
日頃、塾生にお勧めしきれていない、僕がすばらしいと思うミュージシャンの方々をご紹介したいと思います。
その第1回は、サンボマスターです。「そんなの今さら。もう知ってるよ。とうにピークは過ぎたんじゃない?」
などと言わないでほしいのです。僕は彼らのメジャーデビュー一枚目のアルバムから聴いていますが、おそらくこのフルアルバムとしては5枚目(この4月に出た『きみのためにつよくなりたい』)がサンボマスター史上最高のアルバムだと思います。そして、それは一つの到達点としてあとは下降していくのではなく、この先も本当に期待できる頑張り方だと思います。
彼らの歌詞は一見直情的で、技巧的ではないかもしれません。しかし、楽曲作りにおける真摯さ、その取り組みから生まれる美しい楽曲の数々は、いわゆるCMなどのタイアップで何秒か流れるのを聞くだけでは分からない、一曲全体を通しての組み立てのすばらしさを感じさせてくれます。キャッチーなサビを作ることに腐心しては、他の部分は体裁を整えるだけで大量生産品のように何曲も作るということの対極に、彼らの楽曲はあります。その意味で、楽曲として完成されることなく捨てられた「音」が大量にある中で、本当によいものだけを残して一曲一曲作っていくというきわめて贅沢な曲作りをしていることが本当によく分かる程、練り上げられた楽曲ばかりだと思います。
僕は今、「美しい楽曲」という言葉を使いました。サンボマスターというバンドについて、この表現がなかなかされないことを僕は非常に歯がゆく思っています。彼らのルックスや、シャウトや、直情的な歌詞ばかりが目についてしまうかもしれませんが、僕はどの曲も本当に美しいメロディーだと感動させられます。何らかのきっかけで人気が出た期間を逃さないでCDを売るために、「産地直送です。泥つき野菜ですよ。」みたいな楽曲を垂れ流すというCDセールスの仕組みに飲み込まれないための一つの戦略として、曲を作るということに徹底的に真摯に取り組むというやり方があるのだ、という可能性を気付かせてくれる、それほどすばらしい楽曲ばかりだと僕は思っています。(NirvanaのKurt Cobain がGuns'n RosesのAxl Roseと仲が悪かったのですが、その彼ら二人のアプローチの違い(自分をメジャーにしていくシステム自体を呪詛することで純潔を保とうとするのか、それともそのシステムに乗った上で自分たちがやるべきことをどのように模索するのか)に対する、一つの答え方であるとすら、思えます。)
また、歌詞についても一見「直情的に見える」というだけで、実はとてもすばらしいと思います。自分と世界との切り結び方に悩み、苦しみ、その中で「あなた」への愛をうたう。もちろん実際には、「自分」も「あなた」もこの矛盾を感じる「世界」の一部であり、その意味では被害者ではなく加害者でもまたあるのですが、それは被害を強く感じるからこそ、加害者であることに目を背けられず、かといって、そこで立ちすくむのではなく、何とかこの硬直的な全体に対してもがき、アクションを起こしたい。その思いが「『あなた』への愛を歌う」ことに現れている歌詞だと思います。「あなたへの愛を歌っていればいい。あなたに愛されればそれでいい。」という開き直った姿勢ではなく、「あなたへの愛を歌うよりほかに仕方がない。」という苦しみと、しかし、「本当に小さな一歩だけど、そこから始めようよ。少なくとも僕はあきらめない。」というメッセージ。かなり楽観的に聞こえてしまう歌詞も含めて、それらをメッセージを伝える姿勢として、強い覚悟の上で選び取っているという印象を受けます。「1万人のうち、9999人に『幼稚な歌詞だな。』と冷笑されてもいい。でも、たった一人の心をこの歌詞で勇気づけられるのなら、いくら笑われても構いはしない。」という覚悟を、僕は聞いていて感じるのです。僕は、この姿勢を、本当に尊敬すべき姿勢であると思います。
同時代そして同世代に、こんなにがんばっているミュージシャンの方がいることを、僕は本当に有り難く思っています。まだ聞いたことのない人は、是非聞いていただけると本当にうれしい限りです。
(付論)ネット経由での音楽配信の普及によってCDが売れなくなり、レコード会社にとってはなおさら「すぐに売れるCD」「すぐに売れるミュージシャン」を近視眼的に求めざるを得なくなる圧力が強まりつつあるのでしょうが、一方で僕はこのサンボマスターのニューアルバムのようにすばらしい曲を作ることに徹底していくことは、CDの可能性を追求することでもあると思います。僕の中高生のころを振り返っても、よいCDは、友達に勧めて、聞いてもらいたくなるものでした(中には、自分のお薦めの曲をわざわざテープに落としてくれて、「~ BEST」のようにオリジナルのベストを作ってくれる友人もいました)。ネット配信という今の主流の音楽の楽しみ方は、以前のCDやレコードのように、「友人にお薦めして貸す」という方向には向かない、きわめて個人的な楽しみ方に特化した発達の仕方であると思います。しかし、本当にすばらしいものは他の人にも勧めたくなるというのが、人間の心に根ざす深い傾向であると思うので、やはり人に薦めたくなるような良い音楽の入ったCDというのは、これからも必ず需要があるのではないでしょうか。逆に、「人から薦められてCDやレコードを借りる」という習慣がなくなってしまえば、従来の自分の好みに従った音楽のみしか聴けなくなるわけです。「こんなの、絶対たいしたことないって。」と思っては聞かなかった楽曲を友人が「絶対いいから!」と押しつけるように貸してきて、仕方がないので義理立てして一回は聴こうと思って聴いたら、実は自分の聴かず嫌いでしかなく、自分の人生に深く影響を与えるような音楽だった!というような経験は、このネット配信が進む先にはどんどん減っていくわけです。
それはやはり一人一人が聴く音楽の幅を狭くしていき、一人一人が楽曲を吟味し、鑑賞する力を衰えさせていってしまうのではないでしょうか。(「ジャケ買い」やこういった友人のお薦めからの)様々な楽曲との偶然の出会いがなくなればなくなるほど、人間の芸術における鑑賞力やそれ故の創作力も衰えていく危険性もあると思います。
また、古いレコードを探す人が感じているように、時代を超えて良い音楽を求めたいと思う人間の気持ちに応えるという意味でもやはり、音楽配信には出来ないことがCDやレコードにはできると思います。「音楽配信が成立する以前の過去の楽曲を音楽配信のシステムにのせよう」という動機が働くためには、その過去の楽曲に対するニーズが現実に存在しなければビジネスとして成立しないでしょう。しかし、その過去の楽曲が広くは知られないまま時が過ぎてしまっていれば、どのような名曲も掘り起こされることなく、その名曲に対するニーズも(いったん広く知られれば生まれるとしても)現存することなく見捨てられていくでしょう。つまり、音楽配信だけしか残らない、という時にはCDやレコードからの過渡期で必ず、過去のまだ評価されていない楽曲は廃棄されていくこととなります。しかし、それらの良さが100年後や200年後に再発見される可能性は、CDやレコードを発掘することができなくなれば、不可能となってしまうわけです。
音楽配信の広まり方が性急すぎるせいで、CDやレコードのこういった役割を無視してしまうといった事態を恐れていかなければならないと思います。もちろん、安く手軽な音楽配信のおかげで一人一人が聴くことの出来る音楽の曲数は増えるようになる、というメリットもあるわけですから、それを考慮に入れた上で、先に挙げたような二つのデメリットも考え合わせ、どちらの方がより大切かを考えていくことが必要です。ただ、僕自身は、「自分の好み」を固定化した上でそれに沿うものばかりをたくさん聴くよりは、「自分の好み」が思わぬ出会いによって変化していく方が、成長の契機をより多く含むのではないかと考えています。
その第1回は、サンボマスターです。「そんなの今さら。もう知ってるよ。とうにピークは過ぎたんじゃない?」
などと言わないでほしいのです。僕は彼らのメジャーデビュー一枚目のアルバムから聴いていますが、おそらくこのフルアルバムとしては5枚目(この4月に出た『きみのためにつよくなりたい』)がサンボマスター史上最高のアルバムだと思います。そして、それは一つの到達点としてあとは下降していくのではなく、この先も本当に期待できる頑張り方だと思います。
彼らの歌詞は一見直情的で、技巧的ではないかもしれません。しかし、楽曲作りにおける真摯さ、その取り組みから生まれる美しい楽曲の数々は、いわゆるCMなどのタイアップで何秒か流れるのを聞くだけでは分からない、一曲全体を通しての組み立てのすばらしさを感じさせてくれます。キャッチーなサビを作ることに腐心しては、他の部分は体裁を整えるだけで大量生産品のように何曲も作るということの対極に、彼らの楽曲はあります。その意味で、楽曲として完成されることなく捨てられた「音」が大量にある中で、本当によいものだけを残して一曲一曲作っていくというきわめて贅沢な曲作りをしていることが本当によく分かる程、練り上げられた楽曲ばかりだと思います。
僕は今、「美しい楽曲」という言葉を使いました。サンボマスターというバンドについて、この表現がなかなかされないことを僕は非常に歯がゆく思っています。彼らのルックスや、シャウトや、直情的な歌詞ばかりが目についてしまうかもしれませんが、僕はどの曲も本当に美しいメロディーだと感動させられます。何らかのきっかけで人気が出た期間を逃さないでCDを売るために、「産地直送です。泥つき野菜ですよ。」みたいな楽曲を垂れ流すというCDセールスの仕組みに飲み込まれないための一つの戦略として、曲を作るということに徹底的に真摯に取り組むというやり方があるのだ、という可能性を気付かせてくれる、それほどすばらしい楽曲ばかりだと僕は思っています。(NirvanaのKurt Cobain がGuns'n RosesのAxl Roseと仲が悪かったのですが、その彼ら二人のアプローチの違い(自分をメジャーにしていくシステム自体を呪詛することで純潔を保とうとするのか、それともそのシステムに乗った上で自分たちがやるべきことをどのように模索するのか)に対する、一つの答え方であるとすら、思えます。)
また、歌詞についても一見「直情的に見える」というだけで、実はとてもすばらしいと思います。自分と世界との切り結び方に悩み、苦しみ、その中で「あなた」への愛をうたう。もちろん実際には、「自分」も「あなた」もこの矛盾を感じる「世界」の一部であり、その意味では被害者ではなく加害者でもまたあるのですが、それは被害を強く感じるからこそ、加害者であることに目を背けられず、かといって、そこで立ちすくむのではなく、何とかこの硬直的な全体に対してもがき、アクションを起こしたい。その思いが「『あなた』への愛を歌う」ことに現れている歌詞だと思います。「あなたへの愛を歌っていればいい。あなたに愛されればそれでいい。」という開き直った姿勢ではなく、「あなたへの愛を歌うよりほかに仕方がない。」という苦しみと、しかし、「本当に小さな一歩だけど、そこから始めようよ。少なくとも僕はあきらめない。」というメッセージ。かなり楽観的に聞こえてしまう歌詞も含めて、それらをメッセージを伝える姿勢として、強い覚悟の上で選び取っているという印象を受けます。「1万人のうち、9999人に『幼稚な歌詞だな。』と冷笑されてもいい。でも、たった一人の心をこの歌詞で勇気づけられるのなら、いくら笑われても構いはしない。」という覚悟を、僕は聞いていて感じるのです。僕は、この姿勢を、本当に尊敬すべき姿勢であると思います。
同時代そして同世代に、こんなにがんばっているミュージシャンの方がいることを、僕は本当に有り難く思っています。まだ聞いたことのない人は、是非聞いていただけると本当にうれしい限りです。
(付論)ネット経由での音楽配信の普及によってCDが売れなくなり、レコード会社にとってはなおさら「すぐに売れるCD」「すぐに売れるミュージシャン」を近視眼的に求めざるを得なくなる圧力が強まりつつあるのでしょうが、一方で僕はこのサンボマスターのニューアルバムのようにすばらしい曲を作ることに徹底していくことは、CDの可能性を追求することでもあると思います。僕の中高生のころを振り返っても、よいCDは、友達に勧めて、聞いてもらいたくなるものでした(中には、自分のお薦めの曲をわざわざテープに落としてくれて、「~ BEST」のようにオリジナルのベストを作ってくれる友人もいました)。ネット配信という今の主流の音楽の楽しみ方は、以前のCDやレコードのように、「友人にお薦めして貸す」という方向には向かない、きわめて個人的な楽しみ方に特化した発達の仕方であると思います。しかし、本当にすばらしいものは他の人にも勧めたくなるというのが、人間の心に根ざす深い傾向であると思うので、やはり人に薦めたくなるような良い音楽の入ったCDというのは、これからも必ず需要があるのではないでしょうか。逆に、「人から薦められてCDやレコードを借りる」という習慣がなくなってしまえば、従来の自分の好みに従った音楽のみしか聴けなくなるわけです。「こんなの、絶対たいしたことないって。」と思っては聞かなかった楽曲を友人が「絶対いいから!」と押しつけるように貸してきて、仕方がないので義理立てして一回は聴こうと思って聴いたら、実は自分の聴かず嫌いでしかなく、自分の人生に深く影響を与えるような音楽だった!というような経験は、このネット配信が進む先にはどんどん減っていくわけです。
それはやはり一人一人が聴く音楽の幅を狭くしていき、一人一人が楽曲を吟味し、鑑賞する力を衰えさせていってしまうのではないでしょうか。(「ジャケ買い」やこういった友人のお薦めからの)様々な楽曲との偶然の出会いがなくなればなくなるほど、人間の芸術における鑑賞力やそれ故の創作力も衰えていく危険性もあると思います。
また、古いレコードを探す人が感じているように、時代を超えて良い音楽を求めたいと思う人間の気持ちに応えるという意味でもやはり、音楽配信には出来ないことがCDやレコードにはできると思います。「音楽配信が成立する以前の過去の楽曲を音楽配信のシステムにのせよう」という動機が働くためには、その過去の楽曲に対するニーズが現実に存在しなければビジネスとして成立しないでしょう。しかし、その過去の楽曲が広くは知られないまま時が過ぎてしまっていれば、どのような名曲も掘り起こされることなく、その名曲に対するニーズも(いったん広く知られれば生まれるとしても)現存することなく見捨てられていくでしょう。つまり、音楽配信だけしか残らない、という時にはCDやレコードからの過渡期で必ず、過去のまだ評価されていない楽曲は廃棄されていくこととなります。しかし、それらの良さが100年後や200年後に再発見される可能性は、CDやレコードを発掘することができなくなれば、不可能となってしまうわけです。
音楽配信の広まり方が性急すぎるせいで、CDやレコードのこういった役割を無視してしまうといった事態を恐れていかなければならないと思います。もちろん、安く手軽な音楽配信のおかげで一人一人が聴くことの出来る音楽の曲数は増えるようになる、というメリットもあるわけですから、それを考慮に入れた上で、先に挙げたような二つのデメリットも考え合わせ、どちらの方がより大切かを考えていくことが必要です。ただ、僕自身は、「自分の好み」を固定化した上でそれに沿うものばかりをたくさん聴くよりは、「自分の好み」が思わぬ出会いによって変化していく方が、成長の契機をより多く含むのではないかと考えています。
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