(how)」だけを求め、それに答えてもらって満足してしまう、という印象を受けます。いわんや「どうやって生きるのか」「どうやって勉強するのか」については、ですね。なぜ?という問いを発することが枝葉についてもradicalな部分においても、すっぽりと抜け落ちてしまっています。(名城大学の竹内英人先生はこれを「how型学習からwhy型学習への転換を!」とずっと提唱されています。)
しかし、子供というのは本来、大人が当たり前としてしまっているものにまでradicalなwhy?をどんどん出してくる生き物です。それはどんなに社会の趨勢が変わっていこうと、やはりあまり変化がないのではないでしょうか。だとすると、このWhy?を子どもたちが出せなくなってきてしまっているのは、「Why?を聞いても仕方がない。そもそもそんな暇はない。」と子どもたちが教育システムなり、周りの大人とのやりとりなりの中で諦めさせられている現状があるのかな、と思います。(もちろんこの間、問題提起している「大量の宿題」「難しすぎる宿題」はまさにその典型例かと。)
一方で、教師から生徒、親から子への「Why?」というのはほとんどの場合、ひどい暴力にしかなりません。「なぜこんなことしたの?(=こんなことするな)」「なぜ勉強しないの?(=勉強しろ)」「なぜ頑張らないの?(=頑張れ)」などなど。
子どもたちはそのように、大人からの「なぜ?」は叱責であることを熟知しています。だからこそ、「なぜ?」と問われたときには身を固くして自分の非を少しもバラさないように、自己防衛モードに入るしかなくなります。教える側としては、Why?が決して叱責の意味ではなく、考え方のプロセスを聞きたいという主旨であることを何度も説明しては、そのWhy?に子どもたちが答えることは子どもたちの不利益に繋がるのではなく、むしろ勉強がしっかりと理解できていくのだ、という大きな利益に繋がるのだ、という信頼関係を地道に築いていくしかありません。あるいは聞き方を工夫して「なぜ?」と問うのではなく、「どうやって考えたの?」と聞くことで糾弾調にならないように工夫されている先生もいらっしゃる、ということも聞きました。(このWhy?のもつ糾弾性を避けるためには、how?という言葉を使う、というのがhowのみで満ち溢れ、構成されたこの社会のありようを表していて興味深いですよね。この先生方の工夫は本当に素晴らしい!と思う反面、how?に対しての子供の警戒心のなさとWhy?に対しての異常なまでの警戒心は、この社会が、あるいはこの文明がhowのみで構成されてきて「発達」していて、how?はカジュアルに問われるのにwhy?は糾弾以外には使われない、という「Why?のない社会」である、という深刻な現実を表しているようにも思います。)
最初に書いた「子どもたちが本来発していたはずの「Why?」を奪われてしまっている」というのも、上意下達の教育しか受けてこない中で、子供の側からのWhy?は教師の権威を脅かすものとして、排除されていく、ということの積み重ねでそうなってしまっているのではないか、と思います。
もちろん全てのWhy?に教師が答えられなければいけないわけではないのです。また、答えられるはずもないのです(もちろん必死に努力して勉強はしなければなりませんが)。そもそも人間の科学や文明自体が、Why?を忘れた歪な発展の中で、how?だけが積み重なっている部分だけに目を向けてその高度さを誇っているものに過ぎないかもしれないからです。EBM(evidence based medicine)などといいますが、それは効果についてのevidenceをdouble blind testで調べているだけで、なぜそれが効くのかの作用機序などわからないものの方が多いわけです。ただ、大人たちにできることは子どもたちのradicalなwhy?に対して、決してごまかさないこと、わからないことはわからないと伝えること、そしてそのwhy?を何より勇気づけていくことだと思います。それは卑近なところではその子達の成長に繋がるでしょうし、遠くを見れば人類の新たな可能性を開くものでもあるはずです。
Why?を忘れたこの世界で、how?だけが積み重なっていくのが人間の文明だとしても、しかし、個々人の学習プロセスにおいてはやはりWhy?を積み重ねていかなければそれを理解して身につけることはできません。how?を積み重ねるだけでは、受験勉強のような大したレベルでなくても、決して合格できません。この事実を絶望ととるのか、希望ととるのかは立場によるのかもしれません。ただ、僕には「我々が何かを身につけるときにはWhy?を考えねばならない」という事実は、自身の身過ぎ世過ぎのための技術や知識を身につけるための手段として有用なだけでなく、それだけが人類にとって唯一の希望、自分たちのありさまを根本から疑い直すことのできる契機を生むかもしれない希望であると思っています。
もちろん枝葉についてのwhy?を積み重ねることが、より根本的な問いへのwhy?を問うこととは切断されてしまっているケースの方がむしろ多いことも事実です。(たとえば受験勉強の中でwhy?をしっかり積み重ねて東大や医学部に入った子も、その問いが「なぜ生きるのか?」までは決して向きません。)how?に有用な範囲に限定してwhy?を積み重ねることができてしまうのもまた、人間の賢さ/愚かさであるのでしょう。しかし、それでもwhy?をコツコツと積み重ねていくこと以外には、それを乗り越える可能性もまたないのかな、とも思っています。
そうしたwhy?という刃を鍛え、積み重ねていけるように、日々鍛えていきたいと思います。
朝から晩まで塾にいる機会もこの直前期は増えてくるので、またブログも更新していきたいと思います。
さて、最近の生徒たちを教えているととても感じるのはWhy?という問いを出せなくなってしまっている、ということです。これは「なぜ生きるのか」「なぜ勉強するのか」といった根本的な問いについて出せなくなってしまっているのはもちろんとして、勉強をしていく際でも「なぜこう考えるのか」と考えるのがとても苦手な傾向があると思います。だから、「どうやってこれを解くのか(how)」だけを求め、それに答えてもらって満足してしまう、という印象を受けます。いわんや「どうやって生きるのか」「どうやって勉強するのか」については、ですね。なぜ?という問いを発することが枝葉についてもradicalな部分においても、すっぽりと抜け落ちてしまっています。(名城大学の竹内英人先生はこれを「how型学習からwhy型学習への転換を!」とずっと提唱されています。)
しかし、子供というのは本来、大人が当たり前としてしまっているものにまでradicalなwhy?をどんどん出してくる生き物です。それはどんなに社会の趨勢が変わっていこうと、やはりあまり変化がないのではないでしょうか。だとすると、このWhy?を子どもたちが出せなくなってきてしまっているのは、「Why?を聞いても仕方がない。そもそもそんな暇はない。」と子どもたちが教育システムなり、周りの大人とのやりとりなりの中で諦めさせられている現状があるのかな、と思います。(もちろんこの間、問題提起している「大量の宿題」「難しすぎる宿題」はまさにその典型例かと。)
一方で、教師から生徒、親から子への「Why?」というのはほとんどの場合、ひどい暴力にしかなりません。「なぜこんなことしたの?(=こんなことするな)」「なぜ勉強しないの?(=勉強しろ)」「なぜ頑張らないの?(=頑張れ)」などなど。
子どもたちはそのように、大人からの「なぜ?」は叱責であることを熟知しています。だからこそ、「なぜ?」と問われたときには身を固くして自分の非を少しもバラさないように、自己防衛モードに入るしかなくなります。教える側としては、Why?が決して叱責の意味ではなく、考え方のプロセスを聞きたいという主旨であることを何度も説明しては、そのWhy?に子どもたちが答えることは子どもたちの不利益に繋がるのではなく、むしろ勉強がしっかりと理解できていくのだ、という大きな利益に繋がるのだ、という信頼関係を地道に築いていくしかありません。あるいは聞き方を工夫して「なぜ?」と問うのではなく、「どうやって考えたの?」と聞くことで糾弾調にならないように工夫されている先生もいらっしゃる、ということも聞きました。(このWhy?のもつ糾弾性を避けるためには、how?という言葉を使う、というのがhowのみで満ち溢れ、構成されたこの社会のありようを表していて興味深いですよね。この先生方の工夫は本当に素晴らしい!と思う反面、how?に対しての子供の警戒心のなさとWhy?に対しての異常なまでの警戒心は、この社会が、あるいはこの文明がhowのみで構成されてきて「発達」していて、how?はカジュアルに問われるのにwhy?は糾弾以外には使われない、という「Why?のない社会」である、という深刻な現実を表しているようにも思います。)
最初に書いた「子どもたちが本来発していたはずの「Why?」を奪われてしまっている」というのも、上意下達の教育しか受けてこない中で、子供の側からのWhy?は教師の権威を脅かすものとして、排除されていく、ということの積み重ねでそうなってしまっているのではないか、と思います。
もちろん全てのWhy?に教師が答えられなければいけないわけではないのです。また、答えられるはずもないのです(もちろん必死に努力して勉強はしなければなりませんが)。そもそも人間の科学や文明自体が、Why?を忘れた歪な発展の中で、how?だけが積み重なっている部分だけに目を向けてその高度さを誇っているものに過ぎないかもしれないからです。EBM(evidence based medicine)などといいますが、それは効果についてのevidenceをdouble blind testで調べているだけで、なぜそれが効くのかの作用機序などわからないものの方が多いわけです。ただ、大人たちにできることは子どもたちのradicalなwhy?に対して、決してごまかさないこと、わからないことはわからないと伝えること、そしてそのwhy?を何より勇気づけていくことだと思います。それは卑近なところではその子達の成長に繋がるでしょうし、遠くを見れば人類の新たな可能性を開くものでもあるはずです。
Why?を忘れたこの世界で、how?だけが積み重なっていくのが人間の文明だとしても、しかし、個々人の学習プロセスにおいてはやはりWhy?を積み重ねていかなければそれを理解して身につけることはできません。how?を積み重ねるだけでは、受験勉強のような大したレベルでなくても、決して合格できません。この事実を絶望ととるのか、希望ととるのかは立場によるのかもしれません。ただ、僕には「我々が何かを身につけるときにはWhy?を考えねばならない」という事実は、自身の身過ぎ世過ぎのための技術や知識を身につけるための手段として有用なだけでなく、それだけが人類にとって唯一の希望、自分たちのありさまを根本から疑い直すことのできる契機を生むかもしれない希望であると思っています。
もちろん枝葉についてのwhy?を積み重ねることが、より根本的な問いへのwhy?を問うこととは切断されてしまっているケースの方がむしろ多いことも事実です。(たとえば受験勉強の中でwhy?をしっかり積み重ねて東大や医学部に入った子も、その問いが「なぜ生きるのか?」までは決して向きません。)how?に有用な範囲に限定してwhy?を積み重ねることができてしまうのもまた、人間の賢さ/愚かさであるのでしょう。しかし、それでもwhy?をコツコツと積み重ねていくこと以外には、それを乗り越える可能性もまたないのかな、とも思っています。
そうしたwhy?という刃を鍛え、積み重ねていけるように、日々鍛えていきたいと思います。



