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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「生き残るためには、変わり続けなければならない」的な言葉の愚かしさについて。

忙しくしていたら、もう7月が終わってしまいそうです!!
その間に書きたいことが山程あったのに、すべて山積みのままでした。。


さて、7月頭くらいに(といっても、もう皆さん覚えているでしょうか…)自民党の広報マンガで「『生き残るためには、変わり続けなければならない』とダーウィンも言っていた!」と書いてあって、それが事実誤認である、という指摘がなされていました。いやいや、それじゃダーウィンではなく、ラマルクの用不用説じゃん!みたいな的確なツッコミは散々されているので、それはここでは書かないとして、このような言葉がいかに根強くはびこっていて、繰り返し言われるのか、その原因を考えてみたいと思います。

人間は基本的に変化を嫌がるものです。それは当たり前で、変化に対しては注意を払わなければならないので、疲れてしまうからです(我々ももう、新型コロナウイルス疲れをしていますよね)。しかし、変化を嫌がる自分自身に対しては人間はどこかしら「こんなに自堕落な自分でいいのかな…。」と不安感も抱えています。「不安感」という言葉を言い換えれば、「罪悪感」ですね。「そのように何かしらの変化を嫌がる自分は、もしかして重大な見落としをしているのかもしれない…」という不安な思いも一方で抱えながらそのようなスタンスで生活しているわけです。

そこにこの言葉は響いてきます。つまり、この言葉は変化というものに対して、自身の意識を集中させることのない日々を普段は送っている、という罪悪感故に、あたかも天啓のように重く受け止められ、そして伝えられていきます。この言葉を誰が言ったのか、ということについての不正確さは別として、このような言葉が人々の心に響きやすい、という狙い自体は自民党の広報マンガの戦略としては正しい、ということになります。もちろんそれと憲法改正とを結びつける牽強付会ぶりの是非は別として。

思い起こせば政治において「改革」という言葉がもった響きと全く同じ作用をこの言葉はもつ、と考えてもらえるとわかりやすいかと。本来「改革」は「変えること」でしかなく、それが良い方向に変えることなのか、悪い方向に変えることなのか、こそが重要です。そして、それが実は良い影響を及ぼすのか悪い影響を及ぼすのかは、実際にやってみなければわからないことが多いからこそ、そのような「改革」には必ず事後評価が必要となるはずです。

ただ、普段「変化」を嫌っては安定を求める人々の罪悪感を刺激する言葉としての「改革」は、改革を自己目的化してしまい、「良くなるか悪くなるかではなく、とにかく変えなければならない!」的な強い主張へと人々を惹きつけることになります。小泉政権時の構造改革から、大阪維新の会の大阪都構想まで、それが何のために必要であるのか、変えることで本当によくなるのか、実際に変えてみてそれで良くなったのか、などについては何も考えられないままに、「変えたいんです!」という「熱意ある」主張に何らかの正当性があるかのように振る舞う政治家たちに、私達はずっと踊らされ続けているわけです。そしてそれは、私達自身が日々の生活や仕事、その他の取り組みの中で「変化」に対して臆病な自分に対してどこかしら原罪を感じていて、そこをうまく突かれて利用されている、とも言えるでしょう。

私達にとって必要なのは、自分が「変わり続ける」ことで生き残ることができるのか、それとも「変わらない」ことで生き残ることができるのかが、実は時と場合によるものであり、そこに「これさえ守っておけば大丈夫!」などというセオリーはない、という残酷な現実を直視することであると考えています。変わることで、死に絶えることもあれば、変わらないことで死に絶えることもある。そのどちらが正しいのか、前回取った選択が次の選択に活かせるのか、それとも前回取った選択を繰り返すことで失敗するのかなど全くわからないこの世界の中で、「変わる」ことも「変わらない」こともどちらも自己目的化することなく、一回一回必死に考えては結論を出すしかない、というのがおそらく結論であるのでしょう。

しかし、このような態度を取り続けること(つまり、一つの態度を決めないで生き続けること)は、おそらく「変わらないままでいる」ことや「変わり続ける」ことよりもはるかに注意をはらい続けなければならないものである、というのがとても疲れるところです。とても疲れるところではあるのですが、しかし、日々それをできているかどうかが、このような何らかの思考停止に基づく煽動に対して、自らが疑い続けていくための唯一の道である、ということが本当に生きることの大変さを物語っているのだ、と思います。

またそれは、「保守」か「革新」か、という不毛な二項対立を惹起することとは別に、どのような保守か、どのような革新であるかこそが重要である、という態度を用意することにも繋がりうるものです。だからこそ、何かを「座右の銘」としてはそれに依拠して思考停止をすることなく、一つ一つしっかり考え、疑い抜いていくことが大切であると思っています。(「変わり続けなければならない」という一見定型的なドグマを疑い続けるかのように聞こえる主張もまた、容易に定型的なドグマへと堕するというのが人間の歴史です。イエスの踏み込んだ主張やソクラテスの「無知の知」という根本的な疑いですら、定型化することで無害化した上で、それがあたかも踏まえられてきたかのような顔をしては、踏みにじってきたわけですから。「型」へと依存することで思考停止をしたがるのは人間の常として、私達一人一人はそれと闘い続けようともがき続けることしかなく、しかもその際にはこのように依拠すべき言葉すら持ち得ないのだ、と考えています。)
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