
受験勉強では、一通りのことを基本的なところから積み上げていくしかないわけで、ほとんどの「勉強しているのに力がつかない」という子たちは、その「勉強」の内容が自分の実力よりも圧倒的に高いレベルのものである、という失敗に陥っているだけです。そこを必要なステップを踏ませ、適切な教材やペースを設定していけば学力はみるみるうちについていきます。
しかし、です。このように適切なレベルの教材の選定、というのはある程度教えたことのある先生ならたやすくできることではあるのですが(というレベルの指導すら、ほとんどの高校や予備校では実現されていないことがとても問題なわけですが)、しかし、基本的なところから「一段ずつ」ステップを踏ませてあげているつもりでも、それでうまくいく子と行かない子とに分かれるのが勉強です。
もうちょっと精密な言い方をすると、それで「隙間なく」うまくいく子と、それである程度力は伸びるのだけれども、表面的な力しかつかない子との違いが出てきます。同じ教材を同じように周回してもなお、そのように理解度や定着率に差が出てくるそれを、「地頭(じあたま)の違い」などと教える側はつい思いがちです。
このような違いは能力の違いによるものではなく、まだ目に見えてはいない何らかの原因によるものだ、と、様々な子を教えてきた経験から僕は考えています。「努力しても、できない」と思われがちな子たちも、力をつけていくために必要な思考プロセスや学習習慣のうちの何かが欠落しているからこそ、努力をしても力がつかない状態にあるわけで、それを「地頭(じあたま)の違い」と言ってしまうのであれば、教育などやる意味がないと思っています。
だからこそ、嚮心塾での指導はちょっと特殊です。いわゆる「生徒のわからないことを教える」というのはあまりメインではありません(もちろん、教えてますが!)。それよりは、「(間違えた答を生徒が導き出したとして)どうしてそのように考えたのか。」を丹念に聞いていきます。その思考プロセスを徹底的に追うことで、彼ら彼女らが何は踏まえられていて、何は踏まえられていないかの思考の癖、というか傾向を把握しようとしていきます。それとともに、いわゆる「できる」受験生であっても、とんでもない基本的なことが抜けていることに気づくことも多々あります。当たり前です。人は自分の通ってきた道しかわからないわけですから。このようにして、そのような抜けがないかどうかを探していっては、見つけ次第埋めていく、ということをやっていきます。
ある意味、この塾でやっている作業というのは「地頭(じあたま)」と一般にはされているものをどこまでも分解、分析していく作業である、と思っています。ある生徒が何かをできないときに、それを決して「地頭」とは言わずに、何らかの原因によってそのような回路がつながっていかないことになっていないかを徹底的に探し、考え抜いていく、ということをしています。
このプロセスを経て、元々勉強が苦手だった子が力がついて難関大学・学部に合格する!という奇跡が起きるときもあります。もちろんこちらもそれを目指して日々努力をしているわけで、そのためにこそ徹底的に一人を観察・分析しているわけですが、しかし、この作業自体は受験に合格するためだけに必要なことではないと思っています。
「地(じ)」というのが「nativeな(生まれつきの)」という意味だとすれば、何が「地(じ)」であるのか、を探っていくというのは自分自身が何者であるのかを、自分自身が今までに身につけたものにidentifyしない、ということです。
18年かそこらの短い自分の人生の中ですら、「これが私だ!」「これが私の能力だ!」などとすでに自分の人生が既定路線であるかのように人間は振る舞います。しかし、その「地(じ)」が実はnativeなものではなく、後天的に身につけた習慣に過ぎず、それを対象として意識し、努力することでいくらでも改善できるものである、ということに気づけば気づくほどに、自分の人生が自由になっていきます。受験などはそのように何が「地(じ)」であるのかを疑い、切り分け、そして改善していくための練習でしかありません。
もちろん、人間は自由に耐えうるだけの心の強さを持ち得ないことも多いことからもわかるように、「自らの『地(じ)』なんて疑いたくない!それを疑うくらいなら、勉強なんかできないままでいい!」と思ってしまう子たちも実は多いです。今までの自分のidentityが見えなくなるのなら、勉強なんかできないままでいい、というその恐怖感はわかります。また、実際にその子の学力の向上を妨げているものは往々にして、その子にとって一番大切にしている何かであることが多いです。その本人にとっての「大切なもの」が現実とは食い違う方向へとその子を駆り立てていくがゆえに、同じ失敗を繰り返す、ということになっています。
もちろん、だからといって、その子が今まで一番大切にしてきたものを捨てろ!と強要することはできません。実際には、その大切にしてきたものは、その子にとって別の長所の根幹となっていることもまた多いからです。しかし、そのような大切なものがある部分においては得難い長所を作り上げてきたとともに、別の部分ではどうしようもない短所の原因となっていることも多いという事実を認識してもらい、その子の大切なものを変えようとせずに長所は活かした上で、しかしそれが当然のごとく招く限界についても理解し、準備をしてもらっていく、という作業を粘り強くしていかなければなりません。
愛国心であれ、その他の帰属感情であれ、その影響を脱し、それが自分にとってnativeであるがゆえに当たり前に組み込まれているものである状態を脱した上でそれでも愛せるのであれば、それは「愛」と呼ぶに値するものだとは思いますが、自身の惰性ゆえの疑いのなさを正当化するために「愛」を僭称することは単に成熟できていない態度であると思っています。だからこそ、自身の中での「地(じ)」を疑い、改善していく作業の一貫として、「地頭(じあたま)」とされるものに対して、一人一人の塾生が、徹底的に疑い、検証し、それを乗り越えていけるように僕自身もこれからも力を尽くしたいと思っています。
そしてそれはまた、自身に固有の形質を心から愛することができるようになるためにも、必要なプロセスであると思っています。
しかし、です。このように適切なレベルの教材の選定、というのはある程度教えたことのある先生ならたやすくできることではあるのですが(というレベルの指導すら、ほとんどの高校や予備校では実現されていないことがとても問題なわけですが)、しかし、基本的なところから「一段ずつ」ステップを踏ませてあげているつもりでも、それでうまくいく子と行かない子とに分かれるのが勉強です。
もうちょっと精密な言い方をすると、それで「隙間なく」うまくいく子と、それである程度力は伸びるのだけれども、表面的な力しかつかない子との違いが出てきます。同じ教材を同じように周回してもなお、そのように理解度や定着率に差が出てくるそれを、「地頭(じあたま)の違い」などと教える側はつい思いがちです。
このような違いは能力の違いによるものではなく、まだ目に見えてはいない何らかの原因によるものだ、と、様々な子を教えてきた経験から僕は考えています。「努力しても、できない」と思われがちな子たちも、力をつけていくために必要な思考プロセスや学習習慣のうちの何かが欠落しているからこそ、努力をしても力がつかない状態にあるわけで、それを「地頭(じあたま)の違い」と言ってしまうのであれば、教育などやる意味がないと思っています。
だからこそ、嚮心塾での指導はちょっと特殊です。いわゆる「生徒のわからないことを教える」というのはあまりメインではありません(もちろん、教えてますが!)。それよりは、「(間違えた答を生徒が導き出したとして)どうしてそのように考えたのか。」を丹念に聞いていきます。その思考プロセスを徹底的に追うことで、彼ら彼女らが何は踏まえられていて、何は踏まえられていないかの思考の癖、というか傾向を把握しようとしていきます。それとともに、いわゆる「できる」受験生であっても、とんでもない基本的なことが抜けていることに気づくことも多々あります。当たり前です。人は自分の通ってきた道しかわからないわけですから。このようにして、そのような抜けがないかどうかを探していっては、見つけ次第埋めていく、ということをやっていきます。
ある意味、この塾でやっている作業というのは「地頭(じあたま)」と一般にはされているものをどこまでも分解、分析していく作業である、と思っています。ある生徒が何かをできないときに、それを決して「地頭」とは言わずに、何らかの原因によってそのような回路がつながっていかないことになっていないかを徹底的に探し、考え抜いていく、ということをしています。
このプロセスを経て、元々勉強が苦手だった子が力がついて難関大学・学部に合格する!という奇跡が起きるときもあります。もちろんこちらもそれを目指して日々努力をしているわけで、そのためにこそ徹底的に一人を観察・分析しているわけですが、しかし、この作業自体は受験に合格するためだけに必要なことではないと思っています。
「地(じ)」というのが「nativeな(生まれつきの)」という意味だとすれば、何が「地(じ)」であるのか、を探っていくというのは自分自身が何者であるのかを、自分自身が今までに身につけたものにidentifyしない、ということです。
18年かそこらの短い自分の人生の中ですら、「これが私だ!」「これが私の能力だ!」などとすでに自分の人生が既定路線であるかのように人間は振る舞います。しかし、その「地(じ)」が実はnativeなものではなく、後天的に身につけた習慣に過ぎず、それを対象として意識し、努力することでいくらでも改善できるものである、ということに気づけば気づくほどに、自分の人生が自由になっていきます。受験などはそのように何が「地(じ)」であるのかを疑い、切り分け、そして改善していくための練習でしかありません。
もちろん、人間は自由に耐えうるだけの心の強さを持ち得ないことも多いことからもわかるように、「自らの『地(じ)』なんて疑いたくない!それを疑うくらいなら、勉強なんかできないままでいい!」と思ってしまう子たちも実は多いです。今までの自分のidentityが見えなくなるのなら、勉強なんかできないままでいい、というその恐怖感はわかります。また、実際にその子の学力の向上を妨げているものは往々にして、その子にとって一番大切にしている何かであることが多いです。その本人にとっての「大切なもの」が現実とは食い違う方向へとその子を駆り立てていくがゆえに、同じ失敗を繰り返す、ということになっています。
もちろん、だからといって、その子が今まで一番大切にしてきたものを捨てろ!と強要することはできません。実際には、その大切にしてきたものは、その子にとって別の長所の根幹となっていることもまた多いからです。しかし、そのような大切なものがある部分においては得難い長所を作り上げてきたとともに、別の部分ではどうしようもない短所の原因となっていることも多いという事実を認識してもらい、その子の大切なものを変えようとせずに長所は活かした上で、しかしそれが当然のごとく招く限界についても理解し、準備をしてもらっていく、という作業を粘り強くしていかなければなりません。
愛国心であれ、その他の帰属感情であれ、その影響を脱し、それが自分にとってnativeであるがゆえに当たり前に組み込まれているものである状態を脱した上でそれでも愛せるのであれば、それは「愛」と呼ぶに値するものだとは思いますが、自身の惰性ゆえの疑いのなさを正当化するために「愛」を僭称することは単に成熟できていない態度であると思っています。だからこそ、自身の中での「地(じ)」を疑い、改善していく作業の一貫として、「地頭(じあたま)」とされるものに対して、一人一人の塾生が、徹底的に疑い、検証し、それを乗り越えていけるように僕自身もこれからも力を尽くしたいと思っています。
そしてそれはまた、自身に固有の形質を心から愛することができるようになるためにも、必要なプロセスであると思っています。



