
「教育の目的とは何か」という問いに対して「知識を増やす」「思考力を鍛える」などと色々な回答があると思います。
「生き抜く力をつける」などといった漠然とした回答もありました。
どれを答えても片手落ちなので、まあ諸々全部鍛えれば良いとは思うのですが、ただ一点だけに焦点を絞ってください、と言われたら、僕は「調べる、という習慣をつけること」だと答えたいと思います。
たとえば言葉の意味がわからなければ、辞書を引く。今ならgoogle検索で何でも調べることもできます。我々の小さい頃と比べて、「調べる」という行為ははるかにハードルが低く、かつ、膨大な情報量を得られるようになっているのにも関わらず、子どもたちは調べることがとても苦手です。
「子どもたちは調べる、ということが苦手だ」という主張には少し留保がいりますね。もちろん彼ら彼女らは調べる手段はもっているし、調べる方法も知っています。むしろ、我々大人以上に、それは知っているでしょう。ただ、「意味がわからない」言葉に出会ったときに、それを調べよう!と思わなくなってしまっている、と言ったらいいでしょうか。
逆に言えば、ネットでも、あまりにも情報量が多くなってしまっているのだと思います。また、テレビやyoutubeを見ればわかるように、一方的に流されるものに対して受け身で情報を浴びる機会が多くなってしまっています(この点では、youtubeはテレビと敵対するものではなく、テレビを補完するものです)。たくさんの情報が手軽にアクセスでき、それにさらされることで暇つぶしを覚えてしまった子たちにとって、そこに「わからないことは、調べる」という習慣さえついていれば、それらの動画も豊かな学習の契機になるのでしょうが、そうでなければむしろ「わからないものはわからないままでも何とかなる」という体験の強化になってしまいます。
これはもちろん、子どもたちだけの問題ではありません。受動的に入ってくる情報に慣らされた結果として、大人たちもまた、「調べる」ということが苦手になってしまいます。情報量が多すぎて、一つ一つひっかかっては調べていくことができなくなってしまっていると思います。
だからこそ、「テレビの見すぎはよくない!」とか「youtubeの見すぎはよくない!」という教条主義的なしつけ、というのはだいたいあまり意味がなくて(そもそも実効性があまりないですよね)、「テレビを見たら、わからなかった言葉は調べよう!」とか「youtubeを見たらわからなかった言葉は調べよう!」とかを徹底して、さらにはそれを「その方がより内容を楽しめるはず!」というように動機づけをしてあげるのがよいかもしれません。
嚮心塾でもこれは徹底しています。「調べてわかること」を丹念に教師が教える、というのはその生徒をどんどんダメにしていくことです。それが調べたらちゃんと本や参考書に載っていることを繰り返し伝えた上で、それをどのような本や参考書で調べたらよいか、それで調べても載っていないときにはどうしたらよいか、など「調べる」という行為への彼らのハードルを下げ、そのメリットを説き、その上で調べ方を鍛えていきます。さらには調べても載っていないことについて、初めて質問を受ける、ということを徹底していきます。このようにして、一人一人の子たちが「ちゃんと調べる前に聞くことは、そもそも恥ずかしいことだ!」というところまで達してくると、それは一生の宝となる学習姿勢を身につけることができている、ということになります。
もちろんそのような「調べる」方法と習慣が有用なのは、受験勉強に限りません。自身でしっかりと調べることなく、誰かの言っていることを鵜呑みにすることから、デマゴーグに騙されては雰囲気で投票する有権者は生まれます。あるいは、愚かな消費者もまた。大切なのは、自身の知っていること、わかっていることに必ず限界があるのだということを自覚した上で、それをどのように調べていくのか、という方法論やその習慣を鍛え上げていくことです。東大を出ようと理三に受かろうと、医師や弁護士や大学教授であろうと、そんなものが自分の無知さ、考えの足らなさを否定する根拠にはなりえません。だからこそ、人間は、死ぬ最後の瞬間まで、自分のわからないことを調べる姿勢を貫くしかないわけで、その「調べる」という習慣をそもそも持たない、あるいは持っていたけれどもとうに失ってしまった、という人こそがすべての元凶である、と思っています。
その「調べる」という習慣と方法とを鍛えていくために、今日も必死に教えていきたいと思います。
「生き抜く力をつける」などといった漠然とした回答もありました。
どれを答えても片手落ちなので、まあ諸々全部鍛えれば良いとは思うのですが、ただ一点だけに焦点を絞ってください、と言われたら、僕は「調べる、という習慣をつけること」だと答えたいと思います。
たとえば言葉の意味がわからなければ、辞書を引く。今ならgoogle検索で何でも調べることもできます。我々の小さい頃と比べて、「調べる」という行為ははるかにハードルが低く、かつ、膨大な情報量を得られるようになっているのにも関わらず、子どもたちは調べることがとても苦手です。
「子どもたちは調べる、ということが苦手だ」という主張には少し留保がいりますね。もちろん彼ら彼女らは調べる手段はもっているし、調べる方法も知っています。むしろ、我々大人以上に、それは知っているでしょう。ただ、「意味がわからない」言葉に出会ったときに、それを調べよう!と思わなくなってしまっている、と言ったらいいでしょうか。
逆に言えば、ネットでも、あまりにも情報量が多くなってしまっているのだと思います。また、テレビやyoutubeを見ればわかるように、一方的に流されるものに対して受け身で情報を浴びる機会が多くなってしまっています(この点では、youtubeはテレビと敵対するものではなく、テレビを補完するものです)。たくさんの情報が手軽にアクセスでき、それにさらされることで暇つぶしを覚えてしまった子たちにとって、そこに「わからないことは、調べる」という習慣さえついていれば、それらの動画も豊かな学習の契機になるのでしょうが、そうでなければむしろ「わからないものはわからないままでも何とかなる」という体験の強化になってしまいます。
これはもちろん、子どもたちだけの問題ではありません。受動的に入ってくる情報に慣らされた結果として、大人たちもまた、「調べる」ということが苦手になってしまいます。情報量が多すぎて、一つ一つひっかかっては調べていくことができなくなってしまっていると思います。
だからこそ、「テレビの見すぎはよくない!」とか「youtubeの見すぎはよくない!」という教条主義的なしつけ、というのはだいたいあまり意味がなくて(そもそも実効性があまりないですよね)、「テレビを見たら、わからなかった言葉は調べよう!」とか「youtubeを見たらわからなかった言葉は調べよう!」とかを徹底して、さらにはそれを「その方がより内容を楽しめるはず!」というように動機づけをしてあげるのがよいかもしれません。
嚮心塾でもこれは徹底しています。「調べてわかること」を丹念に教師が教える、というのはその生徒をどんどんダメにしていくことです。それが調べたらちゃんと本や参考書に載っていることを繰り返し伝えた上で、それをどのような本や参考書で調べたらよいか、それで調べても載っていないときにはどうしたらよいか、など「調べる」という行為への彼らのハードルを下げ、そのメリットを説き、その上で調べ方を鍛えていきます。さらには調べても載っていないことについて、初めて質問を受ける、ということを徹底していきます。このようにして、一人一人の子たちが「ちゃんと調べる前に聞くことは、そもそも恥ずかしいことだ!」というところまで達してくると、それは一生の宝となる学習姿勢を身につけることができている、ということになります。
もちろんそのような「調べる」方法と習慣が有用なのは、受験勉強に限りません。自身でしっかりと調べることなく、誰かの言っていることを鵜呑みにすることから、デマゴーグに騙されては雰囲気で投票する有権者は生まれます。あるいは、愚かな消費者もまた。大切なのは、自身の知っていること、わかっていることに必ず限界があるのだということを自覚した上で、それをどのように調べていくのか、という方法論やその習慣を鍛え上げていくことです。東大を出ようと理三に受かろうと、医師や弁護士や大学教授であろうと、そんなものが自分の無知さ、考えの足らなさを否定する根拠にはなりえません。だからこそ、人間は、死ぬ最後の瞬間まで、自分のわからないことを調べる姿勢を貫くしかないわけで、その「調べる」という習慣をそもそも持たない、あるいは持っていたけれどもとうに失ってしまった、という人こそがすべての元凶である、と思っています。
その「調べる」という習慣と方法とを鍛えていくために、今日も必死に教えていきたいと思います。



