
K・A(大妻高3)日本大学医学部医学科合格(進学先)
他合格校:埼玉医大(医)、杏林大(医)(1次合格)、聖マリアンナ医大(1次合格)
小学生の頃はとにかく勉強が嫌いでした。塾には入っていましたが、親が共働きだったので、塾いくまで親に内緒でテレビを見たり、友達と遊んでいました。「暇だけど勉強だけはしたくないなー。滑り止めはあるし、別に大学で医学部入れれば良くね?」という感じで、親に「もし中学いいとこいけなくても大学で挽回できるよね?」と聞いて親が「もちろん」と答えてくれる度に安心してサボっていました。理科が難しい学校を第一志望にしていたのですが、結局本番は理科が取れず、滑り止めの大妻高校に入学しました。
中学から高1までは定期テスト前日夜に詰め込むくらいで特に勉強しませんでした。プリクラばかり撮っていました。悪い時だと270人中220位もとったことがありました。この頃までに四谷学院、東進、グノーブルなどの大手予備校に通いましたが、思うようにやる気が出ず、宿題はやらずに行っていました。また、めちゃめちゃ講座をとらせようとしてくる大人たちを見て、「こいつら金のことしか考えてねえな」とも思っていました。そこから大人に対して不信感がありました。私の高校は当時、私立医学部の指定校推薦を2つ持っており、親にそれを狙えと言われたので、最初は定期テストで点数を取ろうと頑張っていましたが、どうしても教師の言うことを聞くのがだるくて、高1の途中で悪い成績を取ってしまい、早急に諦めました。
高1の秋、親に嚮心塾を勧められ、体験授業に行きました。これ以上転塾する訳にも行かないと思い、なんとなく入塾しました。高2の夏まではコロナもあり、あまり塾に行っていませんでした。(それをいいことに1日中ベッドの上でスマホを見ながらゴロゴロしていました)高2の夏からまあまあ勉強しはじめました。高2の秋になり、自分の人生を見つめ直した時に、「このまま何にもなれなかったらやばくね」と思いはじめました。そこから、受験が終わるまで、行ける日は全て、9時半まで残るようにしました。勉強は、時間が全てではありませんが、とりあえず、勉強時間を増やすことから始めました。今まで勉強習慣が全くなかった私にとって、どんなに眠くても、やる気が起きなくても、椅子に座り続けることは、辛いけれど、意味のあることでした。冬休みは、10時間、春休みには12時間以上勉強していました。(勉強内容については後述します。)冬あたりから、遊んだり、寄り道したりすることをやめました。
高3になりました。学校のない日は机で12〜13時間ほど勉強していました。スマホを持ち歩くのやめ、親にガラケーを買ってもらいました。これは正直かなりデカかったように思います。私はスマホを持っていると、絶対に音楽を聴き、インスタを見てしまうのですが、家の金庫にケータイをしまってもらってから、片道1時間ある電車があまりにも暇すぎて、勉強するようになりました。最初はきついですが、一週間もすれば、スマホのない生活に慣れました。
また、私は高3になって、物理受験を決めました。高2までは生物で受験しようと思っていたので、高3の選択授業も生物を選択しようとしており、学校が融通が効かず、直前に選択科目を変更してくれなかったので、高3でも生物の授業を受けていました。私は、中学の頃から学校の授業は意味がないと思っていたので、中学時代から寝たり、内職をしたりしており、授業をできるだけ受けたくなかったので、国立受験生でありながら、私立理系受験のコースに行き、化学や国語の授業は受けないで、午前中で帰れるようにしていました(その後すぐ塾に行っていました)。本当に全時間内職をしていて、私の学校は各教科年間平均評定が10段階で3以上であればよかったので、一学期中間でできるだけ点数を取って、一学期で全科目5以上を取れるようにしていました。なので、一学期中間以降、定期テストの勉強は、前日、当日でも一切勉強せず受けました。高校時代、成績はずっと悪く、おかげで、調査書の数学の評定は5段階の2.7とかでした。学校の周りの友達には「やばいね、今回も勉強してないの?」とテストの度に笑われましたが、自分のゴールはそこじゃないと思っていたので、あまり気にしませんでした。
高3の4、5月は、まだみんな遊んでいたので、なぜ自分がこんなに勉強しなければならないのか、なぜ自分は医者を目指しているのか、親の操り人形にされているだけなのではないかなど、結構悩みました。先生に相談すると、先生は、女性が医学部に行くことの利点などを説明してくれたので、頑張ろうと思えました。正直、直接勉強に関係のない悩みを聞いてくれるなど、ほぼボランティアみたいなことをしてくれる先生を今まで見たことがなかったので、今まで大人をあまり信じれなかった私でも、先生を信頼することができました。
夏は、勉強時間をキープしつつ、高1の頃からやっていたダンスを週1回、犬の散歩を週2回息抜きにしていました。勉強は全て塾でしていました。
秋からはダンスもやめ、勉強に全振りしました。冬、学校がなくなってからは、朝から晩まで勉強しました。
受験が来ました。初めて一次合格したのが、杏林だったのですが、二次落ちしてしまい、その時は、「せっかく掴んだ一回限りの合格のチャンスが終わった」「周りに申し訳なさすぎる」という気持ちで、号泣し、発表日は話そうとすると涙が出て、帰りには母親に「もう無理だ」と泣きながら電話をかけました。次の日も午前中ずっと泣いていましたが、「別に浪人で良くね」という境地に達し、そこからどこが落ちても特に落ち込むことはありませんでした。結果、前期は埼玉医大のみ補欠合格でした。受験が始まってからも勉強し続けたおかげもあったからか、記念で受けたつもりだった後期の聖マリと日大はどちらも一次合格しました。最後だからと自分に言い聞かせ、一次が終わり、発表が出るまで、そのあとの2次試験まで周りが遊んでいる間も勉強し続けました。その結果合格することができました。
私の模試結果は、終始E判定だったので、特に判定に一喜一憂することはありませんでした。高3の5月くらいには数学の共テ模試で20点代をとりました。その後は数学はまあまあ上がりましたが、理科は特に苦手で(高3まで中学受験から全く勉強したことがなかったので本当に1からでした)8月の共テ模試では、化学物理どちらも29点とか普通に取っていました(その29点も勘で解いていた)。物理は、『(物理の)エッセンス』をやることでだいぶわかり、10月の模試では多分70点くらい取れたのですが、化学は11、12月になっても30点代とか取っていました。ここでスタディーサプリを見始めました。今までしてきた勉強が全て繋がったような気がして、化学を初めて面白いと思えました(自分の好きな時好きな勉強ができるところも嚮心塾のいいところ)。そこからは化学が英語の次に好きになりました(遅すぎ)。共テ本番では物理63点、化学73点でした。物理は2月になってから『良問(の風)』を始め、典型問題は解けるようになりました。化学はスタサプのテキストを繰り返し解き直し、暗記では落とさないようにすることで、日大後期では一問間違いで済みました。数学は、問題集は『基礎問(題精購)』しかやったことがありません。教科書と基礎問とセンター過去問で全然足りたので、基礎が大事なんだと思い知らされました。(高校では定期テストの範囲が問題集で出されますが、私は一問も解かず、教科書のみで臨んでいました)
私はこの1年間、努力し続けたという自信はあります。ただ成績は最後の最後までほぼ上がりませんでした。なのに先生は何故か今年行けると励ましてくれました。私は馬鹿だったので、今年行けるかもと思いつつがむしゃらに勉強し続けました。その結果、(高3秋の)最後の模試の偏差値より10以上上の学校に受かることができました。努力しても受かるかどうかはわからないけれど、努力しないで受かることは余程の天才でなければ無いと思っています。また、浪人でいいやと思って緩くやっている人で、落ちている人も見てきました。自称進(学校)に通っていて、今そこまで成績の良くない子は、高い志望校を目指す上で多くの悩みを抱えると思います。同級生にからかわれたり、勉強する環境がなかったり。私は自称進(学校)の中でも成績が良くなかったため、高1の担任には、「医学部を諦めろ」とガチで説教され、高2の担任には面談で勉強時間について聞かれ、正直に答えたら、「こんなに勉強してるのにどうして成績が上がらないの?」と笑われ、高3の担任には、何年まで浪人OKか聞かれました。それでも、在学中にこの学校に通っていることで馬鹿にされた経験や、担任、友達に夢を笑われた経験など、悔しかった思いから、「こいつらを見返したい!」という気持ちから受験を乗り切ることができました。生半可な努力では、大学受験を乗り越えることはできません。しかし、自分の中で強い思いを持てば、辛くても自分を保てるのではないかと思います。先生はどんなに馬鹿な学校に通っていても、どんなに大きな夢を持っていても、絶対に否定しません。むしろ、そこからどう上げるかということを考えてくれました。高1の時、嚮心塾を選んで本当によかったです。
最後になりますが、(柳原)先生、チューターの方、家族には本当にお世話になりました。ありがとうございました。
他合格校:埼玉医大(医)、杏林大(医)(1次合格)、聖マリアンナ医大(1次合格)
小学生の頃はとにかく勉強が嫌いでした。塾には入っていましたが、親が共働きだったので、塾いくまで親に内緒でテレビを見たり、友達と遊んでいました。「暇だけど勉強だけはしたくないなー。滑り止めはあるし、別に大学で医学部入れれば良くね?」という感じで、親に「もし中学いいとこいけなくても大学で挽回できるよね?」と聞いて親が「もちろん」と答えてくれる度に安心してサボっていました。理科が難しい学校を第一志望にしていたのですが、結局本番は理科が取れず、滑り止めの大妻高校に入学しました。
中学から高1までは定期テスト前日夜に詰め込むくらいで特に勉強しませんでした。プリクラばかり撮っていました。悪い時だと270人中220位もとったことがありました。この頃までに四谷学院、東進、グノーブルなどの大手予備校に通いましたが、思うようにやる気が出ず、宿題はやらずに行っていました。また、めちゃめちゃ講座をとらせようとしてくる大人たちを見て、「こいつら金のことしか考えてねえな」とも思っていました。そこから大人に対して不信感がありました。私の高校は当時、私立医学部の指定校推薦を2つ持っており、親にそれを狙えと言われたので、最初は定期テストで点数を取ろうと頑張っていましたが、どうしても教師の言うことを聞くのがだるくて、高1の途中で悪い成績を取ってしまい、早急に諦めました。
高1の秋、親に嚮心塾を勧められ、体験授業に行きました。これ以上転塾する訳にも行かないと思い、なんとなく入塾しました。高2の夏まではコロナもあり、あまり塾に行っていませんでした。(それをいいことに1日中ベッドの上でスマホを見ながらゴロゴロしていました)高2の夏からまあまあ勉強しはじめました。高2の秋になり、自分の人生を見つめ直した時に、「このまま何にもなれなかったらやばくね」と思いはじめました。そこから、受験が終わるまで、行ける日は全て、9時半まで残るようにしました。勉強は、時間が全てではありませんが、とりあえず、勉強時間を増やすことから始めました。今まで勉強習慣が全くなかった私にとって、どんなに眠くても、やる気が起きなくても、椅子に座り続けることは、辛いけれど、意味のあることでした。冬休みは、10時間、春休みには12時間以上勉強していました。(勉強内容については後述します。)冬あたりから、遊んだり、寄り道したりすることをやめました。
高3になりました。学校のない日は机で12〜13時間ほど勉強していました。スマホを持ち歩くのやめ、親にガラケーを買ってもらいました。これは正直かなりデカかったように思います。私はスマホを持っていると、絶対に音楽を聴き、インスタを見てしまうのですが、家の金庫にケータイをしまってもらってから、片道1時間ある電車があまりにも暇すぎて、勉強するようになりました。最初はきついですが、一週間もすれば、スマホのない生活に慣れました。
また、私は高3になって、物理受験を決めました。高2までは生物で受験しようと思っていたので、高3の選択授業も生物を選択しようとしており、学校が融通が効かず、直前に選択科目を変更してくれなかったので、高3でも生物の授業を受けていました。私は、中学の頃から学校の授業は意味がないと思っていたので、中学時代から寝たり、内職をしたりしており、授業をできるだけ受けたくなかったので、国立受験生でありながら、私立理系受験のコースに行き、化学や国語の授業は受けないで、午前中で帰れるようにしていました(その後すぐ塾に行っていました)。本当に全時間内職をしていて、私の学校は各教科年間平均評定が10段階で3以上であればよかったので、一学期中間でできるだけ点数を取って、一学期で全科目5以上を取れるようにしていました。なので、一学期中間以降、定期テストの勉強は、前日、当日でも一切勉強せず受けました。高校時代、成績はずっと悪く、おかげで、調査書の数学の評定は5段階の2.7とかでした。学校の周りの友達には「やばいね、今回も勉強してないの?」とテストの度に笑われましたが、自分のゴールはそこじゃないと思っていたので、あまり気にしませんでした。
高3の4、5月は、まだみんな遊んでいたので、なぜ自分がこんなに勉強しなければならないのか、なぜ自分は医者を目指しているのか、親の操り人形にされているだけなのではないかなど、結構悩みました。先生に相談すると、先生は、女性が医学部に行くことの利点などを説明してくれたので、頑張ろうと思えました。正直、直接勉強に関係のない悩みを聞いてくれるなど、ほぼボランティアみたいなことをしてくれる先生を今まで見たことがなかったので、今まで大人をあまり信じれなかった私でも、先生を信頼することができました。
夏は、勉強時間をキープしつつ、高1の頃からやっていたダンスを週1回、犬の散歩を週2回息抜きにしていました。勉強は全て塾でしていました。
秋からはダンスもやめ、勉強に全振りしました。冬、学校がなくなってからは、朝から晩まで勉強しました。
受験が来ました。初めて一次合格したのが、杏林だったのですが、二次落ちしてしまい、その時は、「せっかく掴んだ一回限りの合格のチャンスが終わった」「周りに申し訳なさすぎる」という気持ちで、号泣し、発表日は話そうとすると涙が出て、帰りには母親に「もう無理だ」と泣きながら電話をかけました。次の日も午前中ずっと泣いていましたが、「別に浪人で良くね」という境地に達し、そこからどこが落ちても特に落ち込むことはありませんでした。結果、前期は埼玉医大のみ補欠合格でした。受験が始まってからも勉強し続けたおかげもあったからか、記念で受けたつもりだった後期の聖マリと日大はどちらも一次合格しました。最後だからと自分に言い聞かせ、一次が終わり、発表が出るまで、そのあとの2次試験まで周りが遊んでいる間も勉強し続けました。その結果合格することができました。
私の模試結果は、終始E判定だったので、特に判定に一喜一憂することはありませんでした。高3の5月くらいには数学の共テ模試で20点代をとりました。その後は数学はまあまあ上がりましたが、理科は特に苦手で(高3まで中学受験から全く勉強したことがなかったので本当に1からでした)8月の共テ模試では、化学物理どちらも29点とか普通に取っていました(その29点も勘で解いていた)。物理は、『(物理の)エッセンス』をやることでだいぶわかり、10月の模試では多分70点くらい取れたのですが、化学は11、12月になっても30点代とか取っていました。ここでスタディーサプリを見始めました。今までしてきた勉強が全て繋がったような気がして、化学を初めて面白いと思えました(自分の好きな時好きな勉強ができるところも嚮心塾のいいところ)。そこからは化学が英語の次に好きになりました(遅すぎ)。共テ本番では物理63点、化学73点でした。物理は2月になってから『良問(の風)』を始め、典型問題は解けるようになりました。化学はスタサプのテキストを繰り返し解き直し、暗記では落とさないようにすることで、日大後期では一問間違いで済みました。数学は、問題集は『基礎問(題精購)』しかやったことがありません。教科書と基礎問とセンター過去問で全然足りたので、基礎が大事なんだと思い知らされました。(高校では定期テストの範囲が問題集で出されますが、私は一問も解かず、教科書のみで臨んでいました)
私はこの1年間、努力し続けたという自信はあります。ただ成績は最後の最後までほぼ上がりませんでした。なのに先生は何故か今年行けると励ましてくれました。私は馬鹿だったので、今年行けるかもと思いつつがむしゃらに勉強し続けました。その結果、(高3秋の)最後の模試の偏差値より10以上上の学校に受かることができました。努力しても受かるかどうかはわからないけれど、努力しないで受かることは余程の天才でなければ無いと思っています。また、浪人でいいやと思って緩くやっている人で、落ちている人も見てきました。自称進(学校)に通っていて、今そこまで成績の良くない子は、高い志望校を目指す上で多くの悩みを抱えると思います。同級生にからかわれたり、勉強する環境がなかったり。私は自称進(学校)の中でも成績が良くなかったため、高1の担任には、「医学部を諦めろ」とガチで説教され、高2の担任には面談で勉強時間について聞かれ、正直に答えたら、「こんなに勉強してるのにどうして成績が上がらないの?」と笑われ、高3の担任には、何年まで浪人OKか聞かれました。それでも、在学中にこの学校に通っていることで馬鹿にされた経験や、担任、友達に夢を笑われた経験など、悔しかった思いから、「こいつらを見返したい!」という気持ちから受験を乗り切ることができました。生半可な努力では、大学受験を乗り越えることはできません。しかし、自分の中で強い思いを持てば、辛くても自分を保てるのではないかと思います。先生はどんなに馬鹿な学校に通っていても、どんなに大きな夢を持っていても、絶対に否定しません。むしろ、そこからどう上げるかということを考えてくれました。高1の時、嚮心塾を選んで本当によかったです。
最後になりますが、(柳原)先生、チューターの方、家族には本当にお世話になりました。ありがとうございました。
- 関連記事



