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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「学校」という名の宗教。

ご無沙汰をしてしまいました!あまりにもバタバタと忙しく…はいつも通りなのですが、今年は5月の時点で完成度の高い受験生を多く抱えているので、いわゆる微調整に丹念にかける時間がこの時期からかなり一人一人にかかっています。受験勉強というのも、勉強し始めはそれこそ方針とかなんか悩んでないで、とりあえず何でもいいからどんどん勉強していけばしていくほどに力が付きます。それは当たり前で「未開の荒野」が目の前にあるからこそ、とりあえず片っ端から耕していけば実力がつくわけです。ただ、勉強が進めば進むほどに、どのように何を勉強していくか、がとても難しくなります。「今までにこれをやって力がついたから!」というものを墨守していけばよいのか、それともそれを繰り返してももうその方向のトレーニングはsaturateしてしまっているので、また別のものをやるべきなのか、を考えることはとても難しくなり、まさにそこにこそ教師の腕が問われます。そのような微調整にこの5月から入れている受験生が多い、というのはありがたいことです。

さて、塾をやっていていつも感じるのは生徒の「真面目さ」です。これはつまり、学校の先生の言うことを皆かなり真面目に聞き、その指示をしっかりと守ろうとし、そして出された宿題は他の勉強よりも最優先でこなそうとする、ということです。

これは一見美徳に見えますし、ご家庭でもそれをまずは優先していればよい、という教育方針のおうちも多いのですが、実際にはそこで出される課題が的外れであったり、とてつもない労力と時間を生徒に供出させながらも、何も力のつかないものであったり、というケースがとても多いのです。このような場合、真面目に先生の言うことを聞いて、写経のような宿題をひたすらこなしたり、自分が手も足も出ないような問題集の解答をひたすら写す、ということに彼らの勉強時間は費やされます。そこから、「じゃあ受験に向けて勉強頑張ろう!」なんて余力がある子の方が珍しく、結局彼らの勉強時間は一切頭を使わない「作業時間」で終わります。それをいくら続けても、忠誠心を問うような定期試験であればなんとかなったとしても、受験では確実に通用しません。

ですから、塾でまず初めに一人一人の生徒に徹底するのは「学校の先生の言うことを信じるな。」ということです。もちろんここで「僕の言うことを信じろ!」となってしまうと、インチキカリスマ講師っぽくなってしまいます。そうではなく、その勉強が自分にとってどのように役に立っているのかを常にチェックしては考える習慣をつけていってもらえるように塾では工夫をしています。たとえば僕が勉強法について指導するとき、「こうした方がいい!」ということを伝えて強制するだけではなく、「なぜこうした方がいいか、わかる?」という問いを必ずはさんでいきます。そのような問いに対して考えていくこと、答えようとしていくことが、自分自身にとってどのような勉強が必要であるのかを考える習慣をつけ、そしてやがては自分から「この科目についてこういうところが自分は弱いから、こういう勉強をした方がいいかと思うんだけど、先生どう思う?」というように提案ができるようになっていきます。そのようになって初めて、受かる受験生になっていきます。逆に言えば、僕の「この科目はこうした方がいい!」だけを聞いているだけでは、学校の先生のアホな宿題やアホな勉強法の指示に従っているときと大して内実は変わらない、ということになってしまいます。ただ学校の先生よりは僕のほうが受験のことをよく知っている指導者である、というだけで、自分で考える力がないのであれば、そのような受験は無意味ですらあります。

もちろん教える側の人間は「とりあえずフォーカスゴールドのここからここまで全部解いてきて!(解けるわけないので、答えを写すことになります)」とか「とりあえずNextageやVintageを繰り返し解いてれば英文法は大丈夫だから!(理解もしないで覚えるだけになるので、当然そんな勉強何の役にも立たずにすぐに忘れます)」のような、むちゃくちゃな指示をしないように、どのような勉強が今、目の前の子たちにとって必要なのかを絶えず考え抜き、必死に探し続けねばなりません。それは教える側が果たさなければならない義務です。(それにしてはどこの学校のどの先生も自分の指導がどのように効果を上げたかのフィードバックから反省を得ているとは思えないような、判で押したような勉強不足のアドバイスが多いのは残念ですが)

しかし、一方でどのように考え抜き、勉強を続けたとしてもなお、その受験生にとってどのような勉強が必要であるのかを教える側が見抜いてはアドバイスすることはとても難しいことです。そのことだけを考えて必死に頭を働かせている僕ですら、驚くようなことが実はその受験生に抜けていて、そこを気づかずに勉強を進めさせてしまう、ということの苦い失敗の繰り返しを日々しています。それはまた、一人一人の受験生の思考回路や精神構造の内実を他者からは完璧には把握しきれない、ということの限界でもあるのだと思います。

もちろんその限界に教える側はチャレンジし続けなければならないわけですが、それ以上に大切なのは、自分に何が必要なのかを探し、考え続ける受験生へと鍛えていくことであると思っています。その姿勢を身につければつけるほどに「自分ではこういうところ、テキトーになってるんだけど、これで大丈夫かな?」という愁訴を受験生の方から小さなことでも相談してくれるようになります。そのように自分の勉強の仕方を疑い、学校の先生の指導を疑い、最終的には僕の指導をも疑えるようになった受験生はとても心強く、そして実際に合格していきます。


こうした教育のプロセスはまた、単に受験の成功のために必要というだけではなく、自分の人生を理不尽なものへと殉じさせないために大切なことであると思っています。たとえば、日本では企業内熟練があまりにも大部分を占め、企業間を横断する職務としての熟練が弱いことが転職ということのリスクを高め、一つの会社にしがみついていることが労働者にとっては一番合理的な行動である、というのが長らく日本の企業社会でした。このような社会では、自分の所属する組織に従い続けるために、その組織の持つ致命的な欠陥や不正に対しては、目をつぶるしかない、という行動様式を促進してしまいます。

学校もまた、そのように学校の中でしか通用しない「定期試験のための勉強」を強要してくるシステムです。それに殉じては、結局自分の人生が行き詰まってしまったときに「真面目に言う事聞いてたのに!話が違うじゃないか!」と後から抗議しても、それを学校の先生達が責任を取れるわけではありません。もちろんそのlocalでしか通用しない「熟練」が内申点や推薦制度で何とか面目を保てたとしても、結局は実力がないことを学歴で粉飾する人生にならざるをえなくなります。それはやはり、不幸ではないでしょうか。

そして、そのようにlocalな力しかもてない場合には、自分の所属する組織にしがみつくしかなくなり、それはまたその式が前提とする様々な不正や暴力に対しては、批判をすることが不可能になります。卒塾生たちにどのような大人になってほしいのか、勝手ながらこちらの願いや思いを込めるのであれば、「各界で活躍する」とか「有名になる」とかではなく、僕はやはり自分の心に嘘をつかずに生きられるような大人になってほしい、と思います。そして、そのためには、localではない力が必要になります。それを「学力」と呼ぶのか、「人間力」と呼ぶのか、はたまた他の言葉で呼ぶのかはどうでもよいのですが、少なくとも学校の先生の言葉も僕の言葉も疑い、吟味しては考え抜く力をつけていけることは、必ずそのようなuniversalな力になると思っています。

付け加えれば、学校の先生方には、まずは宗教のようにあなた方の言葉を信じている子たちの信頼をせめて裏切らないように、何が目の前の生徒の勉強に必要なのかを必死に悩んでいただきたい、と思っています。「この問題集をやっておけば難関校と同じものだから親からクレーム来ない!」とか「入試問題さえ解かせていれば、『入試対策きちんとしてる!』ということで生徒からクレームこない!」ということばかりを気にするのではなく、ですね。(こう考えてみると、学校の先生方だけでなく、親御さんやあるいは半可通の中高生のリクエストにも大きな問題があるとは思います。ただ、これに関しては先生、親、生徒の三者三様の思考停止の産物でそのような無意味な指導が温存されている、とも思っています。「難しい学校でやっている教材をやれば自分たちも実力がつく!不安にならない!」という自己満足のために、多くの努力と時間が浪費されていると思います。まずはそこから生徒自身が脱していくことが大切ですね。)
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