
さて、前回の続きです。いわゆる特待制度やスカラシップ制度がないだけではなく、嚮心塾では各種の「割引制度」がありません(あえて言えば同時にきょうだいで通っていただけるときのきょうだい割引くらいでしょうか。)。紹介割引、無料キャンペーン期間、月謝の日割りなどが全くありません。これもそのような制度を作ってはプロモーションに力を入れる大手の他塾さんと比べると「不親切」であるように思えてしまうでしょう。(まあ、そうした大手の他塾さんと比べるとそもそも月謝の額がこちらの方がはるかに低廉な月謝だとは思うのですが…。基本的にこういったところはあまり見ていただけずに「他の塾でもやってるんだから!」とリクエストされてしまうケースも多いのです)
これにも理由があります。それは、その1でも書いたように手間のかかる子を鍛えるのにはめちゃくちゃ手間がかかる、という事実に対して、こちらが腹をきめて取り組むためです。
この「手間のかかる」には色々なケースがあります。
たとえば今年東大文2に合格した子には毎日東大の英・国・社の答案を添削していました。嚮心塾の場合、解答と照らし合わせて添削ではなく、いちいち僕が入試問題を全て解き直す(としないと時間内にどの問題を深追いしてはならないか、どこまで記述の完璧さを目指すかの全体のバランスがわからない)ので、実質毎日大量の入試問題を解くことになります。彼だけでなく、今年は京大、阪大、東工大、農工大、その他私立受験生がいたため、それらの英語や国語に関しては全て自分で解いて添削をしていました。なので直前期は質問に答えていない時間帯でひたすら入試問題を解いているわけで手間はかかります。ただ、これらは「手間のかかる」受験生ではあるものの、実力が高く、「合格実績」が見込めるという意味では塾としてもコスパのよい生徒たちです。まさに「手間をかけたい」生徒であると思います。(そしてこれらの子達に手間をかけることは、殆どの塾では徹底してやっているはずです。)
一方でどうにも「合格実績」に繋がらない子たちもたくさんいます。そもそも塾をサボる、来ても寝ているか携帯をいじる、あるいはこちらが指示したとおりに勉強しない、その上でやはりそのような状態なので、勉強もできない。このような子たちにかかる手間はとてつもなく大きく、そして塾側としては「合格実績」という形の見返りはほとんどありません。機械の修理なら、「これはまるごと部品交換しないとダメなので、追加の修理代がかかりますね。」「何なら買い替えたほうが安いですよ!」とでも言えますが、塾ではこの子たちが手間がかかるからといって追加料金を請求したり、「もっとできの良いお子さんに育て直した方がいいですよ。」と言うわけにもいきません(まあ、個別指導の併用を勧めてさらにむしり取ろうとする、という塾もあるのだとは思いますが、嚮心塾にはそれはありません。)。
だとすると、塾の側のこのような子への対策としてはビジネス面を考えれば二通りしかないわけです。
①入塾を断る。(実際、成績表で「(5段階評価で)2以下」がついている子は入塾を断る塾もあると聞きます。何のための塾なのでしょうか…。)
②入塾させておいて、放置する。もちろんその子達はうからないが、「意欲のある子たちがその塾のカリキュラムで難関校に受かっている以上は、責任は塾にあるのではなく、やる気のないその子達自身のせいである!」という主張をしてお月謝だけもらう。
という二通りのアプローチが合理的であることになります。もちろん実際には
③そういう「落ちこぼれ」の子だけを見る!という名目でターゲット層を絞った塾を運営する。
という戦略もあります。多くは①か②、ときたま③がビジネスとしてなされている、というくらいでしょうか。(ただ、③に関してはシェルターとしては機能しているものの、それがそこに通う子たちにとって意味のある受験になっているのかどうかはかなり怪しいと思っています。それぐらいに勉強の基礎も意欲もない子たちにそのような習慣をつけたり実力を伸ばすことは難しく、恐ろしく手間のかかることであるので、素人の大学生ではできないどころか、我々プロでも難しいのです。もしそれを大学生講師でできているのだとしたら、それは運営がアルバイト代では見合わない大学生講師の善意や努力を搾取しているだけの構図だと思います。)
嚮心塾ではこの①〜③のどれをも採用していません。やる気のない子も、やる気のある子と同じように、こちらからその可能性を諦めることはなく、徹底的に努力します。たとえば今年の事例だけで言っても
「塾の前まで車で送られても、そこからさぼってしまうようなやる気のない子をお母さんとメールのやりとりを密にしながら(年間1000通以上はやりとりしたかと…)塾の周辺で隠れているところを探しに行く」
「生徒がさぼってないかどうか、生徒のtwitterの書き込みをチェックする(それで「午前中はリスニングしてます!」というサボりを見抜きました!)」
「どうしても来れない再受験生に何度もメールでやりとりをする」
「学校の勉強をしたくなくて放校されそうな子とも何度も話し合う」
「生活リズムが崩れて夜型になっては勉強時間がとれない子のためにどのように生活リズムを作るか様々な提案と試行錯誤をする」
などなどです。もちろん勉強に意欲を持てない子たちに、どうして勉強を今するべきかを話したり、その他進路相談、人生相談、恋愛相談、家族についての相談、などを挙げたらキリがありません。反ワクチンの考えをもつ子ともワクチンを打つべきかどうか議論したりもしました。勉強だけ教えていれば済むのなら、業務量がそれこそ10分の1くらいにはなる気がします。。
こうした「手間のかかる」子達、しかも合格実績という「成果」を見込めない子たちに対しても、こちらがフルにコミットし続けるという覚悟を持ち続けるための動機の一つとしてやはり「規定のお月謝を払って頂いているから」ということが僕には必要です。それは僕の不徳のなすところであり、「割引していようと、何なら無料塾であれ、ボランティアであれ、普段から偉そうなことを言ってるんだから、そのようにフルにコミットすればいいじゃん!」と言われたらそのとおりなのかもしれません。
ただ、ここには徳の低い人間なりの理屈がありまして、たとえば手塚治虫先生のブラックジャックでなぜブラックジャックは高額な治療費をとるのか、ということにも通じるものがあると思っています。人が覚悟を決めるのは、相手が覚悟を決めることに対してのみである、ということですね。相手が覚悟を決めていないのにも関わらずこちらが覚悟を決めたとしてもそれでは何も伝わらない、ということに陥りがちです。
あるいは僕の敬愛するジャン・ジャック・ルソーの言葉を借りるのなら、『人間が自ずから善をなすとき、そこに徳は存在しない。人間が自らの弱さ、汚さに抗してそれでも善をなそうとする時、徳が存在するのだ。』という言葉もここと関係していると思っています。「有徳な人」というのは誰にも彼にも一方的にgiveだけを為す人ではないと思っています(それは押し付けがましい人、もしくは自分が優位に立ちたい人です)。相手の「徳」に対して自分も「徳」で呼応せざるを得ない人のことを僕は(自らの弱さに打ち克とうとするという点で)「有徳な人」だと思いますし、それはまた規定のお月謝をお支払いいただく、という「徳」に対してこちらも「どこまでも面倒を見る。決して諦めない」という「徳」で応答し続けたいと思う理由でもあります。自身が(ある限定的な局面で)一方的なgiverであること(それは他の局面では一方的なtakerであることに支えられていることが多いのだと思います)よりも、自身がこのように「有徳」であり続けることの方が難しいのでは、と年齢を重ねた今は思っています。
話が色々飛びましたが、その点でも規定のお月謝をいただく、ということもまた、こちらから変えるつもりはありません。
それは「覚悟」に対して「覚悟」を呼応できるのか、ということが問われる本質的な事態だけが僕にとっては大切なものであると思うからです。その点についてはご理解いただけるとありがたいです。
これにも理由があります。それは、その1でも書いたように手間のかかる子を鍛えるのにはめちゃくちゃ手間がかかる、という事実に対して、こちらが腹をきめて取り組むためです。
この「手間のかかる」には色々なケースがあります。
たとえば今年東大文2に合格した子には毎日東大の英・国・社の答案を添削していました。嚮心塾の場合、解答と照らし合わせて添削ではなく、いちいち僕が入試問題を全て解き直す(としないと時間内にどの問題を深追いしてはならないか、どこまで記述の完璧さを目指すかの全体のバランスがわからない)ので、実質毎日大量の入試問題を解くことになります。彼だけでなく、今年は京大、阪大、東工大、農工大、その他私立受験生がいたため、それらの英語や国語に関しては全て自分で解いて添削をしていました。なので直前期は質問に答えていない時間帯でひたすら入試問題を解いているわけで手間はかかります。ただ、これらは「手間のかかる」受験生ではあるものの、実力が高く、「合格実績」が見込めるという意味では塾としてもコスパのよい生徒たちです。まさに「手間をかけたい」生徒であると思います。(そしてこれらの子達に手間をかけることは、殆どの塾では徹底してやっているはずです。)
一方でどうにも「合格実績」に繋がらない子たちもたくさんいます。そもそも塾をサボる、来ても寝ているか携帯をいじる、あるいはこちらが指示したとおりに勉強しない、その上でやはりそのような状態なので、勉強もできない。このような子たちにかかる手間はとてつもなく大きく、そして塾側としては「合格実績」という形の見返りはほとんどありません。機械の修理なら、「これはまるごと部品交換しないとダメなので、追加の修理代がかかりますね。」「何なら買い替えたほうが安いですよ!」とでも言えますが、塾ではこの子たちが手間がかかるからといって追加料金を請求したり、「もっとできの良いお子さんに育て直した方がいいですよ。」と言うわけにもいきません(まあ、個別指導の併用を勧めてさらにむしり取ろうとする、という塾もあるのだとは思いますが、嚮心塾にはそれはありません。)。
だとすると、塾の側のこのような子への対策としてはビジネス面を考えれば二通りしかないわけです。
①入塾を断る。(実際、成績表で「(5段階評価で)2以下」がついている子は入塾を断る塾もあると聞きます。何のための塾なのでしょうか…。)
②入塾させておいて、放置する。もちろんその子達はうからないが、「意欲のある子たちがその塾のカリキュラムで難関校に受かっている以上は、責任は塾にあるのではなく、やる気のないその子達自身のせいである!」という主張をしてお月謝だけもらう。
という二通りのアプローチが合理的であることになります。もちろん実際には
③そういう「落ちこぼれ」の子だけを見る!という名目でターゲット層を絞った塾を運営する。
という戦略もあります。多くは①か②、ときたま③がビジネスとしてなされている、というくらいでしょうか。(ただ、③に関してはシェルターとしては機能しているものの、それがそこに通う子たちにとって意味のある受験になっているのかどうかはかなり怪しいと思っています。それぐらいに勉強の基礎も意欲もない子たちにそのような習慣をつけたり実力を伸ばすことは難しく、恐ろしく手間のかかることであるので、素人の大学生ではできないどころか、我々プロでも難しいのです。もしそれを大学生講師でできているのだとしたら、それは運営がアルバイト代では見合わない大学生講師の善意や努力を搾取しているだけの構図だと思います。)
嚮心塾ではこの①〜③のどれをも採用していません。やる気のない子も、やる気のある子と同じように、こちらからその可能性を諦めることはなく、徹底的に努力します。たとえば今年の事例だけで言っても
「塾の前まで車で送られても、そこからさぼってしまうようなやる気のない子をお母さんとメールのやりとりを密にしながら(年間1000通以上はやりとりしたかと…)塾の周辺で隠れているところを探しに行く」
「生徒がさぼってないかどうか、生徒のtwitterの書き込みをチェックする(それで「午前中はリスニングしてます!」というサボりを見抜きました!)」
「どうしても来れない再受験生に何度もメールでやりとりをする」
「学校の勉強をしたくなくて放校されそうな子とも何度も話し合う」
「生活リズムが崩れて夜型になっては勉強時間がとれない子のためにどのように生活リズムを作るか様々な提案と試行錯誤をする」
などなどです。もちろん勉強に意欲を持てない子たちに、どうして勉強を今するべきかを話したり、その他進路相談、人生相談、恋愛相談、家族についての相談、などを挙げたらキリがありません。反ワクチンの考えをもつ子ともワクチンを打つべきかどうか議論したりもしました。勉強だけ教えていれば済むのなら、業務量がそれこそ10分の1くらいにはなる気がします。。
こうした「手間のかかる」子達、しかも合格実績という「成果」を見込めない子たちに対しても、こちらがフルにコミットし続けるという覚悟を持ち続けるための動機の一つとしてやはり「規定のお月謝を払って頂いているから」ということが僕には必要です。それは僕の不徳のなすところであり、「割引していようと、何なら無料塾であれ、ボランティアであれ、普段から偉そうなことを言ってるんだから、そのようにフルにコミットすればいいじゃん!」と言われたらそのとおりなのかもしれません。
ただ、ここには徳の低い人間なりの理屈がありまして、たとえば手塚治虫先生のブラックジャックでなぜブラックジャックは高額な治療費をとるのか、ということにも通じるものがあると思っています。人が覚悟を決めるのは、相手が覚悟を決めることに対してのみである、ということですね。相手が覚悟を決めていないのにも関わらずこちらが覚悟を決めたとしてもそれでは何も伝わらない、ということに陥りがちです。
あるいは僕の敬愛するジャン・ジャック・ルソーの言葉を借りるのなら、『人間が自ずから善をなすとき、そこに徳は存在しない。人間が自らの弱さ、汚さに抗してそれでも善をなそうとする時、徳が存在するのだ。』という言葉もここと関係していると思っています。「有徳な人」というのは誰にも彼にも一方的にgiveだけを為す人ではないと思っています(それは押し付けがましい人、もしくは自分が優位に立ちたい人です)。相手の「徳」に対して自分も「徳」で呼応せざるを得ない人のことを僕は(自らの弱さに打ち克とうとするという点で)「有徳な人」だと思いますし、それはまた規定のお月謝をお支払いいただく、という「徳」に対してこちらも「どこまでも面倒を見る。決して諦めない」という「徳」で応答し続けたいと思う理由でもあります。自身が(ある限定的な局面で)一方的なgiverであること(それは他の局面では一方的なtakerであることに支えられていることが多いのだと思います)よりも、自身がこのように「有徳」であり続けることの方が難しいのでは、と年齢を重ねた今は思っています。
話が色々飛びましたが、その点でも規定のお月謝をいただく、ということもまた、こちらから変えるつもりはありません。
それは「覚悟」に対して「覚悟」を呼応できるのか、ということが問われる本質的な事態だけが僕にとっては大切なものであると思うからです。その点についてはご理解いただけるとありがたいです。
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