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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「繊細さん」について。

最近、highly sensitive person (非常に感受性の強い人、「繊細さん」)について、そのままだと社会の中で生きにくい彼ら彼女らが、どのように社会に適応していくのかという、自己理解を進めるための本を読みました。これはこれで必要な本だとは思うのですが、一方で非常に違和感も感じました。それは、結局この本は既存の社会の中でそのような「繊細さん」達がどのように生き延びるか、という観点に立って書かれているだけであり、既存の社会への批判や改善へとはあまりつながらないと思うからです。

たとえば、何かについて敏感な人がごくマイノリティであり、それについては鈍感な人がマジョリティであるのは世の常です。だとすれば、そのマジョリティ側に立って敏感なマイノリティの意見を封殺することや、マイノリティ側がマジョリティの規範を自己の内面に規範化すること、というのはマイノリティを抑圧する、というだけではなく、社会全体としては、せっかく何かに敏感に気がついている人がいるのにも関わらず、その気づきを反映し、社会をアップデートすることができないままに旧態依然の状態を保存していくことになってしまいます。そのような社会は少しはマシになるきっかけを失い、次々と現れる敏感な人を(少なくとも精神的には)皆殺しにしては不完全なことに開き直っては維持されていく社会でしかないでしょう。それは、マイノリティとしての「敏感さん」達が苦しむだけではなく、いずれ必ず社会全体として行き詰まり、大きな破綻を迎えることになると思います。

このことに関しても日本でなかなか理解されていないのは、「多様性」というのは、決してマイノリティのために必要なものではない、という事実です。むしろ多様性を守り続けていくことは、集団が常にアップデートしていくために必要であり、それは「誰か少数派のため」ではなく、純粋に「自分たちのため」です。これはどのような観点からもマジョリティに属す人々に理解されていないだけでなく、ある部分においてはマイノリティに属し、マイノリティとしての痛みを感じながら生きているはずの人たちですら、あまり理解ができていないことでもあります。

「繊細さん」に話を戻せば、彼ら彼女らの繊細さは鈍感な私達にとっては様々な見落としがちなものに気づかせてくれる契機であり、そこでの衝突を通じて、鈍感なマジョリティ側に学ぶ姿勢があればあるほどに、そのような社会はより豊かに、したがって強靭になっていくのだと思います。それができていないがゆえに、「繊細さん」自身に「なるほど。自分は他の人とは違うのだな。」という理解をしてもらい、そして自身の繊細さをコントロールしていってもらっては鈍い方に合わせて営まれる社会になど、率直に言って可能性はないように思います。もちろん、この日本社会がそのようにマイノリティへの抑圧のみから成り立っている、どうしようもない社会であることが事実であるのは間違いがないのでしょうが、しかし、それにしても「繊細さん」にそこまで気を使って生きてもらうのでは、あまりにも情けなさすぎるのでは、と思います。(画家の鴨居玲が、パートナーとインタビューを受けたときに「この人はいつも他人のせいにしてばかりなんですよ。。」とパートナーに言われて、「いや、違う。全部他人のせいなんだ!!」と怒った、という話があります。繊細であるがゆえに鈍感なマジョリティには気づかないことに気づき続けるマイノリティにとっては、この社会で生きていくだけで「暴力」を浴び続けることになります。それに対して、鴨居のように多少乱暴な抗議の声を挙げる人が居たとしても、それをどうごまかさずに受け止めていくか、を我々鈍感なマジョリティは考えるしかないのだ、と思っています。)

「鈍く」なることが「大人」になることであり、「社会性」を獲得することであるのだとしたら、そのようにして自らの感覚を削ぎ落とさなければ入っていけない社会など、人間たちの墓場でしかありません。もちろん僕自身も教育という仕事に携わる以上、既存の社会不適合的な彼ら彼女らの個性を、どのように削ぎ落とすことなく活かした上で、しかし既存の社会の求めるものの中で彼ら彼女らが準備し得ていないものを準備させていくか、という難題に日々直面しています。その一つ一つの実践の中では、こちらがどのようにそれを避けようとしていても、「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまうという失敗の瞬間も必ずあると思います。

しかし、一方で、そのようにある部分について自分を超えて敏感な彼ら彼女らから学び続け、その敏感さが彼ら彼女らの生きづらさの原因となってしまっているとしても、その敏感さが活かされ、反映される社会を目指すことを諦めるのであれば、それこそ僕自身もまた「理解者の顔をした抑圧者」でしかなくなります。一人一人の子どもたちの中にある、そのような繊細すぎる部分に対して、どこまで誠実に向き合っては、それを自らの理想の社会像に反映していけるか、という日々の取り組みこそが勝負であり、そこにおいて「いやいや。こちらの想定する『豊かな社会』には、もう君の繊細さは十分取り入れてあるんですよ〜」と高をくくった時点で、教育者としては死んでいて、有害無益な存在でしかないと思っています。

嚮心塾がなくなるのは、塾が経営面で潰れるときではありません。塾の経営が苦しくなろうと(現在コロナでやばいですが!)、別の仕事をしてでもこれを続けていくことに意味があるうちは、続けていかねばならないと思っています。本当に嚮心塾が死ぬのは、そのような一人一人の既存の社会には包摂されえない繊細さ、敏感さに対して、僕が「知ったかぶり」を始めてしまったときである、と思っています。そのような暴力に加担していることに気づいたときには、どのように繁盛していようと、理三に何人受かろうと、その場で塾を閉めようとも思っています。

そしてそうならないためにも、繊細さんを既存の社会に包摂されるようにトレーニングを積むだけではなく、そもそも彼ら彼女らのそういった部分を理解し評価できていない既存の社会への徹底した批判と、その上でどのような社会を目指すべきであるのかのビジョンとを絶えず考え抜いていきたいと思います。
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