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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

「リアリスト」とは。

検察庁法改正、というあまりにも恣意的な人事を許す法案をなんとか止められたことは、本当によかったことだと思います。とはいえ、これについてもまだまだ油断することができません。今の政府というのは選挙での連戦連勝状態で、もはや自民党内部の意見すら聞くことなく政策決定をしてしまっているので、党と政府との緊張感が全くない状態です。野党は力が弱すぎますし。だからこそ、権力分立の観点からすれば、全くチェックが効いていない状態であり、自分たちに都合がいいものを何でも法案を通しては慣例をうちやぶっていく、ということができてしまうわけです。それにまずは自民党が逆らえない。ましてや、野党など、ですね。

これについては、この検察庁法改正に対する反対運動のように、やはり国民一人一人がしっかりと勉強し、
厳しくチェックをしては声を挙げて行かねばなりません。どの党が政権を握ろうと、権力とは常に歯止めが効きにくくなるものだ、というつもりでチェックをしていくことが大切であると思います。

ということをこの何日間かは注視していたわけですが、昨日のこのテーマでのネット上の討論番組で、日本維新の会の音喜多議員が「自分はこの法改正に反対だし、党内でもそう主張しているけれども、強行採決を止めることはできないから、リアリストとして付帯決議を勝ち取る方向を目指している。」という話をされていて、その認識の偏りに非常に悲しくなりました。もちろん、これを本気で主張されるほど音喜多議員は愚かではないと信じたいし、恐らくは様々な野党がある中で「うちは他の野党とは違いまっせ。建設的な提案でっせ。」という差別化戦略をとることで得票したい日本維新の会の戦略であるとは思います!ただ、このように「リアリスト」という言葉を使うのであれば、それはもう現状追認のごまかしでしかありません。

受験生を教えていても、「『現実』を知れ!」という言葉を叱咤激励として、親御さんや学校の先生から塾生が言われることがよくあります。しかし、「現実」って何なんですかね。それってそんな簡単に知ることができるものであれば、苦労しないと思うのですが…。恐らく、それらの言葉は「今受けても受からない」とか「このままやっても間に合わない」とかを伝えたくて言われているわけですが、受験生の心を不要に傷つけるだけではなく、そもそも「現実」に対する認識を誤らせるものだと思います。

たとえば受験生の例で話すなら、今その子に何ができていて何ができていないか、ということを精密に把握することは、とても難しいです。ましてや、その「何ができていて、何ができていないか」が仮に把握できたとして、そこから「これからどうなるか」などを予測するのは、本当に神の如き所業であるわけです。一流のプロであったとしても「今うちの子がどういう状態であるかについても把握できてる!」とは親御さんには思わないでいただきたい、と毎回思います。いやいや、もちろんそれは親御さんの想像されるよりは、はるかに詳細に把握できているとは思います。しかし、教えている側としては、教えている子たちについて「さっぱりわからない…。」と思いながら、少しでも把握しようと日々接している、と言えます。ましてや、受験生本人においては、ですね。

つまり、「現実を知れ!」という言葉は、現実とは我々が知ろうとすれば知ることができるもの、という前提故に発せられるものです。しかし、それがとてつもなく難しい。受験生だってE判定しか取れていなかった子が適切な努力をしっかりと積んでいって合格することもあれば、A判定ばかりの受験生が落ちることもあります。模試やその他の指標くらいで、あるいは過去問が解けているかどうかくらいで、現実など、わかるわけがないのです。だからこそ、受験生本人も指導する教師もその一見うまく行っているように見える「現実」が本当はどうであるかを少しでも正確につかもうと必死に悩み、考え続けるわけです。

このように「現実」は知ろうと思ったらすぐに知ることができるものどころか、徹底的にそれを知ろうと努力してもなお、その全体像が全くわからないもの、それはたとえば受験生一人の内面や能力についてという限定された範囲ですらほぼわからないわけで、いわんや、政治とか社会とか、経済とか大きなくくりの中で複数のプレイヤーがいるところなど、現実が何かなどわかるわけがないのです。

だとすれば、自分を「リアリスト」と称して、「現実的にこうするしかない!」と主張する殆どの人間は「自分が『これが現実だ』と信じたいもの」を信じて行動しているだけでしかなく、実はrealistではなく、ideologistでしかありません。だからこそ、「自分はリアリストだから…」という主張をする人がいたら、受験生であれ、彼氏であれ、社長であれ、政治家であれ、その他なんであれ、「ああ。この人は自分が現実だと信じたいものを現実と思えてしまう、アホな人なんだな。」と判断してしまってよいと思います。また、「それをあたかも『俺って大人!』であるかのように喋れてしまうイタい人なんだな。」とも、ですね。

現実なんてそんな簡単にわかるわけがない。人類史上最高の天才であっても、そんなものがわかるわけがありません。
だからこそ、自分の追い求める方へと少しでも近づけるために、もがき苦しむしかないのです。もちろん、それはうまくはいかないでしょう。たとえば受験勉強のような、自分ひとり頑張ればよいものであってすら、なかなか思うようには結果が出ないものです。ましてや、この社会とか、政治とか、経済とか、その他のもっと大きなものにぶつかっては、自分が感じる課題点の修正のために必死に努力したとしても、それが変えられるかどうかはあやしいのかもしれません。

しかし、それでもなお、変えられないその状況を「現実」と呼んではならない、と思います。現実の全体像が我々のような
残念な知性しかもたない人間風情に、わかるわけがないのです。わかるわけがないままに「現実主義」をとろうとすれば、
それは私達の勝手な思い込みに基づいて「自分が諦めているが故に失敗する」という決められた轍を踏むだけであると思います。現にこの検察庁法改正への反対運動も、誰もこれが一時的であれ止められるとは思っていなかったと思います。

それでも許せないものは許さない。おかしいことにはおかしいと声を上げていく。諦められないことには努力を続けていく。そういった一人一人の、わかりもしない「現実」になんか気にもとめずに努力し続けていく姿勢こそが、自分の人生を切り開くものでもあり、この社会を良くしていくものでもあると思います。逆に言えば、「現実はこうなのだから」と語る人間は、皆さんをその人の頭の中での「現実」へと従属させようとする詐欺行為へと加担していると言えるでしょう。

というと、「でも教師ってそういう奴じゃね?」という痛い批判を受けることになります。。
確かに僕自身も生徒に向かってそういう「現実的」戦略を説かなければならない役割のときには、説きます。
「現実には無限の可能性があるから!」という態度は、往々にして、単に夢を見たいという現実逃避のためのツールになることもまたあるからです。しかし、一方でそのように「現実的」戦略を説くときの自分が、いかにそこで語られる「現実」を嘘くさいものだと思えるのか、その「現実」的戦略を越えようとする一人一人の思いに対して謙虚に接することができるのか、が教師が偽善によって抑圧を重ねる存在になるのか否かの微妙な分かれ目であるとも思っています。

realistがideologistに過ぎないように、ideologistもideologistでしかない場合も多いのです。では、realとは何か?realistとはどう生きるべきなのか?という、答の出ない問に向き合い続けることこそが真のリアリストではないでしょうか。
そして、そのように取り組む人は、自らのことを「リアリスト」とは呼べない。むしろ、誰にも信じてもらえない夢を信じ続けてはもがき続けるideologistこそが、真のrealistへの道を模索する主体である、と言えるのかも知れません。

僕自身がそのように生きて死んでいけるように、また教える一人一人の生徒たちが、そのように取り組む瞬間を作れるように、今日も現実とはなにか、についてもがき続けていきたいと思っています。
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