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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

立ち位置を決めることの功罪について。

今年は受験生が多いので大変だなー、とは思っていたのですが、予想以上に大変です!!
これは12月、1月、2月なんてどうなっちゃうのか、ちょっと想像しちゃうと辛くなるので…。という感じで一日一日に集中しています。

さて、立ち位置を決める、という振る舞いが賢いことや戦略的であるかのように語られる風潮、というのはありますよね。「競合を避け、自分の強みをどう活かすか」を分析することで生き残ることができる、みたいな。ビジネス界隈ではよく言われることですし(使い古された「レッドオーシャン」「ブルーオーシャン」とか)、政党なんかも立ち位置を決めて、「こんな主張だと受け皿になってる政党ないんじゃね?」と考えては自党の主張をそちらに寄せていく、とかよくあることです。新しい国民民主党とかはそういう感じですよね。

ただ、この「立ち位置を決める」というのは一見賢そうに見えて、色々と問題があると思っています。
なぜなら、生き延びていくために相対的にどの位置取りをするか、という行動様式はどうしても自分自身の初期衝動や理念からは遠いものになることを肯定せざるを得ないからです。

「そうは言っても、生き延びるためには仕方がないんだ!」と開き直ることはできるでしょう。しかし、自分が当初大切にしようとしていた理念や思いを捨ててまで生き延びることに何の意味があるのでしょうか。そのようにして、「生き延びる」ことを目的としては何のために生き延びるのかがよくわからないようなゾンビ状態になりがちな組織、あるいは個人、というのは山程います。

言い換えれば、立ち位置を決める、というのは自身が生き延びることを前提にした態度であるのです。まさに自分が存在しないことを想定していないわけですから。しかし、どのような個人も、どのような組織も、いずれ存在しなくなります。そうであれば、自らが生き延びるために立ち位置を考えていく、ということが自らが生きるに値いする目的を損なうのかどうかを我々は常にチェックしていなければならない、ということになります。そうでなければ、必死に立ち位置を探しては決めたものの、そこに存続し続けるものはガラクタどころかむしろ有害無益なものでしかない、ということになりかねません。

一方で、自らの死、あるいは自らの消滅によって自分が生存していたことに何らかの価値を付与しようとすることもまた、傲慢であるとも言えるでしょう。死や消滅は、どのように自らの存続を「美しく」閉じようとも、何らかの価値を新たに付与するものではありません。「醜く生き延びるのであれば、美しく死にたい!」という思いは正しいとしても、それは「死ぬ」ことがそれまでの自分の人生を美しいものへと粉飾することには繋がり得ない、という事実にも思いを馳せねばならないと思っています。

だからこそ私達は生き延びるために自らの志を失う危険性に絶えずさらされながら、かといってその難しさに耐えかねては綺麗に閉じるために死を選ぶことすらできない、ということになります。全く、どんな厳しい罰ゲームであるのか、ですよね。生き延びることだけを自己目的化する方向に堕落することは容易であり、「生き延びない」という決意を見せることで空虚な自分の人生に価値づけをできたかのように錯覚することもまた、容易です。そのどちらにも陥ることなく、日々敗北し続け、失敗し続けては、何とか意味のあることを為そうともがき続ける、というこの罰ゲームは、私達人間の忍耐力のキャパを凌駕してしまっているのでしょう。

しかし、それでも。そのように細い細い綱渡りを、悩みもがき苦しみながら必死に取り組んでいる先達や同時代人がいる以上は、諦めるわけにはいきません。僕自身は、上記のような人生の全体像に気づき始めた頃(高校生)は、「いかに自分がそのような細い細い綱渡り」を諦めてよいか、それをどのように正当化できるか、に傾注していたときでした。「そんなしんどいことをやって生き続けている大人なんか、まわりにはいない!」ということを理由にして、ですね。ただ、数は少ないながら、そのような大人が僕の周りにも一人いちゃったんですよね。いちゃったからには、やらないわけにはいかない。そのように始めてみれば、いやいや。もちろん絶対数としては圧倒的に少ないながらも、しかし、そのようにしんどい道を諦めることなく闘い続ける大人がどれほどいるか、ということに気づき続けることになりました。彼ら彼女らのもがき苦しみとともに。

自分が生徒たちにとってそのような存在になれているかどうかは自信がないところではありますが、今はなれていないとしても、そのようになることを諦めたくはないと思っています。もちろん、そのような存在に僕がなることが、彼ら彼女らにとって極めて迷惑である(ジャン・バルジャンにとって馬車の車輪を直してしまう人のように)ともわかった上で、ですね。

立ち位置を決めることが、既存の社会の中に自らを位置づけようとすることであるのだとしたら、自分が信じる道を歩き続ける、ということは、新たな社会を準備していくことであると思っています。もちろんその「新たな」社会がより良いものになるかどうかは、以前にも書いたとおり、わかりません。「新たな」という言葉が引き起こす幻想でごまかしては前に勧めても仕方のないことではありますが、少なくともそれがこの社会よりはより良いものになるように、という祈りを込めて努力をすることと、それが本当に良くなるのかの検証作業はできるかと思っています。そのどちらもが、(僕も含めて)既存の社会の厚顔無恥さに苦しむ人々にとっては生きる目的になるとは思っています。

賢さ、と対立する概念は愚直さであるのでしょう。この社会に足りないのは、賢さではなく、愚直さである。
そのことを伝えられるように、僕自身がまずは愚直にやっていきたいと思います。
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