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嚮心(きょうしん)塾日記

西荻窪にある、ちょっと変わった塾です。

教育はサービス業か。(その2)

だいぶ間が空いてしまいましたが、続きを。

前回は「生徒自身に自分の勉強の進み具合や効果をチェックしてもらう」ということが結局大切だと
いうことを話しました。では、そのようになっていくためにはどうしたら良いのか。

たとえばそのための一方策として、嚮心塾では「まず勉強何をする?」ということを必ず生徒自身に考えさせるように
しています。もちろん、これは一歩間違えれば「やりたい勉強ばかりをやる」という失敗に陥りがちです。しかし、一方で
「君は今日はこれからやるべきだ!」などとかっちり決めてしまえば、子どもたちは教師の指示を待つだけで考えなくなってしまいます。これでは嚮心塾が「自学自習」をうたっていようと、形を変えた強制にすぎなくなってしまい、生徒自身が「自分が今何をやるべきか」を考え、選び取っていく力は永遠につかなくなってしまいます。

一方で、それが科目間のバランスを欠いていたり、学校の課題をこなすだけになってしまうのであれば、それは
「自学自習」という体裁だけを守っているだけで、結局はその子自身の力を伸ばすことにはなりません。
そのようになってしまっている場合には、「そのような科目間のバランスでよいのか」「そのように学校の課題だけをこなしていることで果たして力がついているのか」という疑問の投げかけをこちらからしていきます。

そのような問いかけを繰り返すことによって、塾生達は「勉強さえしていれば許される」という状態から、だんだん「どういう勉強を自分はしていかねばならないのか。」という思考へと心が準備されていきます。もちろん、これはただ問いかけるだけではなく「まずは学校の課題さえちゃんとしていればいいんでしょ。」という思考停止に陥っている塾生であれば、
その課題を進めていくことが本当に実力をつけることになっているのかどうか、せっかくの貴重な勉強時間をもっと
他のことに充てるべきではないか、ということまで考えてもらえるようにあれこれ話していきます。(本当はこんなことをしないでも、学校の課題はすべて意味あるものとして終わらせた上で、とできるのが一番良いのですが…。残念ながら学校の課題の殆どはどのような目的意識に基づいてこの子達にこの課題をやらせるのかをよく考えて出していない、極めて
労力と時間の無駄ばかりの宿題が多いのです…。)

そのような考え方を身に着けてくると、やがて学校の課題のような受動的な勉強だけでなく、自分が能動的に取り組んでいるはずの受験勉強についても「これはあまり意味がない気がする」「これは意味はあるけど今の自分では時間がかかりすぎて効率が悪い」「これは逆に意味があると思うけどやりたくないのでついサボってしまう」などと、自分の勉強内容についても反省をしていくことができます。このように受験生自身が、自分の受験勉強の一つ一つの意義について、しっかりと
反省ができるようになってくれば、もうその受験生はかなり合格率が上がってくるといえるでしょう。
(もちろん、この段階に至った受験生もなお、本当に客観的に自身の勉強の効率や効果を判断することは極めて難しいものです。だからこそいわゆる「合格体験記」はその子にとってはその勉強が良かった、という道筋でしかなく、客観的な意見にはなり得ていないものが多くなります。これはたとえば理三合格者とかであれば、その客観性は他の受験生よりははるかに高いわけですが、それでも全く完璧ではありません。どうしても自身の考えるベストの勉強と、実際にやるべきベストの勉強との間にその子のpersonalityによって、「ズレ」が生じてきてしまいます。それを全教科に渡って矯正するのが、教師の仕事であると言えるでしょう。)

という一見迂遠なプロセスを経て、初めて勉強の仕方というものが生徒たちには身についていきます。

この過程を通じて思うのは、「わからないところに答える」といういわゆる「教える」という作業、というのは
このような学習への姿勢を生徒の中に作っていくという教育全体のプロセスの中では実は非常にパーセンテージが低いものである、ということです。

もちろん、「質問に答える」という行為から生徒との信頼関係が始まってくるので、勉強の内容が教えられなくて良い、と
いうことでは全くありません。そもそも勉強の内容がよくわかっていない人に、勉強の仕方を聞こう!という謙虚な姿勢を持つことはよほど優秀な子でもない限り、思えないからです。だからこそ、こちらでも「全教科教える」という無茶なことをやるために、毎年ヒイヒイ言いながら、必死にあれこれ勉強をしているわけです。

しかし、一方で、勉強の内容だけはよくわかっていても、このような姿勢を生徒の中に鍛えていってもらおう、という姿勢のないままにただ知識だけを教え込む、ということをしてしまうと教育としては大きく失敗します。あくまで、生徒が自分で答を探していけるように、そのための方法論としてどのようなものがよいか、逆にどのようなものは筋が悪いかといった方法論も含めて考えながら、学習内容を調べたり考えたりしていく能力を鍛えることが何より大切です。逆に言えば、その能力さえあれば、あとは何もかもを教え込む必要は実はあまりない、とも言えるでしょう。

ということで、塾では勉強の内容自体を考えさせるだけではなく、質問についての評価もしていきます。
生徒からの質問を受けるたびに、「それはちゃんと調べたり考えたりしたあとの良い質問だね!」と言ったり、
逆に「それはまだあまりしっかり読み込めていないから、もう何回か教科書を読み直したら?」と冷たく拒絶したりします。そのようにして、どのような質問をすべきか、ということまで考えていってもらっては、質問のクオリティを上げていけるように、と工夫をしていくわけです。

このような一つ一つのやりとりを見ると、表題の「教育はサービス業か」という問いについて考えざるをえません。
たとえばその場での顧客満足度だけを考えれば、(前回に書いたような「指導報告書の充実」は本末転倒なのでまた別として)生徒の質問がどのように練られていない底の浅い質問であっても、それに対して懇切丁寧に説明をしてあげる方が
生徒の満足度は高くなります。一方でそれは、生徒自身が考える習慣や勉強の仕方について学んでいくことを阻害するため、そのように「何でも丁寧に説明してくれる!」と喜んで通っていたとしても、実力はつかないままに終わってしまうことが多いでしょう。それでは近視眼的には満足してもらえるとしても、結局は生徒をだめにしてしまうことになります。

もちろん習いはじめの最初から「そんなアホな質問をするな!」とコワモテで怒る先生なんかに学びたくなんかありません!そのような乱暴な指導を受けておいて、「あ、これは自分がアホだ!」と気付ける子は既にある程度研鑽を積んだ子であるでしょう。
だからこそ、教える側としては「何でもアホな質問でも気軽に聞いてね!」というところから始めつつも、
だんだんと「いや、それはアホな質問だから自分で調べた方がよくない?」というように誘導をしていく、という
スキルが問われるわけです。もちろん、勉強の内容を理解することはその子の勉強へのモチベーションを上げるためにも必ず有用です。しかし、それがただ「この眼の前の便利な先生を使えば学校の宿題が困らない」とかになってしまえば、それは依存させればさせるほど、自分では考えも調べもしなくなってしまいます。まあ、google home やAlexa代わりに
なってしまうわけです。
そうならないように、という細心の配慮が必要なのは、自転車の練習の際に最初は補助輪をつけてあげたり、外した後も後ろを持ってあげながら乗る練習をするとして、だんだんと手を離していくのと同じですね。

ということで、「教育はサービス業か」という問いに立ち戻れば、「教育とはサービスを徐々に減らして自分でできる範囲を増やしてあげることが長期的に見ては最高のサービスとなるサービス業である。」というのが僕なりの定義です。
とここまで書いてみると、「そんなの当たり前だろ!」となるわけですが、しかし、これが難しい。本当に一人一人
にうまくフィットしては、その子の自分でできる部分を増やしていくのが本当に難しいものです。
丁寧に教えていくと、いつまでも依存したり、とはいえ、ここは!と思って突き放すと途端にやる気自体をなくしたり。

誰かを教えるときにうまくいったプロセスも別の誰かを教えるときには全くうまくいかない。その試行錯誤の繰り返しです。

しかし、そのように困難な道のりであっても、生徒自身が自分から考え、調べ、そして反省をしていける力をつけていけていけたときには、それこそ「顧客満足」といった二人称の閉じた関係性の中での癒着とは違う、手応えを感じることができます。この世界に一人の尊敬に値する魂が確かに誕生することになるからです。それは顧客を口八丁でだまくらかしては、当座の金銭的利益さえ得られれば、という単なる商行為の先にある意義であると思います。

そのような仕事が一人でも多くの塾生に対してできるように、今年も頑張っていきたいと思います。
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