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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「社会のリーダーとなる人材」など育てたくない。

教育に携わろうとする動機、というのは各々の方にあるでしょうし、それらはどれも素晴らしいとは思うのですが、「僕とは違うな。。」と感じるものも多々あります。その代表例といえば、「次世代の社会のリーダーとなる人材を育てたい!」という動機です。

もちろん、この思いを抱いて教えておられる先生方はとても熱心な先生が多いのだと思いますし、僕のこの違和感も、その熱意を素直には持ちにくかったり表明したくなかったりする僕自身の妬み嫉みの現れ!と思っていただいてもよいとは思います。ただ一方で、このような「次世代の社会のリーダーを育てたい!」という思いというのは非常に暴力的な面もあるとも思っています。

たとえばこうした理念の具体例として「学校の成績が良い」とか「部活を必死にやって成果を出している」とか「生徒会や委員会活動を一生懸命やっている」というのも、そういった子たちが成長して「社会のリーダー」になったとしてもそれは、既存の社会の問題点を踏襲した社会の再生産になるのではないかな、と思います。それは新たな活力ある社会を作るどころか、非常に抑圧的で、(各々のバックグラウンドへの配慮もないままに)「頑張らない奴は死ね!」的な今の社会をさらに徹底したディストピアになってしまうのではないかと思います。

これには僕自身の反省もあります。僕は中高生と、まあなんでもやる、そのような「リーダー的人材」でした。それは学校社会の中においてもまた、評価されやすい楽な道であったからです。しかし、一方で高校のクラスメートのほとんどが熱心に取り組む運動会のようなイベントに、非協力的であり決して参加しようとしないクラスメートもいたわけで、そのようなマイノリティの子は、流されるままに学校行事に「活動的」であった我々よりもはるかに深く考え、自分の有り様をしっかりと探していたと思います。そのような「はみ出しもの」を糾弾するような視野の狭さは当然「リーダー」側にはあるわけで…。その頃の愚かしい自分が偏狭な正義感から何を踏みにじろうとしていたのか、については今思い返しても本当に恐ろしい限りであり、苦い反省しかありません。逆に言えば、50人のクラスで49人が熱心に取り組む行事に、たった一人で不参加を貫いた彼がいたからこそ、大多数の「熱心な」僕たちは、「何が正しいのか」を疑うきっかけをつくってもらえていた、とも言えるのだと思います。

結局、学校社会が既存の社会全体のカーボンコピーである以上、学校社会の中で「リーダーシップをとる」ことや「意欲的に勉強や部活に取り組む」ということは既存の社会の再生産以上の可能性をもちえません。そして、それに違和感を唱える人間は排除するか無視する、というようになってしまうのでしょう。だからこそ、そのような「優等生」達が社会のリーダーになればなるほどに、この社会はどんどんひどい方向に転がっていくでしょうし、そのような教育に加担する教育者にとっては「俺があの国会議員を育てた!」とか自らのプライドを満たす以外の目的を、実は何も見いだせていない状態ではないかと思うのです。なぜなら「社会のリーダーとなる人材」を輩出することを目的とすれば、自分たちが輩出する人材がリーダーとなれるような社会こそが「よい社会」と思えてきてしまうからです。それは教育者の代償行為でしかなく、厳に慎まなければなりません。

教育という行為にもし価値があるのだとすれば、それは既存の社会の欠点を直視し、疑いをもつ力を一人一人に鍛えていくことであると思っています。既存の社会が前提としている暴力を丸呑みにして自分たちも加害者になることで受益者の方へと入るのではなく、別の道を選びつつも自分がどのように頑張って行きていくのかの道筋をつけていく実力を鍛えていけるかもしれない、ということが教育の効用であるのかもしれません。そして、その観点で言えば、どちらかといえば学校社会では「落ちこぼれ」「はみ出しもの」として扱われている子たちにこそ新たな社会を作る可能性があるのであり、「優等生」にはあまり新たな社会を作る可能性はないのではないでしょうか。

もちろん、「学力一発勝負」である入試があるからこそ、このような「落ちこぼれ」「はみ出しもの」にも逆転のチャンスがあったわけです。内申点や学校の成績が入試を代替していけばいくほどに、テンプレ的な「社会のリーダーとなる人材」ばかりが評価されて大学名でゲタをはかされるようになってしまいます。やはりそのような入試改革は、社会の多様性を破壊し、いずれ滅びるしかないように思います。

僕が卒塾生に望むのは、自身がこの既存の社会から落ちこぼれる必要もわざとはみ出る必要はない(なにせ、みんな僕より年収高くなってますから!!)ので、しかし、そこから自分が落ちこぼれたりはみ出たりしていないのは、自分の努力だけが要因ではなく、様々な恵まれたバックグラウンドがあったからであるという正しい事実を理解した上で、自分がその事実とどのように向き合い、折り合いをつけていくかに絶えず悩み続けてもらうことです。そして、そのように悩み続けながらも生きていく力をつけることは、実は「リーダー」になるよりも、はるかに高い力をつけていかねばならないことでもある、と思っています。それはまた、僕自身も同じです。そのことに悩み続けなくなったり、悩み続けては生きていくための力をつけようと努力することをやめるのであれば、この仕事を続けてはならないと思っています。

はみ出しもの、落ちこぼれにこそ新たな社会を準備する可能性があります。そのように生きられてはいない私達は、少なくともそのようには生きられていない、既存の社会の中である程度「評価できてしまう」程度の仕事しかできていないことに、気恥ずかしさと疑いを感じた上で、何をしていくべきかを探求していかねばならない、と考えています。だからこそ、「リーダー」を育成することにも疑いをもってほしい、と教育に携わる方々には願っています。
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