
どうでもいいことは書きたくない!と思うと、なぜこんなしんどいテーマを趣味のようなブログで書こうとしているのか…というくらいに疲弊するようなテーマについて書くことになり、結果、丹念に議論をしなければ危険である、ということになっていっては、忙しい中ではその気力が続かずにお蔵入り…という、このブログ特有の失敗のサイクルに陥りつつあります。(ということで書きかけの記事が今5本!)なので、書いてはブログをアップするハードルを下げるためにも、今日は書きやすい教育のことでも書こうかと思います。
しかし、ほとんどの受験生、特に受験勉強を始めたばかりの受験生が学校でやらされている、理解する前に「問題集を解く」「入試問題を解く」(and解答を覚える)というプロセスでは何も力がつかないことが多いようです。そのために嚮心塾では「数学の教科書を読む!!」「英文法の概説書を読む!!」ということを全教科にひたすら徹底してきましたし、また今でも口を酸っぱくして毎日それを言っています。
これはもちろん理解をする前に「問題を解いて慣れる」ということを目指してしまえば、結局プロセスを理解できていないままに、結果を覚えるだけになってしまうからです。このような覚えるだけの勉強でも定期テストはなんとかなってしまいます(逆に覚えるだけのテストではなんともならないような定期テストを作れば、高校を卒業できない子がたくさん出ててきてしまいます。例えば数学で言えば、青チャートを試験範囲にしている「自称進学校」はとても多いですが、その生徒のうち何%がそれを理解して解けるかといえば、怪しいです。結果解答を理解していないままに覚えるだけになります。しかし、定期試験ではその問題をアレンジすれば誰も解けないため、そのまま出され、覚えているだけでもなんとかなってしまいます)。なので、たとえば「目に映るすべての英文を品詞分解できなければならない」「教科書に乗っている定理や公式の導出をすべて見ないでできなければならない」などと、「理解」とはどういうことかを言語化して、それを新たな目標として生徒たちに徹底する、ということを嚮心塾では徹底しています。
ただ、教えていて常に疑問であったのは、なぜそのように高校生の勉強の質が落ちるのか、ということでした。もちろん、理解も中途半端な生徒に「この問題集さえ周回していれば、実力がつく!」と喧伝しては必要なステップを用意することなく結局解答の丸暗記を強いている高校の教師の指導がひどい暴力であるのはもちろんとして、です。しかし、それを受ける側の高校生がそのようなアホな指導を「ああ、アホだな。。」と思いつつ、一つ一つしっかり理解していけばよいわけです。それをなぜ高校生がしようとしないのか、についてはいまいち動機がつかみにくいな、と思っていました。
それに関して最近理解できてきたこととして、「人間は多量のものに対して、注意力を失っていく」という事実ゆえであるのかな、と考えるようになりました。これはベルクソンがよく書いていたことですが、繰り返しは「質」を吟味することを忘れて「量」としてしか認識させない、とか、「量」とは「質」を失った質である、というものです。
端的に言えば、人間というのはあまりに膨大な量を咀嚼しろ!という命令や強制に対しては自己防衛本能からそれを理解しないように、受け止めないように、という行動パターンを取らざるを得ない、ということであるのだと思います。これはたとえば暴言を家庭内でずっと吐かれ続ければ、相手の言葉の意味をうけとらないようになっていく、とか、口うるさく注意をする母親の注意を子どもたちはすべて聞き流すようになっていく、とかいわゆる「虐待」の現場ではよく見られる症状です。
つまり、大量の問題集を学校の先生に宿題や小テストで強制される高校生たちは「虐待」を受けているのと同じです。これは中学受験でもこなしきれない大量の宿題を出す塾とかではそうですよね。その中で彼らは、「理解しよう!」と思えば思うほどに何も理解できないことにどんどん心が傷ついていくので、自分自身を守るために「これは理解できなくても、覚えればいい!」と誤った学習をしていきます。そしてそれで定期試験は先述の通りなんとかなってしまうので、そのような誤った学習法については反省をする機会を得られません。そして、大学受験になって、その今までの努力が意味のなかったことを突きつけられる、ということになります。
というこれらの事態は、まさに内田義彦が戦後すぐに「「天皇家の家系図など、意味のないものだけどこれは『暗記物』であり、試験に出るから覚えろ。」という教育が連綿となされ続けては考えることを放棄してきたこの国の教育こそが、この戦争(太平洋戦争)を引き起こしたのではないか。」と指摘していたのと、今も変わらない、ということですよね。
さて、それが「大学受験にはそれでも通用しない」ということがあるからこそ、そのような勉強がいかに意味がないかに高校生たちは気づくチャンスを得られています。もちろん、そこまでに無駄にされてきた彼らの努力や時間を無視するわけにはいかないし、そのようなわけのわからない強制をさせてきた教師たちの罪も見逃すわけには行かないにせよ、です。それよりも恐ろしいのは、大学受験までが推薦やAOだけになってしまい、「高校での教師の生徒に対する評価」が進学を大きく左右することになる(現在、高校入試がそうなってしまっているように。。)ということになっていけばいくほどに、このような無意味な努力に若い人たちが気づく契機は永遠に失われていき、教育は文字通り死に絶えていきます。だからこそ、大学入試における一般入試の大切さとともに英語民間外部試験の導入とかe-ポートフォーリオとか、教育産業利権のための、業者のいっちょかみのために入試制度を「改革」しては、せっかく大学の先生達が必死に作ってくれている入試を破壊しては、わけのわからない基準を次から次へと導入していくことは、この社会の根幹を破壊することになってしまうのだと考えています。
僕は「一点刻みの入試の残酷さ」よりも比べるべくもないくらい、さらに残酷なのは、「子どもたちが教師の好き嫌いとそれに基づく主観的評価によって人生を左右されてしまう社会の残酷さ」であると思っています。なんとかそのようにならないためにも、色々ともがき、戦っていきたいと思います。
しかし、ほとんどの受験生、特に受験勉強を始めたばかりの受験生が学校でやらされている、理解する前に「問題集を解く」「入試問題を解く」(and解答を覚える)というプロセスでは何も力がつかないことが多いようです。そのために嚮心塾では「数学の教科書を読む!!」「英文法の概説書を読む!!」ということを全教科にひたすら徹底してきましたし、また今でも口を酸っぱくして毎日それを言っています。
これはもちろん理解をする前に「問題を解いて慣れる」ということを目指してしまえば、結局プロセスを理解できていないままに、結果を覚えるだけになってしまうからです。このような覚えるだけの勉強でも定期テストはなんとかなってしまいます(逆に覚えるだけのテストではなんともならないような定期テストを作れば、高校を卒業できない子がたくさん出ててきてしまいます。例えば数学で言えば、青チャートを試験範囲にしている「自称進学校」はとても多いですが、その生徒のうち何%がそれを理解して解けるかといえば、怪しいです。結果解答を理解していないままに覚えるだけになります。しかし、定期試験ではその問題をアレンジすれば誰も解けないため、そのまま出され、覚えているだけでもなんとかなってしまいます)。なので、たとえば「目に映るすべての英文を品詞分解できなければならない」「教科書に乗っている定理や公式の導出をすべて見ないでできなければならない」などと、「理解」とはどういうことかを言語化して、それを新たな目標として生徒たちに徹底する、ということを嚮心塾では徹底しています。
ただ、教えていて常に疑問であったのは、なぜそのように高校生の勉強の質が落ちるのか、ということでした。もちろん、理解も中途半端な生徒に「この問題集さえ周回していれば、実力がつく!」と喧伝しては必要なステップを用意することなく結局解答の丸暗記を強いている高校の教師の指導がひどい暴力であるのはもちろんとして、です。しかし、それを受ける側の高校生がそのようなアホな指導を「ああ、アホだな。。」と思いつつ、一つ一つしっかり理解していけばよいわけです。それをなぜ高校生がしようとしないのか、についてはいまいち動機がつかみにくいな、と思っていました。
それに関して最近理解できてきたこととして、「人間は多量のものに対して、注意力を失っていく」という事実ゆえであるのかな、と考えるようになりました。これはベルクソンがよく書いていたことですが、繰り返しは「質」を吟味することを忘れて「量」としてしか認識させない、とか、「量」とは「質」を失った質である、というものです。
端的に言えば、人間というのはあまりに膨大な量を咀嚼しろ!という命令や強制に対しては自己防衛本能からそれを理解しないように、受け止めないように、という行動パターンを取らざるを得ない、ということであるのだと思います。これはたとえば暴言を家庭内でずっと吐かれ続ければ、相手の言葉の意味をうけとらないようになっていく、とか、口うるさく注意をする母親の注意を子どもたちはすべて聞き流すようになっていく、とかいわゆる「虐待」の現場ではよく見られる症状です。
つまり、大量の問題集を学校の先生に宿題や小テストで強制される高校生たちは「虐待」を受けているのと同じです。これは中学受験でもこなしきれない大量の宿題を出す塾とかではそうですよね。その中で彼らは、「理解しよう!」と思えば思うほどに何も理解できないことにどんどん心が傷ついていくので、自分自身を守るために「これは理解できなくても、覚えればいい!」と誤った学習をしていきます。そしてそれで定期試験は先述の通りなんとかなってしまうので、そのような誤った学習法については反省をする機会を得られません。そして、大学受験になって、その今までの努力が意味のなかったことを突きつけられる、ということになります。
というこれらの事態は、まさに内田義彦が戦後すぐに「「天皇家の家系図など、意味のないものだけどこれは『暗記物』であり、試験に出るから覚えろ。」という教育が連綿となされ続けては考えることを放棄してきたこの国の教育こそが、この戦争(太平洋戦争)を引き起こしたのではないか。」と指摘していたのと、今も変わらない、ということですよね。
さて、それが「大学受験にはそれでも通用しない」ということがあるからこそ、そのような勉強がいかに意味がないかに高校生たちは気づくチャンスを得られています。もちろん、そこまでに無駄にされてきた彼らの努力や時間を無視するわけにはいかないし、そのようなわけのわからない強制をさせてきた教師たちの罪も見逃すわけには行かないにせよ、です。それよりも恐ろしいのは、大学受験までが推薦やAOだけになってしまい、「高校での教師の生徒に対する評価」が進学を大きく左右することになる(現在、高校入試がそうなってしまっているように。。)ということになっていけばいくほどに、このような無意味な努力に若い人たちが気づく契機は永遠に失われていき、教育は文字通り死に絶えていきます。だからこそ、大学入試における一般入試の大切さとともに英語民間外部試験の導入とかe-ポートフォーリオとか、教育産業利権のための、業者のいっちょかみのために入試制度を「改革」しては、せっかく大学の先生達が必死に作ってくれている入試を破壊しては、わけのわからない基準を次から次へと導入していくことは、この社会の根幹を破壊することになってしまうのだと考えています。
僕は「一点刻みの入試の残酷さ」よりも比べるべくもないくらい、さらに残酷なのは、「子どもたちが教師の好き嫌いとそれに基づく主観的評価によって人生を左右されてしまう社会の残酷さ」であると思っています。なんとかそのようにならないためにも、色々ともがき、戦っていきたいと思います。
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