嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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第16号 歴史を学ぶ意味について

第16回 歴史を学ぶ意味について

先日、コンラート・ローレンツの『攻撃』を読み返していたら、このような記述に出会いました。「生物の行動様式についてはいわゆる反復説(注1)は成り立たない。各個体は様々な過程を経て生み出された行動様式を、生まれた瞬間から身につけている。」という記述です。この本でローレンツはハイイロガンを例に取り、ハイイロガンの友好的なあいさつが実は敵対的な威嚇から発達したにもかかわらず、生まれたばかりのガンのひなはもう既にその「あいさつ」の意味(友好的であること)を知っていて、卵からかえるとあいさつをする、という話でした。(注1:反復説とは「個体発生は系統発生を繰り返す」という学説で、「一個体の発生の初期にその種が下位の種から発生してくるときに通過したプロセスを必ず通過する」という考えで、ほ乳類、鳥類、は虫類などで胎児の初期の形状が似ていることなどがその例としてあげられます。まあ、この説が正しいかは確かめようがないものの、「上手いこといって結構当たってるね!」的な学説です。)

これがとても興味深い記述だと思った理由は、人間にも同じようなことがあてはまるのではないか、と思ったからです。いわゆる一般的な理解の仕方として、人間は長い年月をかけて蓄積してきた行動様式(すなわち「文化」ですね)を個体にとっての環境としての社会に蓄積し、それを個体の成長過程において教育を通じて学び取っていく、というイメージがあると思います。(ロックの言うような『白紙(タブラ・ラサ)』という状態はちょっと極端だとしても、このようなイメージは比較的共有されているのではないでしょうか。「何も知らない子供」とか「大人は人生経験を積んでいるから」などという常套句はよく聞きますね。)

しかし、僕は、ローレンツがハイイロガンについて教えてくれているように、人間の赤ちゃんもまた、「おぎゃあ!」と生まれた瞬間にはこの人間のいい面も悪い面も含めてのさまざまな発達の影響を受けているのではないかと思います。その意味では生まれたばかりの赤ちゃんもまた「現代人」であり、良いものであれ、悪いものであれ、様々な前提、人類のたどってきたこの歴史をふまえてしまっているように僕は思います。もちろん、ここで言っているのは、今の時代の赤ん坊が生まれたときから携帯電話やインターネットを使いこなせる、という荒唐無稽な話では決してありません。ただ、それらのものを利用している我々の間に生まれる赤子は、そもそもそのようなものがない時に生まれる赤子とは、どこかが決定的に違ってしまっているかもしれない、ということです。ちょうど、威嚇に近い行動を「あいさつ」と定義づけた後に生まれてくるハイイロガンのひなのように、です。

もちろん、これは失われた過去を美化して懐かしむためにこのようなことを言っているわけではありません。そのような変化には良いも悪いもなく、実際に起きてしまっていることです。威嚇をあいさつに転化できたハイイロガンの中で同種同士の殺し合いが減ったかどうかは分かりませんが、もしそうだとしたらプラスの側面でしょうし、一方で同種同士での争いがなくなる分だけ、異種に対しては闘争力をなくしたハイイロガンは劣位に立たざるを得なかったかもしれません。このように行動様式の変化自体には必ずプラス面とマイナス面があるでしょう。人間の将来に関しては、バラ色の未来を声高に語る少数の有力者と、暗い未来をぼそぼそと語る多数の有力ではない人、という構図が続いているのでしょうが、そのどちらも一面的であり、様々な変化は、間違いなくその両面とももたらすでしょう。ですから、そのような変化がどちらにころぶかを固唾をのんで見守っているという姿勢はあまり意味がありません。大切なのは、我々は生まれた瞬間から「現代」に条件付けられていて、様々な可能性を考え、あらゆる可能性を尽くしているつもりでありながら、その行動の意味が生成してくる過程を理解することなく、その行動の意味を信じて生きているがために陥る失敗もあるのではないか、と考えていくことであると思います。

そして、だからこそ、人間の外部に蓄積された過程としての「歴史」を学ぶ意味があると思います。もちろん、残された歴史には嘘も山ほどあるでしょう。また、歴史から有利な行動様式を学ぼうとしたり、不利な行動様式を学ぼうとしたりしても、それはポパーが『歴史主義の貧困』で丁寧に述べてくれていたように、やはりさらなる失敗を招くでしょう。私たちが歴史を学ぶ意味は、「自由な行動・意志の主体としての自己」にとっての判断材料を求めるためではなく、自己をそのように「自由な行動・意志の主体」であると思いたがる自分自身が、いかに人類のこれまでの歩みによって条件付けられ、自らの「自由意志」などごくわずかな一部分にしか許されないということを学ぶことにあるのだと思います。

難しくなりましたので、ぶっちゃけて言いますと、「自分が自由であるという前提の元に、自由な自分が次の行動のために使える材料として歴史を学ぶ」のではなく、「自分がどれだけ不自由であり、条件付けられているのかに気付くために歴史を学んだ上で、次の一歩には私たちの当たり前としている常識の外にも自由があるかどうかを考えていく」ことが大切なのではないかと思います。

ハイイロガンに話を戻しながら考えていくと、「威嚇→あいさつ」という行動様式の変化自体、攻撃衝動を友好関係へとつなげていくというすばらしい発明であるものの、これはこのような行動様式を共有しない異種の動物にとっては通用しないわけです。すなわち、彼らは威嚇のようなそぶりをあいさつと認識して無防備でいたとしても、異種の動物には単なる威嚇にしか見えず、彼らが無防備になった瞬間に「威嚇」と認識していた異種の動物に殺されてしまう可能性があるわけです。「このような悲劇を、動物たちは防ぐすべを知らないけれども、私たち人間は防ぐすべを知っている!」と言うほどに、私たち人間が自らの行動様式のなりたちを意識し、そのなりたち故の利点と欠点とについて常に自覚的であるとは、僕にはどうも思えません。異種の動物が示す「威嚇」を、自分たちの常識に従って「あいさつ」と解釈しては、「それはもしかして威嚇かもしれない!私たちのあいさつは威嚇から発達してきたのだけれども、それと彼らの文化とは、違う発達の仕方をしてきているかもしれない!」と慎重になるハイイロガンを、「バカだな。そんなの、あいさつにきまってるじゃん。常識のないやつだなあ。」と笑うハイイロガンが多い、そのような恐ろしい光景を、僕は人間社会に暮らしていて、様々な場面で感じたりしています。(たとえば、これは言葉に関してですが、僕は自分のpartnerを「女房」や「家内」、「奥さん」などとは呼びにくいのです。これらの語が慣用的にはpartnerを指すことはもちろん知っているものの、それらの原義からして、これらの語は女性差別か、百歩譲っても不正確な言葉であると思うからです。このような言葉は日本という社会の発達の中で、その中で女性がどのような役割を担ってきたか、あるいは担わされてきたかによってできあがった言葉です。しかし、話し相手に分かるために僕が自分のpartnerのことを「僕の家内が」と言い直さなければならないとき、僕はこの日本社会の負の歴史に従属せざるを得ません。もちろん、単なる言葉狩りになるのではまずいのです。しかし、そのような言葉を「言いにくい」という感覚が一般にないことこそが一番の問題であると思います。その行動様式(としての言葉)を生まれる前に身につけるか、生まれた後に身につけるかは人間の方がハイイロガンよりも複雑な行動様式の分だけ、ものによって違うものの、身につける際にはその行動様式自体への吟味を持ち得ないというこの仕組みこそが、ハイイロガンと同じように本能的であるように感じます。)

僕は、「人間は生まれたときには純真無垢で何の条件付けも受けておらず、成長して行くにつれ自然と社会の中で歴史について学んでいく。」という歴史観ではなく、「人間は生まれ落ちた瞬間から、この我々が通ってきた道(歴史)によってひどく影響された個体であり、その利点と欠点を自覚していっては他の可能性を探るために、私たちは積極的に歴史を学ばねばならない」という歴史観を、もちたいと思っています。自分たちが知らず知らず受けている制約を自覚し、自由になるためにこそ、歴史を勉強するという姿勢を、どの分野についてももっていきたいと思います。

「何でも自然の中に答えがある!」的な安易な自然主義は危険ですが、私たちがもし「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物体としての自身の外見を契機に、このように考えることも少しは意味があるのではないでしょうか。「人類(あるいは○○人)という種の系統発生」に絶えず、思いを凝らすために、歴史を学びたいものです。
                     2010年7月20日 嚮心塾 塾長
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