
昨日の私立後期医学部の合格で、(あと私立医補欠繰り上がり待ちを除いて)今年の受験はおしまいでした。最後の最後まで必死に頑張っていた受験生が、たった3ヶ月前には「今年は記念受験なんで…。」と言っていた状態から現役合格ができたのは本当に素晴らしいことでした。
さて、塾では一人一人に単語テストを行います。これは英単語が基本ですが、古文単語だったり、世界史や日本史の一問一答だったり、年号だったり、様々なテストを口頭でしています。このやり取りの中で、どのような思考回路をしているのか、どのような勉強の仕方をしているのか、どうやって「覚えて」いるのか、といった塾生一人一人の勉強を通じた認識のありようがとてもよくわかってくるため、このテストは欠かせないものです。もちろん受験生にとってもチェックしてもらわなければついついサボってしまうことをチェックしてもらうことでサボらなくなる、というわかりやすい恩恵もあるでしょうが、それ以上に嚮心塾においてはこの単語テストがコミュニケーションの根幹となっている点で重要であると感じています。
たとえば英単語一つをとっても、接頭辞や接尾辞、語幹などに分解して覚える子とむりやり覚える子の違い、日本語の訳語の意味もわかっていないのにその訳語が出てくればいいと思っている子、似た綴りの英単語を書き並べて類似点と相違点を比較するというプロセスを経ずに混同したままに「覚えられない〜」と嘆いているだけの子、綴りだけを覚えて意味はあやふやな子、逆に意味だけを覚えて綴りはあやふやな子、そもそも単語の発音が全く出来ないままに綴りと意味だけを覚えている子、発音記号の読めない子、など、本当に千差万別です。こうした学習の仕方の傾向、というのは単語テストだけにその傾向がとどまることはむしろ稀であり、数学であれ、理科であれ、社会であれ、国語であれ、他の科目の学習の仕方にもリンクしていることが多いです。(たとえば日本語の訳語は覚えるけれども、その訳語の意味がわからないままに放置できてしまう子、というのは数学や理科の用語の定義をしっかり覚えていないことが多いです。また、英単語を接頭辞や接尾辞に分解して整理して覚えていない子は数学でも定理や公式の導出をきちんとやっていないまま丸覚えしている傾向が強いです。フレーズや英文で単語を覚えたがる子は、数学や理科でも典型問題を解き慣れることで解けていればプロセスをいちいち説明できなくてもOK、とやりがちです。このような相関関係を書き出すときりがないのですが、このような様々な相関関係から次に改善すべき学習習慣についてのヒントが見えてくるわけです。)なので、このような単語テストは「触診」のように、その受験生の様々な思考傾向や学習傾向をつかむための大きなヒントになるものであり、これはたとえば紙の単語テストをプリントアウトしてやらせる、といった、よくある型式では決して指導者には得られないほどの莫大な指導上のヒントを与えてくれるのです。
さて、そんな単語テストを僕がいつやるようになったのか、といえば大学に入学し、チューターとして教え始めた塾の校長先生から指導法として教えてもらったことがきっかけでした。その当時の僕は「単語なんか他の人がテストするもんじゃなくて、自分で覚えるもんだろ!!」という自分で勉強をしてきた人間特有の思い上がりから、生徒にこのようなステップを用意する事自体に基本的には否定的でした。それでもその校長先生に言われて、「そんなもんかな。。」と思いつつ、勉強が苦手な子達にそうやって英単語テストとかを口頭で始めたのが最初だったと記憶しています。(今から25年ほど前のことなので記憶は曖昧なのですが…。)
さて、最初は否定的だったものの、やってみると勉強が苦手な子たちも頑張って取り組んでくれたりして、「これは一体何なんだろう?」と思いつつ、それでもそのような指導方法を教示してくれた校長先生の慧眼に感心した覚えがあります。ある意味、そこからの25年間の教えることに取り組む僕の人生とはそのように「口頭での単語テスト」的な指導(それはコミュニケーションであり、観察の場であり、motivateする場であり、という多様な意味を持ちます。)とは一体何であるのか、を徐々に学び、言語化し、考え、そして工夫してきた歩みであったとも言えると思っています。自身が「そんなの、自分でやらせればいいでしょ。」と(口に出して反論したか心で思っただけかはさすがに忘れたのですが)その校長先生に対して浅はかにも反論しようとした自身の視野の射程の狭さを、まさに25年間かけて様々な角度から反証してきた、という気がしています。
もちろんこの校長先生から学んだことはそれだけではありません。ただ、この単語テストを巡るやりとりが、僕にとっては嚮心塾での指導、それは何かを伝えておしまいや正しい方法を強制しておしまいなのではなく、「こうやったらいいよー!」というこちらの指導がうまくいかなかったり、彼ら彼女らがそれを頑張れなかったり、頑張ってもうまくいかなかったり、という一つ一つの挫折や失敗に対して、こちらが「君らの努力が足りん!!」と突き放して責任放棄するのではなく、「なぜこのように身につかないのだろう?」と悩み続けては次の方法を探していく、というスタイルの原点であり、象徴的なことであると思っています。
という、大変お世話になった校長先生が、先日嚮心塾を訪問してくれました。お会いするのも20年ぶりでしょうか。塾に来ていただいたのは初めてです。多くの受けた恩、教えていただいたことを直接は返せていないままなのですが、あのとき教えてもらい、受け取った「種火」を僕自身がどのように大きく育て続けてこれたのか、というただ一点においてこそどのような恩返しができるのか、が決まるのだと勝手ながら思っています。
それはすなわち、僕自身が今目の前の生徒たちに必死に何かを伝え、鍛え、ともに悩み、何らかを伝え得ているとして、それを彼ら彼女らがどのように育んでいけるかだけが僕にとっては唯一の関心である、ということでもあります(それでも「合格体験記くらいは書いて卒塾してほしい!」とついつい願ってしまいますが!!)。
そのようにして、人が人に何かを伝えうるだけでなく、伝えられた何かを各々が育み続けうるのだとしたら、有限な時間をもって生まれ出でてはすぐに死に至る我々の人生もまた、何らかの可能性に繋がるのではないか。そのように思っています。
僕自身が初めて単語テストの必要性を教えてもらってから、胸を張れるだけの何かをこの25年間で育み得たのかどうかは、自信のある部分とない部分とがないまぜではあります。ただ、死ぬまでそれを諦めないように、必死に模索し続けたいと思っています。
さて、塾では一人一人に単語テストを行います。これは英単語が基本ですが、古文単語だったり、世界史や日本史の一問一答だったり、年号だったり、様々なテストを口頭でしています。このやり取りの中で、どのような思考回路をしているのか、どのような勉強の仕方をしているのか、どうやって「覚えて」いるのか、といった塾生一人一人の勉強を通じた認識のありようがとてもよくわかってくるため、このテストは欠かせないものです。もちろん受験生にとってもチェックしてもらわなければついついサボってしまうことをチェックしてもらうことでサボらなくなる、というわかりやすい恩恵もあるでしょうが、それ以上に嚮心塾においてはこの単語テストがコミュニケーションの根幹となっている点で重要であると感じています。
たとえば英単語一つをとっても、接頭辞や接尾辞、語幹などに分解して覚える子とむりやり覚える子の違い、日本語の訳語の意味もわかっていないのにその訳語が出てくればいいと思っている子、似た綴りの英単語を書き並べて類似点と相違点を比較するというプロセスを経ずに混同したままに「覚えられない〜」と嘆いているだけの子、綴りだけを覚えて意味はあやふやな子、逆に意味だけを覚えて綴りはあやふやな子、そもそも単語の発音が全く出来ないままに綴りと意味だけを覚えている子、発音記号の読めない子、など、本当に千差万別です。こうした学習の仕方の傾向、というのは単語テストだけにその傾向がとどまることはむしろ稀であり、数学であれ、理科であれ、社会であれ、国語であれ、他の科目の学習の仕方にもリンクしていることが多いです。(たとえば日本語の訳語は覚えるけれども、その訳語の意味がわからないままに放置できてしまう子、というのは数学や理科の用語の定義をしっかり覚えていないことが多いです。また、英単語を接頭辞や接尾辞に分解して整理して覚えていない子は数学でも定理や公式の導出をきちんとやっていないまま丸覚えしている傾向が強いです。フレーズや英文で単語を覚えたがる子は、数学や理科でも典型問題を解き慣れることで解けていればプロセスをいちいち説明できなくてもOK、とやりがちです。このような相関関係を書き出すときりがないのですが、このような様々な相関関係から次に改善すべき学習習慣についてのヒントが見えてくるわけです。)なので、このような単語テストは「触診」のように、その受験生の様々な思考傾向や学習傾向をつかむための大きなヒントになるものであり、これはたとえば紙の単語テストをプリントアウトしてやらせる、といった、よくある型式では決して指導者には得られないほどの莫大な指導上のヒントを与えてくれるのです。
さて、そんな単語テストを僕がいつやるようになったのか、といえば大学に入学し、チューターとして教え始めた塾の校長先生から指導法として教えてもらったことがきっかけでした。その当時の僕は「単語なんか他の人がテストするもんじゃなくて、自分で覚えるもんだろ!!」という自分で勉強をしてきた人間特有の思い上がりから、生徒にこのようなステップを用意する事自体に基本的には否定的でした。それでもその校長先生に言われて、「そんなもんかな。。」と思いつつ、勉強が苦手な子達にそうやって英単語テストとかを口頭で始めたのが最初だったと記憶しています。(今から25年ほど前のことなので記憶は曖昧なのですが…。)
さて、最初は否定的だったものの、やってみると勉強が苦手な子たちも頑張って取り組んでくれたりして、「これは一体何なんだろう?」と思いつつ、それでもそのような指導方法を教示してくれた校長先生の慧眼に感心した覚えがあります。ある意味、そこからの25年間の教えることに取り組む僕の人生とはそのように「口頭での単語テスト」的な指導(それはコミュニケーションであり、観察の場であり、motivateする場であり、という多様な意味を持ちます。)とは一体何であるのか、を徐々に学び、言語化し、考え、そして工夫してきた歩みであったとも言えると思っています。自身が「そんなの、自分でやらせればいいでしょ。」と(口に出して反論したか心で思っただけかはさすがに忘れたのですが)その校長先生に対して浅はかにも反論しようとした自身の視野の射程の狭さを、まさに25年間かけて様々な角度から反証してきた、という気がしています。
もちろんこの校長先生から学んだことはそれだけではありません。ただ、この単語テストを巡るやりとりが、僕にとっては嚮心塾での指導、それは何かを伝えておしまいや正しい方法を強制しておしまいなのではなく、「こうやったらいいよー!」というこちらの指導がうまくいかなかったり、彼ら彼女らがそれを頑張れなかったり、頑張ってもうまくいかなかったり、という一つ一つの挫折や失敗に対して、こちらが「君らの努力が足りん!!」と突き放して責任放棄するのではなく、「なぜこのように身につかないのだろう?」と悩み続けては次の方法を探していく、というスタイルの原点であり、象徴的なことであると思っています。
という、大変お世話になった校長先生が、先日嚮心塾を訪問してくれました。お会いするのも20年ぶりでしょうか。塾に来ていただいたのは初めてです。多くの受けた恩、教えていただいたことを直接は返せていないままなのですが、あのとき教えてもらい、受け取った「種火」を僕自身がどのように大きく育て続けてこれたのか、というただ一点においてこそどのような恩返しができるのか、が決まるのだと勝手ながら思っています。
それはすなわち、僕自身が今目の前の生徒たちに必死に何かを伝え、鍛え、ともに悩み、何らかを伝え得ているとして、それを彼ら彼女らがどのように育んでいけるかだけが僕にとっては唯一の関心である、ということでもあります(それでも「合格体験記くらいは書いて卒塾してほしい!」とついつい願ってしまいますが!!)。
そのようにして、人が人に何かを伝えうるだけでなく、伝えられた何かを各々が育み続けうるのだとしたら、有限な時間をもって生まれ出でてはすぐに死に至る我々の人生もまた、何らかの可能性に繋がるのではないか。そのように思っています。
僕自身が初めて単語テストの必要性を教えてもらってから、胸を張れるだけの何かをこの25年間で育み得たのかどうかは、自信のある部分とない部分とがないまぜではあります。ただ、死ぬまでそれを諦めないように、必死に模索し続けたいと思っています。



