
『シン・ウルトラマン』が今日から公開!ということで、何とか時間を作って見に行きたいと思っています。ウルトラマンシリーズにさして詳しいわけではないし、特に最近のウルトラマンとかまったくわからないのですが、初代ウルトラマンには強い思い入れがあるからです。
僕は文字の読み書きを初代ウルトラマンのテレビ絵本で覚えました。幼稚園に上がる前の2歳くらいの頃だったでしょうか。僕の母親がひらがな・カタカナまじりのこのテレビ絵本で、「この文字は○○だよ〜」みたいな感じで書き込みながら教えてもらった覚えがあります。その後からは一人で本を読み始めるわけですが、この文字を覚えるために最初に何回も読んだ初代ウルトラマンの絵本のストーリーは僕の心をとても強くとらえました。
(ストーリーを知らない人にはネタバレですが)
地球を守るウルトラマンが最後はゼットンという怪獣に敗れて死んでしまい、今までウルトラマンに頼って科学特捜隊のメンバーが「自分たちは今までウルトラマンに頼ってばかりだった。しかし、自分たちが頑張ってゼットンを倒すしかない!!」と決意して新開発された武器で見事ゼットンを倒し、ハッピーエンドになるわけです。
この結末に僕はいたく感動しました。「死ねば全てが無くなる。このように感じたり考えたりしている自分すら無くなる。」ということに気づいてはひたすらそれが怖くてどうしようもなかったその頃の僕にとって、一つの生きる希望が見えたように思ったのです。ウルトラマンは敗れて死ぬとしても、その勇気や地球の人を守ろうとする心はたしかに科学特捜隊のメンバーに伝わり、彼らの依存心から彼らを脱却させ、そして死んでも彼らの心を動かしたことが、彼ら自身がゼットンを倒すという結果に繋がった。自分もこのように誰かに思いを伝えて死ぬことができるのなら、いずれ死ぬ自分の命にも少しは意味がある!!」と。(もちろん、その当時こんなにしっかり言語化出来てたわけではありません。)
そして、幼児なりの拙い言葉で、一緒にその本を読んでいた僕の母親にかなり真剣にこう言いました。
「僕もこのウルトラマンのように死にたい!!」
と。
その気持ちがわかってもらえると信じて疑わなかった当時の僕に対して、僕の母親はめちゃくちゃ強い言葉でそれを否定しました。
「何言ってるの!!!命が一番大事なの!!死んじゃダメでしょ!!!」
と。そこで僕は、自分の気持ちというのは率直に話したとしてもたとえば(この四六時中一緒にいる)母親とすらわかりあえないことばかりなのだな、ということを人生で初めて学びました。その落胆した気持ちを今でも強く覚えています。もちろんこれはある意味仕方がないことです。当時の母親を責めるつもりは毛頭ありません。
ただ、人と人とはどんなに近しかろうとわかりあえない、という当たり前の事実も、僕の人生にとってはこの時が出発点になっていて、そのわかりあえないことをどのように伝えていくか、逆にどのようにそれでもわかろうと努力していくか、ということだけのために僕は今までも、そしてこれからも必死に勉強を続けるしかないのだ、と思っています。
それと共に今の自分が今この瞬間にゼットン(?)に殺されたとしても、それでも人々に残り、何かしら考えてもらえたり動いてもらえたりしていけるような何かを伝えられているのか、というのを日々チェックしていなければならない、とも。生きるというのは難しいことです。「これを伝えられたらもう死んでもいい!」という甘えにも、あるいは「今は雌伏のときだから伝えられるか伝えられないかはとりあえず目の前を生き延びてから考えれば良い。」という甘えにも、どちらにも陥り続けないように選択をし続けていかなければなりません。
あるいはそもそも僕があのとき発した「僕もこのウルトラマンのように死にたい!」という拙くはあるけれども魂からの叫びを、僕自身があのときの母親と同じように「そうはいってもね…。」と軽視しては潰してしまっていないか、というリスクも、人を教えるという仕事をしていれば必ずつきまとうものです。目の前の彼ら彼女らの(拙い言葉を通じての)魂の叫びを、言葉の拙さや彼ら彼女らが見据えている概念や思想が僕の中にはまだ存在していないが故に反論したり言いくるめたりして、彼ら彼女らの魂を殺してはいないだろうか。このことにもまた、自信はありません。そのような失敗も実際多くしてきたのだと思います。しかし、そうした失敗に気づき、少しでも次の機会にその抑圧に加担しないためにも、必死に勉強を続けなければならない、と思っています(ということで、僕にとっては勉強は趣味や喜びではなくて、死ぬまで逃れることの出来ない義務でしかないと思っています)。
と、初代ウルトラマンは僕にとっては思い入れの強い作品なので、『シン・ウルトラマン』も是非見たいと思っています。
僕は文字の読み書きを初代ウルトラマンのテレビ絵本で覚えました。幼稚園に上がる前の2歳くらいの頃だったでしょうか。僕の母親がひらがな・カタカナまじりのこのテレビ絵本で、「この文字は○○だよ〜」みたいな感じで書き込みながら教えてもらった覚えがあります。その後からは一人で本を読み始めるわけですが、この文字を覚えるために最初に何回も読んだ初代ウルトラマンの絵本のストーリーは僕の心をとても強くとらえました。
(ストーリーを知らない人にはネタバレですが)
地球を守るウルトラマンが最後はゼットンという怪獣に敗れて死んでしまい、今までウルトラマンに頼って科学特捜隊のメンバーが「自分たちは今までウルトラマンに頼ってばかりだった。しかし、自分たちが頑張ってゼットンを倒すしかない!!」と決意して新開発された武器で見事ゼットンを倒し、ハッピーエンドになるわけです。
この結末に僕はいたく感動しました。「死ねば全てが無くなる。このように感じたり考えたりしている自分すら無くなる。」ということに気づいてはひたすらそれが怖くてどうしようもなかったその頃の僕にとって、一つの生きる希望が見えたように思ったのです。ウルトラマンは敗れて死ぬとしても、その勇気や地球の人を守ろうとする心はたしかに科学特捜隊のメンバーに伝わり、彼らの依存心から彼らを脱却させ、そして死んでも彼らの心を動かしたことが、彼ら自身がゼットンを倒すという結果に繋がった。自分もこのように誰かに思いを伝えて死ぬことができるのなら、いずれ死ぬ自分の命にも少しは意味がある!!」と。(もちろん、その当時こんなにしっかり言語化出来てたわけではありません。)
そして、幼児なりの拙い言葉で、一緒にその本を読んでいた僕の母親にかなり真剣にこう言いました。
「僕もこのウルトラマンのように死にたい!!」
と。
その気持ちがわかってもらえると信じて疑わなかった当時の僕に対して、僕の母親はめちゃくちゃ強い言葉でそれを否定しました。
「何言ってるの!!!命が一番大事なの!!死んじゃダメでしょ!!!」
と。そこで僕は、自分の気持ちというのは率直に話したとしてもたとえば(この四六時中一緒にいる)母親とすらわかりあえないことばかりなのだな、ということを人生で初めて学びました。その落胆した気持ちを今でも強く覚えています。もちろんこれはある意味仕方がないことです。当時の母親を責めるつもりは毛頭ありません。
ただ、人と人とはどんなに近しかろうとわかりあえない、という当たり前の事実も、僕の人生にとってはこの時が出発点になっていて、そのわかりあえないことをどのように伝えていくか、逆にどのようにそれでもわかろうと努力していくか、ということだけのために僕は今までも、そしてこれからも必死に勉強を続けるしかないのだ、と思っています。
それと共に今の自分が今この瞬間にゼットン(?)に殺されたとしても、それでも人々に残り、何かしら考えてもらえたり動いてもらえたりしていけるような何かを伝えられているのか、というのを日々チェックしていなければならない、とも。生きるというのは難しいことです。「これを伝えられたらもう死んでもいい!」という甘えにも、あるいは「今は雌伏のときだから伝えられるか伝えられないかはとりあえず目の前を生き延びてから考えれば良い。」という甘えにも、どちらにも陥り続けないように選択をし続けていかなければなりません。
あるいはそもそも僕があのとき発した「僕もこのウルトラマンのように死にたい!」という拙くはあるけれども魂からの叫びを、僕自身があのときの母親と同じように「そうはいってもね…。」と軽視しては潰してしまっていないか、というリスクも、人を教えるという仕事をしていれば必ずつきまとうものです。目の前の彼ら彼女らの(拙い言葉を通じての)魂の叫びを、言葉の拙さや彼ら彼女らが見据えている概念や思想が僕の中にはまだ存在していないが故に反論したり言いくるめたりして、彼ら彼女らの魂を殺してはいないだろうか。このことにもまた、自信はありません。そのような失敗も実際多くしてきたのだと思います。しかし、そうした失敗に気づき、少しでも次の機会にその抑圧に加担しないためにも、必死に勉強を続けなければならない、と思っています(ということで、僕にとっては勉強は趣味や喜びではなくて、死ぬまで逃れることの出来ない義務でしかないと思っています)。
と、初代ウルトラマンは僕にとっては思い入れの強い作品なので、『シン・ウルトラマン』も是非見たいと思っています。



