
いくら巷間で取り沙汰されていようと、重要ではないテーマには何もコメントすべきでないと思うのですが(重要ではないことに取り組むということは、重要なことへとは取り組まないという選択でもあるからです)、この渡部さんのスキャンダルのニュースにも、これだけは言いたい!というとても重要なことがあります。それは「多目的トイレ」という名称についてです。
僕はこの名称がどうにも気持ち悪く、このような言葉が流布しているのが許せなくって、今までずっと一人で「ムキー!」と怒ってきました。いやいや、トイレの目的は古今東西「排泄」のただ一つではないか、と。排泄を目的としていないトイレはそもそもトイレではなく、洗面台とか鏡台とか何かしら別のものです。排泄のための便器があるからこそ、トイレであり、それをおむつ替えや化粧直しなどに使える場所があるとしてもそれは「多機能トイレ」であって、「多目的トイレ」ではない!!!このことはこの機会に声を大にして主張したいところです。
ただ、このような目的をごまかした名称というのは日本語においては非常に多いだけでなく、どんどん増えてきています。たとえばトイレに関してだけでも、目的を明確にした「便所」という言葉はすっかり使われなくなり、「化粧室」と言ったり(じゃあ便器を置くな!)、「お手洗い」と言ったり(じゃあ(以下同文)!)、目的をごまかしては、より「キレイな」言い方ばかりが作られていきます。もちろんこれは最近に限ったことではなく、そもそも上代から、天皇のことを「みかど(御門)」と言ったり、大貴族を建物名で言ったり、あるいは今にも残る「奥方」と言ったりと、直接名指しするのは(特にその対象が高貴な身分である限り)失礼に当たる、という風習はあったのだと思います。ただ、そのような言葉の「消毒」が高貴な身分の人に対してだけではなく、日常語の中にこのように入ってきては、言葉を狩られ続けていく私達、というこの事態については、しっかりと考えねばならない問題点があるように思っています。
このような言葉狩りは「死」や「排泄」といった、人間たちにとって負のイメージを引き起こす対象だからなされている、という解釈も一つはあり得るでしょう。それもまた、日本の歴史の中でまた、ずっとあった風習ではあると思います。そういえば日本ではないですが、ハリー・ポッターでもヴォルデモート卿は「名前を言ってはいけないあの人」でしたね!(これは恐らく高貴な人だからではなく、負のイメージだからかと!)しかし、目的とリンクした直截的な名称が使えなくなることは、単なる代替であるだけではなく、その言葉を使う私達のうちに「目的」を見失わせていく、という力を持つものでもあります。そのようにして、目的なき名称が流布していく中で、私達はそのような言葉遣いに慣れていき、言葉を発する、あるいは何かの名前を呼ぶ、という行為は、真実に迫るためではなく、真実から目を背けるためになっていきます。
と、一足飛びに書いてみると、「そんな『多目的トイレ』という名称くらいで大げさな!」と反応されがちではあるのですが、たとえばこのステイホーム期間に多くの人が初めて見たであろう国会中継一つをとっても、いかに内実を語らないか、いかに相手の質問に対していかに答えずにやりすごすかのために、言葉が空費され続けたのはよくわかるのではないでしょうか。「目的」なき言葉や名称に人々が慣れっこになって鈍感になっていく社会、というのは言葉の力が通用しなくなる社会です。そして、その言葉の矛盾や名称の矛盾に人々が鈍感になればなるほどに、むき出しの権力にとっては都合の良い社会になっていく、ということになります。
こういう話ではジョージ・オーウェルの『1984』とかがよく引き合いに出されるわけですが、あの世界で「ニュースピーク」によって事実とは違う言葉が流布し公式に使われている、というのは、つまり一人一人が言葉に対する抵抗感から異議申し立てができなくなってしまったあとの話だということです。しかし、そのようにならないためには、「そのような(言葉を規制する)権力の横暴に抗議しよう!」とか「あんなその場しのぎの言葉を空費する国会での答弁を許すな!」という闘い方だけではなく(もちろん、これらに対して徹底的に抗議し、闘っていくこともまた必要であるとは思いますが)、それよりもこの「多目的トイレ」のような言葉を日常の中で許さない!ということにこそ、地味だけれどももっと大切な闘いがあるのではないかと思っています。なぜなら、これらの「目的」を忘れさせるような言葉遣いの果て、語義や目的という内面を失った、慣用からの転化によって私達の言葉すべてが埋め尽くされては構成されていく事態の結果として、権力はフリーハンドを得られるようになるからです。
極論を言えば、「多目的トイレ」という言葉に違和感を感じない人々ばかりの社会においては、言葉の力で権力を規制するという仕組みをもつ議会政治は不可能である、とまで僕は思っています。もちろんこれはたまたま僕が「敏感さん」として気がついた一つの具体例でしかなく、僕自身もまた見落としているこのような言葉の使われ方、言葉の殺され方が他にもたくさんあるのでしょう。ただ、こういった一つ一つのごまかしを許さないように、ということの先でなければ、民主主義は可能ではないと思っています。理性の源であるかのように見られている言語が不合理と因習の産物でしかないことをソシュールが指摘したことは意味のあることだったとして、しかし私達はその言語によってポパーの言うように「殺し合いをする代わりに議論をすることを発達させてきた」歴史を踏まえて議会制民主主義を採用しているわけですから、そのような不合理と因習から生まれてきた言語に、いかに筋道と合理性を込めていけるかが、私達人間が取り組まなければならないチャレンジであるのだ、と思います。特に日本人は、このことにあまりにも弱すぎると思っています。
トイレの目的がただ一つであることから目を背けて生活ができてしまう私達は、自分の人生の目的がただ一つであることからもまた、目を背けたままに生活ができてしまっているのでしょう。「目的なき生に意味はない」という主張を他者に向けることが様々な排斥を生み出すロジックになりがちであることに注意は払いながらも、しかし、目的を(他者にではなく)自らに問い続ける、ということはやはり私達人間にとってはとても苦手なことであるようです。そのためのツールとして、言葉を不完全ながらも磨き続けていかねばならないと考えています。
僕はこの名称がどうにも気持ち悪く、このような言葉が流布しているのが許せなくって、今までずっと一人で「ムキー!」と怒ってきました。いやいや、トイレの目的は古今東西「排泄」のただ一つではないか、と。排泄を目的としていないトイレはそもそもトイレではなく、洗面台とか鏡台とか何かしら別のものです。排泄のための便器があるからこそ、トイレであり、それをおむつ替えや化粧直しなどに使える場所があるとしてもそれは「多機能トイレ」であって、「多目的トイレ」ではない!!!このことはこの機会に声を大にして主張したいところです。
ただ、このような目的をごまかした名称というのは日本語においては非常に多いだけでなく、どんどん増えてきています。たとえばトイレに関してだけでも、目的を明確にした「便所」という言葉はすっかり使われなくなり、「化粧室」と言ったり(じゃあ便器を置くな!)、「お手洗い」と言ったり(じゃあ(以下同文)!)、目的をごまかしては、より「キレイな」言い方ばかりが作られていきます。もちろんこれは最近に限ったことではなく、そもそも上代から、天皇のことを「みかど(御門)」と言ったり、大貴族を建物名で言ったり、あるいは今にも残る「奥方」と言ったりと、直接名指しするのは(特にその対象が高貴な身分である限り)失礼に当たる、という風習はあったのだと思います。ただ、そのような言葉の「消毒」が高貴な身分の人に対してだけではなく、日常語の中にこのように入ってきては、言葉を狩られ続けていく私達、というこの事態については、しっかりと考えねばならない問題点があるように思っています。
このような言葉狩りは「死」や「排泄」といった、人間たちにとって負のイメージを引き起こす対象だからなされている、という解釈も一つはあり得るでしょう。それもまた、日本の歴史の中でまた、ずっとあった風習ではあると思います。そういえば日本ではないですが、ハリー・ポッターでもヴォルデモート卿は「名前を言ってはいけないあの人」でしたね!(これは恐らく高貴な人だからではなく、負のイメージだからかと!)しかし、目的とリンクした直截的な名称が使えなくなることは、単なる代替であるだけではなく、その言葉を使う私達のうちに「目的」を見失わせていく、という力を持つものでもあります。そのようにして、目的なき名称が流布していく中で、私達はそのような言葉遣いに慣れていき、言葉を発する、あるいは何かの名前を呼ぶ、という行為は、真実に迫るためではなく、真実から目を背けるためになっていきます。
と、一足飛びに書いてみると、「そんな『多目的トイレ』という名称くらいで大げさな!」と反応されがちではあるのですが、たとえばこのステイホーム期間に多くの人が初めて見たであろう国会中継一つをとっても、いかに内実を語らないか、いかに相手の質問に対していかに答えずにやりすごすかのために、言葉が空費され続けたのはよくわかるのではないでしょうか。「目的」なき言葉や名称に人々が慣れっこになって鈍感になっていく社会、というのは言葉の力が通用しなくなる社会です。そして、その言葉の矛盾や名称の矛盾に人々が鈍感になればなるほどに、むき出しの権力にとっては都合の良い社会になっていく、ということになります。
こういう話ではジョージ・オーウェルの『1984』とかがよく引き合いに出されるわけですが、あの世界で「ニュースピーク」によって事実とは違う言葉が流布し公式に使われている、というのは、つまり一人一人が言葉に対する抵抗感から異議申し立てができなくなってしまったあとの話だということです。しかし、そのようにならないためには、「そのような(言葉を規制する)権力の横暴に抗議しよう!」とか「あんなその場しのぎの言葉を空費する国会での答弁を許すな!」という闘い方だけではなく(もちろん、これらに対して徹底的に抗議し、闘っていくこともまた必要であるとは思いますが)、それよりもこの「多目的トイレ」のような言葉を日常の中で許さない!ということにこそ、地味だけれどももっと大切な闘いがあるのではないかと思っています。なぜなら、これらの「目的」を忘れさせるような言葉遣いの果て、語義や目的という内面を失った、慣用からの転化によって私達の言葉すべてが埋め尽くされては構成されていく事態の結果として、権力はフリーハンドを得られるようになるからです。
極論を言えば、「多目的トイレ」という言葉に違和感を感じない人々ばかりの社会においては、言葉の力で権力を規制するという仕組みをもつ議会政治は不可能である、とまで僕は思っています。もちろんこれはたまたま僕が「敏感さん」として気がついた一つの具体例でしかなく、僕自身もまた見落としているこのような言葉の使われ方、言葉の殺され方が他にもたくさんあるのでしょう。ただ、こういった一つ一つのごまかしを許さないように、ということの先でなければ、民主主義は可能ではないと思っています。理性の源であるかのように見られている言語が不合理と因習の産物でしかないことをソシュールが指摘したことは意味のあることだったとして、しかし私達はその言語によってポパーの言うように「殺し合いをする代わりに議論をすることを発達させてきた」歴史を踏まえて議会制民主主義を採用しているわけですから、そのような不合理と因習から生まれてきた言語に、いかに筋道と合理性を込めていけるかが、私達人間が取り組まなければならないチャレンジであるのだ、と思います。特に日本人は、このことにあまりにも弱すぎると思っています。
トイレの目的がただ一つであることから目を背けて生活ができてしまう私達は、自分の人生の目的がただ一つであることからもまた、目を背けたままに生活ができてしまっているのでしょう。「目的なき生に意味はない」という主張を他者に向けることが様々な排斥を生み出すロジックになりがちであることに注意は払いながらも、しかし、目的を(他者にではなく)自らに問い続ける、ということはやはり私達人間にとってはとても苦手なことであるようです。そのためのツールとして、言葉を不完全ながらも磨き続けていかねばならないと考えています。



