
これだけ長いこと一人一人の生徒たちの認識の仕方と向き合っては教え続けていると、いわゆる「努力をしても勉強ができるようにならない。」というよく見受けられる事態がどのように起きてくるのかについてはだいぶ見えてきていると思っています。もちろん、原因は見えているとしても、それをどのように改善するかについては、それぞれの子たちの習慣や考え方そのものを変えていかねばならないからこそ難しいのですが。どのようにして、「努力をしても、勉強ができるようにならない」という状態が生まれるのかを少しまとめていきたいと思います。
①言葉の定義があやふや。
学習の基本は言葉です。言葉の定義があやふやなまま、読むことも解くこともすべて、「なんとなくこんな感じ」という慣れでパターン認識をするしかなくなります。これはすべての教科に言えることで、言葉の定義があやふやなままに教科書を読んでも何も力が付きません。ましてや、言葉の意味があやふやなまま、問題を解くなんて!時間の無駄でしかありません。わからない言葉は一つ一つ調べたり、調べてもわからなかったら聞いたりしながら、固めていくことが大切です。
ただ、どうしても最近は学校も塾も大量に宿題を出してはそれをこなさせる、という傾向が強いことも、この「言葉の定義があやふや」なまま、子どもたちが学習を進めることを助長してしまい(だって、そんなこといちいち調べてる時間がないくらい宿題が出るわけですから)、ますます力がつかなくなってしまっていると思います。もちろん、わけのわからないままに問題を解くような勉強が楽しいわけも力がつくわけもありません。このようにして、大量の宿題を出す学校や塾はそれに既に適応できるごく僅かな子たちにとってのみ意味のあるものとなり、残りの大多数の子にとっては勉強を嫌いにさせてしまっているのだと思います。
②文法があやふや。
国文法や英文法など文法があやふやな子、というのはそもそもどのような文章も、単語の並びとしか認識できていません。幼児の二語文、三語文レベルの認識のままである小学生や中学生(中には高校生も!)がどれだけ多いか、については、驚くレベルです(もちろんこれは話し言葉が二語文である、という意味ではありません。書かれた文章をその子が認識するときに、そのように重要な単語だけを拾って繋げただけの認識でしかない、といいうことです。)。
たとえば、「AがBにCする。」という文があるとしても、A、B、Cという要素の情報しか拾えないため、「BがAにCする。」という誤った選択肢の間違いに気づけない、ということがあります。端的に言えば日本語の助詞、英語の前置詞への意識が弱く、そしてどちらの言語においても品詞の識別意識が極めて弱い、といえるでしょうか。もちろんこの論理関係の識別ができないことは問題を解く際の選択肢の識別だけではなく、そもそも問題文の理解、あるいは普段の勉強においても大きくマイナスに響いてきます。このような子たちにはまずは日本語の助詞の違いを教えることから徹底しなければなりません。(余談ですが「英語を教える際に文構造を重視することはおそらくほとんどの英語の授業でなされているわけで、それなのにどうしてこんなに中高生は文構造がとれないのだろう?」というのは長年の疑問だったのですが、ほとんどの中高生は品詞分解が全くできない!ということに気づき、それを徹底させるようにしてから、だいぶどのような子でも英語の力がつくようになりました。)
また、文法の勉強といっても enjoyは後ろがdoing!みたいなことは必死に覚えているのに、そのdoingが動名詞なのか現在分詞なのかがよくわかっていなかったり、to 不定詞が入っている熟語は山程覚えているのに、to不定詞の三用法(名詞・形容詞・副詞)や副詞的用法の意味の類型(目的・原因/理由・結果)がぱっとでてこない、といった状態もこの文法ができていないことにあたります。
結局、人間が何かを理解する際には言葉で弁別をせざるをえない以上、こうした「文法用語」の意味を理解し、分類をおさえていくことは、自らの中に分析的に見る目、分節していく目を鍛えていくことになります。逆に言えば、これらを覚えないで英文を理解しようとすることの方がはるかに難しく、おそらく相当immersion(英語環境にどっぷり没入)しないと難しいのです。
といったことを英語を例に出して話しましたが、これは数学でも国語でも理科や社会でも同じです。まずは言葉の定義のあやふやさを潰していくこと、次にそのような分類を頭の中に作っては分析的に見ていく目を鍛えていくこと、ということがどの教科であっても必要です。それらのプロセスができていない子は一つ一つを個別の知識として覚えるしかない、あるいは何となく解いて経験則でパターンを理解するしかない、という状態なわけで、それは当然勉強量や時間が多かったとしても、力がつきません。(逆に言えば、このような「用語の定義やその連関を理解し、自分の頭の中に分析のためのツールとしての選択肢を作っていく」という学習プロセスは最初のハードルは高いのですが、必ず力がついていきます。それに対して「何となく解いているうちに慣れる」「何となく読んでるうちに慣れる」という方法は、そこから自分なりの方法論を導き出せるような「天才」にしか、できない勉強方法です。そして、勉強が苦手な子ほど、この自分で方法論を編み出さねばならない「天才の勉強法」をしているという…。だからこそ、力がつかないままに終わっていきます。)
さて、上に書いたことを意識し、徹底していけば、どんな子でも必ず勉強の力がつく!!という事実を僕は確信していますが、しかし現実にそれができているかといえば、無力感ばかりを感じる毎日でもあります。
なぜなら、このような正しい勉強法、というのは惰性で勉強をしている子たちにとっては「とてもめんどくさい」ものであるからです。そもそも、ほとんどの子たちは、勉強ができるようになりたい、とはあまり思っていません。親がうるさいから、教師がうるさいから、という外からの動機でなんとなく勉強に取り組んでいるだけの子たちにとって、このような「正しい」勉強法はまず入り口の時点でハードルが高い(日常会話では使わないような言葉を覚えていかねばならない)のです。
また、親御さんも「勉強しなさい!」とはよく言いますが、「勉強の力をつけなさい!」とは言いません。ほとんどの子どもたち(小学生はもちろん、中高生ですら)にとっては「親がうるさいから勉強する」というレベルから脱している子の方がむしろ少ないのですから、「勉強していれば文句は言われない」と思うわけです。その勉強方法が間違っていて力がつかなかったとしても、親御さんは子どもたちを否定しないで、むしろ「頑張ってるのにかわいそうに。。」と慰めてくれさえするわけですから、彼らが「勉強の方法をめんどくさい方法に変えてでも力をつけよう!」とは思うわけがありません。
もちろん、受験はそのようなぬるま湯につかることを許しません。どのように「勉強時間はたくさんとっている」と言い訳しようと、実力がなければ落ちるのが入試です。あるいは、長い人生全般を見れば、なおさら実力がシビアに響いてくることもよくわかるでしょう。しかし、そのように自らの人生を見つめる目を子どもたちはもてていないことがほとんどである以上、教える側としては、「正しい方法」を教えるだけでは圧倒的に不十分で、「なぜ正しい方法で自分の力を向上させていかねばならないのか」までを理解していってもらう必要があります。長いこと教えて、あれこれできるようにはなったとは思っているのですが、これが本当に難しいと感じています。
つまり、教育には「勉強の正しい方法を教える」だけではなく、生徒の一人一人に、自分の人生と向きあい直視してもらっては、どのように生きるべきかを考えてもらう、というプロセスが必要である、ということでもあります。もちろん、(それが根本的な問いからではなく、おそらく世俗での成功のための打算からではあっても)それらの準備がなされている小中高生もいます。その子達にはただ「正しい方法」を教えるだけでよいのでしょう。そしてそれはある意味、とても楽な仕事です。ただ一方で、それは「正しい方法」を自身の願望として求めている子たちにそれを提供している、というだけであるのであれば、あまり大した「仕事」ができていないとも言えるのだと思います(もちろん、間違った方向性を教えるよりは意味のあることですが!)。彼ら彼女らは最短ルートをこちらが示さなくても、ある程度の成功ができるであろうからです。
一方で、そのように外側からの動機しかなかった子たちが、自身の内側からの動機を持てるようになって努力をするようになり、そうなれば当然「正しい方法」にも関心をもっては自分から方法を追い求めては努力するようになるとき、僕は教育の可能性を感じます。もちろん、どのような子に対してもそれを(やろうとしているとはいえ)できてはいないというこの状況は非常に情けないものではあるのですが、何とか諦めずに取り組んでいきたいと思います。
分析的に見る力を鍛えていくことは、受験勉強だけでなく、自身の人生を肥大化した自意識のまどろみのうちに終わらせる、という責任放棄を一人一人に許さないことにもなっていく、とも信じて、ですね。
①言葉の定義があやふや。
学習の基本は言葉です。言葉の定義があやふやなまま、読むことも解くこともすべて、「なんとなくこんな感じ」という慣れでパターン認識をするしかなくなります。これはすべての教科に言えることで、言葉の定義があやふやなままに教科書を読んでも何も力が付きません。ましてや、言葉の意味があやふやなまま、問題を解くなんて!時間の無駄でしかありません。わからない言葉は一つ一つ調べたり、調べてもわからなかったら聞いたりしながら、固めていくことが大切です。
ただ、どうしても最近は学校も塾も大量に宿題を出してはそれをこなさせる、という傾向が強いことも、この「言葉の定義があやふや」なまま、子どもたちが学習を進めることを助長してしまい(だって、そんなこといちいち調べてる時間がないくらい宿題が出るわけですから)、ますます力がつかなくなってしまっていると思います。もちろん、わけのわからないままに問題を解くような勉強が楽しいわけも力がつくわけもありません。このようにして、大量の宿題を出す学校や塾はそれに既に適応できるごく僅かな子たちにとってのみ意味のあるものとなり、残りの大多数の子にとっては勉強を嫌いにさせてしまっているのだと思います。
②文法があやふや。
国文法や英文法など文法があやふやな子、というのはそもそもどのような文章も、単語の並びとしか認識できていません。幼児の二語文、三語文レベルの認識のままである小学生や中学生(中には高校生も!)がどれだけ多いか、については、驚くレベルです(もちろんこれは話し言葉が二語文である、という意味ではありません。書かれた文章をその子が認識するときに、そのように重要な単語だけを拾って繋げただけの認識でしかない、といいうことです。)。
たとえば、「AがBにCする。」という文があるとしても、A、B、Cという要素の情報しか拾えないため、「BがAにCする。」という誤った選択肢の間違いに気づけない、ということがあります。端的に言えば日本語の助詞、英語の前置詞への意識が弱く、そしてどちらの言語においても品詞の識別意識が極めて弱い、といえるでしょうか。もちろんこの論理関係の識別ができないことは問題を解く際の選択肢の識別だけではなく、そもそも問題文の理解、あるいは普段の勉強においても大きくマイナスに響いてきます。このような子たちにはまずは日本語の助詞の違いを教えることから徹底しなければなりません。(余談ですが「英語を教える際に文構造を重視することはおそらくほとんどの英語の授業でなされているわけで、それなのにどうしてこんなに中高生は文構造がとれないのだろう?」というのは長年の疑問だったのですが、ほとんどの中高生は品詞分解が全くできない!ということに気づき、それを徹底させるようにしてから、だいぶどのような子でも英語の力がつくようになりました。)
また、文法の勉強といっても enjoyは後ろがdoing!みたいなことは必死に覚えているのに、そのdoingが動名詞なのか現在分詞なのかがよくわかっていなかったり、to 不定詞が入っている熟語は山程覚えているのに、to不定詞の三用法(名詞・形容詞・副詞)や副詞的用法の意味の類型(目的・原因/理由・結果)がぱっとでてこない、といった状態もこの文法ができていないことにあたります。
結局、人間が何かを理解する際には言葉で弁別をせざるをえない以上、こうした「文法用語」の意味を理解し、分類をおさえていくことは、自らの中に分析的に見る目、分節していく目を鍛えていくことになります。逆に言えば、これらを覚えないで英文を理解しようとすることの方がはるかに難しく、おそらく相当immersion(英語環境にどっぷり没入)しないと難しいのです。
といったことを英語を例に出して話しましたが、これは数学でも国語でも理科や社会でも同じです。まずは言葉の定義のあやふやさを潰していくこと、次にそのような分類を頭の中に作っては分析的に見ていく目を鍛えていくこと、ということがどの教科であっても必要です。それらのプロセスができていない子は一つ一つを個別の知識として覚えるしかない、あるいは何となく解いて経験則でパターンを理解するしかない、という状態なわけで、それは当然勉強量や時間が多かったとしても、力がつきません。(逆に言えば、このような「用語の定義やその連関を理解し、自分の頭の中に分析のためのツールとしての選択肢を作っていく」という学習プロセスは最初のハードルは高いのですが、必ず力がついていきます。それに対して「何となく解いているうちに慣れる」「何となく読んでるうちに慣れる」という方法は、そこから自分なりの方法論を導き出せるような「天才」にしか、できない勉強方法です。そして、勉強が苦手な子ほど、この自分で方法論を編み出さねばならない「天才の勉強法」をしているという…。だからこそ、力がつかないままに終わっていきます。)
さて、上に書いたことを意識し、徹底していけば、どんな子でも必ず勉強の力がつく!!という事実を僕は確信していますが、しかし現実にそれができているかといえば、無力感ばかりを感じる毎日でもあります。
なぜなら、このような正しい勉強法、というのは惰性で勉強をしている子たちにとっては「とてもめんどくさい」ものであるからです。そもそも、ほとんどの子たちは、勉強ができるようになりたい、とはあまり思っていません。親がうるさいから、教師がうるさいから、という外からの動機でなんとなく勉強に取り組んでいるだけの子たちにとって、このような「正しい」勉強法はまず入り口の時点でハードルが高い(日常会話では使わないような言葉を覚えていかねばならない)のです。
また、親御さんも「勉強しなさい!」とはよく言いますが、「勉強の力をつけなさい!」とは言いません。ほとんどの子どもたち(小学生はもちろん、中高生ですら)にとっては「親がうるさいから勉強する」というレベルから脱している子の方がむしろ少ないのですから、「勉強していれば文句は言われない」と思うわけです。その勉強方法が間違っていて力がつかなかったとしても、親御さんは子どもたちを否定しないで、むしろ「頑張ってるのにかわいそうに。。」と慰めてくれさえするわけですから、彼らが「勉強の方法をめんどくさい方法に変えてでも力をつけよう!」とは思うわけがありません。
もちろん、受験はそのようなぬるま湯につかることを許しません。どのように「勉強時間はたくさんとっている」と言い訳しようと、実力がなければ落ちるのが入試です。あるいは、長い人生全般を見れば、なおさら実力がシビアに響いてくることもよくわかるでしょう。しかし、そのように自らの人生を見つめる目を子どもたちはもてていないことがほとんどである以上、教える側としては、「正しい方法」を教えるだけでは圧倒的に不十分で、「なぜ正しい方法で自分の力を向上させていかねばならないのか」までを理解していってもらう必要があります。長いこと教えて、あれこれできるようにはなったとは思っているのですが、これが本当に難しいと感じています。
つまり、教育には「勉強の正しい方法を教える」だけではなく、生徒の一人一人に、自分の人生と向きあい直視してもらっては、どのように生きるべきかを考えてもらう、というプロセスが必要である、ということでもあります。もちろん、(それが根本的な問いからではなく、おそらく世俗での成功のための打算からではあっても)それらの準備がなされている小中高生もいます。その子達にはただ「正しい方法」を教えるだけでよいのでしょう。そしてそれはある意味、とても楽な仕事です。ただ一方で、それは「正しい方法」を自身の願望として求めている子たちにそれを提供している、というだけであるのであれば、あまり大した「仕事」ができていないとも言えるのだと思います(もちろん、間違った方向性を教えるよりは意味のあることですが!)。彼ら彼女らは最短ルートをこちらが示さなくても、ある程度の成功ができるであろうからです。
一方で、そのように外側からの動機しかなかった子たちが、自身の内側からの動機を持てるようになって努力をするようになり、そうなれば当然「正しい方法」にも関心をもっては自分から方法を追い求めては努力するようになるとき、僕は教育の可能性を感じます。もちろん、どのような子に対してもそれを(やろうとしているとはいえ)できてはいないというこの状況は非常に情けないものではあるのですが、何とか諦めずに取り組んでいきたいと思います。
分析的に見る力を鍛えていくことは、受験勉強だけでなく、自身の人生を肥大化した自意識のまどろみのうちに終わらせる、という責任放棄を一人一人に許さないことにもなっていく、とも信じて、ですね。
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