嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

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世代間対立という悪循環を防ぐために。

生命科学での日本の第一人者の一人である(そうです。僕は寡聞にしてまだご本を読んだことがありません。これから読みたいと思います。)、京大名誉教授の柳田充弘先生が、ご自身のブログ(「生きるすべ」)で、科研費申請時のヒアリングで、決めつけに基づいたきわめて不公正な審査を受け、そのせいで科研費が下りずにご自身の京大の研究室を閉めざるを得なくなった経緯について、悲しみと批判を述べていらっしゃいます。年齢を理由に(今年69歳になられたそうです)、柳田先生の科研費申請を「犯罪的だ!」と別の場で面と向かってののしった人が科研費申請時のヒアリングでも座長であり、結局申請に提出した論文をまともに吟味する(そもそも読んでいなさそう)ことなく、ヒアリングが終わり、結果として科研費申請が却下されたそうです。

僕はこの件自体を本当に残念なこと、許してはならないことだと思います。特に、その研究の内容によって判断するのではなく(実力によってではなく)、勝手な思いこみと決めつけによって判断をするというのは、大局的な観点から見て確実に日本の科学技術のレベルを下げることであると思います。年齢など関係なく、科研費の審査は内容(実力)によって判断しなくてはなりません。しかし、冷静に考えなくてはならない点もあると思うのは、このような決めつけた判断を行った側もまた、「科研費の審査は、内容(実力)によって判断しなくてはならない。」という思いからこのようなひどいことをしたのではないか、と考える必要があると感じるからです。

その座長は、このように考えていた可能性もあると思います。「日本の若手研究者は、不遇すぎる。なぜなら、どんなに良い内容の研究で科研費を申請しても、結局科研費を獲得するのはこれまでに実績を上げてきたいわゆる『大家』になってしまうからだ。審査をする側は、そもそもその新しく申請される研究の価値を判断するということが(その研究が新しいが故に)きわめて難しい以上、「科研費をどこの馬の骨とも知らない人に与えるよりは、実績をすでにいくつももっている研究者に与える方が、後で『あの科研費は無駄だった。』と批判される可能性はより少ないはずだ。」と考えがちだ。そのせいで、無名の研究者はせっかく有望な研究内容で申請しても、チャンスを与えられないで苦しんでいる。何?また、この大家が科研費を申請してきたのか。よーし、ここは、若い人のためにおれが一肌ぬごうではないか…」ここでの彼の動機は、「科研費の審査は、(これまでの名声や実績によってではなく)内容(実力)によって判断しなくてはならない。」という思いだったかもしれないわけです。

「科研費は、(過去の実績ではなく)内容(実力)によって判断しなければならない」と考えた座長が、そのpolicyに基づいて柳田先生の申請を却下し、その結果として柳田先生が「内容で判断してほしい」と批判せざるを得ない。そのような複雑な問題であるのだと思います。

これはたとえば、成果主義と年功賃金の関係性など、簡単に分けるわけに行かないものを二分論によって是非を問うことの問題性を示してもいます。しかし、より大きな問題は、この座長が、一つの正しい思い(「若手にチャンスを!」)を優先するあまりに、その正しい思いを機械的にどんな対象に対しても適用しなければならないと考えたその硬直性にあると思います。

「判断を下す」ということは、とても難しく、恐ろしいことです。そこで、自分が申請者の過去の実績に目がくらんで、目の前の申請を精密に評価できないのであれば、それはやはり若い研究者の芽をつむことになります。しかし、この例のように、その若い研究者の芽をつむことだけを恐れてしまえば、その申請自体の価値を不当に(年齢によって)評価し、それは結局科学技術全体の地盤沈下を招くかもしれません。もちろん、さらに難しい要素として、大家(たいか)の80点の申請と、若手の30点の申請とのどちらを評価すべきなのか、という問題もあります。この申請自体は30点ぐらいしかつけられないとしても、これからいくらでも伸びるかもしれない部分を評価すべきなのか、それともあくまで若手が80点をとることを要求することで、その若手に奮起を促すのか。しかし、奮起を促すつもりで却下をしたことのせいで、その若手が研究を続けられなくなる可能性もまた出てくるわけです。かといって、「芽」は若者の研究にだけあるわけではありません(現に、柳田先生は「今が一番新しいことをうみだせそうだ」という趣旨のことをおっしゃっています)。

本当に難しく、また自分が判断を下すのが恐ろしいくらい責任重大なことです。このようなことすべてを考慮した上で、正しい判断を下すことなど、おそらく人智をこえているのでしょう。しかし、だからこそ、少しでも正しい判断へと近づくことが出来るように、謙虚に考え抜かねばならないのだと思います。この件に関して、やはり最大の問題は、そのヒアリングの時に、審査をする側の座長の先生がしっかりと論文を吟味をしないで自分の思いこみに基づく正義感に頼ったことが、やはりこのように考えてみても、一番の問題であったのだと思います。

人間の判断するものですから、当然この科研費のような決定には間違いがつきものです。しかし、審査をする側は、これだけ難しく、これだけ責任の重い決定であることを肝に銘じた上で、様々な観点から悩み抜くことが必要であると思います。その審査の結果の正当性に信頼を置こうとする姿勢を僕は危険であると思います(なぜなら、それは常に間違いを含まざるを得ないだけでなく、そのとりあえずの結果に対する疑いを排除する方向に働くからです)。しかし、その審査のプロセスに正当性をおけなくなるとしたら、やはり科学は衰退するしかなくなるのではないでしょうか。

本来わかり得ないかもしれないおのおのの研究の価値を、分かろうとするために必死に互いに努力するという姿勢を、世代間の争いを超えて、互いの世代の共通認識として共有していくことがまず何よりも大切であると考えています。特にこのことを、不遇な研究環境に苦しむ若い世代にこそ、理解してもらわねばなりません。彼らが若く、「実績がない」とされるが故に現在不遇に苦しむことが不当だとしても、その解決方法として逆の年齢差別(「年寄りは研究費をもらうな!」という態度)を歓迎してしまうことは、結局いずれ彼ら自身の首を絞めることになってしまいます。自分自身が不当で差別的な評価に苦しむあまり、不当な逆差別を歓迎してしまえば、それは結局、研究の価値によって研究者を評価するという当たり前の機能をこの社会が持ち得なくなってしまうことにつながります。若い世代も年長の世代も、「自分の研究をその内容で評価してほしい」と(どんなに苦しくても)胸を張って言い続けるつもりで、研究をしていかねばならないのではないでしょうか。

もちろん、このような理想論を許さないほどに、現状は厳しく、研究者達は疲弊しているのでしょう。それは部外者たる僕にはうかがい知れぬ所です。しかし、それでも、あるべき社会の有り様を忘れて、不当な冷遇に対しても厚遇に対しても、(現実的にはそれを甘受せざるをえないとしても)「本当はこれではいけないんだ。」と言えなくなるのであれば、何のための研究であるのかはわからなくなります。

それとともに、研究者達にそのような超人的な忍耐を要求しないでもすむような社会を、私たちは目指していかねばならないとも思っています。
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