
ただ、一つ考えていかなくてはならないのは、そのような電子データ化された書籍を作るためのコストを、誰が負担すべきか、という問題です。これはipadとは関係がないのですが、もう中高生であれば当たり前に保有している電子辞書を例にとって考えてみましょう。教えていて、わざわざ紙の辞書を新たに購入するというご家庭は非常に少ないように思います。電子辞書自体は一台2万円以上する高価な買い物ですが、親御さんもやはり「ゲーム」というとお金を出したくないと思っていても、「電子辞書」と聞くと、「勉強に使うものだし、これで我が子が勉強が出来るようになるなら安い投資かも…。」と財布のひもがゆるくなる傾向があるようです。
しかし、この電子辞書のデータを電子辞書メーカーはいくらくらいで出版社から買っているか、皆さんご存じでしょうか?たとえば、あの有名な岩波書店の広辞苑を書店で買えば8000円弱しますが、出版社がデータを電子辞書メーカーに売るときには、聞いた話では、何と1台あたり100円(!)で売っているそうです。これだけ電子辞書が普及してしまえば、力関係では電子辞書メーカーの方が強く、出版社はそのような低い値段でも電子辞書に収録してもらって、いくらかのお金を得られればまだましである、という状況がこのような値段を生み出しているのでしょう。もちろん、紙の辞書の売れる部数が減らないで、それに加えて電子辞書の売り上げから1台100円が入ってくるのなら、出版社も有り難い話です。しかし、おそらく電子辞書の普及によって紙の辞書の実売部数は激減しているはずです。そしてその分だけ、8000円で売れていたものが、100円しか手元に入ってこないということになってしまう。現在のいわゆる「出版不況」とは、この電子化の時代への対応の仕方を出版社の自助努力に任せてしまった結果として、出版社がそのように追い込まれざるを得ない流れが出来てしまっているが故であるかもしれません。
もちろん、上にあげた「広辞苑が一部100円」という事実もショッキングでしょうが、まだこれは出版社に現存するデータをコピーすればするほど100円入る、という意味ではましな話です。さらに大きな問題は、このような状況が続けば続くほどに、新しい辞書を作ることはもはや出来なくなる、ということです。先に挙げた『広辞苑』は新村出さんが『辞苑』という辞書を20年かけて改訂して作ったものですが、それほど大規模であったり長期間でなくても、新しい辞書の編纂というのは当然5~10年くらいはかかるわけです。そして、そこでは大量の研究者を動員しなくてはなりません。出版社は辞書が発売されるまでのその期間、この編集作業にかかる人件費を全て、しかも長期間にわたって丸抱えするわけです。このような経営的にきわめてリスクの高い事業を行っても、それが紙の辞書としてそれなりの利益を含んで売り出すことが出来れば、回収のめどがたっていました。しかし、この電子辞書全盛の時代において、電子辞書に入っていない紙の辞書が広く売れることはまずないでしょうし、かといって新しく編纂した辞書のデータを電子辞書メーカーに売ったとしても、結局広辞苑ですら100円しか入らないような雀の涙のような金額しか入りません。これでは、新たな辞書を編集して売り出すことは、出版社には不可能なこととなり、今までのデータを使い回すだけの状態となるでしょう。そしてそれは、日本語について学問的により研究が進んだとしても、その最先端の知見を辞書に反映して、広く一般の人々がその成果を享受するということはきわめて困難になってしまいます。これが現状であるのです。
僕は電子辞書の存在そのものに反対をしているわけでは決してありません。もちろん、僕自身は使いたいとは全く思わないものの、便利なツールであることには間違いがないでしょう。しかし、あの2万円から3万円の電子辞書を買う中で、広辞苑のデータを100円で出版社が売り渡している、ということにはやはりおかしさを感じるべきであると思います。たとえば紙の広辞苑が8000円弱ならば、せめて1台あたり3000円くらいをメーカーが出版社に払う仕組みを作っていかなければ、出版社が新しい辞書を作ることは不可能になり、その結果何十年も前のかなりあやしい知見を僕たちは最新の電子辞書の中に見いださざるを得ないというおかしな状況になるのではないでしょうか。もちろん、そのような仕組みを作れば、電子辞書も今のように安い値段では買えなくなってしまうでしょう。あれだけ何冊も詰め込めば、最低でも5,6万円、中には10万円を超える機種まででてきてしまうかもしれません。しかし、そのように中に収録されているデータにも正当な評価を与えることこそが、結局は社会全体としても得られる利益は多いように思います。あまりにも目先のことにとらわれるあまりに、結果としてこれまでの先人の蓄積した「知」を使い捨てては、我々自身がそこに新たな知見を築いたり広めていくことには無頓着であるのなら、それこそ子孫達の代に申し訳がないでしょう。
もちろん、電子辞書と電子書籍は違う部分もあります。特に、漫画家の佐藤秀峰先生の「漫画 on Web」のように、出版社を通さない電子書籍というものが作家の出版社からの自立や、出版社に頼らないデビューのあり方を作っていく、というメリットについてはもちろんすばらしいものであると僕は思います。しかし、そのような電子書籍のメリットは個人である作家さんや漫画家さんによって作られる作品には確かにあると僕も思うのですが、一方で辞書の編集のように個人ではない組織が個人ではなしえないような長期的かつ大規模な編集作業を通じて初めて行われるもの、というのは、この電子書籍の時代には絶滅していく恐れがあると思います。このことについて、私たちはどのようにすべきかを考えていかねばなりません。たとえば「そういうものは政府がやればいい!」的な発想もあるとは思うのですが、辞書が中国の皇帝の専権による編纂事業において発達した(『康煕字典』のように)という一つの歴史をふまえてみると、そのような発想は僕は単に後退であるにとどまらず、編集事業の必要性を人々が理解しない状況を生み出しては、それを専制権力によって強制する、というかえってコストのかかる道であるように思えてしまいます。
また、昨今の事業仕分けにおいて、学問や科学技術に政府がお金をだすのをケチろうとすることに対して、著名な学者達が抗議していましたが、仕分けのやり方が学問や科学技術に対して無理解すぎる、ということを言っていても仕方がないように思います。むしろ社会の様々なところで、「文化」あるいは「商慣行」としてでも根付いてきたこのような知的生産のしくみを、ひとつひとつ見殺しにしていくことの方が、より大きな問題です。学者達が「大衆にはこの学問の価値を正当に評価することは出来ない」と政府を頼っても、その政府の構成員は(「学問の価値を正当に評価することの出来ない」)大衆の選挙によって選ばれるのですから。僕自身は、学問の価値の理解度とは、「電子辞書にいくら出すか。」という具体的な問題でとりあえず推し量れるものだと思います。そこで、「2万円で買えるのなら、広辞苑のデータ代100円でいいよ!」とか「いや、でも新しい辞書作れなくなるなら、データ代3000円払って、電子辞書5万円になってもいいよ!」とか「だったら紙の辞書の方がやっぱり安いかも!(ちょっと僕の好みの入った結論ですかね。)」という議論になったり、さらには「辞書に5万円なんて、高い!どうせ、学校卒業したら使わないんだし。」という人と「辞書に5万円なんて安い!どうせ一生勉強するんだから一生使うし。」という勉強とその人の人生との関係性をも問い直してくれるきっかけになったりすると、あの事業仕分けについて是非を話し合うよりも、もっと文化というものに実感がわいてみんなが考えやすいのではないでしょうか。
「電子辞書の正当なデータ代の分は高くなっても仕方がない」と思える消費者の多い社会が、学問の価値が広く理解されている社会であると言えるのだと思います。一足飛びにそうなることは難しいとしても、せめてこのような問題点について知り、議論をし、その中で自分はこの問題についてどのように意見をもつべきかを考える人が増えるといいな、と思っています。
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