嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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手を使う必要のあるスポーツ、足を使う必要のあるスポーツ。

サッカーワールドカップもようやく終わりました。これから夏休みであり、受験生を指導する立場としてはここから勉強に余念なく集中してもらえることが、何よりもうれしく、また身が引き締まる思いです。

ただ、サッカーワールドカップを見ていても、とても考えさせられることが多くありました。まず一つ目は、「サッカーは手を使う必要のあるスポーツなのでは?」という疑問です。今までもマラドーナの現役時代の「神の手」ゴールがありましたし、今大会でもブラジルのルイス・ファビアーノの手を使ったトラップの後のゴール(「人の手」ゴール)もありました。そして、何より決定的にそう思えたのは、準々決勝のガーナ-ウルグアイ戦で延長後半ロスタイムにスアレスがシュートを手で防ぎ、その後のPKをガーナのジャンが外し、結局PK戦でウルグアイが勝ち上がった試合でした。(もちろん、始まる前にも欧州予選でのフランスのアンリのハンドもありましたね。)

「サッカーは手を使ってはいけないスポーツだ。」というのは、サッカーの大原則となるルールです。ルールというよりはもはや「定義」と言ってもよいぐらい、根幹にかかわるルールでしょう。しかし、それをワールドカップという大舞台で、効果的に破ることによって成果を出すというこれらの行為を「スポーツマンシップに反する」という批判をするのでは僕は浅薄であると思いますし、小さい頃から「足を使うスポーツとしてのサッカー」を必死にやってきてそれで一流になった人間が、あのような決定的な場面で手を使うことを思いつくことの創造性の高さに、むしろ僕などは感心してしまいます。サッカーのルールの中でプレイをしながら、その外の可能性にまで思いをやるその一瞬のひらめきがすばらしいと思います。

もちろん、サッカーというスポーツが、フィールドプレイヤーが絶えず故意に手を使ってしまっては成り立たないスポーツである以上、故意のハンドは厳罰です。得点に絡まない場合でもイエローカードでしょうし、得点に絡む場合であれば、一発レッドカードです。実際、ウルグアイのスアレスも一発レッドカードで退場になりました。しかし、彼がもしあそこで手で止めていなければ、そもそもガーナに得点が入り、残り時間もわずかでしたから必ず負けていたわけです。それを、彼が手で止めることで彼は退場になってもまずPKになり、そこでもしかしたら相手のキッカーが外すかもしれないという可能性を作りました。(実際にも外したわけですが、外さなかったとしても敗戦という結果が確定すさせず、そこに別の不確定要素を挟み込んだだけでも意味があったわけです。)このことは、自分が退場になるという厳罰よりも遙かに見返りが大きいとあの瞬間に判断がなされたわけです。それはルールに則りながら、しかしルールに支配されないでその外の現実を冷徹に見つめる、という高度の知性が働いているように思います。

このようないわゆる「ずるさ」に僕が感心するのは、このような態度が「サッカーは手を使ってはいけない」というルールを「所詮は人間が決めたものに過ぎない。」とどこか冷静に見ているように思えるからです。もちろんサッカーの試合で勝つためには、大部分はそのルールに従っていく方がメリットがあるわけですが、しかし、ここぞというところではそのルールを無視する、あるいはルールを無視していることをばれないようにする、という振る舞いこそが良い結果を残すこともあるのだということを彼らはよく分かっているのだと思います。翻って、日本のサッカーが本当に強くなるのは、そのように「手を使える」選手が出てくるときだと思うのですが、日本人はあるルール自体が正しいかどうかについては極端に無関心であるのに、そのルール違反者に対してはそれこそめくじらをたてて集団的につるし上げる国民ですので、「手を使える」選手の出現はなかなかに難しいのかもしれません。(本田選手は直前の強化試合で少し手を使っていましたが。あれももしかしてその練習だとしたら、やはり彼はたいしたものです。)


もう一つ。サッカーは足を使うスポーツです。「何をいまさら」ではありません。オシム前日本代表監督が「日本のキーパーはパスが下手だ。11人目のフィールドプレイヤーとして、パス回しにキーパーが参加できる技術がなければ、結局キーパーがボールを保持してもそこからサッカーを組み立てることが出来ない。強豪国は皆キーパーのキックの技術が優れている。だから、私は日本代表監督の時に、キーパーのキック練習を取り入れた。」という趣旨の話をしていました。これは逆のことであり、「足を使わねばならないスポーツであるサッカーで、唯一手が使えるポジションであるキーパー」という定義に甘えて、日本ではキーパーがパスの技術を鍛えることがおろそかになっていたということを表しているのではないでしょうか。結局サッカーとは、その進化の過程で、フィールドプレイヤーも手を(場合によっては)使うスポーツであり、キーパーも足を使うスポーツになってきたようです。

以上のことからわかるのはやはり、より質の高いものを作り出していくためには、既成の概念にとらわれることなく、何がよりよいものであるかを絶えず考え続ける必要がある、ということなのではないでしょうか。もちろんこれは言うは易く行うは難しです。しかし、まずはサッカーチームの指導者が大事な試合でハンドの反則をした少年を声高に責める前に、「どう考えてこの場面でハンドをしたの?」と聞いてあげることが大切であると思います。また、キーパーの少年が「僕もパス練習に加わりたい!」と言ったときに「キーパーはキーパーの練習だけやっておけ!」ではなく、「どうしてそう考えるの?」と聞いてあげて、それが先に挙げたようなしっかりとした理由であれば、そこで指導方法を柔軟に変えていくことが大切でしょう。もちろん、指導者や教育者はこのような最先端のサッカーの進化を絶えず研究あるいは勉強し、子供達の「非常識」な提案に含まれる真理を見抜くことが出来るように準備をしていなければなりません。しかし、私たち愚かな人間が既成の概念の奴隷になりやすく、特に大人になればなるほどにその傾向が強くなる以上、その研究や勉強以上に大切なのは、大人達は子供達の自由な発想から絶えず教わろうとする心の準備をしておくことであると思います。
 勉強や研究を、「知っていることを懸命に増やして知らないことと出会わないようにしていばるため」に行うのではなく、「知っていることを懸命に増やしていくのは、自分の知らないことと出会ったときにその大切さを理解するためだ。」という姿勢でやっていくのもまた、既成の概念にとらわれないためには必要な姿勢です。Karl.R.Popperの自叙伝の通り、'Unended Quest'(『終わりなき探求』)が大切なようです。
(Unended 'Dragon Quest'はダメですよ!ゲームだけは終わりがある方が良いようです。人生にはやるべきことが多すぎるのですから。)
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