
嚮心塾は2005年5月の創業です。当初から「講義ではなく勉強法を作っていく」塾として始めたわけですが、その頃にはほぼ他に見ることのなかった「講義はなく、勉強法を教える」という形の塾も今はだいぶ広まり、様々な塾が乱立しています。それらの塾にあまり興味はなく、指導がどのようなクオリティかもまあ推して知るべし、とは思うのですが、それでも「2(5)ちゃんねるしか受験情報がない」という状況に対して一つの選択肢を示した、という点ではプラスだったのかもしれません(まあ、それらの「勉強法」が「2(5)ちゃんねるの受験情報の切り貼り」以上の価値を提供できているのかはあやしいところですが)。特に大都市圏とそれ以外の地域での受験情報の格差、受験のための塾や予備校の格差というのは、東京に住んでいる人間には計り知れないほどに大きく、この点に関しては嚮心塾も何も貢献をできてこれていない、というのが恥ずかしながらの現状です。これについては目の前の生徒を教えていればよい、という思考停止に陥っていてはだめで、やはり東京以外の受験生にも良質な情報や指導を提供していく道を考えて準備していかねばならない、と今色々と具体的なプランを考えているところです(と公言しておかないと日々の忙しさにかまけてこれも進めていけなくなるので、ここで退路を絶っておきます!)。
さて、こちらの決意表明はさておき、こうした「勉強を教える」塾にとっては何がネックになるのか、ということを備忘録がてら書いていきたいと思います。「講義形式より自分の足りないところをダイレクトに学習できるので、学習効率が圧倒的に高い!」はそのとおりであると思っているからこそこの形式をこちらでもずっと探究し、磨き上げていっているつもりなのですが、それでも安易な期待をさせてしまうような宣伝が巷に溢れているからこそ、この形式の問題点をいくつか書いていきたいと思います。
①学習計画は、立てられない。
のっけから常識を否定するようで申し訳ないのですが、学習計画は立てられません。これはこうした「勉強法を教える塾」というのが「一人でやってしまうとどうしても自分に甘くてペースが遅くなってしまう」という受験生の悩みというニーズへの対応から生まれているからこそ、「学習計画が肝心だ!」ということで安心させるために学習計画の精密さや進捗管理を売りにしているところが多いと思うので、「それなら意味ないじゃん!」と受験生は思うかもしれません。
ただ、たとえば数学なら数学で「1日何ページこの問題集を進める」という計画は不可能です。それは、一つ一つの分野についての自分の理解度がそれぞれ異なるからこそ、機械的にページ数を決めることはわかっていない分野を雑にやるか、あるいは容易に達成できる意味のない目標か、どちらかしかできません。
また、「1日何ページこの問題集を進める」という形の学習計画の一番の問題点は、その問題集しかやらなくなる、ということです。たとえばその分野があやふやなところが多い場合、教科書に立ち戻って復習する時間を作って初めて勉強になります。それは問題集のページ数を目標にした場合、むしろそのような立ち戻る勉強は「目標達成の足を引っ張るもの」として排除されていってしまいます(このあたりは会社でも数値目標の導入がかえって数字にならない仕事を皆が忌避することに繋がって、結局は全体としての生産性が落ちてしまうというのと同じですよね)。
もちろん「学習計画はそうした諸々の細かい点はとりあえず措き、大雑把な目標としてペースメーカーとして機能すれば良い!」という主張もありうるでしょう。ただ、この主張は、学習計画の遅れをどう評価するのか、という難問を残すことになります。それが勉強方法の洗練や踏まえるべきステップを踏まえていった結果としての学習計画の遅れであればむしろ肯定的に評価し、サボりであれば否定的に評価する、ということが精密にできればいいのですが、そうでなければ「計画を達成すること」という目標が「勉強法に関してはむしろ無意味なやり方を強いることになる」という失敗に繋がります。一方で「「正しい」勉強法をしっかりと初めに教え込んで、そこを踏まえながらであれば計画はいくら遅れても良い」という方針をとるのなら、計画自体が無意味なものとなります。
実際には学習計画と学習方法は一体のものであり、計画→方法の改善→再び計画→方法の改善→…の連鎖が無限に続いていくからこそ、「学習計画を初めに立てる」という行為自体が「他者があなたの学習にコミットしますよ」というシンボル以上の意味を全く持たない無駄な行為である、と思います(これはこうした塾だけでなく、中学や高校でも「学習計画」を立てさせることが大好きなのですが、それも大きな間違いだと思っています)。このように学習計画は勉強の進捗や進めた勉強の中で新たに出てくる問題点への対応、という意味で日々刻々と変えていかねばならないものです。それがわかっていないままに、「我々プロが「合格するための学習計画」を立てるからそれに従えば大丈夫!!」というのは詐欺的だと思います。
では、どうしたらよいのか、ということに関して嚮心塾では勉強計画ではなく、「勉強記録」をお薦めしています。日々の勉強の内容をその日のうちにメモしていき、どういったことに時間がかかったのか、どういったことはまだ復習しなければならないのか、そういったノートを継続的につけていくだけで勉強方法については非常に洗練されていくと思います。それを信頼できる指導者と共有しながら一緒に考えていけるのであれば、なおさらです。
さらにいえば、です。僕はこの仕事をして25年以上、嚮心塾を開いてからでも16年やっています。このような一人一人の学習全般についての相談は恐らく誰よりも受けてきたと思います。その僕であれ、面談→成績表→ちょっとしたヒアリング→志望校→「さて、これからやるといいよ!」と正確な学習計画を立てられるかと言えば、立てられません。というと、嚮心塾での指導全般の信用を失ってしまいますが、もちろん「まずはこれからやるほうがいい」という仮説を立てることくらいはできます。しかし、その勉強がその子に合っているのか、どういう部分ではさらに遡らなければならないのか、どういう部分では逆に先に進まなければならないのか、それらを踏まえて最初に選定した教材をやり続けることがかかる時間に対して学習効果が見込めるかどうか、などは実際に勉強しているときどういうところで困るか、どういったことに引っかかって質問をしてくるか、質問に対してこちらがどのレベルの説明をしたときにどういう反応があるか、など細かい情報を絶えず仕入れながら、修正していかざるをえません。これだけ長いことこの方法で教えていてもなお、初手から精密にフィットさせられる計画を立てられる自信はありません。やはりこれは、仮に指導者に神のような認識能力があったとしてもなお、学習者自身にしかわかっていない、いや、学習者自身にすらわかっていない認識のひっかかりが必ずあるからです。それほどに計画を立てるのは難しいことであると思います。
だからこそ、勉強法や勉強計画というのは上から押し付けて「これをやれば大丈夫!」ということは不可能です。指導者と学習者がともに絶えず相談しながら一緒に作っていくしかないものであるのです。もちろん、学習者は基本的に不安な状態からスタートするので、「こう進めていれば大丈夫!」的なアドバイスをプラセボ的に投与することが必要な段階も初期にはあります。しかし、そのままのスタンスでの指導を貫き続けるのは、学習者の不安につけ込んでは月謝だけ貰えればよい、という指導者でしかないでしょう(ちなみにこの「学習計画」が売りである塾ほどに、与えられた学習計画がフィットしないという生徒からの訴えに対して、他のプランを用意するコストがとても大きい、という問題点もあります。基本的にこうした基本的なプラン以外の代替プランを大学生講師などが立案することは難しく、その点でも「今のプランを信じて頑張ればきっと結果が出るから!」という慰めに力を入れられることになってしまいます。そこでは本当に「信じて頑張れば大丈夫」かどうかは吟味されることなく、これ以上指導にコストをかけないために既存の計画が強要されることになります)。
そして事実として、そのように指導者が「これをやっておけば大丈夫!」を押し付け、学習者がそれを盲信することで頑張る、という形式の学習スタイルでは、受からないのです。それは当たり前で、学習者がその定型的な学習をしていくときに感じる「内なる声」という違和感を押し殺しては学習することになってしまうからです。
ソクラテスやニーチェですら、その「否定の叫びを発する内なる声」には従ったわけですから、「とりあえずこれやっておくとよいよ!」という学習をさせられたときに学習者が感じる「これで勉強になってるのかな?」という違和感を押し殺させてでも「俺の指導方法や計画が正しい!」と学習者に押し付けられるのは、ソクラテスやニーチェ以上の賢人か、あるいは学習者の学習や受験の成功をあまり考えていない指導者なのではないでしょうか。前者が人類の中にそんなには存在しないことは確かであるとすると、結論はわかりやすいかと思います。(もちろんこれは、生徒の違和感が全て正しい、ということではありません。ただ、その違和感一つ一つには今必要な学習が何かについての重大なヒントが隠されている可能性が高い、ということに敬虔な態度をとれない指導者はあまり優秀ではないか、学習者の向上にはあまり関心がない、ということです)
さて、次は②!と書こうと思ったら、なんですか!この字数は!!
だいぶ雑駁に書いたつもりなのですが、それでもこの長さになるのに、もう自分でもドン引きです。
また続きは次回にまわしたいと思います。
さて、こちらの決意表明はさておき、こうした「勉強を教える」塾にとっては何がネックになるのか、ということを備忘録がてら書いていきたいと思います。「講義形式より自分の足りないところをダイレクトに学習できるので、学習効率が圧倒的に高い!」はそのとおりであると思っているからこそこの形式をこちらでもずっと探究し、磨き上げていっているつもりなのですが、それでも安易な期待をさせてしまうような宣伝が巷に溢れているからこそ、この形式の問題点をいくつか書いていきたいと思います。
①学習計画は、立てられない。
のっけから常識を否定するようで申し訳ないのですが、学習計画は立てられません。これはこうした「勉強法を教える塾」というのが「一人でやってしまうとどうしても自分に甘くてペースが遅くなってしまう」という受験生の悩みというニーズへの対応から生まれているからこそ、「学習計画が肝心だ!」ということで安心させるために学習計画の精密さや進捗管理を売りにしているところが多いと思うので、「それなら意味ないじゃん!」と受験生は思うかもしれません。
ただ、たとえば数学なら数学で「1日何ページこの問題集を進める」という計画は不可能です。それは、一つ一つの分野についての自分の理解度がそれぞれ異なるからこそ、機械的にページ数を決めることはわかっていない分野を雑にやるか、あるいは容易に達成できる意味のない目標か、どちらかしかできません。
また、「1日何ページこの問題集を進める」という形の学習計画の一番の問題点は、その問題集しかやらなくなる、ということです。たとえばその分野があやふやなところが多い場合、教科書に立ち戻って復習する時間を作って初めて勉強になります。それは問題集のページ数を目標にした場合、むしろそのような立ち戻る勉強は「目標達成の足を引っ張るもの」として排除されていってしまいます(このあたりは会社でも数値目標の導入がかえって数字にならない仕事を皆が忌避することに繋がって、結局は全体としての生産性が落ちてしまうというのと同じですよね)。
もちろん「学習計画はそうした諸々の細かい点はとりあえず措き、大雑把な目標としてペースメーカーとして機能すれば良い!」という主張もありうるでしょう。ただ、この主張は、学習計画の遅れをどう評価するのか、という難問を残すことになります。それが勉強方法の洗練や踏まえるべきステップを踏まえていった結果としての学習計画の遅れであればむしろ肯定的に評価し、サボりであれば否定的に評価する、ということが精密にできればいいのですが、そうでなければ「計画を達成すること」という目標が「勉強法に関してはむしろ無意味なやり方を強いることになる」という失敗に繋がります。一方で「「正しい」勉強法をしっかりと初めに教え込んで、そこを踏まえながらであれば計画はいくら遅れても良い」という方針をとるのなら、計画自体が無意味なものとなります。
実際には学習計画と学習方法は一体のものであり、計画→方法の改善→再び計画→方法の改善→…の連鎖が無限に続いていくからこそ、「学習計画を初めに立てる」という行為自体が「他者があなたの学習にコミットしますよ」というシンボル以上の意味を全く持たない無駄な行為である、と思います(これはこうした塾だけでなく、中学や高校でも「学習計画」を立てさせることが大好きなのですが、それも大きな間違いだと思っています)。このように学習計画は勉強の進捗や進めた勉強の中で新たに出てくる問題点への対応、という意味で日々刻々と変えていかねばならないものです。それがわかっていないままに、「我々プロが「合格するための学習計画」を立てるからそれに従えば大丈夫!!」というのは詐欺的だと思います。
では、どうしたらよいのか、ということに関して嚮心塾では勉強計画ではなく、「勉強記録」をお薦めしています。日々の勉強の内容をその日のうちにメモしていき、どういったことに時間がかかったのか、どういったことはまだ復習しなければならないのか、そういったノートを継続的につけていくだけで勉強方法については非常に洗練されていくと思います。それを信頼できる指導者と共有しながら一緒に考えていけるのであれば、なおさらです。
さらにいえば、です。僕はこの仕事をして25年以上、嚮心塾を開いてからでも16年やっています。このような一人一人の学習全般についての相談は恐らく誰よりも受けてきたと思います。その僕であれ、面談→成績表→ちょっとしたヒアリング→志望校→「さて、これからやるといいよ!」と正確な学習計画を立てられるかと言えば、立てられません。というと、嚮心塾での指導全般の信用を失ってしまいますが、もちろん「まずはこれからやるほうがいい」という仮説を立てることくらいはできます。しかし、その勉強がその子に合っているのか、どういう部分ではさらに遡らなければならないのか、どういう部分では逆に先に進まなければならないのか、それらを踏まえて最初に選定した教材をやり続けることがかかる時間に対して学習効果が見込めるかどうか、などは実際に勉強しているときどういうところで困るか、どういったことに引っかかって質問をしてくるか、質問に対してこちらがどのレベルの説明をしたときにどういう反応があるか、など細かい情報を絶えず仕入れながら、修正していかざるをえません。これだけ長いことこの方法で教えていてもなお、初手から精密にフィットさせられる計画を立てられる自信はありません。やはりこれは、仮に指導者に神のような認識能力があったとしてもなお、学習者自身にしかわかっていない、いや、学習者自身にすらわかっていない認識のひっかかりが必ずあるからです。それほどに計画を立てるのは難しいことであると思います。
だからこそ、勉強法や勉強計画というのは上から押し付けて「これをやれば大丈夫!」ということは不可能です。指導者と学習者がともに絶えず相談しながら一緒に作っていくしかないものであるのです。もちろん、学習者は基本的に不安な状態からスタートするので、「こう進めていれば大丈夫!」的なアドバイスをプラセボ的に投与することが必要な段階も初期にはあります。しかし、そのままのスタンスでの指導を貫き続けるのは、学習者の不安につけ込んでは月謝だけ貰えればよい、という指導者でしかないでしょう(ちなみにこの「学習計画」が売りである塾ほどに、与えられた学習計画がフィットしないという生徒からの訴えに対して、他のプランを用意するコストがとても大きい、という問題点もあります。基本的にこうした基本的なプラン以外の代替プランを大学生講師などが立案することは難しく、その点でも「今のプランを信じて頑張ればきっと結果が出るから!」という慰めに力を入れられることになってしまいます。そこでは本当に「信じて頑張れば大丈夫」かどうかは吟味されることなく、これ以上指導にコストをかけないために既存の計画が強要されることになります)。
そして事実として、そのように指導者が「これをやっておけば大丈夫!」を押し付け、学習者がそれを盲信することで頑張る、という形式の学習スタイルでは、受からないのです。それは当たり前で、学習者がその定型的な学習をしていくときに感じる「内なる声」という違和感を押し殺しては学習することになってしまうからです。
ソクラテスやニーチェですら、その「否定の叫びを発する内なる声」には従ったわけですから、「とりあえずこれやっておくとよいよ!」という学習をさせられたときに学習者が感じる「これで勉強になってるのかな?」という違和感を押し殺させてでも「俺の指導方法や計画が正しい!」と学習者に押し付けられるのは、ソクラテスやニーチェ以上の賢人か、あるいは学習者の学習や受験の成功をあまり考えていない指導者なのではないでしょうか。前者が人類の中にそんなには存在しないことは確かであるとすると、結論はわかりやすいかと思います。(もちろんこれは、生徒の違和感が全て正しい、ということではありません。ただ、その違和感一つ一つには今必要な学習が何かについての重大なヒントが隠されている可能性が高い、ということに敬虔な態度をとれない指導者はあまり優秀ではないか、学習者の向上にはあまり関心がない、ということです)
さて、次は②!と書こうと思ったら、なんですか!この字数は!!
だいぶ雑駁に書いたつもりなのですが、それでもこの長さになるのに、もう自分でもドン引きです。
また続きは次回にまわしたいと思います。
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