
デイビッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』は厳密性とかはさておき、問題提起とその為の概念を提示したという意味では読むべき本だと思います。
読んでいない方のためにざっくり要約すると
「世の中って何のためになってるかよくわからない仕事ほど給料高いよね。投資銀行とか証券会社とかファンドマネージャーとか。金持ちの財産をより増やす仕事が一番給料高いって、それ、この社会的にどうなの?それに携わる本人も悩んでる人多いし。それに対してやりがいがあったり、相手から感謝をされる仕事ほどに給料低いよね(保育士や教師、看護師とか)。」
って感じです(雑な要約でグレーバーさん、ごめんなさい)。
これがやっかいなのは、たとえば最近売れてるマイケル・サンデルの『実力も運のうち』で書かれているように、「収入が高いということはそれがこの社会の中では有能であると見做される根拠となる」せいで、そのような収入の格差が「この社会って本当に見る目なくて、どうでもいい仕事に高い給料払ったり、大切な仕事には低い給料しか払わなかったりで本当に見る目ないよね。。」という突き放した見方をもつことが難しいことです。「労働市場」においてはより「価値が高い」ものに高い値段がつく、というかなり怪しい仮説をみんなそれなりに信じてしまっているので、「収入が低い」ということは「自分に能力がないor自分が努力していない」ことを意味しているかのように思い込まされてしまい、人間としての尊厳までも奪われていってしまう、という問題があります。
「収入が低い」ということは本来その人の様々な努力や能力、素晴らしさの中でたまたまマネタイズできる部分が少ないだけで、そのマネタイズの評価基準自体が極めて偏っているからこそ、それは人間としての価値には何も関係がないものです。ただ、この「マネタイズの評価基準」自体の不確かさ、根拠のなさには実は高給取りの人間たちも薄々は気づいているからこそ、そのような無意味な仕事の対価として高い給料をもらうことの納得のいかなさから精神的に変調をきたしてしまう、というのがグレーバーの観察です。もちろん、このグレーバーの観察はかなり偏っていると僕は思っていまして、その「マネタイズの評価基準」のよくわからないまま、現在の評価基準の中で高い給料をもらえている人の大部分は、「自分が高い給料をもらえている」ことから「自分の仕事は低い給料の人よりも社会に貢献しているに違いない」と思い込み、サンデルの批判するメリトクラシーの熱烈な信奉者になるか、あるいは自分の家庭や友人へのsincerityを代償行為として徹底することで免罪符を得ようとするか、のその2つのパターンの方が不当な高い給料に思い悩む人よりは圧倒的に多いのではないか、と僕は思っています。
さて。「だから投資銀行とか、コンサルとか高い給料もらってるけどこの社会に必要な仕事じゃない!」とか「だから自分は教育を選んだんだ!」とか主張しては自分の選んだ道を「高潔な選択」として正当化し続けられるのであれば、僕も少しは生きやすいのでしょう。しかしこれに関してはたとえばグレーバーの「低い給料だがやりがいのある仕事」として挙げられるcare-giverの代表例である教師なども投資銀行やコンサルと社会的存在意義としては五十歩百歩であり、ブルシット・ジョブであると思っています。
なぜそう思うかと言えば、教育には限界があるからです。たとえば学習習慣ができていて、勉強に必死に取り組み、何よりも自分の力を向上させて受験を乗り切ろうとしている子たちを教えることはたやすいのです。その子達に足りないものを見抜き、それを鍛えていくためのプログラムを考えればよいだけであるからです。これも普通の教師はなかなかできないのでしょうが、それでもある程度の能力がある人が教えることに真剣に向き合い続ければそれなりに身につく力ではあると思います(そのような教師の絶対数が少なすぎる、というのは確かに問題ではあるのですが)。
一方で、学習習慣のない子、そもそも勉強する意味もよくわからない子、しかし、その子達が何か他の道で生きていく準備ができるかと言えばそれも別になく、ただ怠惰さに流されて楽しいことだけをしている子たちを鍛えることは本当に難しいのです。それでも若いうちはその子達も自身の体力や性的魅力をマネタイズすることはできるでしょう。しかしそれらは高校卒業後、長くもって10年です。その先も働き続け、生きていけるようになるためには、やはりこの社会では「勉強」が必要です。もちろん「有名大学に入らなきゃ!」とか「医学部に行かなきゃ!」といった過熱してしまって、もはや何が目的だったかわからないような目的を彼ら彼女らが持つ必要はないにせよ、資格をとったり、専門職についていくためには勉強をしていくことが必要です。しかし、それを身に着けてもらう、というのは本当に途方もなく長い道のりです。嚮心塾でも諦めずにあれこれ手を尽くしたり、必死にやっているつもりですが、しかしほぼほぼ失敗している、というのが苦い現状です。
さて、受験業における「合格実績」というのはこの前者の子を鍛えるだけで獲得できるものです。また実際に顧客は前者の結果しか見ません。「東大合格!」「医学部合格!」「早慶合格!」を見て親御さんは塾を選ぶわけで、嚮心塾もこんな汚くて小さくて名前も怪しくて、という塾なので唯一この「合格実績」だけで何とかここまで16年存続しています。しかし、それらの合格実績の中で後者のグループからこのような結果を出せた例、というのは本当に数が少ないのもまた情けない事実です。(もちろん「中学受験で進学校に受かったけど中高ずっとさぼって学年ビリでした→医学部合格!」とかは結構あります。あるいは「すごく賢いけど勉強のやり方だけはわからなくて、勉強のやり方を教えたら偏差値40→75」とかもあります。しかしこれは基本的には後者のグループからの移動にはなっていないと思っています。有名な「ビリギャル」も基本的にはこのパターンでしかないと思っています)
逆に後者の子たちはほとんどの塾では教える側が努力するだけムダなのです。まず学習習慣をつけるまでが大変です。仮にそれが習慣づいてきたとしても、そこから勉強のやり方を教えるのが大変です。さらに、「そもそも勉強をしたら自分の人生にとって良いことが増える」ということも繰り返し話しては理解していってもらわなければなりません。そこまでの手間を考えれば、前者のグループの子と比べて、手間は5倍〜10倍くらいになってしまいます。しかし、です。ここまで手をかけたとしてもその子達が「合格実績」として次の生徒獲得につながるような結果を出せることは、本当に稀であるのです。
これらのことを鑑みれば、一番効率の良い塾・予備校経営は「できる子を伸ばし、できない子を放置する」であることがよくわかるでしょう。いわゆるサピックス方式ですね。「できない子は放置する」ではできない子が辞めていってしまうじゃないか、という心配は無用です。できない子の親御さんも「合格実績」は信頼しますから。「この塾から東大と医学部に合格しているのなら、今はうまくいっていない我が子もいずれそうなってくれるのでは…」と期待し続けてしまいます。もちろん、「その期待は浅はかで、うちの子には合っていない」と賢明な判断をできる親御さんも中にはいらっしゃるでしょう。しかしその割合は極めて少ない以上、「できる子を伸ばし、できない子を放置する」戦略が最も効率的な経営となります。
このような業界の事情を振り返ってみれば、この教育業という仕事は「お金持ちの資産をより増やす」仕事に携わる投資銀行やファンドマネージャーと質的に変わらないのではないか、と自嘲せざるをえません。これもまた、ブルシット・ジョブではないか、と。この仕事に社会における意味はほとんどありません。東大に受かる子は仮に僕が教えなくて東大に落ちたとしても早慶には受かるのですから。いやいや、個人的にそのような受験生は泣いて喜んでくれ、心からの感謝の念を伝えてくれるでしょう。しかし、それが自分の資産を投資銀行に増やしてもらったお金持ちよりは多少感情がこもっているとしても、それが社会における意味を担保することにはならず、本質的に無意味な職業です。(ちなみに教師も含めたcare-giverという対面で人と関わる仕事、というのはどうしてもこのような「個人的な感謝」を自らの仕事の価値に繰り込みがちである、という自己欺瞞的要素があると思っています。相手の感謝はあまり関係がありません。それはウォーレン・バフェットだって自分の資産が誰かのアドバイスで増えたら喜ぶでしょう。しかしバフェットの資産がこれ以上増えることは社会にとって意味のあることではありません(むしろ有害かもですよね)。)
かといって、学習習慣の無い子たちを何とか鍛えていこうという試みは絶えず失敗ばかりです。まず嚮心塾にとって退塾者のほとんどはこのパターンです。勉強に行き詰まり、勉強しなくなり、塾に来なくなり、そして辞めていきます。こちらとしてはあの手この手をやったとしても、彼ら彼女らの生活習慣や学習習慣を変えられる事自体がごくまれです。もちろん、決して諦めずに一人一人の人生を何とかしたいと思ってあれこれやっています。ときに東大受験生や医学部受験生を放っておいてまで。しかし、全くうまく行っておらず、結果としては放置して食い物にしている塾とあまり変わらないパフォーマンスしか示せていないようにも思います。そのようにあれこれやっていても、勉強に取り組めるようになる子がゼロではない、くらいでしょうか。
こうした後者の子たちを諦めるのは、教育自体をブルシット・ジョブにしてしまうことであり、それなら教育に携わるべきではないと思っています。一方で「諦めない」ことを言い訳に結果が出せないことを肯定しているのであれば、それはやはり「鍛えるべき子は鍛えているから」に逃げ込んだ卑怯な態度でしかありません。もちろん、この両者をそもそも両方真剣に教えるということが極めて難しいことではあるのですが、それでも諦めないだけではなく結果を残せるように、必死に次の手を考えていきたいと思います。
それとともに、業種によってマネタイズの評価基準が恣意的に偏っているこの社会の中で、自身の仕事を「ブルシット・ジョブ」にしないためには、やはりどのような業種についていようとも、「これが社会にとってどのような意味があるのか」を絶えず問うては、意味のあることに少しでも向けられるように努力していくしか無いのかな、と思います。もちろん今の「労働市場」の評価基準があまりにも偏り過ぎであることには同意します。保育士さんの給料とか、とても重要な仕事であるのにも関わらず、本当にひどい低さの給料です。ただ、それらを改善していくという社会運動は必要として、一方で完全に正当に評価できる社会もまた存在し得ないし、また存在するべきではない(なぜ存在するべきではないのかはサンデルの前掲本がわかりやすいかと)、とも思います。極端な格差を是正することが大切なのと同様に、それが仕事の価値とは結びついていない、という価値基準をもつこと、その上でさらに自分の仕事に価値は本当にあるのかをどのようにpriceをつけられているか、という以外の基準で絶えず厳しく見ていくことが大切なのではないか、と思っています。
読んでいない方のためにざっくり要約すると
「世の中って何のためになってるかよくわからない仕事ほど給料高いよね。投資銀行とか証券会社とかファンドマネージャーとか。金持ちの財産をより増やす仕事が一番給料高いって、それ、この社会的にどうなの?それに携わる本人も悩んでる人多いし。それに対してやりがいがあったり、相手から感謝をされる仕事ほどに給料低いよね(保育士や教師、看護師とか)。」
って感じです(雑な要約でグレーバーさん、ごめんなさい)。
これがやっかいなのは、たとえば最近売れてるマイケル・サンデルの『実力も運のうち』で書かれているように、「収入が高いということはそれがこの社会の中では有能であると見做される根拠となる」せいで、そのような収入の格差が「この社会って本当に見る目なくて、どうでもいい仕事に高い給料払ったり、大切な仕事には低い給料しか払わなかったりで本当に見る目ないよね。。」という突き放した見方をもつことが難しいことです。「労働市場」においてはより「価値が高い」ものに高い値段がつく、というかなり怪しい仮説をみんなそれなりに信じてしまっているので、「収入が低い」ということは「自分に能力がないor自分が努力していない」ことを意味しているかのように思い込まされてしまい、人間としての尊厳までも奪われていってしまう、という問題があります。
「収入が低い」ということは本来その人の様々な努力や能力、素晴らしさの中でたまたまマネタイズできる部分が少ないだけで、そのマネタイズの評価基準自体が極めて偏っているからこそ、それは人間としての価値には何も関係がないものです。ただ、この「マネタイズの評価基準」自体の不確かさ、根拠のなさには実は高給取りの人間たちも薄々は気づいているからこそ、そのような無意味な仕事の対価として高い給料をもらうことの納得のいかなさから精神的に変調をきたしてしまう、というのがグレーバーの観察です。もちろん、このグレーバーの観察はかなり偏っていると僕は思っていまして、その「マネタイズの評価基準」のよくわからないまま、現在の評価基準の中で高い給料をもらえている人の大部分は、「自分が高い給料をもらえている」ことから「自分の仕事は低い給料の人よりも社会に貢献しているに違いない」と思い込み、サンデルの批判するメリトクラシーの熱烈な信奉者になるか、あるいは自分の家庭や友人へのsincerityを代償行為として徹底することで免罪符を得ようとするか、のその2つのパターンの方が不当な高い給料に思い悩む人よりは圧倒的に多いのではないか、と僕は思っています。
さて。「だから投資銀行とか、コンサルとか高い給料もらってるけどこの社会に必要な仕事じゃない!」とか「だから自分は教育を選んだんだ!」とか主張しては自分の選んだ道を「高潔な選択」として正当化し続けられるのであれば、僕も少しは生きやすいのでしょう。しかしこれに関してはたとえばグレーバーの「低い給料だがやりがいのある仕事」として挙げられるcare-giverの代表例である教師なども投資銀行やコンサルと社会的存在意義としては五十歩百歩であり、ブルシット・ジョブであると思っています。
なぜそう思うかと言えば、教育には限界があるからです。たとえば学習習慣ができていて、勉強に必死に取り組み、何よりも自分の力を向上させて受験を乗り切ろうとしている子たちを教えることはたやすいのです。その子達に足りないものを見抜き、それを鍛えていくためのプログラムを考えればよいだけであるからです。これも普通の教師はなかなかできないのでしょうが、それでもある程度の能力がある人が教えることに真剣に向き合い続ければそれなりに身につく力ではあると思います(そのような教師の絶対数が少なすぎる、というのは確かに問題ではあるのですが)。
一方で、学習習慣のない子、そもそも勉強する意味もよくわからない子、しかし、その子達が何か他の道で生きていく準備ができるかと言えばそれも別になく、ただ怠惰さに流されて楽しいことだけをしている子たちを鍛えることは本当に難しいのです。それでも若いうちはその子達も自身の体力や性的魅力をマネタイズすることはできるでしょう。しかしそれらは高校卒業後、長くもって10年です。その先も働き続け、生きていけるようになるためには、やはりこの社会では「勉強」が必要です。もちろん「有名大学に入らなきゃ!」とか「医学部に行かなきゃ!」といった過熱してしまって、もはや何が目的だったかわからないような目的を彼ら彼女らが持つ必要はないにせよ、資格をとったり、専門職についていくためには勉強をしていくことが必要です。しかし、それを身に着けてもらう、というのは本当に途方もなく長い道のりです。嚮心塾でも諦めずにあれこれ手を尽くしたり、必死にやっているつもりですが、しかしほぼほぼ失敗している、というのが苦い現状です。
さて、受験業における「合格実績」というのはこの前者の子を鍛えるだけで獲得できるものです。また実際に顧客は前者の結果しか見ません。「東大合格!」「医学部合格!」「早慶合格!」を見て親御さんは塾を選ぶわけで、嚮心塾もこんな汚くて小さくて名前も怪しくて、という塾なので唯一この「合格実績」だけで何とかここまで16年存続しています。しかし、それらの合格実績の中で後者のグループからこのような結果を出せた例、というのは本当に数が少ないのもまた情けない事実です。(もちろん「中学受験で進学校に受かったけど中高ずっとさぼって学年ビリでした→医学部合格!」とかは結構あります。あるいは「すごく賢いけど勉強のやり方だけはわからなくて、勉強のやり方を教えたら偏差値40→75」とかもあります。しかしこれは基本的には後者のグループからの移動にはなっていないと思っています。有名な「ビリギャル」も基本的にはこのパターンでしかないと思っています)
逆に後者の子たちはほとんどの塾では教える側が努力するだけムダなのです。まず学習習慣をつけるまでが大変です。仮にそれが習慣づいてきたとしても、そこから勉強のやり方を教えるのが大変です。さらに、「そもそも勉強をしたら自分の人生にとって良いことが増える」ということも繰り返し話しては理解していってもらわなければなりません。そこまでの手間を考えれば、前者のグループの子と比べて、手間は5倍〜10倍くらいになってしまいます。しかし、です。ここまで手をかけたとしてもその子達が「合格実績」として次の生徒獲得につながるような結果を出せることは、本当に稀であるのです。
これらのことを鑑みれば、一番効率の良い塾・予備校経営は「できる子を伸ばし、できない子を放置する」であることがよくわかるでしょう。いわゆるサピックス方式ですね。「できない子は放置する」ではできない子が辞めていってしまうじゃないか、という心配は無用です。できない子の親御さんも「合格実績」は信頼しますから。「この塾から東大と医学部に合格しているのなら、今はうまくいっていない我が子もいずれそうなってくれるのでは…」と期待し続けてしまいます。もちろん、「その期待は浅はかで、うちの子には合っていない」と賢明な判断をできる親御さんも中にはいらっしゃるでしょう。しかしその割合は極めて少ない以上、「できる子を伸ばし、できない子を放置する」戦略が最も効率的な経営となります。
このような業界の事情を振り返ってみれば、この教育業という仕事は「お金持ちの資産をより増やす」仕事に携わる投資銀行やファンドマネージャーと質的に変わらないのではないか、と自嘲せざるをえません。これもまた、ブルシット・ジョブではないか、と。この仕事に社会における意味はほとんどありません。東大に受かる子は仮に僕が教えなくて東大に落ちたとしても早慶には受かるのですから。いやいや、個人的にそのような受験生は泣いて喜んでくれ、心からの感謝の念を伝えてくれるでしょう。しかし、それが自分の資産を投資銀行に増やしてもらったお金持ちよりは多少感情がこもっているとしても、それが社会における意味を担保することにはならず、本質的に無意味な職業です。(ちなみに教師も含めたcare-giverという対面で人と関わる仕事、というのはどうしてもこのような「個人的な感謝」を自らの仕事の価値に繰り込みがちである、という自己欺瞞的要素があると思っています。相手の感謝はあまり関係がありません。それはウォーレン・バフェットだって自分の資産が誰かのアドバイスで増えたら喜ぶでしょう。しかしバフェットの資産がこれ以上増えることは社会にとって意味のあることではありません(むしろ有害かもですよね)。)
かといって、学習習慣の無い子たちを何とか鍛えていこうという試みは絶えず失敗ばかりです。まず嚮心塾にとって退塾者のほとんどはこのパターンです。勉強に行き詰まり、勉強しなくなり、塾に来なくなり、そして辞めていきます。こちらとしてはあの手この手をやったとしても、彼ら彼女らの生活習慣や学習習慣を変えられる事自体がごくまれです。もちろん、決して諦めずに一人一人の人生を何とかしたいと思ってあれこれやっています。ときに東大受験生や医学部受験生を放っておいてまで。しかし、全くうまく行っておらず、結果としては放置して食い物にしている塾とあまり変わらないパフォーマンスしか示せていないようにも思います。そのようにあれこれやっていても、勉強に取り組めるようになる子がゼロではない、くらいでしょうか。
こうした後者の子たちを諦めるのは、教育自体をブルシット・ジョブにしてしまうことであり、それなら教育に携わるべきではないと思っています。一方で「諦めない」ことを言い訳に結果が出せないことを肯定しているのであれば、それはやはり「鍛えるべき子は鍛えているから」に逃げ込んだ卑怯な態度でしかありません。もちろん、この両者をそもそも両方真剣に教えるということが極めて難しいことではあるのですが、それでも諦めないだけではなく結果を残せるように、必死に次の手を考えていきたいと思います。
それとともに、業種によってマネタイズの評価基準が恣意的に偏っているこの社会の中で、自身の仕事を「ブルシット・ジョブ」にしないためには、やはりどのような業種についていようとも、「これが社会にとってどのような意味があるのか」を絶えず問うては、意味のあることに少しでも向けられるように努力していくしか無いのかな、と思います。もちろん今の「労働市場」の評価基準があまりにも偏り過ぎであることには同意します。保育士さんの給料とか、とても重要な仕事であるのにも関わらず、本当にひどい低さの給料です。ただ、それらを改善していくという社会運動は必要として、一方で完全に正当に評価できる社会もまた存在し得ないし、また存在するべきではない(なぜ存在するべきではないのかはサンデルの前掲本がわかりやすいかと)、とも思います。極端な格差を是正することが大切なのと同様に、それが仕事の価値とは結びついていない、という価値基準をもつこと、その上でさらに自分の仕事に価値は本当にあるのかをどのようにpriceをつけられているか、という以外の基準で絶えず厳しく見ていくことが大切なのではないか、と思っています。
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