
日々忙しくしているのはもちろんなのですが、この9、10月はどうにも絶望するきっかけが多く、精神的にも大変不調でした。もちろん、「絶望するきっかけ」というのはそのようにも解釈しうる、というだけで、絶望するという行為を必然的には意味していません。ただ、自分の中で様々な対象に認識が進んでいくことと、一方で目の前で見せられる幼稚さ、拙さ、考えの足りなさ、覚悟のなさの一つ一つ(それはもちろん他者のだけではなく、自分自身のそれをも含めてです。)とその認識とのギャップとに、だいぶ苦しんでいたと思っています。
もちろん今もまたその状態が何かしら解決するどころか改善はしていないです。むしろ展望としては生き続ければ生き続けるほどに悪化するしかないことではあるのですが、「生き続ければ生き続けるほどに、この乖離は拡がり続けるしかない」という認識を再確認できた上で、生き続けることに日々決断を要するということが(物心ついた頃から変わらず)僕にとっては当たり前のことである、と気づけたのは良かったと思っています。
生きるとは、自分が「根っこ」として大切にしよう、と思っていた部分がいかに空虚で軽薄であるかを気づき続けることであるとともに、しかし自分はいかにその空虚で軽薄な根っこからは逃げることができないか、という事実を直視し続けることであるとも思っています。気づかないようにすることも、気づいて放棄することも、それは生きることを辞めることであると思っています。その「(根っこの)掘り直し」のプロセスが、ときには必要であると思っています。
これだけ書くとご心配をおかけするかもなのですが、まあ平常運転ですね!
さて。受験生の中でスタディサプリとかN予備とか、映像授業のサブスクリプションをとっている子も多いとは思います。映像授業といえば、東進が先駆けなのでしょうが、これだけ安価で日本全国に広がってきていることは基本的には素晴らしいことであると思っています。コロナ禍での大手予備校の映像授業へのシフトは中途半端に終わってしまいましたが、これはとても残念なことであると思っています。もちろん「ライブ講義」でなければ質が担保できない、という超・超一流講師の方も存在するとは思うのですが、参加者に応じて毎回毎回違う授業をできる超・超一流講師の方、というのは基本的にはそう多くはないと思うので、基本的には動画の方がむしろ何回でも再生できて生徒がわからないところを繰り返せる、という点でも優れていると僕は思います。
もちろん映像授業の著作権は誰にあるのか、とか報酬はライブ授業と比べてどうするのか、とか、クリアすべきところはあって、それが急速に進んでは現在頑張っておられる予備校講師の方の生活が脅かされるのであれば、それは問題であると思います。そういった点はクリアしていかねばならないとは思います。(まあ、それを言うならそもそも学校の講義とかすべて動画でよくない?というのはあります。動画なら先生にやる気のない/力のない講義は見ないこともできますからね!)
ただ、嚮心塾がオンラインで存続することについては、不可能であると思っています。この形式の受験勉強というのを東京に住んでいる人だけではなく全国に広められれば地域間の教育格差は必ず縮小できる(なぜなら低コストな勉強方法であるからです)と確信しているのですが、僕自身、生徒の立ち居振る舞い、表情、行動パターン、言葉の使い方、お菓子の食べ方、視線の動かし方など、様々な情報を観察、収集した上で、どのようなアドバイスをしていくのかを考えています。これをオンラインでZOOMなどを使って行うのは無理である、と思います。
もちろん、それを「嚮心塾」である、と再定義をすれば可能であるでしょう。コンビニで売っている「名店の味」のカップラーメンのように、ですね。それは広告となり、認知度を上げることにもなるでしょうし、更にはクオリティに目をつぶれば儲かることにもなるでしょう。いえいえ。大義名分だって立ちます。世間に溢れかえっている眉唾の、主語の限定性への意識薄弱でそれを唱える人間の知性を疑わざるを得ないような「東大生の勉強法」的な粗悪な情報よりは、まともなものを提供できることもまた事実ではあります。しかし、それは僕が人生を費やすべきことではありません。
教育というのは本当に難しいものです。一人一人に対してその子の状況に応じて良かれと思うアドバイスをする、などというのは当たり前の当たり前の当たり前のこと(もちろんそれですら、ほぼどこの高校でも予備校でもできていないわけですが)で、それをしたとしても、どのような部分で引っかかり、どのように理解しているのか、その「誤解」や「理解」の一つ一つをときほぐしていかねばならない、という課題が絶えず残り続けます。本人が努力を怠るのならまだしも、本人も教師も必死に努力してもなお、伝えられないものが残り、伝わっていると思っているものが誤解され、そして結局それが受験の失敗という形で現れます(もちろん、受験には成功したとしても人間としての教育という部分での失敗が残る、というケースまで含めれば、なおさら難しいです)。
その難しさに目をつぶり、あたかも「このやり方さえ踏まえれば、大丈夫!」と断言するという粗雑な行為を、受験生へのプラセボ効果を期待しているというこれまた大義名分のために自分に許し、そのやり方をその一人の受験生がどのように踏まえられないのか、どうして踏まえてもうまくいかないのかについては思考停止をした上で、「自分は最善の方法を提示している!(からそれ以上は本人の責任だ!)」と開き直るのが教育であるのであれば、そのような教育など滅びた方がいい。しかし、僕はあまり自分を信用していません。コンタクトレンズではなくメガネをしているだけでもレンズの向こう側とこちら側とを分けては自分の思考に籠もりたいくらいに、本来的には他者への関心を持っていません。そんな僕が、画面を通して得られる限定的な情報に「歯がゆさ」を感じないために、ここまでに書いた様々な大義名分で自分を説得し始めては粗悪なものを垂れ流しては、自分と生徒との間の認識の齟齬に悩まなくなるのにも、そう時間はかからないでしょう。
少子化が進み、さらにコロナ禍でリモートが進み、という中でこの「直接来てもらう」「対面で教える」という教え方はいずれ絶滅するのでしょう。それが来年なのか、5年後なのか、10年後なのか、もうちょっと猶予があるのかはわかりません。ただ、そこで「先を読む」ことをして、そこに対応できるように仕事の形態を変えていく、ということがそもそもその仕事の意義を損なうものだとしたら、そこで「先を読む」ことは、「ここに意味がある!」と思って始めた仕事を、それが生計を立てるために必要だという理由で、意味がなくても続けることになってしまいます。そのような仕事には、あるいはそのような人生には、僕自身はあまり意味がないと思っています。もちろん旧態依然とした今までの有り様をただ惰性ゆえに変えたくない!としがみつくのもまた愚かな振る舞いです。ただコロナ禍で「新しい生活様式」「新しい仕事の有り様」と「新しい」を連呼しては、今までのやり方の意味や限界についてしっかりと考えることを排除していこうとするこの流れは、やはり僕には全体主義的である、としか思えません。
「新しさ」や「前衛的」、「先」を何か価値があることの根拠として語る人間、というのは、基本的には詐欺師です。「改革」ブームに国民が踊らされた結果、郵政民営化によってとうとう土曜日の郵便配達までなくなるそうですね。これが我々が望んでいた結果なのでしょうか。「新しさ」は決して、何もその新しいことの価値を保証しません。新型コロナによって我々が距離を保った生活を強いられるとして、それを「新しい生活様式」と呼んでは何かそれに対応できることが偉いかのように振る舞うのは、それが我々が自発的に選ぶべき価値があるものであるかのように宣伝することで、政府自身の無作為から目を逸らさせるためのものです。
「先を読む」ことが、自身が何を大切にしていたのかを失うことに繋がるのであれば、目的を忘れて生存し続けることを自己目的にすることになってしまいます。また、「先を読まない」で旧態依然とした制度にしがみつく人間であることを恐れるあまり、「先」や「新しさ」に何らかの価値があることを当然の前提として生きるのは、自身が嫌悪した旧態依然とした人間と同じく思考停止している状態でしかない、と言えるでしょう。ことほどさように、人間にとって考え続けることは難しい。人間は自身が考え続けないですむためのあらゆる逃げ道を探し続けている、とも言えるのだと思います。
そのような愚かしさに塗れたこの我々の歴史の中で、考え続けようともがき続けることは苦痛と苦悩しか生み出さないとしても、それでも考え続けていかねばならないと思っています。
もちろん今もまたその状態が何かしら解決するどころか改善はしていないです。むしろ展望としては生き続ければ生き続けるほどに悪化するしかないことではあるのですが、「生き続ければ生き続けるほどに、この乖離は拡がり続けるしかない」という認識を再確認できた上で、生き続けることに日々決断を要するということが(物心ついた頃から変わらず)僕にとっては当たり前のことである、と気づけたのは良かったと思っています。
生きるとは、自分が「根っこ」として大切にしよう、と思っていた部分がいかに空虚で軽薄であるかを気づき続けることであるとともに、しかし自分はいかにその空虚で軽薄な根っこからは逃げることができないか、という事実を直視し続けることであるとも思っています。気づかないようにすることも、気づいて放棄することも、それは生きることを辞めることであると思っています。その「(根っこの)掘り直し」のプロセスが、ときには必要であると思っています。
これだけ書くとご心配をおかけするかもなのですが、まあ平常運転ですね!
さて。受験生の中でスタディサプリとかN予備とか、映像授業のサブスクリプションをとっている子も多いとは思います。映像授業といえば、東進が先駆けなのでしょうが、これだけ安価で日本全国に広がってきていることは基本的には素晴らしいことであると思っています。コロナ禍での大手予備校の映像授業へのシフトは中途半端に終わってしまいましたが、これはとても残念なことであると思っています。もちろん「ライブ講義」でなければ質が担保できない、という超・超一流講師の方も存在するとは思うのですが、参加者に応じて毎回毎回違う授業をできる超・超一流講師の方、というのは基本的にはそう多くはないと思うので、基本的には動画の方がむしろ何回でも再生できて生徒がわからないところを繰り返せる、という点でも優れていると僕は思います。
もちろん映像授業の著作権は誰にあるのか、とか報酬はライブ授業と比べてどうするのか、とか、クリアすべきところはあって、それが急速に進んでは現在頑張っておられる予備校講師の方の生活が脅かされるのであれば、それは問題であると思います。そういった点はクリアしていかねばならないとは思います。(まあ、それを言うならそもそも学校の講義とかすべて動画でよくない?というのはあります。動画なら先生にやる気のない/力のない講義は見ないこともできますからね!)
ただ、嚮心塾がオンラインで存続することについては、不可能であると思っています。この形式の受験勉強というのを東京に住んでいる人だけではなく全国に広められれば地域間の教育格差は必ず縮小できる(なぜなら低コストな勉強方法であるからです)と確信しているのですが、僕自身、生徒の立ち居振る舞い、表情、行動パターン、言葉の使い方、お菓子の食べ方、視線の動かし方など、様々な情報を観察、収集した上で、どのようなアドバイスをしていくのかを考えています。これをオンラインでZOOMなどを使って行うのは無理である、と思います。
もちろん、それを「嚮心塾」である、と再定義をすれば可能であるでしょう。コンビニで売っている「名店の味」のカップラーメンのように、ですね。それは広告となり、認知度を上げることにもなるでしょうし、更にはクオリティに目をつぶれば儲かることにもなるでしょう。いえいえ。大義名分だって立ちます。世間に溢れかえっている眉唾の、主語の限定性への意識薄弱でそれを唱える人間の知性を疑わざるを得ないような「東大生の勉強法」的な粗悪な情報よりは、まともなものを提供できることもまた事実ではあります。しかし、それは僕が人生を費やすべきことではありません。
教育というのは本当に難しいものです。一人一人に対してその子の状況に応じて良かれと思うアドバイスをする、などというのは当たり前の当たり前の当たり前のこと(もちろんそれですら、ほぼどこの高校でも予備校でもできていないわけですが)で、それをしたとしても、どのような部分で引っかかり、どのように理解しているのか、その「誤解」や「理解」の一つ一つをときほぐしていかねばならない、という課題が絶えず残り続けます。本人が努力を怠るのならまだしも、本人も教師も必死に努力してもなお、伝えられないものが残り、伝わっていると思っているものが誤解され、そして結局それが受験の失敗という形で現れます(もちろん、受験には成功したとしても人間としての教育という部分での失敗が残る、というケースまで含めれば、なおさら難しいです)。
その難しさに目をつぶり、あたかも「このやり方さえ踏まえれば、大丈夫!」と断言するという粗雑な行為を、受験生へのプラセボ効果を期待しているというこれまた大義名分のために自分に許し、そのやり方をその一人の受験生がどのように踏まえられないのか、どうして踏まえてもうまくいかないのかについては思考停止をした上で、「自分は最善の方法を提示している!(からそれ以上は本人の責任だ!)」と開き直るのが教育であるのであれば、そのような教育など滅びた方がいい。しかし、僕はあまり自分を信用していません。コンタクトレンズではなくメガネをしているだけでもレンズの向こう側とこちら側とを分けては自分の思考に籠もりたいくらいに、本来的には他者への関心を持っていません。そんな僕が、画面を通して得られる限定的な情報に「歯がゆさ」を感じないために、ここまでに書いた様々な大義名分で自分を説得し始めては粗悪なものを垂れ流しては、自分と生徒との間の認識の齟齬に悩まなくなるのにも、そう時間はかからないでしょう。
少子化が進み、さらにコロナ禍でリモートが進み、という中でこの「直接来てもらう」「対面で教える」という教え方はいずれ絶滅するのでしょう。それが来年なのか、5年後なのか、10年後なのか、もうちょっと猶予があるのかはわかりません。ただ、そこで「先を読む」ことをして、そこに対応できるように仕事の形態を変えていく、ということがそもそもその仕事の意義を損なうものだとしたら、そこで「先を読む」ことは、「ここに意味がある!」と思って始めた仕事を、それが生計を立てるために必要だという理由で、意味がなくても続けることになってしまいます。そのような仕事には、あるいはそのような人生には、僕自身はあまり意味がないと思っています。もちろん旧態依然とした今までの有り様をただ惰性ゆえに変えたくない!としがみつくのもまた愚かな振る舞いです。ただコロナ禍で「新しい生活様式」「新しい仕事の有り様」と「新しい」を連呼しては、今までのやり方の意味や限界についてしっかりと考えることを排除していこうとするこの流れは、やはり僕には全体主義的である、としか思えません。
「新しさ」や「前衛的」、「先」を何か価値があることの根拠として語る人間、というのは、基本的には詐欺師です。「改革」ブームに国民が踊らされた結果、郵政民営化によってとうとう土曜日の郵便配達までなくなるそうですね。これが我々が望んでいた結果なのでしょうか。「新しさ」は決して、何もその新しいことの価値を保証しません。新型コロナによって我々が距離を保った生活を強いられるとして、それを「新しい生活様式」と呼んでは何かそれに対応できることが偉いかのように振る舞うのは、それが我々が自発的に選ぶべき価値があるものであるかのように宣伝することで、政府自身の無作為から目を逸らさせるためのものです。
「先を読む」ことが、自身が何を大切にしていたのかを失うことに繋がるのであれば、目的を忘れて生存し続けることを自己目的にすることになってしまいます。また、「先を読まない」で旧態依然とした制度にしがみつく人間であることを恐れるあまり、「先」や「新しさ」に何らかの価値があることを当然の前提として生きるのは、自身が嫌悪した旧態依然とした人間と同じく思考停止している状態でしかない、と言えるでしょう。ことほどさように、人間にとって考え続けることは難しい。人間は自身が考え続けないですむためのあらゆる逃げ道を探し続けている、とも言えるのだと思います。
そのような愚かしさに塗れたこの我々の歴史の中で、考え続けようともがき続けることは苦痛と苦悩しか生み出さないとしても、それでも考え続けていかねばならないと思っています。



