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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

ZOOM授業を振り返ってみて。「アフターコロナ」とは。

緊急事態宣言が明け、塾も平常通りになりつつあります。

この2ヶ月間、オンラインでZOOMによる指導も並行してやっていたわけなのですが、率直に言ってこれは嚮心塾の形態ではあまり意味がないなーと感じてしまいました。もちろん、オンライン指導全般が意味がないわけではなく、特に講義形式の授業であれば、講義動画を流しておいて、そのあとにZOOMでインタラクティブに質疑応答する、とか使いようによってはむしろ良いかと思います。また、嚮心塾でも一番困るパターンとして「通塾しなくなる。」という子たちにとってZOOMで教えることができるのはプラスの側面でもありました。

ただ、2ヶ月色々やってみた結論としては、「この形でしか塾を続けられないのなら、そもそも学習塾なんかやる意味は僕にはないな。」というのが結論でした。

そのように考えた、まずその1つ目の理由としては、生徒の情報量が圧倒的に少ない、ということです。ZOOMは基本的に、カメラに映る部分しか見えません。一人一人の子たちの勉強の仕方、勉強のサボり方、その他のしぐさなど様々な視覚情報を塾という場で勉強してもらっているときにはこちらでは観察しながら、その子達がどのような思考回路、心理状態で勉強へと取り組んでいるのかを見ています。そういった情報があまりにも画面の中だけでは少なすぎるだけでなく、同じアングルからにどうしてもなってしまうために、様々な角度から見るときには気付ける大切な情報も見落としてしまいがちです。(もちろん、自宅で勉強しているからこそ、塾では猫をかぶっていてちゃんとやっているふりをしている部分の化けの皮が剥がれて、家ではこれだけ集中していないのか、などとわかることもあったのはZOOMで指導したことの収穫です。しかし、これはやはり勉強へのモチベーションが低い子限定であり、勉強に取り組むところではそんなに問題のない子たちに対しては、単純に情報量が圧倒的に減る、ということにしかなりませんでした。)

2つ目の理由としては(これも1つめと根本的には同じなのですが)「雑談」や「会話」ができない、ということでした。ZOOMの場合、「雑談」をするにはブレイクアウトルームを作ってそこで話さなければなりません。全員に話しかければ雑談は単なる「ノイズ」になり、無視されることになるでしょう。かといって、ブレイクアウトルームを作って話される「雑談」はもはや、心を構えた状態で話される言葉なので、その中に彼ら彼女らの無防備さ故に露呈する思考回路や心理状態のヒントを得にくくなります。これらも普段の塾では塾生の勉強の邪魔をするような「雑談」をすることで、その「雑談」への反応の仕方をこちらで分析しては、指導に活かしているわけで、それができないのは極めて情報量が少なくなります。

また、会話ができない、というのは次のような理由です。たとえば塾で同じ場を共有して話す時、というのはA君に話し掛けてA君と会話をしているようで、実はその話の内容を隣りに座っているB君にも聞かせたい、という目論見で会話をするケースがほとんどです。この理由としては、様々であるのですが、基本的に人間というのは面と向かって注意されたことを直す、というのがプライドがあるためにどうしても苦手であるので、このように間接的な形で修正を促す、ということができると学びやすくなる、ということがあるからです。また、このようにA君に教えている内容をB君が聞けたり、B君に教えている内容をA君が聞けたり、ということが教室内の様々な部分で起きている時、そのような教室ではただ自分が聞きたいことを聞いているだけの授業よりも、学ぶ機会が圧倒的に増えていきます。このような「自分に話しかけられていない言葉も聞く」ということからの学びの相乗作用が、基本的に「一対一で話したいときだけにつなぎ、それ以外の場合はノイズになる」ZOOMでは難しいと思いました。(もちろん、これも教室のマイクをずっと入れっぱなしにして、一人ひとり教える、という手もあるのですが、面白いもので、これはかなり不快感を生徒たちが持つのですよね。。やはり「場を共有ししている」ということは、「自分にとって関係ないと思える話も聞く」という態度への強制力になるのだな、と改めて勉強になりました。)

主にはこの2つの理由から、ZOOMはどうしても通えない子への補完策以上にはなかなかなりにくいなあ、と思いました。なので、嚮心塾は改めて一つの空間で教え続けていくことに、こだわります。それを皆さんが怖がって潰れていくのであれば、それで良いとも思っています。こちらの目的は塾を続けることではなく、意味のある教育をすることであるからです。
誰にでもできるような、意味のない「教育」をしてまで、この塾を続けていきたいとは思いません。

その上で。「アフターコロナ」という言葉が喧伝されているのですが、僕は基本的に「アフターコロナだから、働き方を変えねばならない」という言説には胡散臭いものしかないと思います。もちろん、今までの働き方を見直すきっかけにすることは有意義でしょう。そもそも無意味な会議を長時間、一つの部屋に集まってやっているよりはオンラインで良くない?そもそも会議とかいらないんじゃない?という見直しは大切です。

しかし、それを徹底的に振り返ってみた上で、やはり「ここは代替できない。」「これはどうしても必要だ。」となったものを、無理に削っていって働き方を変えたとして、果たしてその働き方はこの社会にとって必要なものを切り捨ててはいなのでしょうか。感染症対策のために、社会の中で必要な働き方やあり方そのものまでも変えていくのだとして、それが多くの必要なものを切り捨てることになったとしたら、それはそのような社会で私達は生きていきたいのか、というまた別の問題を提起することになると思います。だからこそ、何が必要であるのか、何は必要ではないのかを見直す契機にするのはよいとして、「アフターコロナですべてを変えなくてはならない!」という主張が切り捨てては見殺しにしていくものについて、やはり敏感にならなければ「角を矯めて牛を殺す」ことになってしまい、あとから後悔してもしきれないものになってしまうのではないかと思います。
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