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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

見る、ということ。

教育に携わる人間にとって、名作『暗殺教室』は必読書です。僕自身も繰り返し読み、子どもたちにも読ませてきました。
その中で「見る」ということについて描かれた部分があります。

(ここからはネタバレなので読んでない方はふわっと飛ばしてください!)

具体的には主人公が自分の弟子に対して、その部分的な能力の評価のみに終始しては弟子の人間全体を見ようとしてこなかった自分の浅はかさゆえに弟子がねじまがってしまったことを、自分が人間全体を見られることの尊さを感じていく中で後悔し、自身が再び一人一人の「人間全体」を見よう!と決意することが彼の動機であった、ということがわかります。

(ネタバレ終了)

教育において、「見る」ということは全ての基本であり、そして究極の奥義でもあります。「指導力」という無形の力を測るのは難しいとして、その教師がどれだけ指導力があるかを測る指標は、その教師がどれだけ生徒たちのことをしっかりと見ているか、よく観察しているか、だと思います。

このように書くとよく生じる誤解として、「生徒たちの一挙手一投足に細かく口うるさい先生が良い先生である」というものがあります。しかし、これは往々にして、「よく見ていない」先生の特徴であり、このように口うるさい先生は生徒の人間全体を理解することにはあまり興味がなく、自分の価値基準に子どもたちを従わせることに関心がある人が多いと思います。この場合、子どもたちの「部分」だけを見て、そしてそれを自分の理想という鋳型にあてはめようとしているからこそ、「口うるさい」指導になりがちです。

「よく見」ていれば、決して口うるさくはできないものです。なぜなら生徒が様々な失敗や問題を起こした時、あるいはうまくいっていないなにかに直面した時、そこに対してready-madeのアドバイスをすることが、かえって彼ら彼女らのpersonalityを毀損したり邪魔したりするものになることを恐れるからです。
しっかりと観察し続け、それが教える側の自分の好き嫌いからではなく、やはりその子のためにはならないと確信をもてるようになり、しかしその子がそのような悪い習慣を形成してくるまでには、その子なりの試行錯誤があるわけで、そのような試行錯誤から生じているその子の長所を損なわないようにして、どのようにアドバイスをしていくか。それを考え続けることになります。

だからこそ、「よく見る」ということは、「逡巡し続ける」ということです。

自身の正しさに疑いのない人間には、教える資格はありません。
教師が偽善を語ることは、仕方のないことです。(もちろん宮沢賢治の糾弾も正しいのですが)全ての人間が自らが正しくなければ善について語れないのだとしたら、人類の誰も善については語れない、ということになってしまいます。だからこそ教師は、自らがろくでもない人間であることは当然の前提として、それでも子どもたちには善を語らねばならない。

しかし、一方でその「善を語らねばならない」が、簡単に機械化・自動化してはその大義名分のためにチェックが効かなくなり、暴力的な抑圧に加担している自分に気づけないのが私達人間の愚かしさでもあります。

生徒をよく見る。そして、それに対して自分の好き嫌いではなく、彼ら彼女らにとって何が必要かを考える。

といった一連の過程は、生徒にとって必要であるだけでなく、教師自身にとってもまた自分の言葉が嘘や自己満足にならないためにも必要であるのです。

だからこそ、嚮心塾では、とにかく生徒をよく見る(観察する)ことに時間を充てています。業務の9割9分はそれである、と言ってもよいでしょう。徹底的に観察し、彼ら彼女らの思考回路や心理状態、そこに至るまでの人生を想像し、そしてその上でこちらがかけられるかけるべき言葉を探していく。それは学習に関してがメインですが、それだけではありません。

その「見る」ということがたとえばZOOMの指導とかではどうしてもうまくいきません。現場で空間を共有して見ている時と情報量が違いすぎて、細やかなところまでが観察できないのですね。もちろん質問に答える、相談に乗る、メールのやりとりをする、答案の添削をする、などのやりとりはできるわけで、そうしたコミュニケーションから思考回路や心理状態をある程度は把握できます。
しかし、本当に大切なのは、そのように生徒の意識の俎上に載っているものではなく、無意識に現れるもの、コミュニケーションによらないものを教師が把握することであるので、そこはこのオンライン教育の普及によっては、失われるしかないと思っています。

もちろん「学力を伸ばす」ために見る、というのは相手を「人間全体として見る」ということとはときに矛盾するものでもあるでしょう。ただ一方で相手を「人間全体として見る」ことを抜きにして「学力を伸ばす」というのには、僕はやはり限界があるかな、とも思っています。卑近な例で言えば、自分の担当教科を伸ばすことだけしか考えていなくて、生徒の受験全体を考えられない教師は、生徒が学力を伸ばすためには有害です。あるいは生徒の受験を成功させることしか考えていなくて、その後の生徒の人生を想像できていない教師は、実は生徒の受験の成功にすら、あまり貢献できはしないのです。

部分は全体と繋がっているだけではなく、全体の一つの現れでもある以上、部分を理解するためには全体を見ようとしていく努力が欠かせないのです。「困難を分割する」ことがデカルト以来の問題解決の伝統であり、我々が立脚してきた価値観であるとしても、分割された困難であることが、もとは一つの問題であったことを忘れ去るために使われるのであれば、それはもはや問題自体に取り組むことを放棄した態度であると言えるでしょう。「学習塾に人間性の涵養なんか求めていない。成績さえ上げてくれればいい!」というのはよくあるリクエストですが、そもそもその子が様々な機会に学ぶことができていないのはその子の人間性に深く根付いたものがある、というときに「人間性の涵養などどうでもいいから、成績を上げろ!」という主張がいかに的外れか、ですよね。そもそも、その2つが繋がっていない、と考える事自体が僕には傲慢で浅薄な人間観であると思います。(といっても、「人間性の涵養!」といってお説教だけするのもまた違いますが!)

ともあれ、今日もまた、徹底的に生徒の人間全体を見続けようともがき続けたいと思います。
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